第7話 御曹司の思惑
「橋本!」
「環蒔さん!」
口々に叫ぶ声がして振り返ると、文士と千歌絵さんが駆けこんでくるところだった。その後ろから、わあわあと声を上げながら押し入ってくる一団があった。
「橋本、これはどういうことだ!」
「女学生たちが逃げ出していたぞ!」
「橋が落ちたと大騒ぎだ、お前の仕業か!」
口々にわめきながら、いつぞやの学生たちがやってくる。
「枝並、お前も硬派なふりをして、女学生とよろしくしておって!」
「よろしくとはなんだ、俺は巻き込まれたのだ!」
文士がわめき返す。
ああもう面倒ごと増やさないでほしい。
学生たちは、文士を見て、声をそろえて叫んだ。
「うらやましい!」
それが本音か。そうかもとは思っていたけど。途端に煉瓦の建物の中は、喧々と言いあう男たちの蒸した熱気に満ちた。
「千歌絵さん!」
「環蒔さん!」
お嬢さんたちがお互いを呼び合う。千歌絵さんがお嬢さんのもとに駆けつけようとしたところで、犬神が首をもたげた。
「逃げろ!」
ぼくは何を考えるよりも前に叫んでいた。
犬神は首を伸ばし、まっすぐに千歌絵さんへ向かう。文士は思いもよらぬ機敏さで千歌絵さんを突き飛ばし、自分も転がった。
その頭上を、犬神が大砲のように飛んでいく。柱と天井に激突して、瓦礫の雨を降らせた。
「崩れるぞ」
「外へ出ろ!」
ぎゃあぎゃあと騒ぎながら、学生たちが外に逃げていく。
「お嬢さん!」
砂ぼこりで奥がよく見えない。
狐はぼくの肩を蹴ると、橋本征斉の横を通り過ぎてお嬢さんの縄も噛み千切り、そのままお嬢さんを咥えて戻ってくる。
ぼくに向けてお嬢さんを吐き出したので、受け止めたはいいが一緒にひっくり返ってしまった。
ぼくは打ち付けた腰を抑えながら起き上がり、お嬢さんの手を引っ張って立ち上がらせた。今日はさすがにお嬢さんも文句は言わない。逆にぼくの手を引っ張る勢いで外へ駆け出た。
それから、千歌絵さんの姿を見つけると、ぼくなど放り出して走っていく。
「千歌絵さん!」
「環蒔さん!」
お嬢さんたちがひしと抱きあった。
「ご無事で良かった。ひどい目にあっていない?」
「なかなか有意義な時間を過ごしましたわ」
ああもう、滅茶苦茶だ。混沌だ。
ボロボロになってしまったビヤホールの中から、御曹司が出てくる。彼は、文士やわらわらと集った学生たちを見ると、ぎゅうと口の端を吊り上げて意地悪く笑った。
「騒々しい」
地の底から這うような声だ。
「
束の間、気圧されたように学生たちが押し黙る。
「国粋主義の攘夷派は、神国日本が踏みにじられるのを嫌っている。西洋の物がなだれてくるのが嫌い。女学生が嫌い。考えの足りない学生は、これだけ西洋の物がなだれ込んだ今になっても、外国を追い出せると思っている。同じ学生の私に近づいて、金を出せ力を貸せと言う。くだらない。実にくだらない」
文士の唇がぎゅうぎゅうと噛みしめられて、横一文に伸びていく。珍しく、何も言わなかった。
「生意気な女が目障りだ、わずらわしいというし、驚かせてやりたいから手を貸せとうるさくてね。外国で若い女性を売り買いしている連中と少しつながりができたし、ちょうどいいや、どちらにも運を売っておこうかなと女学生を排除する力を貸すことにした」
「お前たち、そんなことを企んでいたのか!」
文士が叫ぶと、学生たちが口々に言い返してきた。
「うるさい、女学生と遊んでいるお前が口を挟むな!」
「そも、女学生を売り飛ばせなど頼んでおらんぞ!」
囂々と声が上がる。御曹司は眉をひそめた。
「知ったことか。ちょっと懲らしめたいなどと嫌がらせのつもりだろうが、悪事を働くなら大きな穴に落ちる覚悟をしておけ」
「征斉さん」
唸るような言葉に、先生が声をあげるが、御曹司は構わず続けた。笑みにどんどん毒が混じる。
「ちょうど、高辻のお嬢さんが犬を連れて家に寄られたという話を聞きましてね。女学生を攫うついでに、高辻家のお嬢さんにもいなくなってもらえばおもしろいと思ったのですが。人にたかろうなんて性分の者は使い物にならない。新橋で高辻のお嬢さんをさらうよう指示したのに、取り違えるなんて」
なんだと、とか、馬鹿にするな、と声が上がる。ああもう、うるさい。
しかし御曹司は、外野の大騒ぎなど、聞いていない。まるでもうそこにいないように黙殺していた。視界に入れる必要も、思考に留める必要もないのだと、完全に切り捨てている。
取り違えた、の言葉に、お嬢さんは唇をかみしめた。しかし、なるほど。
「あの艶書は、目印か」
「そうだ。あの艶書にしみこませた臭いをたどって、犬神が目星をつけた者をさらう」
新橋で御曹司に会ったあの日、千歌絵さんの袖に艶書が入れられていた。あれは、本当はお嬢さんを狙ったものだったのか。
「あなたのせいでお友達が危険にさらされたんですよ。これに懲りて、あちこちに首をつっこむのはおやめになったほうがいいですよ、ご令嬢」
お嬢さんが傷ついてうなだれるのを、愉快そうに見ていた。
でも、あちこちに突っ走っていかないお嬢さんなんて、環蒔お嬢さんとは言えない。
落ち込んでうなだれている姿は、こちらまで気が沈む。しかも、かえって何しだすかわからなくて怖い。
御曹司は先生に向き直り、さらりと前髪を揺らしてから、にこりと笑った。後ろの瓦礫の山も、砂ぼこりにもそぐわない、上品な笑みだった。
「予定外の妨害で、このようなことになってしまいましたが。あなたの情けない顔を見られて、ぼくはとても楽しいですよ。あなたは、ご自分が恩を受けたお家に迷惑がかかるのを恐れている。ご自分の存在も結婚も、何一つ、迷惑をかけずにすんだことがないんですから。あなたは、父上の体面を傷つけ、俺の大切な人を奪い、俺の未来を奪ったんです。あなたの大切なものも未来も奪ってやらないと気が済まない」
「義孝兄さまをそんな風にいうのはおやめなさい!」
自分のことには反論しないくせに、お嬢さんが叫んだ。
「父様も母様も、嘘偽りなく兄様を大切に思っているし、大事な家族の一員なんだから! それに、大切な人なんて、ご自分が勝手に思っているだけでしょう。馨子さんの本意が先生にないわけがないわ!」
御曹司は弾けたように笑う。哄笑が、煉瓦通りに響き渡った。
「さすが、高辻男爵のお嬢さんだ。父親に似て、馬鹿でお人よしな」
「旦那さまを悪く言うな!」
お嬢さんや先生が口を開くより、ぼくが叩きつけるのが早かった。
「わたしは!?」
お嬢さんが叫んだが、ぼくは答えなかった。
お嬢さんは馬鹿でお人よしです、と口に出していうのはやめておく。そんなことよりも、御曹司への怒りが先に立った。
「そげんこつなんもかんも人のせいにしとらすけんが、女のひと一人自分のもんにできんちゃろ。せからしか!」
「……溝口さん、外国語で話すとわからないわ」
外国語じゃありませんし。
ごっさいごっさいと、太い声が聞こえてくる。
遠くから近づいてくる声に、ぼくらは知らずそちらへ顔を向けていた。煉瓦の道の向こうから、俥がひとつやってくる。
車夫はごちゃごちゃと集ったぼくたちや、穴のあいたビヤホールを見て、驚いた顔をしながらも、俥をとめた。
ゆっくりと梶棒を置いて、車夫は常にない丁寧さで、車上の人に手を差し出す。
車夫に支えられて俥を降りたのは、ほっそりとした女性だった。
「馨子!」
先生が慌てて駆け寄る。
結っていた髪は乱れて、頬にかかっている。しろい顔が暗い夜に浮かび上がるようだ。
その美しい顔はいつもよりずっと気怠げで、紺色の着物が、奥さんを闇に溶けさせるようだった。
「どうして。なんて無茶を。どうやってここが分かったんだ」
「なんとか俥を掴まえたら、こちらの方で騒ぎが聞こえたものだから」
「橋の混乱で表に出るだけで大変だったろうに」
「あのようなことがあって、ひとり眠ってなどいられません。溝口さんとのお話も、少し聞こえておりました」
奥さんは先生の手を離し、西洋傘にすがるようにして、煉瓦の道にひとりで立った。蒸せるような夜だというのに、汗ひとつかいていないのが、こちらの不安を煽る。
「征斉さん」
唐突に現れた美しい女に、わあわあと喚いていた学生たちも、騒ぐのをやめていた。何事かと奥さんと御曹司を見ている。
「……馨子さん」
御曹司は、そっと問いかけるように、奥さんを呼んだ。戸惑った顔で見て。
新橋で会った時のような爽やかな若者のようでもなく、先ほどぼくらに見せた腹黒な富者のようでもなく、どこか無防備で幼いともいえる顔だった。
彼が、どれだけ憧憬を抱いてこの女の人を見ていたか、わかるような表情だった。
奥さんは、熱に潤んだ瞳で、懇願するように御曹司に言った。
「どうか、ご自分を大切になさってください」
その言葉には、たくさんのことが含まれているようだった。
何故こんなことをしたのだと。自分の身のことや立場を考えるべきだと。
そして、だからこそ、もう奥さんに構うなと。
咎めるではなく、ただそう諌めた。彼自身のために。
御曹司は叱られたような顔で、傷ついたような顔で、はっきりと言った。
「ぼくは、あなたを手に入れられれば、自分のことなどどうでも良かったんです」
自分だけではない、何もかもどうでもいい、というような言葉。
事実、先生と結婚していなくたって、彼が奥さんと一緒になることは難しいはずだ。伯爵家の跡取りが、父親の妾と結ばれるなど。伯爵家にとっては大変な醜聞だろう。
伯爵が彼を英吉利へやったのは、一番は奥さんから引き離すためだったのではないか。
それを、彼自身も分かっていたはずだ。この騒動だって今更、奥さんを奪いたいがために起こしたこととは思えない。ただの駄々で、嫌がらせでしかない。
奥さんは、愁眉を寄せて御曹司を見た。
「そのようなこと、おっしゃってはいけません」
美しく儚げで、それなのに艶やかで。支えてやらねばと思わされる。
だけど、奥さんはそっと首を横に振った。そのまま倒れそうな奥さんの肩を支えて、先生が強く言った。
「征斉さん、馨子はぼくの妻です」
御曹司の顔から、すうと表情が消えた。
奥さんを見て、先生を見て、そして唇に薄く笑みを浮かべた。とても穏やかとは言い難い笑みだ。
端正な顔立ちに、その笑みは不穏で、酷薄さが際立った。
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