第4話


「……ふぅ」


 緋色の雲の漂う空を仰ぐ。鮮やかな赤色に彩られた空は、もう時期暗闇に支配される時間。俺はいつも降りる駅から一つ離れた駅で降りる。降り過ごした訳では無い、しっかりとした目的がある。


 いつも降りる電車の駅との中間に、あるスーパーがあるのだという。深夜まで営業をしており、閉店間際まで売れ残った惣菜品は、破格の値段で売り捌かれるらしい。彼女が教えてくれた。


 とはいえ今は夕暮れ、値段は変わらずそのままだろう。


 駅から引き返すように歩を進めることしばらく、お目当てのスーパーが視界に入る。住宅地の一角に軒を構える小さなスーパーだった。看板は古びて文字も消えかかっていた。お目当ての品があるのか多少不安に思いながらも、スマホの画面にメモを表示させながら店内へと入っていく。



 ✱✱✱



「これでよし、と……」


 お目当ての品は無事に見つかった。品揃えは言うまでもなかったが、ある程度ならここで調達できそうだ。

 スマホの画面にマップを表示させ自宅までの距離を表示する。


「……バイクでも買うかな」


 決して歩けない距離ではない。だが日頃から利用するとなると、この移動時間ははっきり言って勿体ない。自由に動ける移動手段も検討すべきだろう。


 そんなあれやこれやを考えながら、荷物片手に帰路についた。


 歩くにつれてすれ違う人の数は減り、暗がりを一人ひた歩く。すると見慣れた公園が現れた。相変わらず人気のない、多少の遊具以外何も無い公園。しばらく足を止めたが、再び歩き始めた。


 ここから先は見慣れた風景だ。ようやく帰ってきた心地になり、心做しか足取りが軽くなった気がする。そして視界の先に、暗がりの中から我が家が顔を出し始めた。木造二階建て、各階四戸ずつの計八戸、どこにでもあるただのアパートだ。築年数は古く見た目はよろしくはないが、土地や間取りは広く、その見た目とは裏腹に住み心地は悪くない。


 ぼんやりとそれを見つめながら、アパートの入口付近に到着し、吾が家の位置に視線を向ける。二階の奥から二番目の部屋に俺の部屋がある。玄関の横には格子付きの曇りガラスが設けられている。その向こうには普段は使われていない物置同然の居室がありいつもは暗いままなのだが、今は明かりが灯されていた。


 泥棒という訳ではない。その部屋の明かりは、灯されるべくして灯されている。昨日から間借りしている同居人が使用しているからだ。

 その明かりに少しばかり安堵しながら、二階へ続く階段を静かに登って行く。廊下を渡り、自室の玄関へと錠を差し込み廻す。いつもの手応えを感じながらドアノブに手をかけ、扉を開く。

 長い旅路からようやく解放されたと思ったその時、いつもとは聞き慣れない鎖の踊る音と同時に扉が開かなくなる。


「あぁ……」


 防犯用に設けられたドアチェーンでさらに施錠されていた。

 いつもと違う光景に一瞬動揺したものの、彼女のへの信頼が少し増した。


「ご、ごめんなさい」


 扉の向こうから、申し訳なさそうな声が駆け寄ってきた。扉から手を離して一度閉める。それから数秒後に扉が全開になる。開け放たれた扉の向こうから一人の女性が現れた。深夜の公園で邂逅していた彼女である。


「すみませんでした。一応用心はしようと、その……」


 肩にかかる程の長さの黒髪、雪のように白くキメの細かな肌は、その一概なく視線を惹き付け、若干の幼さを残しながら、大人びた雰囲気も漂わせるその整った顔立ちは、もれなく集めた視線を釘付けにする事だろう。

 そんな彼女が、申し訳なさそうにこちらの様子を伺っていた。


「あ、大丈夫です。ええと……少し安心しました。それとこれ──」


 思わず釘付けにされていた視線を泳がせながら、手に持っていたスーパーの袋を掲げて手渡す。それを彼女は両手で受け取る。


「ありがとうございます。その、すみません、助かります」


 中身は単なる調味料や食材といった、料理に必要な物がそのほとんどを占めている。間借りする条件として彼女から申し出があったため、必要なものを急ぎ買い揃えたに過ぎない。

 間借りといっても、その賃貸料はほとんどタダみたいな値段だ。居候と言われても仕方がないような金額だ。その条件を提示した俺に対して、彼女はこの部屋の炊事から掃除に至るまでの家事仕事の一切を請け負うと申し出てきたのだ。


「直ぐに用意しますので、もう少しだけ時間を下さい」


 そう言いながら彼女は玄関から中へと戻っていく。そのあとを追うように、敷居をまたいで玄関を閉める。


「あ、あの……」


 玄関を厳重に施錠していた所に、背後から声が掛けられた。振り向けば、彼女がどこか落ち着かないような表情を浮かべながら、俺を見つめていた。そんな彼女は暫くして、意を決したのか、おずおずと口を開いた。


「……お、おかえりなさい」


 弱々しいながらもそう口にして、道の片隅で静かに咲く花の蕾のような、美しくも控えめな微笑みを浮かべていた。


 この言葉を聞いたのは、いったいいつ以来だろう。懐かしいその言葉に、頬の筋肉が徐々に緩む。照れ臭さを感じながらも、彼女に向かって精一杯の笑顔を向けながら言葉を返す。


「……ただいま、帰りました」


 その言葉の直後、目の前で華が咲いた。華やかに、そしてあでやかに──


 その笑顔は、殺風景で霞んで見えていた室内を色鮮やかに染め上げた。今まで何度も見てきた光景であるはずなのに、まるで魔法でもかけたかのように、一瞬にして暖かな色で満たしていく。


 寒空の下で出会った彼女は、さながら色を操る魔法使い。そんな彼女のくれた魔法を俺は、この先忘れる事は無いだろう。

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