第9話 銀座百鬼夜行

「お前の苦しみを取り払ってやろう」

 続いたのは、狐の声ではなかった。


 ふと気づけば、不穏な行列がすぐそこにいた。焚書をして踊り狂っていた文士達とは全く違う。今度こそ、これが、百鬼夜行だ。


 石畳の道を最初に来たのは、ぼくの倍は背丈があろうかという、巨体の男だった。頭に角が生えている。鬼の手が、犬の首を捕まえる。

 行列に気づいていなかったのか、犬神持ちの少年は驚き立ちすくんで、鬼を見上げた。

 鬼が、短刀のような歯でバリバリと犬神を噛み砕いた。おぞましい悲鳴が聞こえる。みるみるうちに、犬神は噛み砕かれ、食われて、飲み込まれた。

「クロ!」

 叫ぶ少年を、鬼の手が捕まえた。


 食われる。思って、気づいたら言っていた。

「アカトキ、助けてやれ」

「酔狂だな」

 狐は意地悪く笑う。自分でもそう思う。でも何故だか、見捨てるのはためらわれた。

「いいから行け」

「食われるなよ。お前がいなくなるとつまらんからな」


 狐がするりとそばを離れた途端、ヒヒヒヒヒヒと大きな笑い声が聞こえた。

 人よりもよほど大きな猿のような妖怪が、こちらへ駆けてくる。耳まで裂けた口の唇をまくりあがらせて、気味の悪い笑いを顔に貼りつかせていた。

 人を見ると笑い、捕えて引き裂く獰猛な妖怪だった。しかも若い女を好んでさらう。


 千歌絵さんはロザリオを両手ですがるように持ち、お嬢さんは千歌絵さんにしがみついていた。

 文士はお嬢さんの反対側で、千歌絵さんにしがみついている。

 その前に力なく座り込んだ奥さんをかばうようにして、先生が抱きかかえていた。

 なぜかぼくは、皆の前に立っていた。


「どけ」

 お嬢さんたちを物色しようとする狒々ひひに、ぼくは不機嫌に言う。

 狒々は禍々しい気を放っている。永く生きた猿がなるものだという。放つ気は凶悪だったが――犬神の、怨念と狂気の塊のような、どす黒い渦のようなものとは、やはりどこか違う。

 まくれあがった唇の下に、ずらりと大きな牙が並んでいる。


 ぼくは思い切り足を蹴り上げた。すっぽ抜けた下駄が宙を飛び、狒々の皺だらけの額にガンと音を立てて当たる。怒りの咆哮が、煉瓦街を響き渡った。

「修治君!?」

「溝口さん!?」

 先生とお嬢さんが叫んだ。お嬢さんの声は、さすが狒々の咆哮に負けてない。

 ぼくが応える前に、怯んだ狒々の向こうから、炎の塊がごろんごろんとやってくる。車輪の真ん中に顔を付けて、炎をまとわりつかせた輪入道だ。またこいつか。京都にいる牛車の妖怪のはずだが、こいつは俥の車輪に見える。

 大きな輪っかについた髭面の巨大な顔は、目を爛々と輝かせてこちらを見ている。歯並びのきれいな口をガバっと開いた。

 ぼくは下駄を拾い上げ、輪入道の口をめがけて投げつけた。ふがあ、と妙な悲鳴があがる。

「何をするんじゃ小僧!」

 巨大な口から抗議の声がほとばしった。何をするも何もあったものか。


 その後ろからまた狒々が向かってきたので、残った下駄を脱いで手に持ち、思い切り鼻面を殴りつけた。

「溝口さん、平気なの!?」

「見えるものは殴れます」

「そういうものなの!?」

 そういうものかどうかはわからないが、問答無用で襲いかかってくるからには力技で追い払うしかない。


 狒々が今度は巨大な手を振りまわした。ぼくの手の下駄を叩き落とす。返す手を振り上げて、ぼくの肩を突き飛ばした。勢いで足が浮く。

 気づくとぼくは吹き飛ばされて、煉瓦敷きの道に転がっていた。背中を打ち付けて、息が詰まった。

 背中と肩に激痛が走る。

 しかも、のっそりと白い巨大なものが視界を覆った。

 煉瓦敷きの道から、人間の何倍もあろうかという骸骨の上半身が生えている。骨だけの巨大な手でぼくを地面に押さえつけた。

 容赦ない圧で、体がミシミシと鳴る。身動きも取れない。これでは、殴ろうにも殴れない。


「溝口さん!」

 お嬢さんが再び叫ぶ。これはまずい。まずいんだけど、起き上がれなかった。

「うちの書生さんに何をするの!」

 恐怖も何もかも忘れ去ったのか、お嬢さんは憤懣やるかたない顔で足を踏み鳴らした。馨子さんの傘を拾い上げて、刀のように両手で構える。

「お嬢さん、下がっていてください」

「その様子で何言ってるの! 殴れる相手なら怖くないわ!」

 ――いや、ぼく吹き飛ばされたんですけど。つぶされかかってるんですけど。怖がってくださいよ。

 迂闊なことをお嬢さんに教えてしまった。

 だいたい、男爵家のご令嬢が、簡単に殴るとか言わないほうがいいのでは。思ったが、黙っていれば食われるので、そういう場合でもないか。

「お嬢さん、でもぼくは、特殊なので。ぼくが殴れるからと言って、お嬢さんができると、は限らない、のでは」

 声を出すのも苦しい。途切れ途切れのぼくの言葉に、お嬢さんは眉をきりきりと釣り上げた。

「やってみないとわからないじゃない! 決めつけられるのは大嫌いよ!」

 しまった、火に油を注いでしまった。

「わたしは、あたらしき女なの。やりたいと思ったことは、なんでも怖気ずにやるの。やってみないであきらめるなんて、絶対にしないのよ!」

 お嬢さんは再び足を踏み鳴らし、仁王立ちで宣言した。


 ああもう。

 お嬢さんは本当にこのまま、弁慶みたいに立ちふさがって、妖怪たちを殴り倒す勢いだ。

 ぼくがいて、お嬢さんが怪我をしたりなんてこと、あってはならないことだ。旦那様に申し訳が立たない。

 だけどいかにもお嬢さんらしい。いらぬことに首を突っ込んだとしょぼくれているよりも、余程ずっとお嬢さんらしい。ぼくとしては、おとなしくしてくれている方が助かるんだけど。


「アカトキ、いつまで遊んでる」

 行列の間を愉快そうにひらひらと飛んでいた狐が、けけけけと笑った。

「仕方ないのう。我がおらねば、ほんにお前は立ち行かぬのう」

 恩を売りたかったのか、ぼくが困ってるの見て楽しんでいたのか、よくわからないが。狐がするりと戻って来て、ぼくの肩に乗った。

「うるさい。何のためにぼくに憑いてるんだ。こういうときに役に立たないと、意味がないだろ」

「減らず口だのう」

 狐はニヤニヤと笑いながら再び舞い上がある。白い毛皮が、夜空に輝くようだ。

「我の祠に手を出すとは、物を知らんにもほどがある」

 そのまま、巨大な骸骨の腕に激突する。柱のような骨がぼっきりと折れた。押さえつける力が無くなり、ぼくは骨の指をどかしてなんとか起き上がる。這いずるようにして、お嬢さんのそばに戻った。

 狐は狒々に噛みつき、列のほうへと投げ捨てた。動物のような悲鳴が響く。


 目の前を、頭が牛の男と、頭が馬の男が行く。

 そして欠けた茶碗、土鍋、傘を被った何かの動物などおなじみの姿のほかに、車夫のいない俥が一人で進み、もはや電灯にとって変わられつつある瓦斯灯が、細長い体で跳ねるようにして歩いてぼくらの前を通り過ぎていく。

 百鬼夜行は付喪神つくもがみだという説があり、付喪神は九十九神ともいう。九十九年、それくらい長くあった物などには魂が宿るらしい。瓦斯灯や俥は古いものではないが、さっさと打ち捨てられた憎しみで魂を持ってもおかしくはない気がする。

 西洋化だなんだと言って、古いものを次々に捨て、新しいものを次から次に取り入れていくこの国は、混沌にまみれていて、それを妖怪たちは気に入らないのかもしれない。

 瓦斯灯だ電気灯だと浮かれ騒いだところで、こうやって彼らが通る跡には暗闇しか残らない。彼らはそれを忘れさせたくないのかもしれない。闇を押しやって忘れたつもりでいる人間に。


 それとも、街で物を焼いたり、人をさらったり、呪術を使ったり、古いものへの固執だとか新しいものへの嫉妬だとか、後ろ暗い感情をこの新進の町で煮えたぎらせるから、百鬼夜行などが呼ばれてやってきたような気もする。

 花火で落ちた橋の阿鼻叫喚も、素知らぬ顔で楽しむ人々も、我先に逃げ出す人々も、そういった感情の坩堝ですらも、やつらを呼び寄せたのかもしれない。


 行列の最後にまた鬼が歩いていく。

 鬼の赤い肌は、狐火の蒼い色に照らされて、紫のように見えた。

 欧羅巴からやってくる水夫たちのように大きな体をしていて、屈強そうだった。波打つ髪は黒々として、二本の角が生えている。そいつはぼくらの前で足をとめた。

 お嬢さんはびくりとしたが、傘を両手で握りしめて、鬼を睨みつける。唇を引き結んで、震えるのをこらえている。


「アカトキか」

 鬼の大きな目が、ぎょろりとこちらを見た。

「また酔狂なことだな」

 狐は、かぱりと口をあけて笑う。知己なのだろうか。

「お前らもな」

 鬼は何も言わずに笑った。雷が轟くような声だった。愉快そうに、嘲笑うように響かせた。

 そして、ぎょろりとぼくらを見る。


 度胸もないくせに、領域を侵すな。

 肝に銘じろ。この国はお前たちのだけのものではないことを。闇に潜むものがいることを。

 闇を御せると思うな。

 そう語るようだった。


 彼らは石畳の道をどこかへ向かっていく。

 今は練り歩いてるだけでも、何かをするつもりなのかも知れない。実はぼくらが知らないだけで、もう何かが起きているのかもしれない。だがそれも人の予測がつくことではない気がした。

 何かが起きるにしても、今はただ彼らが去ってくれるのを願うばかりだった。朝日を願うばかりだ。

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