九話『姉の暴走』

 おつかいから帰ってきたと思ったら、メイド姿で夕飯の準備を手伝わされているでござるの巻。

 食器並べだとかコップへのお茶注ぎだとか。母は台所で腕を振るっていて、姉は羞恥に耐えている僕をいろんな角度から撮影、もとい盗撮している──そんな状況。

 死にたい。姉を道連れにして死にたい。そしてあわよくば、姉が所持している僕のあられもない姿を収めたそのカメラを、二人の死体ごと火葬してほしい。


「……いい加減、姉ちゃんも手伝ってよ」

「あら、ここは最低限の接客態度もなっていないのかしら」

「接客態度って、お店じゃないんだからさ……」

「お嬢様にそんな言葉遣いで良いのかしら」


 おかしいな、いつからここはメイド喫茶になったのだろう。しかも唯一のメイドが元男なんですがそれは。


「些細なこと気にしてちゃ、立派なメイドにはなれなくてよ。ほら、相応しいセリフは教えたでしょう?」


 地味にお嬢様とやらになりきっている姉。台詞を乞いつつ、何気に僕の髪で遊んでいるのが腹立たしい。

 しかし台詞やポーズを拒否すれば、後に罰ゲームを受ける。これは優月さんもいるときに、不意に姉が口にした提案。これを二人が聞き流すわけはなく、ルールとして取り入れられたのである。

 いや、さすがに僕も必死に理不尽を訴えたんだよ。でも『理不尽は今に始まったことじゃない』の一言に論破されて言い返せなくなって。

 男一人が女性三人を相手に口論で勝てるはずもなかったんだよ。だってお人形にされてる時点でもう理不尽極めてるもの。


「……申し訳ありません、お嬢様」

「可愛い、それで良し」


 当店の従業員にご注文無しに抱きつくのはご遠慮ください。ちなみに、メニューに無いご注文を承るほどのサービス精神は当店にはございません。


「……仕事がまだありますので」

「もうっ、いけず」


 抱きしめてくる姉の手を振り払い、夕飯の準備を進める。

 食器を運びながら思う。いつ普通の服に着替えさせてくれるのだろう、と。あれ、もしかしたらこのままご飯食べなくちゃいけないのかな。あれれ、急に食欲が無くなってきちゃって。


「ああ、そろそろ着替えてきていいわよ、吉海。あとはお母さんが用意するから」


 夜食を考えつつあった僕の身に、ついに果報が舞い降りた。

 母の言葉を聞くや否や、僕は返事も無しに自分の部屋に一目散。姉の盗撮を懸念し、しっかりと鍵を掛ける。それから、タンスから黒いジャージを取り出して抱き締めた。


「……うぅ、やっと!」


 嗚呼、愛しのジャージ。

 機能性に優れた君は僕の一番の相棒だよ。

 スカートのような無防備さも、メイド服のような飾り気も無い。無骨な君を抱き締めて湧き出てくるのは、底知れない安心感だけだ。学校から帰ってきてからというもの、僕はずっと求めていたんだ。

 君を、ジャージを。


「メイド服なんてぽぽぽい!」


 メイド服という名の羞恥の糸で縫われた衣を脱ぎ、ジャージという名の安心と信頼の布を身にまとう。

 この伸縮性、まさにジャージだ。いまの僕にこのサイズは大き過ぎるくらいだが、これで良い。方向性がコスプレになりつつあった服から逃れたおかげで、ようやく心に余裕が生まれたのだから。


「……可愛かったのに」

「御免」


 リビングに戻り、口を尖らせる姉を軽く叩くと、僕はテーブルに着いた。

 家に帰ってくるのは久々である母は、腕によりをかけて夕飯を作ってくれたらしい。テーブルの上を彩る料理の量がその証拠だった。性転換して小さくなった僕の胃には、収まりきらないかもしれない。


「さて、気合入れて作ったからね。たんとお食べなさい」


 母がこう言っていることだし、小さな胃に収まるだけ美味しく頂こう。


「いただきます」


 ご飯を食べる前のお約束を守り、箸を手に取る。

 眼前には、目移りしそうなほどさまざまな色が並んでいる。少々迷った末、僕はテーブルの中心にどんとあるから揚げに箸を伸ばした。



「……ごちそうさま」


 腹が膨れるほど食べ、箸をとめた。

 いまだおかずを頬袋いっぱいに笑みを零す姉を横目に、僕は自分の食器を片す。完食された皿もついでに片付けたあと、コップ一杯のお茶を飲み、リビングを後にした。

 自分の部屋に戻り、勉強机を前に鞄をあさりだす。


「さっさとノート写さないとな、っと」


 筆記用具、自分のノート、あとクラスメートに借りたノートも取り出す。今日の授業の範囲のページを開き、シャーペンを手に取った。

 大事な授業だったためか、このノートの持ち主も気合を入れて板書を写した様子が伝わってくる。

 もともと分かりやすいノートがさらに整理されていて、とても写しやすい。綺麗な文字というのは、写す側もやる気にさせてくれる。


「……ん?」


 ふと、自分の文字に違和感を感じた。

 気のせいとは思えず、以前の文字と今の文字とを見比べてみる。なるほど、性転換したせいで筆跡まで女らしくなってしまったらしい。

 以前のそれは、角ばっていて荒々しさすら感じられるような文字。それに比べると、今の文字は、心なしか丸みを帯びた柔らかな文字になっていた。ノートの雰囲気ががらっと変わった気がする。

 不思議だ。性別一つの変化で筆跡まで変わるものなのか。となると、他にも気になる部分が沸いてくるーー例えば、指紋。

 とはいえ確かめるのは、正直怖い。


「……まぁ、綺麗になったと思えばいっか」


 ある意味、メリットと言えるかもしれない。それもあくまで、デメリットしか感じられない性転換から、無理にでもメリットを見出そうと無意識に思った結果かもしれないけれど。

 まあ、『見やすくなった=綺麗になった』と捉えるのは間違ってはいないだろう。

 振り返ってみれば、女になってからというもの、性転換を忌まわしいものとしてしか見ていなかった気がする。

 女になった瞬間──つまり今朝から今までのあいだずっと精神が張り詰めていたのは確か。でも、これをきっかけに優月さんとの距離が縮んだり文字を綺麗に書けたりと良い事があったのも否めない。

 性転換という辛い現実を受け入れる方法として、性転換して良かったと思える点を探すのも悪くないかもしれない。無論、それは性転換に限ったことではないだろうけど。

 とりあえず、探してみよう。女になった生活においてメリットと思われる点を。


「性転換、良い事、良かった事……」


 あれ、無いぞ。おかしいな、いざ記憶を探ってみるとまったく見当たらない。


「そういえば、性転換してまだ一日も経ってないしな……」


 実際には今朝の出来事なのに、すでに二日三日経った気分になっていた。無理もない。突然の身体の異変に困惑するのは当然だ。ましてや、それが自然に起こるべきでないものなら。

 さっさと慣れてしまえば、今の僕が女であることを知らない人を前にして挙動不審になることもないだろう。でも、慣れてしまうというのも、なんとなく問題な気がする。

 いっそのこと、素直に姉や母に振り回されて、無理にでも今の身体に馴染むべきだろうか。それはそれで苦労する部分もあるだろうけど、決して間違いでもないような気がする。

 性別が変わっても、僕の身体はあくまで僕だけの所有物であることに変わりないのだから、僕が決断すれば、家族もそれに委ねてくれるだろう。でもいざ決断するには、まだ早い。

 もっと時間が欲しい。二つの性別の間で揺れる時間が。


「あら、可愛い文字」

「わっ、姉ちゃん!?」


 不意に耳元で声が聞こえたかと思えば、姉が僕の肩越しにノートを見つめていた。思わずノートを隠してしまう僕。


「なに隠してんの」

「あ、いや……」

「あらら、もしかしてお邪魔だった?」

「勉強! 勉強してただけだってば!」


 勉強していただけである。本当に。別にやましいことなどしていない。

 これは、そう。いうなれば、反射的。


「姉さんも、部屋はいるときはノックぐらいしてよ……」

「ノックしたら脅かせないじゃない」

「悪戯するつもりだったんだね……」

「いざ近づいてみれば、可愛いお手てから可愛い文字が生み出されてたもんだからあらびっくり」


 僕からノートを取り上げ、まじまじと眺める姉。


「……不思議なものね」

「…………うん」

「弟が一切合財可愛くなっちゃった気分って」

「そこ!?」


 そこなの!?

 もっと他に言うとこないの!?


「ま、性別が変わったのなら、驚くことでもないのかもね」


 性別の変化も文字の変化も、驚くべき異変だと思うのですが。現状に喜んでいるらしい姉を言ったところで意味など無いのだろう。

 溜息を吐く僕にノートを返して、姉は腰に手を当てた。


「さてと。実は、悪戯じゃなくて、ちゃんとした用があってね」

「なに?」

「ひっじょーに、ひっじょーに不本意なんだけど、あなたをお風呂に入れなくちゃいけないの」


 僕の分の着替えも用意。頬を緩めて顔をニヤけさせ、手をワキワキさせている。


「……ご飯の直後に、お風呂に入るのは身体に悪いって聞いたことが」

「女の子がお風呂を我慢するのも良くないのよね」

「…………大人の姉と高校生の弟が一緒にお風呂に入るのは」

「今は姉妹だもの」

「………………僕、ちょっと気分が悪くて」

「ちょっと待ってて、体温計取ってくるから」


 一分と経たず戻ってきた姉に体温計を当てられ、測ってみれば平温。化学を前に、仮病は意味を成さなかった。


「どっちが吉海と入るか、ってことでお母さんとじゃんけんしたんだよね。最初は負けたんだけど、機転をきかせて、三回戦で決めるルールにしてね。これで結局負けちゃったら悔しいなんてもんじゃないな、と思ったんだけど見事に勝っちゃって」


 そこまでか。そこまでなのか。訊いてないし。

 とはいえ、姉も僕の話を聞いてくれそうにない。僕と一緒にお風呂に入る気満々だ。表情からして、他意があるというか他意だらけとしか思えない。しかし、この身体だ──正直、一人でお風呂に入る勇気も無かった。今の僕には、姉に無理やり風呂釜にぶち込まれるのがぴったりだろう。


「……分かった。でも、せめて勉強終わってからにしてくれる?」

「あら、意外と素直。じゃあ、勉強済んだら言ってね」


 そう言い残して、姉は部屋を後にした。と思ったら、閉まりかけの扉の隙間から、笑顔で手を振ってきた。僕は渋々それに応え、満足げに去っていく姉の足音に耳を済ませつつ、勉強机に向き直す。

 脇を見ると、姉がわざわざ置いていった僕の着替え(姉の古い寝間着)が目に入る。淡い桜色を基調に白の花弁が散りばめられた、いかにもな女の子パジャマ。

 高校生が着るものかなこれ。姉ちゃん、わざとこれ選んだな。

 ……山々。山々なのは、わざと字を丁寧に書いて、勉強を長引かせたい気持ち。けれども、そうしたところで、姉と一緒にお風呂に入らなければならない未来は変わらない。

 仕方なく、僕は急いでペンを走らせることにした。

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