十一話『相変わらず、愛も変わらず』

「吉海、ごめん!」


 部屋に入ってきたかと思えば、開口一番、深々と謝罪する姉。まだ乾ききっていない髪がバサリと揺れた。弟の性転換の原因が薬にある線を否定した矢先、本当はそれが可能性として挙げられることが分かったのだから、こういう行動に出るのは当然か。とはいえ、言い訳を差し置いて潔く頭を下げるところは昔からの姉らしさ。


「……ん」


 反省の気持ちを受け取った僕は、小さく頷く。

 別に怒っているわけではない。あの薬が原因というのは、あくまで可能性の話であって、確証があるわけではないのだ。薬も、薬に添えられていたらしい手紙も、母から送られてきたものでないという事実が分かっただけなので、現状、差出人の正体は皆目検討もついていない。それに姉だって、悪気があったわけではないのだ。姉も騙された側であって、あくまで被害者なのだ。僕の性転換はいわば、二次被害のようなもの。高熱で僕が寝込んでいたのを知っていたのは、そのとき姉と母だけだったはずなので、家に送りつけられた熱に効くという薬を母からのものだと思い込んでしまうのも致し方ない。

 それを考慮した上で、僕は苦笑いを浮かべ、


「……吉海、いっ?」


 おそるおそる顔を上げた姉に一回、デコピンをした。

 それから腕を組み、説教を始める。


「姉ちゃんはまったく、昔から騙されやすいよね。おかげで、そのせいで弟が妹になっちゃったかもしれないんだよ? ちゃんと反省して」

「……はい」

「そのくせ、おふざけで嫌がる弟いじめてさ。反省したなら、これから一切、ああいうのは無し」

「…………」

「いい?」

「……あ、あれは思い出作りとして」

「返事は?」

「…………はい」


 心底残念そうに肩を落とす姉。

 強気で叱ろうかと思っていたが、その姿があまりにも可哀想だったので、今日の思い出を焼き捨てるのは止してあげよう。僕は寛大なのです。


「これ以上心配させるのもあれだし、母さんには黙っとこう。それに、まだあの薬が原因って決まったわけじゃないし」

「あの、吉海」

「ん、何?」

「いちおう、これがその薬と一緒にあった手紙なんだけど……」


 姉がおずおずと差し出してきた手紙を見ると、熱ならこれを飲ませてという主旨の内容の文章と、最後に『母より』との宛名が書いてあった。ただし、文字は案の定、パソコンで打ち出されたものだった。


「やっぱりか……」

「……ごめんなさい」


 あまりにも予想が的中しすぎて、目眩からベッドに倒れこむ僕。姉が蚊の泣くような声で、心から申し訳なさそうに謝ってきた。


「…………」


 手紙を掲げ、部屋の光に透かしてみる。言うまでもなく、そんな事をしたところで何かに気づけるわけでもない。文章からも違和感や不自然さは読み取れず、字は活字なので筆跡で人物特定などもできない。事態が進展したようで、手がかり一つ掴み取れてないのだ。唯一、分かったことも、高熱の際に飲んだ薬が性転換の原因なのではないかということだけ。

 これでは手がかりとしてあまりにも不十分だ。進展なしに等しい。

 一刻も早く、男に戻りたい。優月さんのこともある。優月さんのためにも、僕は一秒でも早くもとの性別に戻らなくてはならない。なのに原因が不確かならば、戻り方もとうてい分からないというものだ。


「……明日になったら、戻ってたりしないかな」


 悪い夢であって欲しい。今日一日の出来事はすべて夢に過ぎなくて、覚めれば僕は男のままで、いつもの日常を送れたりしないだろうか。それなら、優月さんとだって……。そう願って頬をつねってみても、長い髪は短くならないし、声は高いままだし、体が元に戻ることもなかった。

 ただ、痛いだけだった。

 いまさら、涙がこぼれる。それは僕の頬を伝い、ベッドにおちそうになったところを、姉の持つティッシュに拭われた。


「……吉海」


 お風呂ではふざけていたくせに、今はすっかりしおらしくなっている姉が、僕の顔を覗き込む。その瞳は僕を心配そうに見つめていて、唇はなにか言いたげに、でも掛ける言葉が見つからないがごとく震えていた。しかし僕が目を合わせると、姉らしくしようとでも思ったのか、無理やり微笑んだ。


「……姉ちゃん」

「きっ、吉海……?」


 まさかとも思わなかったのか、姉は少し戸惑ったような声を出す。

 僕は、姉に抱きついていた。情けないが、思わず。ふと。


「……、っ……」

「吉海、泣いてるの?」

「…………」

「…………そっか」


 姉の肩に顔を伏せ、表情は悟られないようにしていたのだが、僕が微かに震えていることに、姉はすぐ気づいたようだった。そして姉も僕を抱き、頭を優しく撫でてくる。それはまるで、泣いていいよ、と言葉無しに促しているようだった。


「……うっ、く」


 嗚咽が出る。

 この身体は、いったいどこまで素直なのか。嗚咽に加え、目から涙があふれてくる。いくら自制しようと心では思っていても、喉は勝手に鳴り、目は必要以上に潤む。抑えが利かない。

 僕は泣いていた。

 姉の、腕の中で。


「……いいんだよ、泣いて。泣くのは、女の子の特権だから。吉海は、今は女の子でしょ?」

「…………ち、がう」

「……うん、そうだよね。そうだよね。ごめんね、私のせいで」


 姉は一層、僕を強く抱きしめる。 


「なんのお詫びにもならないだろうけど、吉海が泣きたいときは、いつでもこうするから」


 懐かしい感覚。少し苦しいし、気恥ずかしいけれど、心地よかった。

 父は顔知れず、母の顔もたまにしか見れない中で、姉の手で育てられてきた記憶。親の愛を求めた先で与えられた、姉の愛。幼き僕はそれを一身に受け、ここまで大きくなった。たとえ親代わりでも、姉は親同等の愛を僕に注いでくれたのだ。それは、昔も今も変わらない。注ぐのは姉で、注がれるのは僕。

 そう、僕自身なのだ。

 でなければ、姉はこうしてくれない。

 僕でなければ、姉はこうしないのだ。


「……姉ちゃん、僕って、本当に僕なんだよね?」

「うん。吉海は吉海。絶対に吉海。絶対に吉海だよ」


 つまり、僕は姉の弟。

 性転換したところで、姉にとって、僕という僕は変わらない。

 定義なんて要らない。


 僕は吉海で、吉海は僕なのだ。


「吉海、顔見せて」


 顔が姉の胸元から離れると、今度は輪郭が両手で覆われた。

 見つめられる中で、涙の痕が親指で拭われた。


「うん、やっぱり吉海だ。吉海だから、絶対に離れないよ」


 僕を僕と断定してくれる保証人が、傍にいてくれる以上。

 定義など、夏の暖炉より、冬の扇風機よりも不必要。


「私も、お母さんもね」


 姉は微笑む。

 母には、謝らなければならない。

 姉の無用心はともかく、今回の件で、多忙の中、仕事を中断させてしまうほどの心配を掛けてしまったことを。母がいきなり仕事を抜け出したことにより、仕事の関係者には大いに迷惑を掛けてしまったことだろう。母の仕事振りは、二人前三人前だと聞く。


「それはともかく、あのさ吉海」

「……なに?」

「今日さ、一緒に寝」

「やだ」

「は、はやぁ!? 少しくらい迷ってくれたって……」

「寝てるあいだに悪戯してくるでしょ」

「いやね、可哀想な妹をお姉ちゃんの愛で慰めてあげようと」

「慰める前に弄んだのは誰?」

「うっ、それはそうだけど……。そんなにお姉ちゃんが信じられないの?」

「うん」

「そんなっ……、吉海のバカぁ~!」


 僕の部屋から泣いて出ていく姉。かと思えば、扉が薄く開き、そこから姉が覗いてくる。諦めきれないのか。その瞳は、いかにも未練を訴えている。しかし、僕が手でシッシと追い払うと、あざとい視線は残念そうに消えていった。姉の問いに本心で答えるとなれば、信用はしていないが信頼はしている。いじわるな回答だが、姉のことだ。僕の内心など、とっくに察していることだろう。それなのに、わざとらしく部屋から出ていったのは茶目か。

 僕は念のため扉に鍵を掛け、電気を消してベッドに入る。眠気はすぐに襲ってきた。疲れた脳が、本日何度目かも分からない考え事を拒んだのだろう。悩んだところで、馬鹿な僕では、独りよがりでいい加減な結論しか出せないのだけど。いっそ性別など二の次に生きることができたら、それはそれで漢らしいのかもしれない。いい加減なことには変わりないのだろうけど。

 でも、それで一途に生きることができるのなら、僕はそれでいい。

 愚図って今を無駄にしてしまうのは嫌だから。そのせいで、姉や優月さんに怒られるのは、もっと嫌だから。

 だから。

 いざ、決めなければならないときが来たなら、そのときは決断しよう。

 だから。

 そのときまでは、愚図ろう。愚図りつづけよう。

 往生際の悪い生き方も、悪くない。

 もともと僕は、そんな人間なのだ。

 きっと。

 神様は、まだ僕に与えてくれるはずだ。

 選択の余地を。

 選択に迷う、余地を。

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可愛げだって無用心? 見習い孔子 @aribaco

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