十話『食い違い』

 勉強を終わらせると、約束どおりお風呂に連行された。僕が居間に顔を出すまでもなく、勉強が終わるや否や部屋に入ってきて、勉強具合には目もくれず僕の手を引いた姉は、もしや千里眼でずっと観察していたとでも言うのだろうか。

 だとしたら僕の姉は只者ではない。


「ほら、さっさと脱ぐっ」

「う、うん……」


 躊躇いもなく布をはだけさせた姉が僕を急かす。その背後にいる僕の視界に映るのは姉の肌色の背筋。身内と言えど女性の全裸に対して目を逸らさざるを得ない僕は、俯いてもじもじしつつも、素直に服を脱いでいく。

 今は女とはいえ、僕は弟なのだから、どうか姉にはバスタオルを巻いておいてほしい。これでも思春期真っ盛りなのだから、あまり刺激しないでほしいわけで。刺激されてどうこうできる関係でも心境でもないけど。

 一方、姉は構わず僕の服を引っぺがしてくる。

 頬が紅潮しているのは、元弟に裸体を見られたからではなく、現妹と一緒にお風呂に入る状況に興奮しているからだろう。その証に、姉の瞳は輝きに満ち、鼻息は荒いなんてものではなかった。ふんすふんす言ってる。馬じゃないんだからさ。


「よしよし、脱いだわね」

「…………脱いだ」

「それじゃ、入浴サー!」

「…………さー」


 姉に押し込まれるようにして浴室に入る。

 浴室は大人二人で入るには少々窮屈な程度の広さ。しかし、いまはそんなことを気にしていられる状況ではない。僕という一介の男子高校生は、あろうことか姉と入ろうとしているのだ。

 園児以来のイベントである。まして、それは姉の方から強要されたのである。

 果たして、姉に限らず異性を意識しはじめた頃であった小三の僕は、このことを予感していただろうか。いや、できるわけがない。


「ほら、もじもじしてないで流して」


 そういえば、小さい頃は何をするにしても姉に言われてやってたな。

 なんて過去を振り返る余裕もなく、背中に少し熱めの湯が掛けられた。それに体が軽く強張っている間に、また湯を掛けられる。熱さに慣れたところで、今度は頭に。


「先に体洗わないの?」

「体は後。頭を後にしちゃうと、シャンプーとかが流れなかったりするから」

「……そうなんだ」


 十分頭をすすいだら、シャンプーで髪を洗う。


「爪で洗わないようにね。頭の上から後ろ髪に」

「……こう?」

「そうそう。指でマッサージする感じだよ」


 時間を掛けて頭を真っ白に泡立て、洗い残しが無いように水でしっかりすすぎ、絞って水気をとる。

 思いのほか、姉は真面目に教えてくれた。遊び事ではないのだし、当然か。


「次はリンス」

「……やっぱりしなくちゃいけないの? ヌルヌルするから嫌いなんだけど」

「女の子は髪が命だから。だから、よっぽどの覚悟がない限り、間違ってもバッサリ切っちゃわないように」

「ええ?」

「返事は?」

「……はい」


 内心、不満たれつつも、言われたとおりリンスを使う。地肌を避けてしっかり髪になじませ、洗い流す。髪は流せたものの、体にはまだヌルッとした感じが残っている。


「……うぅ」

「体も洗えばいいでしょ、ほら」

「…………でも」


 恋人も今日できたばかりでチェリーな僕は、女性の体など見慣れていない。

 ましてや、自分の体が異性そのものになってしまえば、動揺は隠せるものではないことは然り。家族と一緒に風呂に入っても、お互いの裸などまったく気にせず無邪気でいられた幼少期が懐かしい。


「……仕方ないわね」


 姉は、そんな情けない僕を見て溜息を吐くかと思いきや、


「それなら、私が洗ってあげるしかないわ」


 むしろ嬉々として、手のひらにボディソープを垂らしていた。顔全体から変態の色をにじませ、手もみするその姿は──はっきり言おう、僕の姉ではない。

 これが僕の姉だなんて、信じたくない。

 でも血は繋がってるんだよなあ……。

 もしここでお触りを許して味を占められるのも勘弁なので、主に下心で形成された親切心は断っておく。


「……いい、自分でやる」

「遠慮しなくていいのに」


 遠慮もなにも、嫌だから断ってるんですがそれは。

 僕が口で教えてと言うと、姉は心底残念そうな表情をする。渋々ながら、背後から声を掛ける程度にとどめてくれた。


「タオル、使っていいよね?」

「本当は手のほうが良いらしいけど……、まぁ若い肌だから」

「タオルだと、何がいけないの?」

「いけないわけじゃないけど。タオルでごしごし洗うと、肌が傷ついちゃんだよね。女の子のデリケートな肌だと、特にね」

「へぇ……」

「ま、それは吉海が慣れてきてからで良いよ。でも、タオル使うなら、極力優しくね」

「うん」


 女性は肌も大事ということか。テレビなどで聞いてはいたが、やはり女性は男性に比べてデリケートな部分が多いらしい。自らを傷物にする趣味は無いし、大人しく言われたとおりにしよう。


「背中、洗ってあげようか?」


 意地でも現妹に触れたいのか。背後から姉の提案。その声は、熱がこもっているというかなんというか、言ってしまうなら興奮していた。


「……大丈夫。口で」

「……分かった、口ね」


 意外と早く引き下がるな。

 そう思ったとき、いきなり耳を何か柔らかいもので挟まれた感覚がした。


「ふぁっ!?」


 思わず変な声を上げてしまう。

 何事かと思えば、姉が僕の耳を唇で挟んでいた


「ね、姉ちゃんなにして──ひっ!?」

 

 おまけに耳に鼻息がかかる。くすぐったさにまた声が漏れた。その後、姉はすぐに顔を離したが、僕はあまりの不意打ちに少々面食らった。


「女の子になっても、こういう悪戯に弱いのは変わらないのね」

「な、なんでいきなり……」

「口で教えろって言ったじゃない」


 間違ってもそういう意味で言ったわけじゃないし、そもそもこれで何を僕に教えたかったというのか。女になったなら姉にも油断はするな、って事かな。自分の危険性を自ら語ってくれるとは優しい。さすがは僕の姉。

 ボディガードでも雇ったほうがよろしい?


「そんなことされたら襲えなくなるじゃない!」


 謝礼=僕の笑顔でよろしければ、どなたか僕をこの変態から守っていただけませんか。方法は任せます。ターゲットを殴り飛ばしてもお縄に掛けてでも構いません。とにかく助けてください。でなければ、僕の貞操が危ないのです。

 優月さんなら、喜んで引き受けてくれる気がした。

 身の危険を肌で感知した僕は、さっさと掛け湯で泡を洗い流し、入浴剤で白く濁った湯船に体を隠すようにして、肩まで漬かる。


「…………」

「…………」


 もっと悪戯したかったのだろうか。姉は名残惜しそうに無言で僕を見つめていたが、僕がそっぽを向いて目もくれないでいると、諦めて頭を洗い始めた。

 立ち上る湯気を眺める。暇な手は無意識にそれを追うように空を掻いた。白い湯気の中にある、白い手から生えるか細い腕はこれまた透き通るように白く、その根元は疑いの余地も無く僕の白い肩。そこからは白い肌がさらに広がり、いくつもの凹凸をつくり、僕という姿を構築していた。僕という、女性の姿を。


「……いまの僕って、本当に僕なのかな」


 まるで別人。いや、まるでなどと付け加えるまでもない。僕は今朝から、別人そのものだ。声も、顔も、髪も、体つきも、骨格さえも。すべてが僕じゃない。紛うことなき僕であって、決して僕じゃないのだ。まるで、知らない誰かの身体に僕の精神が入り込んでしまったかのよう。もしかすれば、自分でも知らぬ間に知らぬ人を乗っ取ってしまったのではないかとさえ思えてしまう。

 自分が自分ではないような感覚に、僕はいまだに戸惑い続けていた。

 この身体の持ち主は、本当に僕で相応しいのだろうか。身体は女性そのもの、心は男性そのもの。そんな存在があっていいのだろうか。いいわけがない。いいわけがないのに、そんな存在になってしまった僕は、いつも通りという目標のもとに今日という一日を生きながらえてしまった。


「吉海は吉海だよ。男の子の吉海も、女の子の吉海も。どっちも吉海。だから吉海は、吉海のお姉ちゃんである私の前にいて、私は私の弟である吉海の前にいるんでしょ?」

「…………」

「大丈夫。何があっても、あなたは吉海だから」


 先ほどまでの、心を許すことに危うさすら覚えるほどの変態ぶりとは打って変わり、落ちついた様相でいかにも姉らしい事を言う姉。

 姉から見れば、たとえ僕が人間ですらなくなっても揺るがない"僕の定義"があるのだろうか。


「……分かるの?」

「どんなに変わり果てても、分かるのよ。目で見てみれば、言葉を交わしてみれば、『いま私の目の前にいる女の子は、まぎれもなく私の弟なんだ』って」


 姉は優しく僕に微笑んだ。


「だから大丈夫」


 僕が小さく頷くと、姉も頷き、鼻歌を歌いながら身体を洗い始めた。その隣で、僕は無言で自分の手を見つめる。

 全体的に小さく、か細い手。それは透き通るように白く潤っていて、男の頃に比べ、皺が少ない。


「……僕、なんだよね」


 これが、僕の手だ。

 華奢な身体も。微かに幼さ漂う小顔も。以前の二倍ほど長さの増した髪も。少しばかり膨らんだ胸も。男の勲章を失った下半身も。つむじからつま先まで、すべてが僕だ。誰のものでもない、僕のものなのだ。どんなに見た目が違っていたって、これは僕の身体だ。僕が操っている限り。僕がこの身体で生きている限り。

 理由がどうあれ。

 ……理由?


「…………そういえば、どうしてこうなったんだろ?」


 事実として挙げられるのは、昨晩まで熱にうなされていたという事。今朝になって、熱が下がったかと思えば、女になっていたのだ。その上、学校を休むほど体調を崩したのは数年ぶり。

 今回の熱が、性転換と何かしらの関係があると考えても不自然ではない気がする。そもそも性転換したのが、病気が治った矢先というのが不自然すぎるのだから。

 しかし、三日高熱が原因というのなら、僕だけに限らず、世の中で性転換が頻発しているはずだ。高熱なんざ、世界中見ればよくある事。にも拘らず、性転換ウィルスの餌食になったのが僕だけというのはおかしい。まず、性転換ウィルスなんてこの世のどこを探したって存在しない。

 振り返れ。思い出せ。

 性転換のきっかけになりうる可能性を。

 必ずある。

 僕がこうなった原因は。

 ……熱。高熱。

 関係があるとしたらやはりこれか。

 でもやっぱりこれだけが原因とは考えにくい。

 まだ何かないか?

 熱といえば何だ?

 熱といえば、病気。

 病気といえば何だ?

 病気といえば、薬。

 薬といえば、薬といえば。

 薬といえば。

 薬。

 薬。


 薬。


「……薬?」

「くすり?」


 途端、僕は裸の羞恥など忘れ、勢いよく立ち上がる。


「そうだよ、薬! 薬だよ!」

「えっなに、何?」

「ほら、小説とかマンガとかでよくあるじゃん! 薬飲んで小さくなったとかどうとかさ!」


 分かりやすい例でいえば、どこぞの名探偵。


「でも、薬なんて……」

「この前、熱出て薬飲んだでしょ? 多分それだよ!」


 これを聞いて、姉は苦笑いしながら首を振った。


「あれは普通に熱を下げるヤツだよ」

「あっ……」

「わざわざ女の子になるような薬を弟に飲ませたりしないって」

「……それもそっか」


 冷静になって考えてみれば、当然だ。

 姉は、弟が妹になったのを見て喜んではいるものの、自らそんな発想を持つような人でもない。そう思えるのは、それをほのめかす過去が無いからだ。姉として、しっかり弟の僕の面倒を見てきてくれたし、それは僕が妹になったところで変わらないだろう。

 そんな姉が、僕に薬を盛ることなど決して無い。


「それに、あれはお母さんが送ってきたヤツだし」

「そうなの?」

「うん。郵便受けに入ってた。『熱が出たらこれを飲ませてあげて』って手紙付きで」


 ……郵便受けに手紙入り。母さんから?

 熱が出たなんて、言ってたっけ。

 姉さんが伝えてたのかな。


「…………薬じゃないとしたら、何なんだろう」


 僕は肩を落とし、また湯に漬かる。


「何でなのを知って、どうするの?」

「……原因が分かったら、戻る方法も分かるかなって」

「なるほどね。吉海にしては考えてるんだね」

「陽気じゃいられないよ」


 本来、変わるべきでないものが変わってしまったのだから。

 思考をめぐらせるのも当然だ。


「原因ね……。高熱、病気、薬って連想したわけだ」


 姉も身体を洗いつつ、天井を見上げる。

 

「まぁたしかに不自然かもね。熱が治った途端に女の子になっちゃうなんて」

「うん。だから、関係あるかもって」

「むしろそれがスイッチだったりして。なんか小説とかでそういうのありそうじゃない」

「僕もそれは考えたけど、だったら僕以外にこうなってる人たくさんいるはずだよ」


 それもそっか、と頷く姉。

 姉も姉で、一緒に悩んでくれているらしい。姉が言うような小説からなにかヒントを得るのも一つの手かもしれないが、正直、人の妄想が原因究明の手がかりになるとも思えない。

 とはいえ、薬という考えは我ながら良い線だとも思う。現代医学は急速に発展しているらしいし、性転換やもしくはそれ以上のトンデモな薬が発明されてもおかしくないような気がするのだ。だとすれば、知能って怖い。


「まぁ、まずは今に慣れなよ」

「えぇ?」

「いっそ受け入れたら、なにかが見えることもあるかもよ?」

「……要するに?」

「ずっとそのままでいてくれてもいいのよ?」


 チラッ、と横目に僕を見る姉。眩しいほど輝いたその瞳は、僕が男の頃は一度も目にした事が無かった。なんだろう、やっとそれを見ることが出来て、今まで抱いたことのない感情を覚えた。そう、これは──


「──殺意?」


 呟き、ふと姉を見ると、驚きに満ちた表情をしていた。


「……冗談だよ。親よりお世話になってるんだし」


 僕が生まれる直前に、母は夫と離婚し、そのときはまだ幼い姉とお腹の中だった僕、両方を引き受けてこの家にとどまったらしい。夫婦喧嘩やわだかまり故の離婚などではなく、お互い一人暮らしのほうが性に合ってると笑いあいながらの円満離婚だったらしい。かといって、子供が居る手前、後に関係を引きずるわけにもいかないとさっぱり別れたらしい。その際、母は夫の写真を一切合財捨ててしまったらしいので、僕は父の姿を知らない。話を聞く限りでは、優しげな垂れ目が特徴で、その顔に合った穏やかな雰囲気や性格から、誰からも話しかけられやすく頼られやすい存在だったんだとか。母自身、そんな人と別れてしまったことについて、もったいないと未だ後悔してはいるらしい。でも、数年の結婚生活の中で、こういう人は、誰かと一緒にいて縛られるべき存在ではない、と感じて手放したのだとか。ちなみに、実際に離婚を申し出た際の、心底寂しさに怯えるような表情は、思わず抱きしめたくなるほど愛らしかったらしい。この話ばかりは、さほどどうでもよかった。

 離婚して、僕を産み、その手一つで二人の子どもを養わなければならなくなった母は日夜働き、僕の世話といえばほぼ全て姉がこなしてくれていたようなものだ。そのころの姉はまだ小学生だったのにも拘らず、事情を知って手助けに来た近所の人を感心させるほど、姉としての役目をしっかりと果たしていたらしい。

 僕は、姉に育てられたようなものなのだ。無論、母にも感謝しているが、それ以上に姉を慕っているといっても過言ではない。

 弟が妹になって喜ぶような姉だが、それは即ち、僕が性転換した事実を誰よりも潔く受け入れてくれているということでもある。そんな姉に、嫌いなどと言えようものか。いいや、言えまい。むしろ──


「大好きだよ、姉ちゃんのことは」


 湯船の中で膝を抱えたまま、姉に微笑む。

 先刻は、妹の裸に息を荒げる姿を変態などと蔑んでいたが、考えてみれば、むしろ|その程度なのである。気色の悪いと突き放され、家族として見られなくなるのに比べれば。比べれば、幸運にも等しい。この程度と動じない家族のもとに産まれることができたのは。

 姉は身体を洗うことも忘れ、目を丸くして僕を見つめていた。元弟の素直な言葉を聞いて、驚きを隠せないらしい。

 感謝を告げただけなのだが、そんな反応をされると気恥ずかしくなってくる。頬を掻きつつ、僕は湯船から立ち上がる。


「……もう、出るね。のぼせちゃアレだし」

「…………」

「……姉さん」

「…………」


 姉さんは上の空のご様子。なんか、朝もこんなことあったような。

 とりあえずバスタオルを手に取って身体を拭く。姉の教えどおり、優しく。身体はあらかた拭き終わったところで、今度は髪を入念に。そこで、脱衣所の扉が開き、母が顔を出した。


「あら、もう上がったのね」

「うん。姉ちゃんはまだだけど」

「そう。……つるつるなのね」

「え?」


 母の視線を追ってみれば。


「いぃ!? ちょ、どどどこ見てっ……!?」

「いいのよ隠さなくても。それ以上減るものも失うものもないんだから」


 とっさにバスタオルで身体を隠す僕。母は不適な笑みを浮かべている。なんで母相手に二度も辱められなきゃならんのだ。

 

「おまけに白くて……。それでいて健康的だなんて」

「いい言わなくていい! まさか、もともと息子だってこと忘れたりしてないよね!?」

「もちろんよ。立派なもの生やしてたかもしれない息子が、今じゃつるつるだなんて興奮するわ」

「興奮するなぁ!」

「おまけに裸を見られた本人が赤面中というこのラブコメ展開。襲うに事足りるシチュエーションね」

「事足らない! どう考えても事足りる場面じゃないから!」

「たとえ事足らなくても、ここは襲わざるを得ないのよ!」

「あなたは本当に僕の母親ですか!?」

「母親! だからこそ! 娘に! 興奮することだって! あるのよ!」

「いやあああああああああああああ!!!!!!」

 

 と、そこへ鳴り響くチャイムの音。


「あら、こんな時間に。宅配便かしら?」

「……え?」


 途端、我に返る母。


「出てくるわ。あなたもはやく服着なさい、風邪引くわよ」


 女性は切り替えが早いと聞くけど、こういうことなのかな。いや、全然違うか。

 ──あ、そういえば。


「……あ、あの母さん」

「ん、襲うのは後でね」

「い、いやそうじゃなくて。姉ちゃんから、僕が熱出したっての、聞いてた?」

「メールでね。驚いたわ、久しぶりに熱出したんでしょ?」

「うん。それで、薬送ってくれてありがとう」


 母は首をかしげる。


「薬? 送ってないわよ、薬なんて」

「……え?」

「香波の看病なら心配いらないかなと思って。でもその直後に女の子になったって聞いもんだから、居てもたってもいられなくなって、けっきょく帰ってきちゃったんだけど」

「……そっか」

「あっいけない、宅配便!」


 あわてて玄関へ掛けていく母。


「…………送って、ない?」


 まだ少し湿っている髪は自然乾燥に任せることにし、言われたとおり服を着ながら、僕は考える。

 姉の発言と母の発言の矛盾。姉は、あの薬は母から送られてきたものだと言っていた。しかし、母が言うには、高熱には心配こそすれ、世話は姉に任せ、薬も送ってない。おかしい。家の郵便受けには、薬とともに手紙も添えられていたと聞いた。姉は、宛名すら確認しない抜けた人間でもないので、その手紙とやらはたしかに母の手紙なのだろう。

 しかし。今どき、手書きでなくともパソコンでメールを打てる時代だ。手紙を出すにしても、文字データを印刷してしまえば手間など掛からない。ただ問題なのは、活字となれば、独特の字の癖が無くてもその人の手紙として通用してしまうこと。その悪用に騙された人は世に数多くいる。薬に添えられた手紙の内容は伝聞したが、それが『どのような』手紙であったまでは聞いていない。下手したら、手紙の文字が活字か手書きかで懐疑する必要があるかもしれない。それが、本当に母から送られてきたものなのかと。

 とはいえ、姉も母も、嘘をついている風ではなかった。僕は心理学など浅くも知らないが、家族という間柄なのだから、それくらいは見極められる。おそらく二人して、食い違いにまだ気づいていないだろう。


 ──いや。


「……姉ちゃん」

「…………」


 きっと姉は、いまの話を聞いていたはずだ。

 そして気づいたはずだ。自分の勘違いに。現状は小さいが、いずれ大きさを増すであろう失態に。

 上の空で耳が遠くなっていたなどと、知らん振りをさせる気はない。


「あとで、僕の部屋に来てくれないかな?」

「…………」

「話が、あるんだけど」

「……うん」


 姉は、たしかに肯んじた。

 僕は、静かに風呂場から去った。

 確かめよう、真実を。

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