ちょっとした短編集

さなげ

第2話 塔

 その塔は、ルカが生まれるはるか昔から存在した。あまりにも昔から存在していたので、いつ、誰によって、何のために建てられたのかということがまるっきり分からないくらいに、ルカの住む村の人々にとって馴染み深いものであり続けた。


 塔に登りたい。村に育った少年なら誰しもが抱くその他愛ない願望は、村の住民たちの必死すぎるとも言える否定によって打ち砕かれる。『冗談じゃない、あそこには神様がすんでいるんだ』『あの塔は……いや、あの地は呪われておる。ワシには分かるのじゃ』人によって、信条によって言うことは様々だが、塔が何やら人知を超えた存在であることを子供たちに示唆するには十分すぎるほどの言葉の洪水が浴びせられた。ルカもそんな子供の一人だった。

 しかし、ルカが他の子供たちと決定的に違っていたのは、野山でウサギを追うような年頃を過ぎても、稚い恋をする年頃となっても、目に憂いを感じさせる青年期になっても、その願望を胸に持ち続けたことであった。

「塔に登る」

 最初はいつもの冗談だと相手にしなかった、まだ若いルカの妻は、彼の心の中で熟成して今にもはちきれんばかりに盛り上がったその思いを正面からぶつけられ、呆れるよりも驚きすぎて口もきけなくなってしまった。そして、我に返った妻はルカに飛びつき、まだほんの幼い自分の息子を置き去りにするのか、と潤んだ瞳で問いかけた。しかしルカはそれには答えず、ただじっと、家の窓からあの塔を眺め続けた。その静かな、しかし心の奥底で燃え上がっている様子で、彼の決意が山よりも高く揺るぎないことが妻にはわかった。ただ、それが塔の高さをも上回るものかどうかということについては、確信を持てなかったのだが。

 妻子に必ず帰ると伝え、ルカはそのすぐ翌日、塔の入り口に立っていた。

 村からはその頂が霞んで見えない巨大な塔。まだ誰も頂上まで登ったことが無い塔。その周囲の長さすら、既に一つの小さな村ほどに大きく、ルカは改めて圧倒されるとともに本当に神に挑むような思いがして、手足の震えを止めることができなかった。しかし彼は進まねばならない。熟成された思いは彼の肉体の躊躇を容易く打ち払った。そして彼は、その真鍮色の内壁の階段を一歩、また一歩と踏みしめ始めた……。


 塔は、内壁と外壁に交互に階段が現れ、そのたびにルカは塔の内と外を入れ替わりに歩まねばならなかった。高度が増すたびに外壁には風が吹き荒れ、ルカの逞しい、しかし大自然に比べればちっぽけな肉体を吹き飛ばそうとした。身を縮めながら、ルカは突風に耐え、突き進んだ。

 持ち込んだ食料を食べる時だけが心の休まるときだった。いつまでも終わりの見えない塔の上の方を見上げるたびに、発狂しそうな衝動に駆られるのをルカは必死に自制した。この旅に意味はあるのか? 俺は果たして本当に頂にたどり着けるのか? そんな至極まっとうな疑問が首をもたげると、ルカの心の中の塔に登りたいという原始的な欲求が綺麗さっぱりに打ち払ってくれた。己の中の思いがこれほどに強いものだったのかとルカが不思議に思うくらいに。

 下を見ると、彼の村が豆粒のように小さく見える。その側の村も、都市も、川も山も全てが紙細工のように小さく脆く見えた。不思議と周りに雲の影は見当たらなかった。

 上に行くに連れて段々と外壁部に吹き付ける風は激しくなり、内壁部の階段では彼の歩く音以外のどんな音も存在せず、ただとーん、とーん、と金属のような材質の床と靴が打ち合う音が聞こえるだけだ。それでも塔には終わりは見えなかった。いつ見上げても、決して終わりは見えなかった。ルカは歩き続けた。


 とーん、とーん。とーん、とーん。


 食料はほぼ尽きかけ、下を見ても既に村の形すら分からなくなった。もう登り始めて数ヶ月になるだろうか、それでも彼の脚は決して止まる兆しを見せなかった。


 とーん、とーん。


 自分の妻は元気だろうか。息子はどれほど大きくなっただろうか。そんな考えが浮かんでは、また消えていく。リズムを刻む脚の動きと共に。


 とーん、とーん。


 既に何日も何も食べていない。ルカはそれでも自分の体に何の不調も無く、空腹感すらしないことに驚いた。極限状態の人間の見せる気迫なのかもしれないし、この塔の不思議な雰囲気がなせる術なのかもしれなかった。今、自分が世界で最も高い位置に存在する人間であることをルカは確信した。


 とーん、とーん。


 もう日にちも数えるのをやめるくらいルカは歩み続けた。数年、いや数十年にもなるだろうか? などと思うこともあった。しかし彼の体には何の不具合も無く、肉体は青年の姿そのままで、何も食べずに階段を上ることができた。彼の体は、〈塔を登るために〉つくられていた。


 とーん、とーん。


 ある日気づくと、外周の長さがもう十数メートル程度のものになっていることを彼は知った。遂に終わりが来たのだ。歓喜の思いも寂しさも何も感じなかった。ルカはただ、いつものように、靴で床に音を鳴らしながら塔を登った。塔の最後を登りきった。

 外壁から、平坦な人一人が寝そべることがやっとくらいのスペースに彼は足を踏み入れた。ここが、頂上なのだ。風は無く、太陽が眩しく彼の体を照らしていた。

 目の前に、腰ほどの高さの灰色の石が建てられている。不思議に思って彼が膝をつくと、分厚い石には何か文字が書かれていた。読むことはできなかったが、決定的な何かが記されているのだとルカは思った。しかしそれを見ても、これから自分がどうすれば良いのかを分からなかった。

 と、その時、下の方でピカッと何かが光った。頂上の縁に手を掛けて下を覗くと、一度光ったのを皮切りに次々と光が放たれるではないか。

 ピカッ、ピカッ、ピカッ。

 ルカはその光から、恐ろしく不吉な何かを読み取った。そう感じることを、逃れることができなかった。

 突然、ルカは全てを悟った。自分が塔に惹きつけられたこと。不吉な光。頂上にある石。そう、この墓石は……!


 空は晴れていた。太陽は無垢さを湛えて輝いていた。

 ルカは手を合わせた。そして、額を合わせた両手に寄せ、祈った。

 いつまでも、いつまでも祈り続けた…………。

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