第10話 虹の橋の街

 最初の山小屋を出てからも、ラークたちの旅は順調に進んだ。道が一番きつかったのは一日目で、それ以降は緩い登りと、少しの下りが続いた。『王国』から離れたからか、コボルトと会うこともなかった。

 二日目以降は、無人の山小屋に泊まった。所々ところどころぼろくなってはいたが、泊まるのには支障ない程度だ。小屋の維持は冒険者ギルドがやってるんだよ、と馬車で会った吟遊詩人の少年が言っていたのを思い出す。

 最後の山小屋に着くまで、結局誰ともすれ違うことはなかった。普段なら、そこそこ人が通っているはずの道だ。やはり、まだワイバーンは退治されてないのだろう。

 五日目の朝。少し早めに起きて、サラと最後の打ち合わせをした。ワイバーンの話をすると、少女はわずかに沈黙したあと、わかった、と言って小さく頷いた。

 後から起きてきたミーファが、二人が何か話しているのに気づいて不思議そうにしていた。適当に誤魔化して、山小屋をった。

 結局、最後まで天気には恵まれたようだった。一日目からずっと、雲一つない快晴が続いている。山の上に居るからか、心なしかいつもより強い日の光を真横から受けながら、ラークたちは岩ばかりの山道を歩いていった。

 道はすぐに、断崖だんがいに口を開ける洞窟に繋がった。ここを抜けて崖の上に出れば、もうビヴロストの周辺地域だ。それはつまり、ミーファの夢の場所と、ワイバーンの目撃箇所の両方に――もしくはそれらは同じ場所なのかもしれない――近付くことにもなる。

 洞窟の中で、サラがミーファの顔を見上げながら言った。

「『空の飛び石』って知ってる」

「ううん。なにそれ?」

「この先で見れる」

 珍しく、サラの方が積極的に話しかけている。少しでも夢のことを忘れさせようとしているのだろうか。

(本当に、サラの策が正解なのか?)

 ラークの胸に、今更になって不安が広がってくる。やっぱり、危険を徹底的に避ける方がいいんじゃないか。山に登らずに暮らすぐらい、できなくないだろう。

(いや、他の場所の可能性もある)

 山道だろうというのは、予想でしかない。似た場所があるのかもしれないし、可能性のある所を全て避けるなんてさすがに無理だ。もしミーファが一人の時に遭遇したら、誰も助けられない。

(駄目だ、余計なことを考えるのはやめよう。もう決めたんだ)

 夢の再現が起こったら、サラの策を信じて全力でミーファを守る。もし何も起こらなければ、それでいい。ビヴロストに着けば、腕輪について詳しく調べて対策を練ることができる。

 あれこれ考えているうちに、洞窟の出口が近づいてきていた。その先に広がる光景を目にして、ミーファが感嘆の声をあげた。

「わあ!」

 洞窟を出ると、一気に視界が開けた。目の前にあるのは、だだっ広い岩だらけの高原だ。その外側には真っ白な雲の絨毯じゅうたんが広がり、同じような高原がぽつぽつと頭を覗かせている。『空の飛び石』の名の通り、雲海に点在する高原は、まるで川を渡るための飛び石のようだった。

 だがラークたちの目を引いたのは、雲海でも『飛び石』でもない。その間に架かる巨大な、いや巨大という言葉でもとても足りないほどの、あり得ないほど大きな橋だった。計十本ほどの橋が、『飛び石』を一本の線で繋いでいる。

 橋は、水晶のような透明度を持つ素材でできているようだった。日の光を複雑に反射して、きらきらと七色に光り輝いている。大きく湾曲したその橋は、まるで虹のようだった。

 橋の大きさは、最も遠い一本を見ればよく分かる。なぜなら、虹の橋の街ビヴロストが、上に丸ごと乗っているからだ。

「えっ」

 不意に、ミーファが驚きの声をあげる。

「あそこに飛んでるのって……」

 彼女はビヴロストの方を指さした。正確には、ビヴロストに向かって飛んでいる大きな構造物を。

 遠くにぼやけて細部は曖昧あいまいだが、それはどう見ても船だった。

「魔道船だ。ふもとの街とビヴロストを往復してるんだ」

 ラークは言った。

「飛ぶのは何日かに一回だったかな。見れたのは運がいい」

「乗れるんですか?」

 きらきらとした期待に満ちた視線を向けられ、ラークは苦笑してしまった。

「金さえ払えばな。確か、片道で金貨百枚以上かかるはずだ」

「高いですね……」

「そりゃあな」

 『学院』の魔術師たちが、一流の技師を集めて造らせたものだ。大陸中探しても、こんな大規模な空飛ぶ乗り物は無いだろう。

「どうやって飛んでるんでしょう?」

「魔道具」

「へえー!」

 サラが短く答えると、ミーファは感心したように言った。飛行フライの指輪という魔道具は存在するが、人ひとりを少しの間飛べるようにするだけのものだ。同じ魔道具とは言っても、規模が桁違いだ。

 一頻ひとしきり景色を楽しんだあと、三人は最初の橋へと向かった。橋の根元は、まるで地面から生えているかのように見えた。

 上に乗る前に、皆で手で触ってみた。見た目の印象とは違って、固くはない。爪の先で叩いてみても、何の音もしない。多分、木よりもまだ柔らかいだろう。だが強く押しても、沈み込むわけではなかった。

「変な感触ですね、これ」

 恐る恐る足を乗せながら、ミーファは言った。

「もし虹に乗れたら、こんな感じなんでしょうか」

 何度か足元を確かめているうちに慣れてきたようで、少女は軽やかにステップを踏んでいた。続いて上に乗ったラークは、ちょっと考えてから言った。

「生き物の肌みたいだな。人間じゃなく、皮膚が硬いトロールのような」

「へ、変なこと言わないでくださいよ……」

 動きを止めたミーファは、嫌そうな顔で足元を見た。

 安全を確認したあと、傾斜の付いた三人は橋を登っていった。足元に広がる雲海が透けて見えるのが、思ったよりも怖い。

 雲の合間から見える地上は、遥か遠くだ。もし落ちたら、助かる可能性は万に一つも無い。

 橋を抜けた次の高原は、外縁部だけが少し低い、二段構造になっていた。外縁部の道は、中央部をぐるっと一周して繋がっている。高さの差は街の城壁ほどもあり、登り降りはかなり大変そうだ。外周の道に降りたラークたちは、そのまま半周して次の橋を目指すことにした。

 人が何人か横に並べる道を、一列になって進む。先頭のラークは、唇を結び、険しい表情を見せていた。この辺りは、サラが夢の舞台の候補として挙げていた場所だ。いつ『何か』が出てきてもおかしくない。

「待って」

 出し抜けに、サラが突き刺すように言う。振り返ったラークの目には、呆然と立ち尽くすミーファの姿が映った。少女の目は、ラークを通り過ぎて遠く道の先を見ているようだった。

「ここ……って……」

 ミーファが消え入りそうな声で呟いた。ラークは剣と盾を構え、上空に目をやる。崖の向こうから現れる、ワイバーンの姿を想像した。

 だが、ラークの予想は大きく外れていた。

 羽ばたきの音が、から聞こえてくる。慌てて音の方に視線を向けると、ラークの倍ほども大きい翼持つ魔物が、崖下から急上昇してきた。

「くっ!?」

 ワイバーンがまだ上に向かって飛んでいるうちに、虚像が斜め上から突進してきた。迫りくる威圧感と殺気に、ラークは身をすくめて必死に盾を構える。

 虚像がぶつかる瞬間、思わず目をつぶってしまった。これがもし本物だったら、最低最悪の愚策だ。何やってんだ俺は、と心の中で毒づく。

 目を開けたラークは、上空まで達したワイバーンの姿を見て、口元を大きく歪めた。

(しまった!)

 そう思った時には、魔物は先ほどの虚像と全く同じ軌道で突っ込んできた。もう避ける暇は無い。盾に被せるように剣を掲げ、自らの身を被った。

 大きな音と強い衝撃と共に、体が浮いた。仰向けになったラークの目に、飛び去るワイバーンの姿が映る。

 防ぎ切った。そう思った一瞬あとには、背中から地面に叩きつけられた。背負った荷物が緩衝材になったおかげで、衝撃は少ない。崖の端ぎりぎりまで吹っ飛ばされていたのに気づいて、背中にひやっとしたものが走った。

 突如、ミーファが悲鳴をあげた。ワイバーンは、まだ上空に留まっている。ラークは咄嗟とっさに叫んだ。

「走れ!」

 弾かれたように、ミーファが身をひるがえして走り出す。同時に、彼女を追いかけるかのように、ワイバーンが再び地面に向けて滑空した。

 敵の進行方向と交差する軌道で、小さな炎の球が斜め上に向けていくつも撃ち出された。サラの火球ファイアボールの指輪だ。

 当たったところでどれほどの効果があるかは分からなかったが、ワイバーンは若干速度を落としてかわした。牽制としての役目は十分に果たしたようだ。魔物の鋭い爪は、ミーファの体をぎりぎり掴み損ねた。サラはそれを確認すると、すぐに呪文の詠唱を始めた。

 立ち上がったラークは、剣が根元から折れていることに気づいて歯軋はぎしりした。こいつの他にはろくな武器を持っていない。投げナイフで応戦すべきか。

 ラークが迷っているうちに、ワイバーンは既に上空に戻っていた。苛立ったように一鳴きすると、口を大きく開ける。その奥に赤い光が見えて、ラークは身構えた。炎のブレスが来る。

 邪魔されたことに対する意趣返しなのか、相手はサラを狙っているようだった。溜めるように若干下げた首を一気に突き出すと、大きな火球が口から飛び出す。

 火球の軌道が『見えた』のか、サラは避けようともしなかった。仁王立ちで、ワイバーンをじっと見据えている。火球は少女の真横を通り過ぎていった。

「あっ!」

 ミーファが声をあげる。石にでもつまづいたのか、派手に転倒した。それに気づいたワイバーンが、三度目の地面への滑空。ラークも、仲間のもとへと全力で走る。

 敵は、ミーファのすぐ近くに降り立った。振り返った少女が悲鳴をあげる。

 大きく開けたワイバーンの口の中に、赤い炎が輝く。今度こそ絶対に外さないためになのか、ミーファに顔を近づけた。

 走るラークは、目の前に広がる光景を見て驚愕きょうがくした。自分の虚像が、ワイバーンの顔に体当たりしてミーファを助けている。あまりにも無謀な行動。

 何の脈絡も無く、不意に夢のことを思い出した。あそこで、自分は……。

 気が付いた時には、虚像と全く同じようにワイバーンに突っ込んでいた。軌道を大きく逸らされた火球は、ラークの左腕をかすめたあと、虚空へと飛び去っていく。

 腕を焼かれる激痛に、一瞬意識を失いかけた。地面を転がり、必死に火を消した。

 目の前には、怒り狂ったワイバーンの姿。迫り狂う爪を避けるすべは無い。だが、

「大地の怒りよっ!」

 サラが、呪文の最後の一節を叫んだ。

 地面が一瞬にして盛り上がり、巨大な槍となった。鋭利な先端が、魔物の片翼を貫く。爪は、ラークの鼻先を通り過ぎていった。

 苦痛の鳴き声をあげたワイバーンが、滅茶苦茶に暴れだした。ラークが這うようにして逃げ出した頃には、敵は既に槍の拘束から逃れていた。

 攻撃が来るか、とラークは構えた。だがワイバーンは、大きな傷を負ったことで戦意を喪失したようだった。ふらふらとした頼りない飛び方で、崖下へと逃げていく。

「……助かったか」

 地面に座り込みながら、ラークは深い溜息をついた。

(まだ死ぬわけ無いんだよな、俺は)

 あの夢が、本当に未来に起こる出来事なら。夢の自分と同じぐらい老いるまでは、生きているはずだ。

「ラークさん!」

 震える声で、ミーファが言った。

「う、腕が……」

 ラークは自分の左腕に目をやった。服は焼け焦げ、その下は酷い火傷になっている。思い出したかのように、激しい痛みが走る。

 駆け寄ってきたサラが、慌てた様子でワンドを火傷に向け、呪文の詠唱を始めた。彼女の顔に目をやったラークは、疲れ切ったその表情を見て、何かに気づいたように目を見開いた。

「サラ、魔力はまだ残ってるのか?」

 ミーファがはっとした表情でサラを見る。少女は何も答えない。今更止めるべきなのか分からず、二人は沈黙した。

 風の音と、サラの小さな声だけが辺りに響く。痛みが少しずつ引いていくのを、ラークは感じていた。

(仮に死なないとしても)

 ラークは今更ながら気づいた。

(どんな大怪我をするかは分からないか)

 今回はサラが治せる程度の火傷で済んだから良かったが、直撃していたらどうなっていたか。左腕は二度と使い物にならなくなっていたかもしれない。片腕で冒険者をするだなんて、ほとんど不可能に近い。

 もしかすると、あの酒場に居た自分は、そんな冒険者の成れの果てなのかもしれない。そう考えると、ぞっとした。

 呪文の詠唱が、突然止まった。終わったのか、と思って目を向けると、サラの体がふらりと揺れるのが見えた。倒れ込んでくる少女の華奢きゃしゃな体を、ラークは慌てて片手で抱きとめた。

「ごめん。もう、無理」

「いや、十分だ、ありがとう。サラは大丈夫か?」

 少女はこくこくと頷く。限界を超えて魔力を使いすぎたのかと一瞬焦ったが、そういうわけでは無いようだ。ラークはほっと息を吐いた。

「助けてくれてありがとうございます、ラークさん。サラちゃんも」

 涙の溜まった目を二人に向け、ミーファは深く頭を下げた。

「ごめんなさい、私が転んだりしたから……」

「いや。これで夢の問題も解決しただろ?」

 口の端を上げながら、ラークは言った。訝しげに眉を寄せていたミーファだったが、やがて意味が分かったのか、ぽかんと口を開けた。

 ラークは左腕を曲げたり伸ばしたりしてみた。まだ痛みはあったが、動き自体に問題は無いようだった。火傷あとは少し残ってしまったが、そんなことを気にするような性格たちでもない。

「次の橋の先までは行ってしまおう。まだワイバーンが近くに居るかもしれない」

 そう言って、ラークはサラを抱き上げた。少女は抵抗することもなく、素直に腕の中に納まっている。

「橋を渡ったら、サラが歩けるようになるまで休んでから出発しよう。もう少しで目的地だ」

「はいっ」

 ラークの言葉に、ミーファは元気よく返事した。


 日が沈む少し前に、ラークたちは最後の橋に辿り着いた。橋の坂を登っていくと、大きな鉄の門と、それに繋がる柵が行く手を阻んでいた。門も柵も、基部が橋に突き刺さっている。橋自体が透明だから、それらは宙に浮いているようにも見えた。

 門に近づくと、門番らしき男が驚いた表情で近づいてきた。ラークは何事かと身構えてしまった。

「君たち、ワイバーンを倒してきたのか?」

「……いや、追い払っただけだ」

「そうか……」

 門番は残念そうに肩を落とした。ラークは言葉を続ける。

「翼に大きな傷を付けた。しばらくはまともに飛べないはずだ」

「そうか、それだけでも朗報だ。もう一度討伐隊を募ってみよう。今度は集まるかもしれない」

 若干ほっとしたように言われ、ラークは訝しげに眉を寄せた。

「冒険者が足りてないのか?」

「普段はもっと多いんだがね。今はたまたま少ないんだ」

「魔術師の人が、たくさん居るんじゃないんですか?」

「『学院』の魔術師のことかい? 彼らは戦闘なんてできないよ。魔法について研究するのが仕事だからね」

 ミーファの質問に、門番は苦笑して答えた。そういうものか、と納得しそうになったラークだが、ふとあることに気が付いた。

「いや、レインが滞在してるだろう。まさか、もう街を発ってしまったのか?」

「ああ、彼女にも頼んでみたんだが、どうも体調がすぐれないらしくてな。断られてしまった……おっと」

 門番は、何かに気づいたように身を引くと、笑顔で言った。

「引き留めてすまなかったな。我々は、あなたたちのような旅人を歓迎するよ。ようこそ、虹の橋の街ビヴロストへ」

 彼は手で門の奥を示した。ラークたちは、それに従って街の中へと入った。

 門から繋がる大通りには、ザイルと同じく左右にずらりと店が並んでいた。杖などの魔術師向けの品と、それから魔道具がやたらと多い。

 魔道灯のような例外を除けば、こんなに大量の魔道具を見ることなんて早々無い。店では、ラークの物よりももっと大きな荷物を背負った商人が、店先で仕入れの交渉をしていた。

 ビヴロストにこんなにも魔道具が集まる理由は、ここが『学院』をようする街だからというよりも、魔道具の産出が多い大陸中央部に比較的からだ。山越えをいとわなければ、中央部への最短経路がビヴロスト経由になる場所は、王都を始めとしてそこそこある。

 大陸を横断している主要交易路を使って中央部に行こうとすると、直線距離と比べて倍以上の遠回りが必要になる。西部と中央部の間には山岳地帯が多く、迂回しながら進まなければならないためだ。

 もちろん、馬車が必要な大きな荷物を運ぶなら、交易路を使うしかない。だが魔道具は大抵小さいし、先ほどの商人のように、徒歩での山越えルートを選ぶ者も少なくなかった。交易路を使うと、多くの国を通過するため余計に関税がかかるという事情もある。

「サラちゃん!」

 ふらふらと店に入りそうになるサラを、ミーファが何度も引き止めていた。魔力はともかく、体力はすっかり回復したらしい。

「先に宿を探そう、サラ」

 サラはラークの顔に目をやったあと、こくりと頷いた。隣に並び、素直についていく。ミーファがちょっとびっくりしたように、二人を交互に見つめていた。

 宿があるのはどの辺りだろう、とラークは周囲を見回しながら歩いていた。そうしているうちに、妙な違和感を覚えて眉を寄せる。先ほどから、何かが変だ。周りの人々の挙動がおかしい。

 こっそりと観察したあと、ようやくその違和感の正体が分かった。自分たちの方に視線を向けている人が、どうも多い。明らかに、見られている。

(……そうか)

 腕輪か、とラークはようやく気付いた。服が燃えてしまったせいで、いつも袖の中に隠している腕輪が露出している。この街の人々なら、これが魔道具だと、もっと言えば魔道具だと気づいてもおかしくない。

(布でも巻いておけば良かったな)

 そう考えたところで、不意に声をかけられた。

「見せびらかしてるの? それ」

 ラークは、足を止めて勢いよく振り返った。ちょうど、店から見知った冒険者が出てくるところだった。腰に手を当てたレインが、呆れているのと面白がっているのとのちょうど間ぐらいの表情で、こちらを見ている。

「何を聞きに来た」

 彼女の後ろから、黒い影がゆらりと現れた。魔術師だらけのこの街においても、シグルドは独特の存在感を放っていた。

「……全てだ。腕輪について知っていること、全て」

 幽鬼ゆうきのような彼の目を、ラークは真っ直ぐに見返した。シグルドは、身をひるがえして歩き出しながら言った。

「ついてこい」


 シグルドに連れられて、ラークたちは坂を上る方向、つまり橋の中央に向かって歩いていった。彼の姿を目にすると、魔術師たちはみな頭を下げて道を譲った。ザイルの冒険者たち以上の反応だ。

 その間、レインはずっとシグルドに話しかけていた。食べ物の話やら服の話やら、相変わらず他愛たわいない雑談だ。前に聞いた時より早口で、熱心に喋っているようにも見えた。

 体調が悪いんじゃなかったのか、とラークは訝しんだ。それとも、仮病だったんだろうか。単に魔物退治の仕事を受けるのが面倒だっただけで。

 やがて、店の並びが途切れ、道の左右には長い壁が続くばかりとなった。一続きになった壁の内側には、たくさんの建物が見える。何の施設だろうかと、ラークは不思議に思った。

「学院」

 ラークの心を読んだかのように、サラがぽつりと言った。道の先に、壁の中への入り口が見えてきた。

「初めて来た」

「へえー、そうなんだ?」

 不意に、レインが振り返って言った。

「近いんだから来ればいいのに。シグルドなんて、年中来い来いって言われてるんだよ。こんな大陸の西まで来れないって言ってるのに」

「ずっと、来たかった」

 サラは、熱っぽい視線を壁の奥に向けていた。

 入り口には見張りの兵士が立っていたが、シグルドの姿を見るとすぐに通してくれた。彼は、『学院』でも何らかの地位を持っているのだろう。

 いくつもの建物の横を抜け、最も奥に、つまり橋のはじにあるとりわけ大きな建物に、五人は入った。入り口の広間から伸びる廊下には、等間隔で扉が並んでいた。宿みたいだな、とラークは思った。

 階段を上り、三階の廊下をシグルドは進んだ。突き当りに、他よりも豪華な装飾が施された扉があった。近くに他の扉はない。

 中に入ると、そこにはまさにラークが想像していた通りの部屋だった。ベッドと小さな机、それから収納家具が置いてあるのが見える。

 ただし、これがもし本当に宿なら、泊まるためには金貨を相当な高さまで積まなければならないはずだ。一つの家かと思うほど、中は広い。複数の部屋に区切られていて、今いる場所はソファーとテーブルが置かれたリビング、左側の部屋はキッチン、ベッドがあるのは奥の部屋だ。他にもまだ部屋はありそうに見える。

「一人死んだか」

 ソファーに座ると、シグルドが何でもないことのように言った。ラークの顔が強張こわばる。

「何故あの時、夢のことを教えてくれなかったんだ」

「だから今すぐ腕を切れと言ったら、お前たちは従ったのか」

「……それは」

 ラークは言葉に詰まった。レインが面白そうに言う。

「今からでも切ってあげよっか?」

「もう遅いんだろ。腕輪を外しても、能力が無くなるわけじゃない」

「なーんだ、知ってるんだ」

 つまらなさそうに肩をすくめる相方を横目で見たあと、シグルドは補足するように言った。

「夢を見なくなることはない。だがこれ以上先に進むことは防げるかもしれない」

「まだこの先があるのか?」

「ある」

 彼は、きっぱりと断言した。瞳の奥の闇がより一層深まったように、ラークには見えた。

「詳しく教えてくれ、頼む。危険を避けるために、出来る限りの情報を集めておきたいんだ」

 頭を下げるラークを、シグルドは黙って見つめた。迷うように目を細める彼の横から、場違いなほど明るい声でレインが言った。

「いいんじゃない? 全部話せば。全部ね、全部」

「……お前が、そう言うのなら」

 シグルドは、ゆっくりと語り出した。

「順を追って話そう。まずその腕輪は、未来を見る能力を与えるものだ。未来は、や夢など、様々な形で現れる」

「見た出来事は、絶対に起こるのか?」

「そうだよ。間違うことなんて無い」

 ラークの疑問に、レインが横から答えた。シグルドが説明を続ける。

「最初は、次は夢。能力のの速さは、未来を見た数に寄って決まる」

 ラークは黙って頷いた。ここまでは、ザイルの街で魔道具技師に聞いた内容とほぼ同じだ。

「第三段階では、夢と同じような映像が、起きている間にも時々見えるようになる。も日常的に現れるようになる。それから……」

 わずかに躊躇ためらったあと、言葉を続ける。

「過去を保持するのが、難しくなる」

「過去を?」

「簡単に言えば、記憶を失っていくということだ。酷くなると、数日前の出来事すら思い出すのが難しくなる」

「……なるほど」

 それは、未来を見ることの代償なのだろうか。ラークは表情を暗くした。

「実際にそこまで行ったやつを知ってるのか?」

「何言ってんの」

 レインがけらけらと笑った。

「目の前に居るでしょ?」

 彼女は、左腕だけの長い袖をまくった。その下に自分たちと同じ黒い腕輪がはまっているのを見て、ラークは瞠目どうもくした。

「……それが、強さの秘密の一つだったのか」

「君たちも、慣れれば同じぐらいにはなれると思うよ? ま、慣れるまで生きていられたらだけど」

 笑いならレインが言う。それが本心からの笑みなのかどうか、ラークには判断が付かなかった。

「もしかして、シグルドさんも……?」

「俺は持っていない。俺たちが腕輪を手に入れた遺跡には、一つしか無かった」

 おずおずと尋ねるミーファに、シグルドは首を振った。彼はラークに目をやりながら言った。

「夢が見せる危機を回避する方法は分かっているか」

「ああ。さっき一つ潰してきたところだ」

「ならいい。今お前たちに忠告できるのは、未来視の能力をなるべく使わないようにしろということだけだ。第三段階に入ると、それもできなくなる」

「分かった」

 ラークはそう答えたあと、顔を伏せて考え込んだ。他に聞いておくべきことはなんだろうか。

「本当に未来は変えられないのか? 見えたのが自分なら、あえて従わないことも可能だろう?」

「無理無理。そうやって身構えてるとね、干渉できないことばっかり見えるようになるだけだよ」

 レインがひらひらと手を振る。恐らく、もう散々試したのだろう。

「……分かった。最後にもう一つだけ教えてくれ。腕輪を外せば、これ以上進行しなくなるかもしれないと言ったな。腕を切る以外に外す方法は無いのか?」

「無いと思った方がいい。それは単にお前の腕に嵌っているだけに見えるだろうが、実際は奥深くまで食い込んでいる。寄生されているようなものだ」

 シグルドが答えると、ミーファがびくりと体を震わせ、自分の腕に目をやった。彼は言葉を続ける。

「もし腕を切る選択をするなら、早い方がいい。破滅の可能性を幾分かは減らせるだろう」

「待った。俺は、夢の中で何十年も先の自分を見たんだ。それまでは生きてるってことだろ?」

「その時のお前は、正気を保っていたか?」

「……っ!」

 ラークは言葉を失った。夢の中で見た、うつろな瞳を思い出す。

「腕輪がもたらす破滅は、死ぬことだけじゃない。第三段階か、もしくは次の段階に入って発狂したやつを、俺は知っている」

「……次の段階では、何が起こるんだ」

「分からない。そこまで無事な人物にまだ会ったことがないからだ」

 と、シグルドは言った。

 しばし、沈黙が辺りを支配した。シグルドはラークたちの顔に目をやると、誰も話し出さないのを確認してからこう言った。

「俺は腕輪と、腕輪のある遺跡の調査を元に、根本的な解決方法を探っている。お前たちがどうするのかは勝手だが、まずはこの『学院』にある俺の調査結果を読め」

 立ち上がり、自分の足元を指さす。

「その間は、この部屋に滞在すればいい。学院長には話を通してある」

「じゃ、そっちはそっちで頑張ってねー。あたしたちは、明日には帰るから」

 遅れて腰を上げたレインと共に、シグルドは部屋の入り口へと向かう。外に出る直前に、彼はこの先しばらく滞在する予定だという大陸中央部の街の名前を告げた。それは、スコットが拠点にしている街と同じだった。

「もう一つ。腕輪の話を冒険者に広めているやつがいる。素性も目的も全く不明だ。何か情報を掴んだら教えろ」

「アシュレイが……死んだ冒険者が、誰かに腕輪のことを聞いたと言っていた。だが誰かは分からない」

「そうか」

 短く応じて、彼らは去って行った。

 ぱたん、という扉が閉まる音。ラークは緊張が解けたように、深く息を吐いた。

 ソファーに深く腰掛け直し、背中を預ける。得た情報が多すぎて、処理しきれない。まずは、どこから考え始めるべきか。

 不意に、ラークの手に別の手が重ねられた。視線を向けると、じっとこちらを見つめるサラと目が合った。少女は、こくりと頷いた。

「ん」

「……そうだな。皆で協力すればいい考えも浮かぶだろう。必ず三人で生き残ろう」

 柔らかい笑みを浮かべてそう返す。サラもほんの少しだけ口元を緩めた、ようにラークには見えた。

「ラークさん、いつの間にサラちゃんとそんなに仲良くなったんですか?」

「……まあ、色々とな」

 何故かショックを受けたような顔をしているミーファに、ラークは曖昧に返す。

 今回上手くいったのは、ほとんどサラのおかげだと思っている。ミーファが夢のことで悩んでいたのにも気づいてやれなかったし、リーダーとして情けない。

 腕輪という大きな問題も抱えてしまった。これからは自分がちゃんとパーティを守っていかなければならない。もちろん、皆の助けを借りながら。

 出し抜けに、すずやかな鐘の音が辺りに響いた。それは一つで終わらず、連続して鳴らされる様々な音色が、一つの旋律を成していた。遠くから聞こえてくるのではなく、まるですぐ近くで鳴っているかのようだった。

「綺麗……」

 ミーファがうっとりとした表情で呟いた。サラは何事か発言しようとして、はっと動きを止め、それから結局こう言った。

「お風呂の時間」

「え?」

「お湯が出る時間」

「……サラちゃん、よくそんなこと知ってるね」

「有名だから」

 サラはすっくと立ちあがると、ミーファの腕をぐいぐいと引っ張った。

「え、こっち?」

 サラは、寝室の奥にある扉の方に歩いていった。まさか部屋に個別に風呂が付いてるのか、とラークは驚いた。

「わっ、すごい!」

「うん」

 扉を開けて中に入った二人は、感嘆の声をあげた。すぐに、水が激しく流れ出す音が聞こえ、湯気まで立ち上ってくるのが外からでも見えた。もしかすると、魔道具でも使っているのかもしれない。

「ちょ、ちょっとサラちゃん! 扉閉めてから脱いで!」

 ミーファの慌てた声が聞こえてくる。ラークは気まずそうに首筋をいた。外に出ておくか、それともせめて離れた部屋に移動するか。

 どうすべきか迷っていると、まだ開けっ放しの扉のかげから、サラの顔がひょっこりと飛び出した。服を着ているのかどうか、ラークの位置からは分からない。

「見たい?」

 その質問に、ラークは何も言えずに固まってしまった。

「どっちを?」

 答えが無いのを――もしくは沈黙と動揺という答えを――確認してから、サラは追加でそう尋ねた。ついでに少女がくすりと笑ったような気がしたのだが、ミーファによってすぐに扉の向こうに引っ張り込まれていったため、はっきりとはしなかった。

 ラークは頭を冷やすため、部屋の外に出ることを選んだ。

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