第5話
「掃除よし……洗濯も、よし」
見慣れない部屋を見渡しながら、今の私に課せられた仕事に不手際がないかを確認していく。
今いるこの部屋は、数日前から深夜に立ち寄っていた人気のない公園で出会った男性の自宅。木造建築のアパートの一室だ。私は、昨日からここで居候紛いの間借り生活をすることとなった。
どうしてこうなったのか、正直なところ自分でも不思議に思う。心身ともに、限界に達していたのかもしれない。
以前まで住んでいた住居から立ち退きを言い渡されたその翌日に、こうして屋根の下で眠れるなんて奇跡と言っても過言ではない。これだけでも十分すぎるほどなのに、今朝から奇跡の連続だった。
朝、家主を見送り部屋の掃除と洗濯を始める。普段から整えてある、というよりも物が少ないおかげで隅々まで手が届く。一人暮らしには広すぎるこの部屋を、家主は恐らく持て余しているのかもしれない。少ないゴミを纏めて部屋から出ようとした時、扉の前で人と出くわした。
眼鏡の隙間から寝ぼけ眼を擦り、ラフな格好のままゴミ袋を片手に持った若い女性と目が合った。その女性は徐々に目を見開き、まばたきをして、その次は口を動かし始めた。
「え……あれ? んんん??」
「……あ、あの」
首を傾げながら、天を仰ぎ始めたその女性に急いで声をかけ、事の顛末を掻い摘んで説明した。
彼女はすんなりと私の言葉を受け入れて、自己紹介からこのアパートの同居人達の簡単な紹介と世間話をしながらゴミを出し、最後は手を振りながら笑顔で自室へと戻っていった。
こんなにもあっさりと、しかも疑いの目を向けられることも無いことに驚きを感じながら、私は部屋へに戻る。
その後は部屋で大人しくしていると、インターホンが鳴らされた。居留守を演じようかと思ったが、私がいる事は既にバレているらしく、仕方なく扉を少しだけ開いた。そこには綺麗なスーツを身にまとった先程の女性が立っていた。
「あ、さっきはどうもね。これ、お近付きの印によかったら貰ってくれる? うちの会社の製品なの、今度感想聞かせてね──」
早々に言い切って、化粧品らしきパッケージのそれを手渡して立ち去っていく。そしてこれを皮切りに、次々と人が訪れてきた。
「こんにちは、左隣の久瀬と言います。娘が小児科に勤めているの、私も元看護婦だから何か困ったことがあったら教えて下さいね? きっと力になれると思うわ」
年輩の女性が笑顔と一緒に和菓子を差し入れてくれた。
「お、あんたが噂の嬢ちゃんじゃな? わしは下の部屋の杉井じゃ、ほれ、焼き芋やるけぇ食べんさい」
程よく温まった焼き芋を手にした老人が、終始笑顔で話をしに来た。
「あ、どうもっす。下に住んでる赤崎っす。一応は学生してます。怪しい者じゃないんで、一応。よろしくっす」
容姿こそ今時の若者、言ってしまえば素行も良くなさそうな見た目であったが、その人懐っこそうな表情と、はつらつとしたその青年も、例に埋もれることなく笑顔を絶やさなかった。
今まで人と言葉を交わすことなんて、一日に数える程しかなかった。なのに今日一日だけでもいろんな人と会話をした。皆笑顔で、見ず知らずの私に暖かく接してくれた。そんな彼等に、何故こんなことをするのかと聞いてみた。すると、彼らは口を揃えてこう言った。
──困った時はお互い様だ──
これまで、私の周りにこの言葉を投げかけてくれる人がいただろうか。少なくとも、知る限りでは一人もいない。
私は驚きが隠せなかった。たった数キロ離れただけ、たった一駅の区間離れているだけ、たったそれだけでこんなにも世界が違うものなのかと、私はただひたすらに驚く事しかできないまま、ぐっすりと眠る娘の額を優しく撫でた。
娘は大きなクッションに全身を埋め込むようにしてぐっすりと眠っている。いつもは、少しでも傍を離れれば泣きじゃくっていたこの子が、このクッションに身体を埋めると、まるで魔法にかかったかのようにぐっすりと眠りについた。
別に何か仕掛けがあるような、特別製という訳ではなさそうだ。その手の店には必ず売っているありふれたクッション。なんてことは無いただの既製品だった。だがあえて指摘をするなら、このクッションからは、彼がいつも公園でくゆらせていた白い煙の匂いがした。
穏やかに眠る娘の頬を撫でて、その下に敷かれたそれに触れる。この部屋で、あの白煙の匂いが残るのはこのクッションのみだった。
──あの人と同じ匂い──
この匂いは、この子にとっては既に親の匂いとなっている。幼いながらにこの子は求めている。この匂いから父親の影を追っている。私達を捨てて消えたあの男の匂いを──
「……っ!?」
考えに耽っていた時、玄関の方から鎖の踊る音がした。弾かれるように顔を上げ窓の外を見る。気がつけばもう暗くなっていた。家主が帰ってきたのだろう。急いで玄関へと向かう。
「ご、ごめんなさい」
成り行きとはいえ、留守を任されているのだ。用心のためにとしていたのだが、家主にとっては予想外のことだろう。施錠していたドアチェーンを外し玄関の扉を全開にして家主を出迎える。
くたびれたワイシャツとシワの入ったスーツを身にまとった青年が、疲れた様子で私に視線を向けていた。
癖のついた髪、少し陽に焼けた小麦色の肌は、一言で言えば凡庸な容姿だ。疲労の色が浮かぶその表情は、歳相応の若さを失わせていた。あの男とは正反対の歳上の男の人。
そんな彼に、これ以上の負担を掛けてしまうのは申し訳なくなってしまう。
「すみませんでした。一応用心はしようと、その……」
弱々しい口調で話す私を、家主はただ見下ろしていた。
「あ、大丈夫です。ええと……少し安心しました。それとこれ──」
暫く見つめていると、我に返ったように慌てながら、手に持っていた見慣れたスーパーの袋を差し出してきた。それを両手で受け取る。
「ありがとうございます。その、すみません、助かります」
中身は料理をするのに必要な最低限のものがほとんどだ。
家主から提案された条件は、タダに等しい賃貸料のみ、居候同然の条件だった。だがそれに納得出来るはずもなく、代わりに家事全般、無論炊事も請け負うと提案したが、台所には何も無く、申し訳なく思いながら要望を出しそして今に至っている。
「直ぐに用意しますので、もう少しだけ時間を下さい」
そう言い残して、台所へと直行する。
「不思議な人……」
そう口にしながら振り返る。玄関を閉め、靴を脱ごうとしているその背中が、一瞬重なった。
「あ、あの……」
気がつけば声を掛けていた。家主が振り返る。だが私は、次に言おうとしていた言葉を躊躇っていた。
なぜ声をかけてしまったのだろう。あの男すら言わなかった言葉を、目の前の人に求めようとしていた。厚かましいにも程がある。
どうにかしなければと思いながら視線を泳がせていると、家主と目が合った。彼は待ってくれていた。怪しむでもなく、睨みつけることもなく、穏やかな眼差しで、私の言葉を待っていた。
そしていつの間にか、私の心の中に刺さっていた杭が外れたような気がした。そして私は、閉じかけていた口を開いていた。
「……お、おかえりなさい」
この言葉を発したのは、いったいいつ以来だろう。懐かし過ぎてどんな表情をしながら言っていたのかも忘れてしまい、ぎこちない笑みを晒してしまう。
家主は口元を隠しながら頬を撫でると、柔らかい表情を浮べながら言葉を返してきた。
「……ただいま、帰りました」
その言葉の直後、私の心に光が射した。晴れ渡る太陽からの一筋の光が、私の真ん中から手足の先まで温めていく。
私は、この瞬間に理解した。
この人は魔法使いだ。
魔法の小指で子供をあやし、白い煙で惑わせて、奇跡を起こす魔法使い。
ただひたすらに平凡で、どこまでも無垢な、どこにでもいる
魔法使い 毛糸 @t_keito_k
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