第6話 ビヤホール襲撃
お嬢さんがここに連れてこられていないなら、追いかけて行った見張りは間抜けとしか言いようがない。暗いから女学生がみんな同じに見えたのだろうか。
「大きい犬みたいなのが来ませんでしたか。それか男の子」
「一度男の子が来たけれど、ここじゃないって揉めて、どこかへ行ったわ」
「どこへ行くか話していませんでしたか」
千歌絵さんは、少し考えるようにしてから言った。
「確か、銀座と言っていたような」
――銀座か。一連の騒動の一番はじめに、お嬢さんたちが百鬼夜行と騒いでいたのが、銀座だった。
嫌な感じがする。
ぼくは入り口でふんぞり返っている文士を振り返った。
「あんた、ここの人たちを頼む」
「こんな大勢の小娘たちを、俺に任せるな」
そう言えば文士は女学生が嫌いなのだった。
「じゃあ、あんたがお嬢さんをさらっていった犬神と対決してくれるのか」
「娘たちは任せろ、俺が受け持ってやろう」
ひらりと主張を変えて、文士は胸を張った。さすがの変わり身の早さだ。
唐突に、外から悲鳴が響き渡った。尋常でない、心底から恐怖を絞り出すような声だった。
「ぎゃああああ、女学生の首がなくなったあああ」
「あっちに生首が、生首が!」
「うわああ、今後ろから生暖かい空気がああ」
「Holy shit! That fiend!!」
野太い英語の罵声まで混じっている。
まずい、狐のやつ、化かして遊びはじめたか。
ぼくが外に飛び出すと、宙に浮いた炎がいくつもぐるぐると回っていた。ゆらゆらと夜を照らし、腰を抜かして怯える男たちの顔が次々に浮かび上がる。そっちの方が怖い。
狐火はまわりながらぼくの方にやってきた。髪をチリチリと燃やしそうなほど間近に迫ってくる。
「悪ふざけはいい加減にしろ」
「つまらんやつだのう。ちょっとは調子を合わせる可愛げはないのか」
狐火は消えて、ひょいとどこからか狐がぼくの肩に乗ってくる。途端にあたりが暗くなった。
「面倒ばっかり起こすやつに媚び売ってどうするんだ」
しかもこの界隈で大騒ぎなんかしていたら、海軍練兵場とかから人が駆けつけてきかねない。人さらいを捕まえてくれるのならいいけれど、ぼくらまで巻き込まれてはたまらない。
「何をやってる!」
ほら来た。わあわあと大声を上げながら、たくさんの男たちが駆けてくる。
「何事だ!」
今度は文士と千歌絵さんが、そして女学生たちが倉庫から飛び出してきた。それを見て、駆けつけてきた男たちが口々に叫ぶ。
「娘たちが逃げるぞ!」
「見張りは何をやってる!」
駆けつけてきた男たちは、どうやら警察でも兵隊でもない。いつかの銀座で、それから新橋で見かけた学生たちだ。
「何が何だかわからんがとにかく逃げろ!」
文士が喚いて、先頭に立って走り出した。請け負うんじゃなかったのか。
文士のすぐ後ろを千歌絵さんが駆けて行く。さっきとは打って変わった大股で、機敏で速い。
ケケケケと狐が愉快そうに笑いながら、炎を吐いた。駆けつけてきた学生たちが、びっくりして一斉にひっくり返る。
腰を抜かした男たちと一緒に地面に転がる様子に狐は大喜びで、呵々大笑する。男たちはどこから笑い声が聞こえるのか分からず、ブルブルと震えている。
なんだかもう訳の分からない大騒動になってしまった。ほんとに勘弁してほしい。
狐はくるりと回ると、また大きく変化した。ぼくはすぐ狐の背に飛び乗った。
駆けて行く女学生たちを追い越して、空に舞い上がる。皆を家まで送り届けるべきなのかもしれないが、お嬢さんの行方が先だ。
文士の金切り声が聞こえたが、きっと気のせいだ、めんどくさい。
「銀座に向かえ」
狐はシシシシと笑いながらジグザグに飛ぶ。やけに楽しそうだ。
「どこかのう」
「海の反対だ」
酔うからやめろ。
「おもしろいことになってきたのう」
狐は牙の隙間から炎をこぼしながら笑う。上機嫌だ。嫌な予感しかしない。
煉瓦の街を見下ろす。電気灯があちらこちらに灯って、夏の気怠い夜を照らしている。その道の上の標を目印にして進んでいく。
「おかしいな」
ぼくは思わずつぶやいた。花火見物で、町から人が少ないのはなんとなくわかる。だが、妖怪たちの姿も見えない。狐がいるから、やつらがぼくを避けているのだとしても、何かがおかしい。
奴らが隠れていても、避けられていても、気配はいつも其処此処にあった。人に紛れて闇に紛れて。しかも夜は奴らの領分だ。
なのに、どこにも感じられない。
ごう、と風が吹いて、星空の下を漆黒のものが翔けてきた。真正面から向かってくる。狐がするりとよけた。ぼくの膝をかすめて、ぬるりとした犬の毛が通り過ぎていった。
シッと口の端から気を吐いて、狐は逆に、犬を追いかけた。動くものを狙う猫のようだ。あまりに突然でぼくは振り落とされそうになった。
狐が、豪と火を噴いた。犬神は右に左にうねるように向かう先を変えながら炎を避ける。
ぐるぐると振り回されながら、ぼくは必死に狐の毛を掴んでしがみついた。
「お嬢さんがいたらどうするんだ!」
「知ったことか。獲物を追いかけておるだけだ」
狐は流れ星のように飛んで犬神に追いつき、長い鼻面でわき腹に突撃した。犬神はおぞましい悲鳴を上げながら吹き飛んでいく。
眼下はもう煉瓦街だ。明るい電気灯と、にぎやかな人だかりが見える。煉瓦造りの建物から、明かりがこぼれて道を照らしている。
恵比寿ビヤホールだ。
犬神が、西洋風の建物に突っ込んで行った。
花火にも負けないような音でドアを柱ごと吹き飛ばし、煉瓦作りの壁が吹き飛んだ。そのまま奥で激突したのか、再び轟音が響いた。
一息おいて、悲鳴が夜空をつんざき、ぽっかり空いた穴のところから、店の中にいた人々が飛び出してきた。
洋装の人や和装で固めた人や、浴衣にカンカン帽というチャンポンな格好の人も、みな一様に飛び出して、悲鳴を上げながら逃げて行った。洪水から逃げようと岩場の穴から出てくる鼠のようだ。
その流れにさからって、自転車に乗った男がビヤホールに走って行く。勢い余って滑るように自転車を乗り捨て、人が這い出てくる穴へ駆けこんでいく。
「先生!?」
狐が地面近くに降りたので、ぼくはその背を飛び降りて、慌てて先生を追った。
重量感のある木の
橋本子爵家の御曹司は、満足そうに
「お久しぶりですね。刈谷先生」
御曹司は机に手をついて、ゆらりと立ち上がった。酔っているのか少し危うげな動きだったが、仕草はとてもなめらかで、育ちの良さが感じられる。
「兄さま、溝口さん!」
奥からお嬢さんの甲高い声が聞こえた。
お嬢さんは椅子に縛り付けられて、結いあげていた髪は乱れてしまっている。けれど、無事のようだ。
少しばかりホッとしながら、ぼくは先生のもとに駆け付ける。
「先生、馨子さんは放っておいていいのですか。どうしてここに」
先生は青年の方へ顔を向けたまま、堅い表情で言った。
「馨子を寝かしつけてぼくも築地へ向かおうと思ったら、あの犬と君の狐が飛んでいるのが見えて、追ってきたんだよ」
御曹司が、ああ、と感嘆の声を上げた。
「馨子さん。私がいない間にご結婚されたと聞いて驚きましたよ。お幸せそうでうらやましい」
「当り前よ!」
お嬢さんが奥から叫ぶ。瓦礫の積みあがった
「お幸せに決まっているじゃない。義孝兄様の奥方になったんだから!」
御曹司の眉間に神経質そうな皺が寄る。
「少し、静かにしていてもらえませんか」
「黙っていられるものですか!」
そりゃあそうだろう。
お嬢さんは、無事どころか、相変わらずの様相だ。御曹司の眉間の皺が深くなる。
「ハイカラさん。日ノ本ではあなたのような女は嫌われますよ」
先日会った時の気の良さそうな風貌はかききえて、遠慮も何もなく彼は言った。
「あなたに好かれたくなんてないわ!」
「しばらく、黙っていなさい」
地の底から這うような声で、御曹司が命じる。苛立ちと怨嗟の混じる声音に、さすがのお嬢さんも気勢をそがれたようだった。思わずのように口をつぐむ。
お嬢さんは確かにうるさいし物事をかき回すが、好まれない性質ではない。ぼくはそう思うけれど、黙っていてほしいのは御曹司に同意なので、口を挟まなかった。
青年は先生に向き直る。
途端、上品な顔がにこやかに笑う。汗のにおいも感じさせない爽やかさで、先生に言った。
「今日はこちらにいらっしゃると噂に聞いたので、お待ちしていたんですよ。随分と待たされた」
扉は破壊されて壁に大穴があき、客も店員もひとりもいなくなったビヤホールで、彼は悠然と述べた。
ビヤホールの奥の煉瓦造りの壁も崩れてしまっている。その近くに犬神がうずくまっていて、時代かかった水干の少年が、ぼくを睨みつけて立っている。時折、ガラガラと音を立てて煉瓦が崩れた。
「
先生は眉根を寄せて、どこか苦しそうな表情をしている。
「征斉さん。あなたは、
「行っておりますよ。今は休暇中です。いずれにしても、子爵家の跡取りをいつまでも外国に追いやるなんて、できるわけないでしょう」
「二度と高辻男爵家の周囲には近寄らないとの約束では。どういうおつもりなんです。環蒔さんをさらったのはあなたなのですか? ほかの女学生たちは?」
「環蒔さんは、ご自分からぼくへ近づいてこられたんですよ」
机に腰かけて、にこやかに語る。不穏な笑みだ。そして、迷子の犬を拾ったことと言い、先日の新橋での一件と言い、御曹司の言うことは真実だった。
今日お嬢さんをさらってここに連れてきたのは犬神で、御曹司が自分から近づいたのではないと言えば、その通りだし。詭弁だけど。
「こんなことやめてください。お家も父上の名も傷をつけます」
「どうやってさらったのか、言えますか。犬神を使って? この新開の世に、そんな話を誰が信じるか。どうやってぼくが関わっていると証明するのです。女学生をさらって、ぼくに何の特が?」
「からゆきさんや」
ぼくは思わず言っていた。皆の目が一斉にぼくを向いた。
先生が、診療所で心配した通りだ。さらわれた女学生。丁重に扱われていたようだけれど、彼女たちは犬神の餌になったのでなければ、これからどうされる運命だったのか。
「橋本家のご子息は、確か
からゆきさんは、唐行きさん、という。唐は、中国ではなくて、外国そのものを言う。
「よく知っているな」
「ぼくは長崎の生まれなので」
甘ったれの御曹司は、ぼくをみて嘲笑う。
「高辻男爵は、本当に、奇天烈な人だ。狐憑きを書生にするとは」
「おかげでお嬢さんは売られずにすんだ。大英断だろう」
ぼくは鼻で笑いながら言った。旦那さまは変わった人だとはぼくも思っていたけれど、それだけ懐が深い証左ではないか。
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