おまけ
春とは名ばかりの
明治の開明の後に生まれたぼくにはすでに馴染んだことだけど、暦が変わったのは明治六年からのことで、五年は十二月二日で終わり、突然年が明けた。
普通ならこれから一年の締めくくりに入るところ、急に年が明けたことになった当時の人たちには大きな混乱だったことだろう。
年が明ければ春と言ってきたのに、そういうどこか明るい区切りはなくなって、言葉だけの新春になった。
冬はひたすら続き、どんよりと雲は空を覆い、雪は降り続き、地面を踏めば霜柱の折れる音がする。
年が明けたばかりの東京の朝は、曇った空へ光を照り返すような雪景色だった。ぼくは襟巻をして、門からお屋敷の扉までの道に積もった雪をひたすら排雪していた。
雪かきを使って庭に移動させるだけの作業だが、そもそも勉学にしか取り柄のない書生のぼくには大変な働きだ。
雪かきの木の柄を握る手がかじかみ、曲がったまま戻らない。指先が痛いだけでなく、寒さのせいで体に力が入ってしまって、すでにあちこちが痛い。
いっそ狐火でも出して一息に溶かしてしまえたらと思うのだが、そういうわけにはいかない。
開明の世になって西洋の便利なものが次々と入ってくるけれど、この雪を一気に取り払うようなものはなくて、ぼくはただひたすら腰をかがめて雪と格闘していた。
突然お屋敷の扉が開く音がして、歓声が響いた。
「雪だわ!」
娘らしく艶やかな赤の振袖を着たお嬢さんが、飛び出してくる。草履ではなく、女学校へ行くための革の
ぼくは少しばかりげんなりしながら、気付いていないふりをして雪をかきわけ続けたが、目の先の白い地面を、黒い長靴がさえぎる。
仕方なしに顔をあげると、お嬢さんが立ちはだかっていた。いつもは結い流しにしている髪を三つ編みにして、ぐるぐると後頭部に英吉利末結びでまとめている。
雪が眩しく、お嬢さんの着物の赤が、髪の黒さが、際立って見える。黒と緑のアール・デコ風の帯をしめた上、真珠の帯飾りが雪とは違う固い白さで光っている。
新年会のための真新しい着物だろう。お嬢さんが息を吐くたびに白い煙があふれて、溌剌とした表情を彩った。
ぼくと同じ庭に立っているとは思えないほど、彼女の周りは年の開けた明るさに満ちていた。
お仕着せの新しい袴をはいている僕を、お嬢さんは楽しそうに見る。
「溝口さん、達磨を作りましょうよ!」
「いやです」
お世話になっている主家の娘さんであるが、ぼくは一言で却下した。
とりあえず手を止めて、かじかむ指を雪かきから離す。お嬢さんの前で指に息を吹き付けるわけにもいかず、袴の後ろでこすって暖をとろうとした。早く終わらせて、暖かい珈琲を飲みたいのに。
「溝口さんは、どうしてそんなに暗い顔なの」
「力を使ってとても疲れているからです」
言わずもがなである。しかしお嬢さんは、頬を紅く上気させて、浮かれて言った。
「溝口さん、春が来たのよ!」
「ハイカラさんが、古風なことをおっしゃいますね」
「どうして、溝口さんはいつもつまらないのかしら。心浮かれるものは、あたらしいものも古いものも良いことだわ」
ぼくに失礼なことを言い、襟巻をなびかせてくるくる回りながら、頭が春だとしか思えないお嬢さんは、かき分けられていない雪にざくざくと踏みこんで、飛び跳ねた。
ぼくは長い長い溜息をつく。お嬢さんが飛び跳ねて雪を蹴散らし、大きな白い煙をたてるのを横目に、再び雪かきの冷たい木の柄を握った。
途端、ばん、と額に衝撃がはしった。冷え切った額が痛い。
水混じりの雪がぱらぱらと落ちてきた。
「もうっ。せっかく雪が降ったのに、達磨を作らないでどうするの!」
どうもするわけがない。
だけどお嬢さんは何故か偉そうに決め付けた。
ぼくは再び、長く長く、白い息をはいた。
早く本物の春が来て、青空が覗くのを願いながら。
でもその時にはまたお嬢さんはまた何かを見つけて、ぼくを巻き込むんだろう。年明けからうんざりするような予感に、寒風とは違う震えが背筋をはう。
顔を上げて見ると、お嬢さんはすっかり足首まで雪にはまり込んで、仁王立ちになっている。真新しい着物と革の靴のまま雪の中に入って、後で怒られるに違いないと思ったけれど、ぼくはあえて忠告しなかった。
どうせ、どうせ、どれだけ拒否したって、さらに雪玉が飛んできて、ぶつけられて、達磨作りに加担させられるに違いないのだし。これでは僕も叱られるだろう。でも、お嬢さんも叱られてしまえばいい。
一年の計は元旦にあり。呪いのような言葉を思い浮かべながら、足元の雪を掴んだ。
了
ハイカラ娘と銀座百鬼夜行 作楽シン @mmsakura
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