第8話 書生の望み

 突然、ぞわり、と肌が粟立った。首筋の毛が立つような感覚があった。血の気が引くとでも言うべきか。

 興奮も真夏の熱をも追いやって、ヒヤリとした空気が忍び寄ってくる。汗に濡れた肌を撫でて行く。

 笑いさざめき、また怒り唸るような、どよめく声が聞こえてきた。


「来たぞ」

 ぼくの肩の上で、にやにやしながら成り行きを見ていた狐が、楽しげに言った。

「お前たち、逃げるならとっとと逃げることだ」

 突然話した狐を見て、押し合いへし合いしていた学生たちが顔を見合わせる。次の瞬間、一目散に駆けだした。

 そこに残っていた俥に無理やり乗り込んだり、煉瓦の道を逃げていった。とんでもなく早い。しかも気づいたら自転車がない。この期に及んで自転車を盗むなんて。

 橋本征斉は、ぼくと狐を不審げに見ただけだった。


 嫌な空気は狐に言われなくてもわかっている。ぼくはお嬢さんと千歌絵さんをうながし、路地へ逃げ込もうとした。

「先生、離れないでください!」

「急にどうしたんだ」

 先生は困惑しながら奥さんの肩を支えて、ぼくの後ろについてくる。


「何か来る!」

 先に駆け出ていた文士が足を止めて叫んだ。さすが、逃げ足は速い。だが仲間に置いていかれるところが、なんとも間抜けだ。


 花火はいつの間にか終わっていたようで、あたりは気が付くと、静寂に包まれていた。人の気配も光もない。

 大通りを、ひやりとした風が流れてくる。髪をなでていく空気に、ぞくりと震えがきた。異様な空気だ。


 道の向こうに突然明かりが灯った。電気灯とは別の明かりだ。ゆらゆらと不自然に揺れて舞っている。鬼火のように。

 遠目に、月明かりの中で服部時計店が見える。

 その下にある石畳の路を照らしていた電気灯が、ふいと消えた。路の向こうからひとつひとつ、消えていく。鬼火だけが揺れている。

 揺れる明かりの中に、たくさんの者どもの影が見える。

 ものものしい行列がやってくる。それが近づいてくるにつれて、空気がどんどん冷たくなるのがわかった。汗が冷えて体が震える。吐いた息が白い。


「千歌絵さん、枝並さん!」

 そばに立っていた二人をお嬢さんが呼び寄せる。

 もはや逃げ出すのも恐ろしく、皆が体を固くして、道の端に身を寄せるので精一杯だった。

「征斉さんは……!」

 ずりさがる眼鏡を押し上げて、先生は妖怪の行列の向こうを見ようと、背伸びをした。先生はとてもいいお医者さんだが、同時にとてもお人好しだ。こんな時に、混乱の原因を作った人を気にかけるなんて。


 ぼくの肩に乗ったまま、狐はふさふさのしっぽをぼくの首に巻いた。するするとその尾を伸ばして、先生たちをとりかこむ。

「くすぐったい」

 ぼくの抗議の声に、狐は笑った。

「この恩知らずめ。そのままでいると食われるぞ」

 狐が、長い鼻面をぼくの方に向けて言った。

「やつらは人間をよく思っていないからな」

 そうだろうね、とはいちいち答えなかった。

「小僧が東京に来るというから、ついてきて間違いではなかったな。こんなおもしろいものが見れるとは」

 煉瓦の壁に寄り添ったところで、行列の先頭がやってきた。お嬢さんは狐のしっぽを首に巻いて、震えながら息を押し殺している。



「お前!」

 ぼくたちを、犬神持ちの少年が追ってきた。

「狐も犬神も憑き物には変わらんじゃろうが。なんでお前はそうやって人と群れて人の中に暮らしとれる。嫌悪されんまま」

 少年は、いつぞやと同じことを言った。ああもう、こんな時に、めんどうだ。

「憑き物と皆言うが、ぼくは憑かれてる訳じゃない。ただ単に、こいつがいると他のが寄ってこなくて便が良いから、くっついて良いということにしてやっているだけだ」

「わけのわからんことを言うな! 犬神持ちの家に生まれたもんは、その宿命を逃れられぬというに」

 この少年が犬神持ちで、代々それを抱えてきた家であるのなら、周囲の誰もが彼を憑き物筋の家の者だと知っている。親しく話すような人などいなかったかもしれない。

 開明の世だと言ったところで、国の隅々にまで光は行きわたらない。電気灯だって昼のようだと言われているけれど、道の隅まで照らすことなんてできないのと同じで。

「ぼくは、自分がそう生まれついたからって、それに甘んじるのは我慢がならないだけだ。利用できるものは利用して、望みをかなえる」



ぼくが旦那様と会ったのは、ぼくが故郷の港で働いていた時だ。恰幅のいい男たちに紛れて働きながら、外国の言葉を覚えようと必死だった。仕事の合間に、荷物の山の隅で書き付けをしていた。

 そんな折りに、仕立てのいい洋装を身にまとい、無骨な手にステッキを持った紳士に突然話しかけられた。見覚えのある人だった。

 堂々とした立ち姿は、身分ある人だからというよりは、武道をおさめたからだという空気があった。ぼくの雇い主の雇い主の雇い主で、船の荷を世界に運ぶ事業をしている人だというのは、なんとなく知っていた。


 勉学が好きか、と尋ねられた。

 嫌いではないけれど、必要だからやっているのだと言ったぼくに、紳士は「必要は何よりも学ぶ力だ」とうなづいた。

 変な人だった。

 なぜ必要なのだ、と問われた。

 理由はただ一つ。この国を出たい。

 逃げたいのか、と問われた。

 逃げたいかと言えば、そうだ。妖怪どもにちょっかいを出されるのも、ぼくを奇異な目で見る人たちもうんざりだった。自分をとりまく環境に、うんざりしている。

 でもそれだけではない。

 ――現状を打破したいのですと、ぼくは応えた。

 体質は変わらない。変えようがない。

 だから、状況を変えるのだ。

 外へ出て、新しい場所で生きてみたかった。


 異国には異国の怪異があって困るのかもしれないし、異国人のぼくはやっぱり奇妙な目で見られるのかもしれない。

 辺境の田舎者と思われている日本人なんて、卑下されるだろう。

 でもそれはぼくが異国人だからであって、「普通じゃない」「人じゃない」せいではない。新しい地で、この体質をひた隠しにできれば。


 逃げと言えば逃げかもしれない。だが、踏みとどまるだけがやり方ではないし、別のことへ挑みかかるのは、責められるようなことではない。

 ――学びたいのならわたしと来るか、と紳士は言った。

 まるで人さらいのような甘言だった。

「学んで身に着け、仕事として使い物になれば、いずれ清国でも欧羅巴ヨーロッパでも亜米利加アメリカでも連れて行ってやろう」

 何の得にもならないのに、人にお金をかけて教育を受けさせるなど、ぼくにとっては素っ頓狂なことにしか思えない。実際そういう甘言に乗って、外国に売られた人も多くいると聞く。

 鬼が出るか蛇が出るか。真意も真偽もわからない申し出だったが、鬼も蛇もぼくは見慣れているし、人間だって、ずっと奇怪で冷酷で、油断のならないものだと知っている。

 ぼくは、ここから抜け出せるのなら、鬼でも人でも狐でも、何を利用したってかまわなかった。

 ――行きます、と。即座に応えた。

 何が起こるか恐れて迷うほどの未練を、どこにも持っていない。


 その直後、狐が旦那様を転ばせて、狐憑きだとばれるのだが。

 せっかく見えた道行がすぐに閉ざされて、ぼくは心底狐を忌々しく思った。約束を破って人前で姿を見せた挙句、「我の祠を勝手に持っていくな」と嘯いた狐を見て、紳士は目をぱちくりさせた。

 おしまいだ。せっかくの活路が、立ち消えた。思った時、紳士は笑いながら立ち上がった。

 そして、「おもしろいものを飼っているな」と笑い飛ばした。



 この国を出たいという、望みはずっと変わらない。だが、今はそれよりも、かなえるべきことがある。

 何より先に、旦那様にご恩返しをする。

 まずは勉学をおさめて、通詞になって、旦那様のお役に立たねばならない。狐憑きを笑い飛ばした人が、正しかったのだと示さねばならない。


「お前ぇはずるい」

 ぼくには、少年の背負った家だとか、一族だとか、そういうものはない。

 幼い頃に狐と契約をして、狐がやらかすつまらない悪戯のせいで、狐憑きだと嫌悪され、放置されていた。捨てられなかっただけマシなのだろう。隙間風の吹きすさぶあばら家で、いないものと扱われていたとしても。

 彼に比べれば身軽だ。だけどその分、何もかも自分で動かねば、何もできなかった。

「人をうらやましがっていないで、まず自分でどうにかしようとして見せろ」

狐はすぐ悪戯をするし、人前で姿を見せないという約束など破る。そんなやつを連れて、普通の人にまぎれて、古今西洋入り混じる東京で生活する危険性リスクを、簡単なことと思ってほしくはない。


 少年は、傷ついた顔をした。

「どうしたらえいがか分からん」

途方に暮れたようにつぶやいた。

「オレが、どうしたいのかが分からん」

 黒い犬が、少年の困惑をあらわすように、伸びたり縮んだりしながら、ぐるぐるとまわっている。

「ならば始末してやろうか」

 狐が、底意地悪く笑った。

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