ぽんず
ジョセフ武園
湯豆腐鍋
ハナは下唇を血が滲む程に噛みしめた。
今しがた、隣に居る上司に「昼飯はどうするんだ」と尋ねられたので「昼はマックにでもしますか? 」と言ったら「君は、大馬鹿か? 京にまで来て、なしてマックで腹を満たせねばならん? 君ら最近の若い人間は、特にそうだ。飯。と言うものに対しての敬意と興味が無さすぎる。いいか? 飯。と言うものは、人間にとって睡眠と並ぶほど大切な生理反応なんだ。それも解らずに、あんな、油と塩をぶちまけまくったケチャップだらけで何時の肉か解らん冷凍ハンバーグと、添加物に塗れたパンに挟んだ物なんぞ、人生の喩え一欠であったとしても、俺は食いたくない」と、嵐の様に捲し立てられたからだ。
「……じゃあ、オキタさんは、一体何が食べたいんですか‼ 」
ハナは、中流家庭に生まれ育ち、平凡な容姿を持ち、平凡な近所の大学に合格し三年前に平凡な中小企業の会社に就職した。
決して希望の就職先では無かったが、それでも内定が貰えたのは現在の会社だけだった。
身一つだけで、ハナは上京した。その胸は希望と期待で満ち満ちていた。明日からこの会社でバリバリ働くんやと。だが、ハナはおっちょこちょいであり、入社直後からいろいろとしでかした。
部長のコンドウは、皺だらけの眉間を一層皺だらけにし、困った時は先輩を頼りなさい。と助言した。
仕事が出来る部署に、出来ない女が一人。委縮して頼る事等出来る筈もない。そこに、年中不倫上司、ヒジカタが要らん事を提案した。
ハナは当初、うちはいらん子なんですか? もうここには居れんのですか? とヒジカタの提案に動揺した。ヒジカタはそこの課の上司は、とても丁寧でしっかりと君に仕事を教えてくれるから。この課は皆忙しくて君に構ってあげられなかったから。君はちゃんと学べば出来る子だから――と、ハナを言い包めた。
いや、オキタは丁寧と言うより、変人なのだとハナは初日に思い知らされた。仕事のやり方を尋ねた時は、訊いてもいない範囲までねっとりと教えられ、午前の業務が終わった。
確かに、業務中に色恋話や、趣味話に華を咲かせる人間よりはよいかもしれない。だが、高々エクセルデータの保存場所を尋ねただけで、三時間パソコン操作の話をして来る拘りは異常だ。異動後、三時間でハナは退社したくなっていた。
オキタはんには、常識っていうものがないんやろか?
思わず、地元の京都弁が口を突いて出た。
そんな、ある日の終業時間、相変わらず時間ぴったしにオキタはいそいそと荷物をまとめだした。なに、もう見慣れたものだ。それを、横目で見ると小さく「お疲れはんでした」とハナは呟いた。それがまずかったらしい。
「京都弁……だ……と? ハナ君……君は……まさか……京都出身なのか? 」
やば。と思った時には、すでに手遅れである。がっちらオキタのスイッチを奥まで押し込んだらしい。キラキラと光る眼でこちらに詰め寄ってくる。思わずハナも立ち上がって距離をとった。
「え……ええ。実家は
その言葉に、オキタは四十過ぎとは思えぬ幼い顔立ちを更に幼くして、ものすごい勢いでハナに駆け寄ると、そのままハナの両肩を鷲掴みにした。
「やんっ‼ 」反射的にハナは反応する。
「うぐぉお‼ 」次の瞬間、オキタが野太い悲鳴を挙げた。ハナの細く決して長くはない右足が、オキタの股間に深々と突き刺さったのだ。
「がはぁっ‼ 」両手を股間に押し当て、唾液を撒き散らしながら蹲るオキタに対して、ハナは残心を取った。ここまで見事な一式である。彼女は幼い頃に祖父母に古武術を学んでいたのだ。それは『護身』などと生易しいものではない。やろうと思えば何時でも殺れる。正に『武道』そんな教えの元に放たれた前蹴りだ。
必然。
そうして導かれた結果は。
汚ったねぇスクランブルエッグの出来上がりという訳だ。
「い、いきなり、女性の肩を掴むなんて……‼ オキタさん、これはセクハラです! 」
ぷりぷりと怒るハナに、オキタも謝ろうとするが、下腹部から激痛と吐き気が脳天に駆け巡って、暫く動けそうになかった。ハナはぷりぷりぷんぷんになって、そのまま帰ってしまった。
「ハナ君、実は来週の出張に君も付いて来てほしい」
オキタがそんな事を言いだしたのは、その翌日の事である。
まだ昨日のハナの一撃で下半身の痺れが残っているらしく、車椅子で出社してきたが、その事に誰も声を掛ける者は居なかった。
「出張ですか? ご遠慮します」
間髪入れずの返答だった。
「何故だ」
オキタは詰め寄ろうとしたが、車椅子の使用に慣れていないらしく、まるで己の尾を追う柴犬の様に、くるんと右に一回転した。
「だって、
信じられない様な、真実である。
これ、ハナは労働基準法とか知らない世間知らずな小娘だから、あれだけど。結構ヤバい事である。
「それに、今度の企画って『新鮮な京野菜を使ったコンビニ弁当』って、やつですよね? そもそも、地元に帰るのに、仕事で。ってのも、何か嫌ですし……」
「わかった。じゃあ費用は俺が全て肩代わりしよう」
思わず、ハナはギョッと驚いた。
「な、なんで、うちをそんなに、連れて行きたいんですか?
……ま……まさか、オキタさん……うちの事……」
その続きが流石のオキタも予想出来たので、右手を前に出して、手首がもげるのではないかというくらい、大げさに振るった。
「違う違う違う違う違う」
少し、間をおいて、オキタは続けた。
「実は、前前から京都の、割烹料理亭に、赴きたかったんだ。だが、京の町は、複雑で一見の者だと迷うと聞いてね。特に俺はそういうのが苦手なんだ」
ハナは、迷った。
確かに、京の町。それの行きたい場所。に行くにはガイドが居た方が容易である。ハナもきっと、頼まれた相手がオキタでなければ、快諾していたであろう。
オキタさん、セクハラ疑惑もあるしなぁ。
無論。何かされたとして、ハナの実力を以てすれば、オキタを瞬殺する事等他愛無い。それこそ、朝食でスクランブルエッグを作る為に卵を割る様に。さも当たり前の様に。
「ちなみに、どこえ行きたいんですか? 」
「へぇ。『わなびの里』というところどすぅ」
ハナはカチンときた。
京都弁程、男女で印象の
男に使われると、もう。バカにされているとしか思えない。
残してあげたもう一個も潰してしまおうか。
そう、ハナは全男の子が、身の毛もよだつ恐ろしい事を考慮していた。が、よくよく話の内容を思い出すと、思わず、声が躍った。
「『わなびの里』⁉ あの『わなびの里』ですか⁉ 」
『わなびの里』それは、江戸時代から続く、京都料亭の超名門中の名門。政治家。タレント。プロスポーツ選手といった著名人が訪れない日が無いという程の有名店である。中には、ここで料理を食べた事により、結婚が決まった者。内閣総理大臣に当選した者。打率四割を達成した者が居るという言い伝えすら有る程だ。因みに、二〇一七年現在、日本プロ野球で打率四割を達成した記録はどこにも無い。
「『わなびの里』って、本当に知ってはるんですか⁉ あすこ、予約も五ヶ月待ちとかざら……」
その言葉を黙らせる様に、オキタは澄ました顔を横にゆっくりと何度も振る。
ハナは、カチンときた。
「全く、君は本当に人の話を聞かないな。いいかい? 出張なんて、何カ月も前から計画するものだ。そして、敢えて言うと。この出張は、俺が『わなびの里』の予約が取れた時点で計画したに決まっているだろう」
この方は、本当に仕事をなんやと思うてはるんやろ?
ハナは、思わず口を突いて出そうなそれを、両手で塞いだ。
「なぁ、頼むよ。ここだけの話だが。俺は実は
何が、実は。なのだろうか。美食家? ただ、本か何かで得た知識を、自慢げそうにベラベラと述べ続けるだけじゃないか。しかも、店の場所が解らないなら、誰かにガイドを……
その思想の途中で、ハナは在る推測を立て、その瞬間、恐怖で震え、再度、口を両手で抑えた。
何と、不憫で残酷な現実であろうか。
同時に、それはハナの心に、何かを宿した。同情心。母性。或るいは人としての心か。
「わかりましたよ……一緒に行きます……ただし、オゴリはいいです。悪いんで」
そのハナの言葉に、オキタは鼻水を吹き出しそうな程の笑顔を浮かべた。
そうして、物語の舞台は、冒頭にようやっと追いついたのだ。
「オキタさん」
「何だね? ハナ君」
言いながら、オキタは「ずずー」と蕎麦を啜る。
「いえ…………まぁ……いいです……」
結局、夕飯に『わなびの里』が用意されている為、
「ふむ、やはり京都。この蕎麦も極上の出汁が使われている……俺には
ぶつぶつと、
「チェーン店やないの……」
二人が入った店は、結局一番空いていた『丸亀そば』だった。
そんなこんなで。
いよいよ、楽しみに。待ちに待った夕食時がやってきた。
「うわぁ……」
店の入り口から、思わずハナの感嘆の溜息が漏れた。先の溜息とは、全く意味合いも度合いも違うものだ。
「何をしょうるん‼ ほら‼ ハナ君‼ はしゃいどらんで、早う行くよ⁉ 」
急に、主導者ぶるオキタに正直、ムカッときた。でも、ハナはこんな場所で怒るなんて、勿体ない。とすら思った。それ程までに、美しい庭園だったのだ。
「素敵」思わず、そう呟いてしまう。こんな所で、食べれる料理は何だろう? 京都の料亭だから、和食だろう。お刺身? お肉だと、何だろうか? すき焼き? しゃぶしゃぶ?
ハナの頭の中が、美味しそうなお花畑で包まれていく。
その、幻想がぶち壊されたのは、間もなくの事だった。
どでかい鍋が、ハナの目の前で、ぐっつらぐっつら音を
「なんですの? これ」思わず、対面のオキタにハナは尋ねた。
さすれば、オキタは、ふんと。鼻息を立てて笑った。
「なんた、ハナ君は知らんのか? これは、湯豆腐。だ」
知ってる。
ハナは、そうではない。と視線を送った。
「あの……」
「どうした? まさか。豆腐が嫌いなのか? ハナ君は」
いや。
まさかとは思うが。
「……お豆腐……だけ……なんですか……? 」
その言葉を待っていたかのように、オキタは満面の笑みで「ドン」っとハナの前にどんぶり飯を置いた。
「飯もあるぞ。たっぷりとな……」
何を、いい顔をしているのか。まるで、白銀の様に艶やかに光る銀シャリが、丼の上から大きくアーチを掛けている。これを、女性であるハナに食わせるのか。いや、それはまだいい。
「お豆腐だけなんですか? 」今度は間を要さず、ハナは尋ねた。
「だから、飯がたらふく在ると言っているだろう? 」ニカっと、オキタは純白の歯を輝かせた。
「お肉は? お野菜は? お刺身は? 」もう、なりふり等構っていれない。
ハナのその言葉を聞いて、オキタはポカンと口を開けていた。少しして。
「あっはっははっは」と、天を仰いで大笑いを始めた。今度は、ハナがポカンと開口していた。
「ハナ君、いいか? 湯豆腐と言うのはな? これは、
そこまで言うと、オキタは、ふんっーと、鼻息を鳴らし、首を横に振る。
どうやら、ハナの抗議は無駄な様だ。
ぐーっと、ハナの小さなお腹が悲しい音を鳴らした。仕方ないので、お玉で豆腐を救って一口食べてみる。
「…………うん…………おいしい………」けど。と、その言葉は続く。
確かに、鼻孔を
だが。
「ご飯のおかずにはならへんわぁ……」ハナは、まだ二十そこそこの若者なのだ。お腹が空いている時は、尚更身体が濃い味を求める。これは、湯豆腐が悪い訳じゃない。オキタの『湯豆腐と飯』という選択が悪い。圧倒的に悪い。
ちら。とオキタの方を見ると「ぷしゅぽん」っと嬉しそうに瓶ビールの栓を開ける姿が見えた。自分は湯豆腐を肴に一杯やるつもりらしい。
ハナは、諦めた。そもそも『わらびの里』という事で、期待に胸が膨らんでいた自分を情けなく思った。連れて来てくれた相手は、『あの』オキタじゃないか。どうして、自分は付いて来てしまったんだろう。これは、その戒めだ。ハナは、湯豆腐で飯を食う事を決めた。
まだ二口目なのに、もう脳がその淡泊で薄い味に対し、対策を伝えてくる。
「ぽんず」
思わず口を突いて出た言葉だった、ハナの脳が直接指示を出したのだ。この薄い味付けでは、白米は食えない。せめて、味変を――と。
その言葉に、反応したオキタは、呆れた様な口調で語り掛けてきた。
「ぽんず?
「…………」
ハナは、反論もしなかった。もう何もかもが面倒だった。
泣いたらあかん。
だが、ぽたぽたと、豆腐を入れたお椀に、ハナの涙が何粒か落ちた。
心底来なければよかった。二度とオキタの頼みなど聴くものか。ハナに、強い決意が芽生えた瞬間だったろう。
何も付けずに豆腐と飯を食べるハナを見て、オキタもまた、心底から嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
豆腐二丁に、白米一合。ハナの夕食の全献立である。
脳の緊急指令を無視して豆腐を口に運んだ結果、ものすごい勢いでハナの脳は満腹中枢を揺さぶったのだ。ハナは、もう何も食べたくなくなっていた。今は、ただホテルに帰りたい。帰って朝まで、ひたすら眠りたい。
「オキタさん、そろそろおいとま……」
その時だった。
「お待ちどうさんどす~」
給仕の女性がいそいそと、何人も部屋に入ってきて、テーブルの前を片付け、そして、新たな鍋を用意立てている。
ハナは困惑した。
「オキタさん? これは一体? 」
だが、オキタからその返答は無い。代わりに、オキタは給仕から何かを受け取ってそれを眺めていた。
「ほう……中々にいい色艶。
見事だ。女将。流石は『わなびの里』と言った所か」
「へぇ、うちは女将じゃないんどすが、このお肉は、丹波牛の
その言葉通り、オキタの手にある皿には、見た目からまるで桜の花びらの様な色合いの肉が所狭しと並んである。
「しゃぶしゃぶのやり方ですが……」
「止せ‼ 俺の肉に触れるな‼ 俺が全てしゃぶしゃぶする! 」
しゃぶしゃぶのしゃぶり方を教えようとしてくれた給仕から、肉を奪い取るとオキタは高らかに宣言した。
「それと、女将‼ タレ系が何も無いではないか⁉ 何をしている‼ 早く持って来い‼ まさか、この肉に何も付けずに食えと言うか⁉ 」
たじろぎながらも、給仕は流石のプロである。すぐに、体勢を整えると。
「へぇ、タレはなんにしますか? おススメは胡麻……」と、穏やかにオキタに尋ねた。
「バカもん‼ しゃぶしゃぶには、ポン酢だと、幼少期から俺は決めておろうが‼ 」
畏まりました。ポン酢で御座いますね。の二度目の『ま』の所で、思わずハナは叫んだ。
「嘘ッッ‼ さっき、私がポン酢って言った時はボロクソに言ったのに‼
じ、自分が……てゆうか、お肉ッッ‼ お肉ッッ⁉ 」
ハナの言わんとしたい事は痛い程、
しかし、そんなハナを哀れむ様に見た後、オキタは微笑った。
「ははは、君は本当に
ちっちっちと、舌を鳴らしながらオキタは示指をすっすと、揺らした。
「思い……違い……? 」
思わず、反射的にハナは口走っていた。何事かと、給仕は物事の行く末を見守っている。
「そう。君がポン酢を欲しがった時に話したポン酢の話は、飽く迄『市販のポン酢』に話なのさ。いいかい? ここは京……いや日本が誇る割烹料亭『わなびの里』のポン酢……これ即ち……それすらも……一級品ッッ‼ 新鮮な国産柑橘の果汁と、香り高い、中国四川の黒酢。そして、主味には、ずばり国産昆布出汁……ッッ‼ 市販とは違うのだよ‼ 市販とは……ッッ‼ 」
「へぇ……うちは、ミツカンさんの『味ぽん』を使わせてもろうてます」
「………………」
「………………」
テーブルに「ゴトン」と、味ぽんが置かれた。
「ほな、どうぞ、ごゆっくり~」給仕がその場を後にする。
廊下から小さく「嫌やわ~あのお客はん、感じ悪いわ~」と聞こえてきた。
「さぁて、では『わなびの里』名物、京出汁のしゃぶしゃぶby丹波牛を頂くとするかな~~ん~~~? どうしたぁ?食わんのかぁ? ハナくぅん? 見ろよこのサシ。色。艶。そして、君が求めていた『味ぽん』だぞ~~? ん~~? そうかそうか。湯豆腐でどんぶり飯なんか食うから、おなか一杯になっちゃったんだね~~? じゃあ~しょうがないね~」
ハナは、震えていた。何か、自分の中で何かを叫んでいるモノが居る。
「しゃぶ、しゃぶっ。しゃぶ、しゃぶっ」
口で、そう言いながら、はしゃぐ様にオキタは、肉を出汁の中でしゃぶしゃぶ始める。
――殺したら、あかん。
ハナが、本気になれば、それはいとも簡単に遂行される事だろう。
だからこそ。
「がちゃん」
ハナは、先に、オキタが湯豆腐で一杯やった際に空いた空き瓶を手に取った。
ハナにとって武器を使う事。喩え、それが一般には凶器と言われる物であっても。それは、ハナにとっては『手心』である。
ハナにとって、素手で相手を
「しゃぶ、しゃぶっ。しゃぶ、しゃぶっ。うふっ。ピンクになってきたぁ~」
相変わらず、はしゃぎまわるオキタの背後に、ハナの黒い影がゆっくりと近づいていったのだった。
ぽんず ジョセフ武園 @joseph-takezono
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