八話『一途なりの』
結局、メイド服着用は免れた。
姉に頼まれていた帰りのおつかいをすっかり忘れていたことを思い出し、だめもとで伝えたところ、意外にも母が渋々ながら財布を持たせてくれたのである。母いわく、そろそろ夕飯時というのもあるが、日が沈んで暗くなってから娘を外に出すのも心配だ、とのこと。娘じゃないよ。
想像だにはしなかったが、メイド服の魔の手を振り払うことができた。とはいえ、お仕事を盾に苦を先延ばししたに過ぎない。お仕事が済めば、またお人形に早替わりだろう。
とどのつまり、メイド服着用は免れていない。
「……辛いなぁ」
「ああするのも、私たちが女の子になった先輩を受け止めてる証拠ですよ」
ぼやく僕の横を歩く優月さん。母の変態ぶりに便乗していたときとはまるで別人のように澄まし顔になり、家を出てからというもの鬱になりつつある僕をずっと宥めていた。
後輩なのに、一緒になって楽しんでいたのに、まったく反省の色が見えない。
「優月さんも僕で遊んで……。メイド服まで」
「先輩が可愛いからいけないんです。それに最後の最後で逃げるなんて、男らしくないですよ」
「女物の服着させといてその言い草は酷くない?」
無理やり着させられたんですけど。無理やり女物の服着させられた上に男らしくないって言われちゃ、僕もう明日には首吊って死んでるよ。首吊るほどの勇気が無くて男らしくない、って言われたら否定できないけども。実際無いし。
でもこれ以上、文句は言えない。わざわざ家に帰ってきてまで女になってしまった僕に構う母も、僕の性転換を一目で見抜き、その上で僕の傍にいることを選んでくれた優月さんも、それだけで今の僕をしっかりと受け入れてくれている証になる。姉に至っては、異性の身体に戸惑う僕に優しくトイレの仕方を教えてくれた。見離すこともせず、目を逸らすこともせず。
身も心も女に──というのは余計なお世話だが、そこには『今の身体に少しでも早く慣れさせないと』という意味も込められているのはたしかだろう。突然の性転換で一寸先は闇──そんな状況で、現実から目を背けるのは得策ではない。無理にでも今の身体に見慣れ、冷静に現実を見つめるのが賢明なのは僕も分かっている。
女になった理由は分からない。男に戻る方法も分からない。これが周りにバレればどうなるか分からない。全てを足しても分からない。掛けても割っても分からない。分からないし分からない。分からないのはつまり分からないってこと。要するにすべてが分からない。
この先、どんな運命を辿ればいいって言うんだ。
馬鹿な僕には、家族や優月さんに頼るしか術が無い。
家族や優月さんに頼って、僕自身が現状を受け入れられるように頑張るしかない。
それは決して解決にはならないけれど。
今を凌げれば、それだけで万々歳だ。
決して、解決にはならないけれど
「先輩、無駄な考え事は無駄な二酸化炭素をつくるだけですよ」
優月さんの、彼女らしい辛辣な台詞が、僕の思考を闇底から呼び戻す。
「……優月さん」
「なんですか、先輩」
辛辣な台詞には似合わない、優しげな小顔が僕の声に反応する。
髪に隠れる瞳は憂いを帯び、口元はかすかに歪んで笑みをあらわし、控えめに開いた唇から零される鈴を転がすような声は、たしかに僕の心を震わせた。
「……僕、戻れるかな」
「私は一途です」
的外れにも思える回答。
しかし、その一言は、僕にかすかな希望を抱かせた。
「先輩、今日のところは、そろそろさよならです」
僕より数歩先へ行き振り返ったところで、優月さんは僕に手を振り微笑んだ。
僕も笑みを浮かべ、それに返す。
「そっか。……見てかなくていいんだ、僕の男らしくないとこ」
「もう暗くなってきましたから。それに、先輩のメイド姿は、香波さんに写真を送ってもらいます」
「いつのまにメアドを……」
「今日一日ですごい仲良くなっちゃいました。週末に先輩の服を買いに行くのにも連れていかせてもらう約束もしちゃいましたよ」
「待って、僕聞いてないんだけどそれ!」
「女の子になったからには、男の子用の服ばっかり着てもらうのは困ります。制服は仕方ないとして、私服はほら、いま先輩が着てるような奴じゃないと」
「それにしたってまだ他にあるんじゃないの!?」
優月さんが指を指した僕の服。肩が出るつくりの黒い半袖に、裾が極端に短いのが特徴だとかいう白地のホットパンツ。下はズボンだし、季節的にずれた服装というわけでもないが、地味に肌の露出が多いのが恥ずかしい。
「似合ってるから良いじゃないですか。スカートだって、だいぶ慣れたみたいでしたけど」
「あれだけ履かされたら慣れたくなくたって慣れるよ!」
「つまりは先輩にとっても利益があったわけです」
「……スカートだけは、自ら着ようとは思えないけどね」
「心配しなくても、そのうちスカートじゃないと満足できない下半身になりますから」
「どんな下半身!? 下半身って言い方もなんかおかしくない!? あとスカートで満足できるっていうのもどういうこと!?」
「ツッコむときは一個ずつツッコんでください。対応しきれなくなるじゃないですか」
「ならネタも一個の台詞に一個ずつ仕込むようにしてくれないかな!?」
「私がそんな器用に見えますか?」
「手作りのマフラー僕にプレゼントしてくれた事あったよね!?」
「手先の器用さと口先の器用さは話が別だと思いますけど」
反論できない。口喧嘩は男より女のほうが強いというのはこういう意味だったのか。いや全然違うか。
「ほら先輩、私を追っかけてくださるのは嬉しいですけど、スーパー通り過ぎちゃいますよ」
「あっ、ホントに目の前だ……」
スーパーを前に、優月さんはもう一度、僕にこう言った。
「先輩。私は一途ですからね、いつまでも」
諦めないでください。頑張ってください。
そんなことは一言も言わない彼女は、それを言うまでもなく自分の先輩は決して諦めない人だと信じているのか。だとするなら買いかぶりすぎだ。僕は小心者だし、プライドも小さい。無容赦な現実にはすぐに折れるし、ちょっとした事で長く落ち込む性質だ。
ただし、人に影響されやすい性質でもある。
今、僕の彼女は、僕に何と言った?
──一途だ、と言った。
それはどういう証だ?
──強い証。
それは見習うべきなのか?
──見習うべきだ。
それなら僕もそうなるべきだろう?
──そうなるべきだ。
──じゃなきゃ、男らしくない。
「優月さん。僕も一途だよ、いつまでも」
「……それは、ありがとうございます」
無言で頷く優月さんの頬はほんのり赤かった。
少し、からかってみようか。
「先輩、顔がちょっと赤いですよ」
先を越された。
「自分で照れちゃって可愛いですね、先輩」
「……う、うるさいな」
あれ、なんか立場逆じゃない?
でも僕も女だし、この場合逆とかないのかな。……あれ、んん?
……まぁ、いっか。
「さようなら、優月さん」
「さようなら。先輩も、お買い物終わらせたら、寄り道せず急いで家に帰るように」
「こら、先輩を子ども扱いしない」
「子ども扱いじゃなくて、女性扱いです。女の人は幾つになっても、男の人より誘拐される可能性は高いんですから」
「……はいはい。優月さんも寄り道せずにね」
「子ども扱いしないでください!」
「やっぱり優月さんも子ども扱いしてたんだよね!?」
なんて言い合いをしながら、僕は優月さんを見送った。彼女の背が米粒くらいに小さくなったところで、ようやく僕も日が空から姿を消しつつあることに気づき、慌ててスーパーに駆け込む。
道端の街灯は、すでに虫を誘き寄せはじめていた。
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