第10話 そしてお嬢さんの曰く
行列がどこへともなく消えて、しばらくたった後でようやくお嬢さんは大きく息を吐いた。ぼくをみて、しみじみとつぶやいた。
「生きているわ」
「そうですね」
ぼくがいつも通りに応えると、お嬢さんは何が気に入らなかったのか、少しむっとしたようだった。
日の光がさす時間はまだまだ遠く、消えていた電気灯が、ふたたび夜道を明るく照らし始めた。
道を走る線路がちいさく鈍い光を返し、そこここの建物の硝子窓がまたきらきらと光を放つ。
ぼくは東京が江戸と呼ばれた頃のことも、この銀座が大火に包まれて、煉瓦の街に建て直される前のことも知らない。
多くの人やあやかしが昔を懐かしんでいるとしても、この街もまたきれいだと思ってしまうのは仕方のないことだろう。
あたりは奇妙な静けさに包まれていた。ビヤホールの壁に穴をあけて大騒ぎしたり、百鬼夜行が通ったりしたせいかもしれないが。辺りの人はどこかに逃げ出しただろう。
奥さんはぐったりと座り込んでいる。肩を抱きかかえる先生の顔を見上げるのも怠いようで、瞼を重そうに瞬いた。
「義孝さん、ごめんなさい」
「どうして謝るんです」
先生の声は優しい。奥さんは幾度も息継ぎをしながら言った。
「わたしは本当に、ご迷惑ばかりおかけして」
「あなたのせいではありません」
「でも、こんな面倒事ばかり……」
「馨子さん。あなたと一緒になったのはぼくの意志ですよ。少しはそれも尊重してもらわないと困ります」
でも、と奥さんは言い募った。
「もう、手を持ち上げるのも億劫なの。せめて診療所のお手伝いしたいのに、きっとしばらく起きられないわ。わたしは少しも、あなたの役にも立てない。あなたの邪魔ばかり」
先生は苦笑して、それからわざと渋い顔をして見せた。
「あなたを働かせたくて一緒になったんじゃないんです。雑多なものから離れて、ゆっくり療養してもらうためです。あなたが落ち着いて休めないのなら、ぼくには医者としても男としても値打ちがありません」
奥さんは再び目を瞬いた。そして弱弱しいながらも、しっとりと微笑んだ。
「年増女の羞恥を煽るような呼び方をなさらないでって、申しましたのに」
お嬢さんは先生のそばに駆け寄ると、馨子さんの傘を差し出しながら、申し訳なさそうに言った。
「馨子さん、無理をさせてしまって御免なさい。駆けつけてくださって、本当に助かりました」
いいえ、と奥さんは力なく首を横に振る。それすらも億劫なように見える。先生は困ったように笑いながら、かわりに傘を受け取った。
「すみません、環蒔さんを巻き込んでしまったのは、ぼくのほうです」
「何をおっしゃるの。わたしがあちらこちらに首を突っ込んだせいです」
よくわかってるじゃないか、と言いたくなるようなことを、お嬢さんは言った。先生は苦笑して、ぼさぼさに乱れたお嬢さんの頭を撫でた。幼い少女にするように。
ありがとう、とつぶやいて。
「また、元気な姿を見せに来てください」
「……征斉さんは」
お嬢さんは、不安そうに問う。建物の中にも、石畳の道にも、姿は見えない。
鬼にさらわれたか、逃げ出したか。
「朝いちばんに、ぼくから高辻家に出向いて、お義父さんに相談します。もしご無事ならば、もう東京へいらっしゃることのないよう、橋本様に取り計らってもらいます。本当ならば警察に届け出るべきなのですが、その子とのかかわりも話さなければならないし、犬神はいなくなってしまったし、百鬼夜行のことなど、信じてもらえないでしょうから」
橋本家の御曹司も言った通りだった。これを見た人がどれだけいるものか、どれだけの人がこれをみて、生き延びたものか。百鬼夜行の話など、巡査が信じるとは思えない。
狐のことも話さなければならない。先生は、あえてそれを言わなかった。
ビヤホールもせっかく開業したばかりなのに、すっかりめちゃくちゃだ。これではすぐには立て直せないだろう。
そもそもぼくらの仕業ではなくて狐と犬神がやったのだけれど。先生やお嬢さんが黙っているとは思えないから、きっと男爵家から支援の申し出があるだろう。
「さらわれた女学生は、たぶん皆無事だ。はっきりとは言えんがな。勝手に帰っていった」
文士が偉そうに言った。
御曹司が何人さらったのか、さらった皆が無事なのか、それはまた橋本家と旦那様が話して確認してくださるだろう。
犬神や百鬼夜行を大っぴらに言えなくても、御曹司が不逞の輩と関わっていたことは事実なのだから、橋本家だって知らんぷりもできないはずだ。
彼女たちは、自分の身に何が起こったのかわかっているだろうか。突風に連れていかれて、洋風の建物に閉じ込められて、わけのわからないまま家に帰された。本人もまわりも、神隠しにあったようなものだと思うかもしれない。親たちが何か察するところがあっても、外聞を憚って、隠すかもしれない。
「わたくし、必要があれば、どのような状況にあったか、どのような方とご一緒だったか、お話しできます」
しゃっきりと背筋を伸ばした金縁眼鏡の少女に、先生は微笑んだ。ありがとう、と。
「あんた、本当に関わっていないんだろな」
ぼくが文士を見上げると、文士はいつものようにふんぞり返った。
「馬鹿にするな。人に金をたかる根性は持ち合わせておらん」
根性ではないだろう、そこは。
思ったが、下宿して夜働き朝早くから勉学に励み、小説を書いて金を稼ごうとする勤勉さも持ち合わせる奴だ。
国粋主義の頑固さは、自分でやるべきことは自分で、という
突然、聞き覚えのある警笛があちらこちらから聞こえだした。まずい。あれだけ派手な轟音を立てていては、警察が駆けつけるのなど当然だ。
文士は挙動不審にきょろきょろと辺りを見回し、突然ハッとした顔で叫んだ。
「いかん! すっかり花火も終わっておる。夜中ではないか!」
笛の音が耳をつんざくばかりで、花火の光も音も聞こえない。
「お前たちにつきあっていたら時間がいくらあっても足りん。朝の消灯に寝坊したらお前たちのせいだからな! しかし、小娘たちを救出できたのは、俺の手柄あってのことだ。礼を受け取ってやってもいいぞ。そのうち
気に入ったのか。
鬼気迫る勢いで駆け去っていった文士の背中を、ぼくたちは唖然と見送った。
ぼくたちも早く逃げないと行けない。これ以上巡査の御厄介になるのはまっぴらだ。ぼくらのせいじゃないことまで全部かぶせられそうだ。
ぼくはお嬢さんをうながそうとしたけれど、犬神持ちの少年が立ち尽くしているのを見て、思わず足をとめた。少年は、夜空をつんざく警笛もぼくらの騒ぎも、目にも耳にも入らぬ様子だった。
助けろと狐に言った手前放ってもおけない。
「お前、どうするつもりだ」
少年は煉瓦の道に棒立ちのまま、鬼たちが去っていった方を見ていた。
「仕事がうやむやじゃ。どうしたらえいがか分からん」
険のある目からも力が消えて、表情すらもなくしている。
「クロがおらんようなってしもうた。家には帰れん……」
犬神や自分の命運を恨むようなことを言っていたくせに、愕然としていた。身に負わされたものは苦しみでしかないが、なくなってしまえばそれもまた、戸惑いと苦しみを招くのかもしれない。
お嬢さんは千歌絵さんの手を離すと、犬神持ちだった少年のそばに寄った。
「あなた、溝口さんのように懸命に勉学して、自分の力で道を切り開くつもりがあるのなら、うちの書生になれるようにお父様にとりあってあげるわ」
「お嬢さん、何を言ってるんですか」
少年が何かいうよりも前に、ぼくが大きな声をあげてしまった。さすがお嬢さんは言うことが突拍子もない。
「あなたが助けてあげたくせに」
それはそうだが。助けたのはどちらかというと、ぼくの気まぐれを聞いた狐の気まぐれだ。
助けた後どうするかなんて、少しも考えていなかった。
「さすがに危険です。素性も何も分からないし」
しかも妖術使いなのに、と言いたかったが、それを言うならぼくだって狐憑きなのだった。
「わたし、知ってるのよ。溝口さんが外国語を学んでいるのは、いつかお父様のお仕事のお手伝いをして、恩を返そうと思っているからだって言うこと」
唖然としてぼくが二の句を告げずにいると、お嬢さんは笑った。
「分かるもの」
散々ぼくの勉学の邪魔をするくせに、お嬢さんは自慢げに言った。
だけどまさか気付かれているとは思わなかったので、ぼくはどこか気恥かしく、今日は文句を言うのをやめた。お嬢さんは猪突猛進のようでいて、実はよく人を見ている。
「いいわね、とりあえずうちにいらっしゃい。後のことは、落ち着いて考えましょう」
腰を折って、少年に目線を合わせる。有無を言わせないお嬢さんの言葉の強さに、少年は釣り込まれるようにうなづいた。
「これはますますおもしろくなりそうだの。愉快愉快」
狐が呵々大笑する。
「うるさい」
そうこうしてる間にも、笛の音がどんどん近づいてくる。ひとことふたこと言ってやりたかったが、とにかくさっさとこの場を去らないと。
「さあ、お嬢さん帰りましょう。花火に顔を出せなかったし、旦那様も奥様も心配されていますよ。この上子供を拾って帰ったら、大騒ぎです」
「ええ」
お嬢さんはしっかりとうなづいた。
「でも、千歌絵さんをお送りするのが先よ。決して夜歩きでいなくなったのではないということ、おうちのかたに説明しなくては」
騒ぎにならないよう、御曹司が手を回していたようなので、それは問題ない気がするのだが。お嬢さんの気が済まないだろう。
お嬢さんの着ていたきれいな和装は崩れて、整えていた髪も乱れてしまっていたが、お嬢さんの目はいつもと変わらずまっすぐだった。
こんな姿を見たらお屋敷は混乱するだろう。転んだとお嬢さんが言えば、それで納得されてしまいそうな気もするが。
「それに、馨子さんを診療所まで送り届けなければならないわ。俥はいなくなってしまったし、先生におぶって歩いて戻れというのも酷なことよ」
自転車も学生たちが盗んでいってしまった。しかも警察が駆けつける前に、この場を去らなければ。お嬢さんの言うことはいちいちもっともで、でもぼくは嫌な予感しかしない。
お嬢さんは爛々と輝く瞳でこちらを見て言った。
「ねえ、以前、ひとっ飛びで運んでくれるって言っていたわよね」
お嬢さんは、ぼくというよりも、ぼくの肩に乗った狐に向けて言った。ぼくのうんざりした顔なんてお嬢さんはまったくお構いなしに。
「今日は、お狐様に乗せてもらえるのでしょう?」
――やっぱり。
狐がニヤニヤとぼくを見ている。
げんなりする。
了
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