記者マルグリット(5)

 体感としては本当に一瞬だったと思う。

 その一瞬で、私の見ている景色は、さっきまでの鈍色の空間から広大で端が見えないような、あり得ないくらい広い大海原にポツンと存在している島の中の一つの建物に変わっていた。


「これが……あの『孤児院』………」


 正直、スケールが違いすぎる。

 こんなの、もう私なんかの小物記者がどうこう出来るようなものではないと、今改めて分かった。


『………誰かと思えば』


 そんな低く威圧感を伴う声が脳裏に響いた時、私は地面の揺れとかとは関係なく、腰を抜かしてへたり込んでいた。


『おぬしか、小僧……』

「あぁ、アグリ。通ってもいいよな?」

あるじからの許可はある。好きにするがよい……』


 ちょっと、意識が現実に追いつかないかも……。


 私達に話しかけてきたのは、建物の扉の前に横たわる白くて巨大な狼のような存在だった。

 瞳は真っ赤で見た事も聞いた事も無いようなソレは、直接頭の中に入って来るような会話を行い、片目で私達の姿を見ていた。


 魔物……なんだろうな………。


 最早、外での常識がどれだけ通じるか分からないけど、会話が出来る程の魔物ともなれば、相当の年月を生きた高位の存在である事は間違いない。


 動物が進化したんです。とか言われても、ここなら可笑しくはないんだろうけど……。


『中にはラグリがおる……。あまり騒ぎ立てると喰われるぞ……』

「うへぇっ……。マジか……」

『気を付けるのじゃな……』


 そう言ったっきり眠りについたアグリさんとは対照的に、バススさんは苦々しい表情で頭を掻きながらこちらに振り返った。


「あー。なんだ……。まぁ、静かにしてれば大丈夫だ」


 それは、誰に対して言ってるんですか……?


 私のそんな疑問は口から出てくる事なく、「かひゅ、かひゅ」と言う空気が掠れる音だけが口から出てきた。


 あれ……?


「まぁ、そうなるわな。すまん、イザベラ。嬢ちゃんの背中をさすってやってくれ」

「はい」


 その会話の後、近寄ってきたイザベラさんが背中を優しく撫でてくれた事で、私は漸く静かに息を吸う事が出来るようになった。


「なん、なんです……か?」


 多分、私が陥っていた症状っていうのは、一種の防衛本能とか生存本能とかが危機的状況を察知して、勝手に体の様々な機能を停止させた結果なのだろう。


「アグリの存在に当てられたんだろ。一応、コイツらの元の種族は分類的に『天災種』だって話だからな」

「天災、種……?」

「見えないか? 『飢餓狼アングリー・ウルフ』って種族らしいぞ?」


 『飢餓狼アングリー・ウルフ』!!?


 特級の中でも、人類に危機が迫ると言われている『魔王種』の次に危険な『天災種』の魔物じゃない!!

 しかも、見た感じ幼体で一生を終える事が多い種族の中でも、極めて珍しい成体に見えるんだけど。

 しかも、話の流れ的に同種族がもう一体いる……?


 あはは……。


「すごいん……ですね……」

「みたいなんだよなぁー」


 私の諦めきったような声にバススさんは呑気な返しをしてきた。


「まぁ、俺がここに来た頃からいるし。俺達としては、そういうもんなんだって、納得するしかないんだがな……」


 そう……なのかもしれないけど………。

 ちょっと、これは予想外過ぎるというか……。

 居ても、娼館の所の様な門番的な人がいるのかと……。

 あっ、でも、この人……ならぬ魔物のアグリさん達が門番になってるのか……。


 ははっ、これは凄い。絶対に入れないじゃん。


 イザベラさんに優しく背中を撫でさすって貰いながら、私は目の前のアグリと呼ばれていた強大な魔物を眺めながら考える。


 そうじゃなくても、ここ最近で『勇者』が出て来た何て話は聞かないし、バススさんの言葉を思い返してみると、恐らくこの屋敷には目の前の存在と同等、もしくわそれ以上の人か魔物がいるみたいなんだよね。

 それに、バススさんを前にして欠けらも気にした様子のないその雄大さは、多分バススさんが気にかかる程の存在ではないからなのかもしれない……。


 私は、『屋敷』の中に入る前にこの事が分かって心底良かったと思った。

 それと同時に、長年この『屋敷』が決して犯されなかった理由も分かった気がする。


 それは、実際に来てみたら何て事は無い。何処の国であろうと組織であろうと、ここの人達を下に付ける事はおろか、対等に接する事が出来ないからなんだろう。

 只でさえ、多種多様な『英雄』を輩出し、大陸や国々、果ては種の危機を救い、それだけではなく、大陸の文化水準すらも上げて来た、この偉大かつ雄大な『屋敷』は、他の王侯貴族にとっては聖域にも等しいものになってしまってるんだと思う。


 ゆっくりと息を吐きながら立ち上がった私は、イザベラさんにお礼を言いながら、バススさんに目配せをした。


「お、もういいのか?」

「はい。もう、驚き過ぎていっそ清々しい気分です」

「あははっ。まぁ、こんなもんは序の口なんだがな」


 そうなんだろう。

 ここには私が知らない事が沢山ある。

 というより、最早別の世界だと思った方が心の安定的には良いのかもしれない。

 だって、もしここの人達がその気になれば、外の世界なんてあっという間に飲み込まれてしまう。


 私の顔色から何を考えているのか悟ったのか、バススさんが笑いながら話しかけて来た。


「『外』が気がかりか? まぁ、そうだろうな。『師父シーフ』がそう考えたら、一週間もいらねぇよ。だからまぁ、気にするだけ無駄だな」


 私の心配を吹き飛ばそうとしてるのか、バススさんは大声で笑いながらそう言ってくれるが、それってつまり、『師父しふ』の考え一つで世界が変わってしまうって事だから、なんの慰めにもなってないと思うのは間違いなんだろうか……。


「大丈夫よ。『師父お義父さん』はその様な事をなさる人では無いと思うもの」


 私の腰に手を回して支えてくれているイザベラさんが、耳元で囁く様にして励ましてくれる。


「そう、ですね……」


 フラフラと玄関の方に歩きながら、私は絞り出す様にして答えた。


 二人の言う通り、今更と言う感じもあるし……。


 ガラガラと濁ったガラス戸の様な扉を横に開いたバススさんの後ろ姿を眺めながら、私もそう思う事にした。


「ようこそ、『叢雲の屋敷』へ」


 中から聞こえて来た、耳障りの良い美しい言葉に顔を向けてみると、そこにはつい先日、目の前で級魔法を使っていた美しい金髪の女性が、両膝を揃えて私達を出迎えてくれていた。


 あぁ……そっか……。


 今思うと、試されていたのかもしれない。

 そう考えてしまった後、私はどんな風に笑顔を作れていただろうか。


 もう既に、この『屋敷』の凄さは分かっていると言うのに、一体何処まで思い知らされるんだろうか……。


 ゆっくりと『屋敷』の敷居を跨いだ私は、目の前で微笑む女性を見ながら、ぼんやりとそんな事を考えていた。

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