第3話 子を失った母の話

 その子が亡くなったのは、ほんの不慮の事故だった。ほんの一瞬横断歩道に出るのが早かっただけで、ほんのちょっと運転手が携帯端末を眺めていて、ほんの少しだけ小雨で見通しが悪かった、それだけのことだった。その子の体は宙に舞い、しかる後に固いアスファルトへと叩きつけられた。

 その子の母親は不思議と運転手が憎くなることは無かった。彼女はただ、あまりにも唐突に訪れた命の終焉に戸惑い、すっぽりと引き抜かれたかのように思考能力を喪失し、ただ呆然とすべての事務手続きが彼女の頭の上を滑っていくのを感じていた。葬式での挨拶文を読み上げる際に、初めて彼女は五歳になったばかりの娘の喪失を感じ、崩れ落ちた。

 しばらくは物も食べず、仕事にも行けずに家でぼーっと彼女が遊んでいた玩具を見つめていた。心が平常に引き戻されていくに連れて、あまりに悲しい娘の一生を思ったり、娘を亡くした自分や夫の生きがいのことを考えたりして、声もなく叫ぶようにして彼女は涙を流した。平常時ならば、涙は悲しみを和らげる効果をもつはずだ。しかし彼女にとって、それは悲しみを癒やす何の効果も得られなかった。日常の家事や生活維持のための仕事は全て夫が行っていた。申し訳なく思いながらも、彼女はどうしても家から動くことができなかったのだ。

 その内に彼女は、娘の遊んでいた玩具を手に取るようになった。娘のぬくもりがある、娘の何かがそこには宿っている。科学的に考えて馬鹿馬鹿しいことでも、彼女は確かに玩具に娘を感じていた。動物たちを模した人形、可愛らしい少女のドール、家具を模したプラスチックの小さなおもちゃ、絵本、お絵かき帳、どれもかけがえのないほどに温かさを感じるものたちだった。

「ほら、リサちゃん、おきがえしましょうね」

「ピー助、くまさん、おっかけっこしよ~」

 かつて娘がそうしたように玩具を手に取り遊ぶ真似をすると、なぜだか不思議な感慨がこみあがり、笑顔のままぽろぽろと涙を流してしまう。自分がそうしている間だけ、娘が我が家に戻ってくるような気分になれた。

 夫が帰ってきても娘の玩具で遊んでいる彼女を、夫は何やら深刻な表情で見て、彼女に通院をすすめるほどに心配になったが、それでも遊ぶのをやめない彼女に負け、なぜそうするのかと理由を尋ねた。

「こうすればね、今でも真帆があたしと一緒に遊べるように思えるの」

 夫はその答えに胸を打たれ、人生にはそういった心を癒やす期間も必要だ(子供を失うという極限の悲しみに対しては尚更だ)と納得し、しばらくの間彼女がそうしていることを許した。

「パティ、いっしょにがっこうへいこ~」

「おふろにはいろう、じゃぶじゃぶじゃぶ~」

 玩具で遊んでいる間、本当に彼女は満たされていた。しかし次第に、これを永遠に続けていることができないのではないかということに気が付き始めた。彼女にも彼女自身の生活があったし、夫も彼女が立ち直ることを望んでいた。

(そうだ、これを、残しておこう……!)

 彼女は記録することを望んだ。娘がどんな玩具で遊んで、どのように喜んでいたかということを記録したいと強く望んだ。

 彼女はビデオカメラをセットし、玩具を主役にして動画を撮り始めた。

「ぷーたん、えりちゃん、おかしづくりをしようよ~」

「いいよ。じゃあ、ざいりょうあつめだね」

「ぼく、チョコレートをもってきたよ、ピー助」

「やったぁ~!」

 人形達が愉快に遊んだり学んだりする様子を、優しいBGMを付けてムービーとした動画を、彼女はインターネットの動画投稿サイトにアップし始めた。そうすれば、娘の遊んでいた様子が、生き生きとした娘の姿自身が、世界中で見ることができるように思えた。

 ほんわかと優しく包み込むような彼女の動画は人々から注目され、再生数はぐんぐんと伸びた。人々は彼女の人形は笑っているときには同じように愉快な気持ちになり、しょんぼりとしているときには同じように悲しげな気持ちになれた。彼女の動画には生き生きとした〈心〉があった。

 彼女は願った。この動画が、同じように子供を亡くした両親の元にも届き、彼らの悲しみを少しでも癒すことができたら、彼らのどうしようもないほどの喪失感をほんのいくらかだけでも埋めることができたら良いと。


 彼女の願いは、きっと叶ったであろう……。

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ちょっとした短編集 さなげ @sanage

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