第3話


 あれ以降、あの母娘との交流は細々と続いていた。


 あの夜から毎晩、あの公園に足を運んでいる。そして彼女はいつも俺より早く、あのベンチの隅で娘をあやしていた。俺はただ小指を差し出すだけ。たったそれだけの為に短くない道のりを歩いている。


 別に小指に何か仕込んでいるわけではない。ただあの赤ん坊に、幼い頃の自分を重ねてしまっただけだ。俺も赤子だった頃、同じように父親の小指で泣き止んだらしい。たったそれだけの事だった。


 それから、俺達は少しずつ会話をするようになった。


 俺自身の事、彼女自身の事、彼女の娘の事、そして──この娘の父親の事。


「なにを……やってんのかなぁ、俺は……」


 今は昼間、休日の昼下がりだ。相変わらず誰も居ないこの公園で、時を忘れてくゆらせている。

 吐き出す煙を風が攫っていくのをただ見つめる。陽の光があっても、頬を撫でる風はもう冷たい。



 自然とこの場所に足が向いていた。


 今まではただ何となくここに来ていた。だが今は、彼女の顔がチラついている。


 どれだけ寒さに打たれようと、どれだけ夜闇に身を晒そうと、どれだけ世間から弾かれようと、その整った顔立ちが崩れることはなく、涙を流す姿も、流した跡すら無かった。


 見る人が見れば、それは逞しい母親の姿に見えるのかもしれないが、俺には、何も感じず何も思わず心を殺しているようにしか見えなかった。


「はぁ──」


 空に煙を溶かしながら、その行方を何となく目で追っていた。風の赴くままながれる白煙の先──公園の出入口に、彼女がいた。


 弱々しい足取りで、俯いたままゆっくりとコチラに歩いてくる。

 懐にはいつものように赤ん坊を抱いている。だが今日は大人しい。そのせいで、目の前の彼女はいつも以上に弱々しかった。


「あ──」


 虚ろにさまよっていた視線が、俺の視線と交差した。挨拶でもしようとした時だった。彼女の瞳が揺れ始め、大粒の涙を流し始めた。


「え……ちょ──」


 あまりにも突然の出来事に、俺は慌てふためきながら、ただ見ることしかできなかった。それがあまりにも異常な光景に見えてしまった──


 彼女は泣いていた。顔を歪ませることなく、嗚咽混じりに泣きじゃくるわけでもなく、ただ音もなくひたすらに涙だけ流して泣いていた。


「っ?! ご、ごめんなさい──あれ……なんで──」


 彼女はふと我に返り、そこで初めて自分が涙を流していることに気が付いた。必死に拭うその涙は止まることはなく。ひたすらに袖を濡らし続けた。



 ✱✱✱


 立ち退きを言い渡されたらしい。


 彼女の流す涙が止まるのを待ち、いつものベンチに腰掛ける。何を言えば良いのか分からずただ沈黙していた俺を他所に、彼女はか細い声で事の顛末を話し始めた。


 この世の理不尽が、世間の不条理が、彼女を苛んでいる。


 彼女達に、一体何の罪があるというのだろう。無慈悲な仕打ちが、彼女達から居場所を奪い続けている。


「……いつか、こうなる事は分かってたんです──」


 彼女はぽつりと呟いた。


「……これ以上、迷惑はかけられません」


 いつもの口調で呟いた。


「どうして──」


 俺は言葉の続きを飲み込んだ。どうして助けを求めないのかと、言いかけて口を閉じた。気がついてしまったから。


 彼女にはもう、頼れるものが無いのだと──


 彼女の背負うモノは重すぎたのだ。傍から見ても、簡単に手を出せる代物ではなかった。それを彼女は理解し、自分だけで背負っていた。助けを求める声を上げることもなく、両手で赤子を抱き抱え、手を伸ばすことも叶わなかった。一人で背負うしかなかったのだ。


「すみません。それじゃあ、失礼します──」


 彼女は立ち上がる。今だおぼつかない足取りで、ゆっくりと出入口へと向かう。小さな背中がさらに小さくなっていく。それをただ見送ることしか出来なかったその時、赤ん坊の泣き声が耳に届いた。


 それと同時に立ち上がっていた。反射的に動き出していた。俺にはその泣き声が、助けを求める声に聞こえたから──

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