幕 祭

 その日、草原の上には抜けるような青空が広がっていた。

 空や山に比してあまりにも小さなやぐらの下で、わっと歓声が上がる。大祭の最後の取り組みである、馬上試合の勝者が決まったのだ。馬から落ちた敗者のもとに勝者が訪れ、手を貸し立ち上がらせる。固い握手を交わした両者に、盛大な拍手が送られた。最前列で見物していた王や族長が、若者に労いの言葉を送る。

「良い試合だった。草原一の腕前にふさわしい」

「ありがとうございます!」

 そして敗者にも、

「おまえも、いい打ち合いだった。これからも励むよう」

「はい!」

 更紗は、人垣の中ほどでやぐらにぼんやりと寄りかかり、それを見ていた。


 草原の真ん中で三人抱き合っていると、いつまでもいつまでもそうしていたいような気がした。けれどそういうわけにも行かず、やがて後から追ってきた奏や若衆が現れた。三人が泣きはらした顔で、なんとか事情を説明すると、奏は一番に銀の頭を抱き寄せ、よくやった、と讃えた。銀は気恥ずかしそうに、そっとその身体を押し戻した。

 奏は竜と更紗にも声をかけ、死んだ盗賊へ鎮魂の唄を奏でた。憎むべき盗賊であったが、死んだ男の魂が地に宿り、特に直接手を下した竜の魂を引っ張っていってしまわないよう、簡単ではあるが礼を尽くした。

 更紗は銀の新しい馬に揺られて帰った。途中でスイを弔い、同様に葬送の儀式を行った。親しかったスイが冷たくなっているのを見て更紗は少し泣いたが、銀は静かな表情をしていた。

「最期まで、俺を助けてくれた」

 更紗が泣いたからか、銀は不器用に口にした。

「いい奴だった」

 その言葉で更紗はますます涙が溢れてしまい、銀は困ったように更紗を見下ろした。

「銀」

 そこにかかった奏の控えめな呼び声に、銀は助かったという表情を隠しもせずに振り返る。

「スイと並べておいていいのか」

 奏は銀の様子に苦笑した後、スイを見下ろして尋ねた。スイと同じ場所に、物言わぬアラムの身体も横たわっている。葬送の調べは、もちろん彼にも送られた。良い友であった誇り高いスイと、敵であり盗賊であった男の遺体とを同じ場所に並べておいて良いのかという問いに、銀は迷わず頷き、答えた。

「いいよ」

 スイとアラムと、そしてここまで己を運んでくれたみどりとを順番に見る。みどりだけが、優しいまなざしを銀に返した。

「いい乗り手だった。死ぬ前に、俺に、このみどりを託してくれた。こいつがいたほうが、スイも寂しくないだろう」

 一定の居住地を持たぬ遊牧民は墓を持たない。死んだ身体は、家畜も人も同様に、草原のただ中に安置され、鳥に風にさらわれ、自然に朽ちていく。そうして、死んだ彼らは草原に還るのだ。

 それなら、と奏も納得したように頷いた。皆でもう一度短い祈りの文句を捧げ、その場を後にした。銀は最後にもう一度だけ、みどりとその主を引き合わせ、別れさせた。みどりは一度だけ惜しむように低くいなないたが、銀と更紗を背に乗せると、あとはもう立ち止まることなく歩を進めた。かえって竜のカザミのほうがスイと別れがたいのか、何度か振り返り、悲しそうな瞳をしていた。


「更紗」

 呼ばれて、更紗ははっと現実に引き戻された。義兄が心配半分、苦笑半分という顔で更紗を見下ろしていた。

「そろそろ出番だ」

 気が付けば馬上試合の後片付けもほとんど済んでおり、王や族長、各種目の勝者たちがやぐらの上に集まり始めていた。彼らに勝者の証である祝布を渡すのが舞手の役目だった。奏ら楽師たちも囃子の準備を始めている。勝者の表彰が終われば、最後の舞の奉納が行われる。

「ごめんなさい」

 更紗も慌てて壇上へ上がった。奏がその後を追いかけてくる。もの言いたげな視線を背中に感じて、更紗はますます足を早めた。いま、義兄と深く言葉を交わせば、突拍子もないことを口走ってしまいそうで怖かった。

 王が勝者へ一人ずつ賞賛の言葉を送り、それに続いて、更紗も彼らの腕に布を結んでいった。若者たちは皆、誇らしげで晴れやかな表情をしていた。釣られて更紗も笑顔になる。

 そして思い出す。銀がこの場にいる時は、いつも面倒そうな顔をしていた。

 更紗の前に並ぶ若者たちの中に、よく見知った兄弟の顔はなかった。


 一行が大祭の場へ戻った時は、既にとっぷりと夜が更けていたが、多くの者が彼らの帰りを待っていた。

 一行の無事を喜んだ後すぐに、更紗は女たちに連れ去られた。気絶させられ、さらわれ、挙句落馬までしたのだ。怪我はないか、あちこち確認され、甲斐甲斐しく介抱された。落馬した時したたかに身体を打ち、あざができていたものの、他に目立った傷はなく、母や姉は泣いていた。せっかくきれいに仕立て上げたばかりだった衣装は、泥だらけで破れている箇所もあったし、身に付けていた装飾品は一部奪い去られていた。けれど、それだけですんで何よりだったと女たちは全員が安堵した。

 兄弟はまた別で、彼らは軽傷と無傷だったので、水を浴びて血を流した後は、武勇伝を聞きたがる男衆に囲まれた。

 しかし彼らも、スイの死を聞くと衝撃を受け、無言でその死を弔った。

 銀はもともと己の功績を吹聴するようなたちではない。それは皆分かっていたが、今回の件に関しては、ふだんお調子者で通っている竜も口が重かった。しかしスイの死などを思うとやたらめったら追求することもできず、消化不良な興奮を人々の中に残したまま、その場は一度お開きとなった。銀と竜が王たちに呼ばれたからだ。

「よく戻った」

 王の言葉は、それだけだった。銀は深く一礼して返すと、養父に向き直り、借りていた剣を差し出した。

「ありがとう、親父さん。とても助かった」

 靖真は頷き、剣を受け取ろうと手を伸ばしたが、その動きが途中で止まる。不思議そうな顔をする銀に、わずかに笑顔を見せた。

「おまえが持っていろ。おまえはもう、それを扱うにふさわしい」

 驚いた銀はなにか言おうと口を開いたが、結局言うべき言葉を探り当てられず、再び口を閉じた。そんな兄を、やはり不思議そうに竜が見上げている。まだまだ幼く見えるその顔に、靖真は銀に向けたのと同じ微笑みを見せた。王が、銀へ向けたものと同じ口調で竜へ声をかける。

「竜、おまえも、立派な武者になった」

そして一呼吸だけ間を置いて、

「よくやった」

 大人の男たちと同じ扱いをされ、竜は驚いて瞬き、ぎゅっと唇を引き結んで大きく頷いた。これからどんなふうにも大きくなれる、可能性の塊であるその姿に、王や族長は目を細める。銀もまた、何も言わずに弟を見下ろした。

「スイも、最期までよく尽くしてくれたな」

「はい。良い馬でした」

 王は銀の答えを聞き、苦笑するようにまなじりを下げた。

「それにしても、もう新しい馬を見つけてきたのか」

「あの馬は……」

 銀は答えようとして言いよどんだ。一連の出来事を簡単に説明できる気がせず、困ったあげく短く答えた。

「スイも、納得してくれると思う。同じくらいいい馬です。あの馬のもとの主も、スイを認めてくれていました」

 いろいろと過程を省略した返事に、靖真は呆れたような顔をしたが、王は返って面白がって笑った。

「そうか。それならいいな」

 大祭の祭事は翌日以降に持ち越され、興奮冷めやらず落ち着かない人々をよそに、銀や竜たちは泥のように眠った。そして、女たちと夜を過ごした更紗が朝になって彼らの幕屋を訪れたときには、既にふたりとも姿を消していた。もちろん、彼らの愛馬も一緒だった。


 口が悪い者はスイがいないから逃げたのではないかと嘲笑したが、多くの人々は、彼らふたりが草原で一番の乗り手と弓の使い手であることは、もはや争って証明する必要のないことだと言い、祭を放り出して消えた二人を笑って許してくれた。

 更紗はそれらの発言で少しは慰められたし、ふたりが逃げ出したわけも分かると思った。口下手で、無愛想で、酒と人付き合いが苦手な銀が、この騒動のあと、面白がって色々と追求するであろう連中から逃げて消えるのも仕方ないと思った。銀を慕う竜がそれに付き合って出ていくのも分かる。

 それでも、ふたりに置いて行かれたという寂しさ全てを払拭することは到底できなかった。更紗だってうるさい外野から逃げ出したいのは同じだ。舞という役目があるから残っているし、だからこそふたりも更紗を誘わなかったのだろうとは思うが、それでも、という気持ちはどうしてもあった。

 草原の真ん中で三人抱き合っている時は、これからはかたときも離れないとまで思えたのに、一晩でこれだ。これだから銀は、と更紗は誰も見ていないところでこっそりため息をついた。それは母に見られていたようで、しょうがないでしょ、銀だものと慰められた。

 たしかに、銀のやることだからしょうがない、とは思う。

 だけど、いくら頭でそう理解していても、気持ちが立ち行かないこともある。多くのことを望んでいるわけじゃない。せめて、たったひとつの望みくらい、叶えてくれたって――

 そう、思ってしまうのは止められないのだった。


 汚れて破れた舞の衣装。多少見劣りしても汚れのないものに換えるかと問われたが、もとの衣装でいいと更紗は答えた。母が父が家族の皆が、そして誰より竜と銀が刺してくれた刺繍のある衣装で舞いたかった。

 王の口上が終わり、最後の舞の奉納が始まった。

 両手を上げると、しゃん、と手首につけた鈴が鳴り、笛の音がそれに続いた。鼓の響きが、馬の足音のように低く静かに入ってくる。幾人もの楽師の唄声がそれに重なり、低く高く、祈りの曲を紡いだ。

 楽に合わせて足で拍子を踏む。天頂をなぞるように大きく手を動かせば、風を孕んでふわりと袖が膨らんだ。裏地にちらちらと顔を覗かせ、楽とともに人々の目を楽しませる。天へ恵みの感謝を伝え、加護を祈り、これからも厳しい季節を越えていく決意を表明する――

 舞に込められたそんな思いは、いま更紗の頭にはこれっぽっちもなかった。


 ああ、前に舞をした時は、三人一緒だったのに。

 いまあのふたりは、どこにいるんだろう。

 どこでなにをして、だれを思っているんだろう。


 本当は舞なんて放り出して馬に乗り、ふたりを探しに行きたかった。更紗が言祝ぎたいのは、楽しませたいのは、慰めたいのは、昔からずっと一人だった。姉が結婚しても、同じ年頃の友人がお嫁に行っても、一緒に過ごしたい人が変わったことはなかった。

 仏頂面で、馬に乗る時だけ豊かに笑う、弟思いの幼馴染。

 舞手になんてなりたくなかったし、銀が馬乗試合に出なくても良かった。ただ、銀と一緒になりたかったのだ。

 人に認めてもらって、褒められる形でなくても構わない。銀が竜を手放せるくらい大きくなってからでも構わない。

 昔から、望みはたったひとつ、変わらない。それだけだった。


 でも今は、いろいろなことが目まぐるしく起こった。無数の視線を痛いくらい感じる。

 銀に来てほしい。ここから連れ去ってほしい。どこか遠くへ行きたい。

 ――ああ、いま下を向いたらきっと、涙がこぼれてしまう。


 まっすぐ空を見上げ、両の手も突き上げて、空へ請う祈りの形。楽の最後の音が終わっても、更紗はその姿勢から動けなかった。人々がざわめきだし、奏が声をかけようとその場から一歩動いた、その時。




 ビィィン――!!

 独特の貫くような風切り音がして、人々は一斉に音の出どころを探してあちこち見渡した。すぐにはその出どころは見つけられなかったが、続けて二度三度、同じ音がしてようやく遥か彼方の草原から届いている音だということに気付く。

「鏑矢か」

 短く、王は呟いた。通常の矢とは矢尻が異なり、射ることで音を発し合図に使われる矢だ。やぐらの上の面々からは、丘の上に黒点が一つ現れるのが見えた。そしてそれは徐々に近付いてくる。

 更紗は突然表情を変え、衣装の裾をさばいてやぐらの端へ行き、遠くを見つめた。やがて集まった人々も、草原の彼方に浮かんだ黒点が、疾走する黒と茶の塊であると理解した。

 更紗は、いつもいつもその馬たちを待っていた。遠くの丘の上にその姿を見つけると駆けて行き、彼らを迎え、おかえりなさいと笑って言った。

「銀」

 更紗は、ほとんど息だけでその名を呼んだ。


 その声が聞えるわけもない馬上の銀は、ひたすらに前へ走りながら、みどりの背でぽつりと小さく呟いた。

「更紗」


 広場は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。

 銀と竜が戻ってきた。大祭も終わるという時分になぜ。わざわざあんな目立つようなやり方で、そのうえ鏑矢まで射ってきて。馬比べと弓比べの勝者は、迎え討ってやろうかと鼻を鳴らした。おうやれやれと、無責任に煽る者がいる。厳かだった舞の奉納からにわかに活気づき、更紗は呆然と眼下を眺めた。

「ものども、落ち着け!!」

 そこに王が一喝し、血気盛んな若者も、一応は動きを止めた。静かにしろと、たしなめられるかと思い落胆した若衆たちは、続いた言葉に目を丸くした。

「大祭の最中に矢を放ってきた連中だ! 反逆行為と見なす! 迎え討て、止めろ!!」

「王!?」

 ぎょっとして奏が疑問の声を投げかけた。老人は振り返り、楽師や族長の一団を眺め、にやりと笑った。

「大事な舞手をやすやすと奪われるわけにもいかんだろう。せいぜいあがけ」

 すぐそばで立ち尽くす靖真がどのような表情をしているのか、見なくても手に取るように分かり、奏は冷や汗をかいた。なにしろ、彼が妻を盗み出した時、靖真がどんな顔をしていたか、忘れたくても忘れられるようなものではない。

 南の族長であり、更紗の父親であり、銀の養父である靖真は、ずかずかとやぐらの最前まで出て行き、野太い声で呼ばわった。

「南の若衆よ! 奴らの足を一番知っているのはお前らだ! 誇りにかけて止めてみせろ!!」

 おう、と勇ましく答える声は非常に頼もしいが、状況を楽しんでいるような声がいくらか混ざっていることも否めない。壇上の更紗、銀と竜の出現、王の言葉、靖真の態度ときて、現在どのようなことが起ころうとしているのか、だいたいの者が理解し始めたのだ。

 よし俺たちも混ぜろ、他の地方の面々も面白がって隊列を汲み出す。奏は、瞬きもせず正面を見続けている義妹の隣に歩み寄った。

「更紗」

 間近で名を呼んでも気付かぬ様子で、更紗はただただ前を見据えている。華やかな衣装の先から覗く指先が震えていた。

 いつも器用に家仕事をこなし、舞の時は繊細に艶めかしい動きを見せ、さらわれても屈せずに大男へ食らいつき、母のように兄弟を包み込んでいた手。その手が、さざなみのように震えている。

 おまえ、いつも遅いんだ、と。あとで銀を叱ってやろうと、奏は思った。


「歓迎されてるみたいだよ、兄貴」

 カザミの上で、器用に弓をしまいながら、竜は笑って言った。その声が妙に脳天気に聞こえ、銀も笑ってしまう。

「弓比べの勝者は今頃真っ赤になって怒ってるぞ、竜」

「それは、馬比べの方も同じだろ」

 ますます笑って竜は答えた。草原の民が誇る若者たちが、壁となって彼ら二人の行く先を阻んでいるというのに、あくまでも明るい。

「まあ、なにを言われても、止められても仕方ないだろ。舞手を盗もうってんだから」

 銀もまた吹っ切れていた。あの幼馴染を、これ以上一人にしておくわけにはいかない。大祭が終われば降るように湧くであろう縁談の中の一つになるつもりもなかった。

 そしてまた銀にはもうひとつ、必ず手に入れたいものがある。どちらも手に入れるためには、大胆な手段に出ることも辞さなかった。

 このままあの祭りの中に飛び込んで、かっさらう。更紗と一緒に、夢も未来も、全部まとめて。

「兄貴。おれが先に行って分断するから、兄貴はまっすぐ行きなよ」

「ああ。悪いな」

「いいよ。おれとカザミだって結構やるってとこ、見せてやるんだ」

 勇ましく、けれど気安くそう言って、竜はカザミの腹を蹴って前へ出た。


 竜を乗せたカザミが、ぐんと足を早めて右手へ回った。囲みのうち半分がそちらへ引き寄せられる。竜が手綱を引いて速度を緩めると、次々と野次が飛んだ。

「おい! 竜! 勝ち逃げしようったってそうはいかねえぞ!」

「降りてこい! 弓比べの仕切り直しだ!!」

「やなこった!」

 弓比べでいつも竜に負けていた少年たちが、わらわらとカザミに食らいつく。カザミは巧みにそれらをかわし、彼らを翻弄した。やぐらの上からその様子を見ていた王が、感心した様子でほうと唸った。

「弓だけじゃないんだな、あいつ」

「スイほどではないにしろ、カザミもいい馬ですよ」

 竜が場を引っ掻き回したあと、銀とみどりがやぐらに向かって直進してきた。銀は竜と違って速度を緩めたりしなかったので、だれも追いすがれない。最後に銀と対峙したのは、やぐらの正面に陣取った南の若衆だった。よく見知った顔を銀が睨むと、彼らは笑って吠えた。

「南にいるのはおまえら兄弟だけじゃねえってことを教えてやる!」

「おまえを止めて更紗を貰う!!」

「ふざけたこと抜かしてんじゃねえ! 押し通る!!」

 銀も大声で叫び返し、姿勢をぐっと低くした。しかし若衆たちは掛け声を合わせて担ぎ合い、高い位置に綱を張った。なるほど、それで止めようというのか。搦手に、銀は口の端を持ち上げて薄く笑い――


「みどりっ、跳べっ!!」


 鋭く命じた。

 予想外のその言葉に、観衆が息を呑み、声を失って見守る中、みどりは命じられるまま、忠実に踏み切った。

 奇跡のような放物線に、誰もが目を奪われる。

 完全に人馬一体となった彼らは、浅知恵をあざ笑うように軽く綱も人垣も飛び越え、美しく着地した。

 その瞬間、成り行きを見守っていた女子どもからわっと歓声が上がる。同時に、男衆からは感嘆のため息がもれた。竜が、見たかすごいだろとわあわあ騒いだ隙に足を掴まれ、カザミから引きずり降ろされる。

 銀と更紗の間に、それ以上行く末を阻むものはなかった。銀はただ真っすぐ進み、やぐらの手前で手綱を強く引き、みどりを急停止させる。ほんの数瞬、息を整えたあと、銀はやぐらの上を見据えた。

「親父さん!」

 銀が最初に呼んだのは、更紗ではなくその父親、銀自身にとっても養い親に当たる、南の族長靖真だった。呼ばれた靖真は、やぐらの端からじっと養い子を見下ろす。靖真は無言だったが、銀は構わず続けた。

「親父さん、欲しいものが、二つある」

「……言ってみろ」

 低く抑揚のない調子で促され、銀はまた間を取った。ごくりとどこかで誰かの喉が鳴る。銀がひゅうと息を吸い込む音が聞こえる。それほどまでに、静かだった。

「まずは、更紗」

 決してひるまず、躊躇せず。

「それから……父さんが遊牧していた土地。これから、俺に使わせてほしい」

 感情的になることはなく、淡々と、けれど迷いのないはっきりとした声だった。

「更紗と一緒に」

 風すらもなりゆきを見守り遠慮しているように、細く静かに草原を吹き抜けた。わずかな空気の揺れに、更紗の身体のあちこちについた装飾品が、鈴が揺れて涼やかな音を立てる。今や女も子どもも、若衆も、各地方の族長も、王さえも、固唾を呑んで靖真の答えを待っていた。

「……竜も、一緒に行くのか」

 だから、その問いには少なくない数の人間が驚き、視線を竜に向けた。同じ年頃の子どもたちにもみくちゃにされ、取り押さえられながら、竜はその問いにひょいと顔を上げる。やぐらの上の靖真を見返して、いつものようにひょうきんに笑ってみせた。

「行かないよ。俺は、親父さんとこの子だし。邪魔して馬に蹴られるのもごめんだ」

 からりと言ってのけるその言葉の裏には様々な葛藤があるはずだが、銀とは違う意味で、竜はそれを人に簡単に見せるたちではない。思い返せば、竜のそういう性格に助けられたことも多かったかもしれない。銀はふとそんな事に思い至った。

靖真は、竜の答えにそうかと頷き、次は横目で娘を見た。更紗は、呼吸をしているかもわからない危うさで、ただただまっすぐ銀を見ている。そして銀も、更紗を。

 靖真は静かに、長く、息をついた。

 元はといえば、そうなればいいと思っていた。そう願っていた。それが、思っていたのとは違うかたちで訪れただけのこと。それだけだ。

「…………好きにしろ。どうせ全部、おまえにやろうと思っていた」

 しっかりした声のその返答は、静まり返った広場の遠くまでよく届いた。

 ひゅう、と指笛の音や喝采の声が上がり、すぐに、しぃっと近くのだれかにたしなめられる。盛り上がろうとした気の早い人々は、銀と更紗がまだ言葉を交わしていないことに気付き、はっと息を殺してまた若い二人に注目した。

 静かな、静かな草原のまんなかで、彼だけが音を発することが許されているように、銀は堂々と口を開く。

「更紗」

 その響きを確かめるように、少し時間をかけて、もう一度。

「……更紗」

 更紗は答えなかった。返事をして言葉を発するどころか、呼吸することさえ忘れているように硬直している。強く握りしめすぎて白くなった握り拳が、色をなくした唇が、涙が浮かぶ直前のように大きく見開いた瞳が、細かく震えている。今や、竜と争っていた少年たちでさえ、ごくりとつばを飲んでふたりを見守っていた。

「来い、更紗」

 更紗がどうするか、なんと答えるか、全て見透かしているようなまなざしで。更紗はようやく呪縛を解かれたように大きく息を吸い、肩の力を抜いた。左右の父と王、そして義兄を見る。彼らのまなざしが優しかったので、更紗もようやく微笑むことができた。

 今まで、そう多くのことを望みながら生きてきてきたわけではない。厳しい土地に生きる女らしく、つましく、わびしく、しぶとく打たれ強く暮らしながら、ずっとずっと願っていたことは、たったひとつ――。

「――ありがとう、父さん」

 小さく告げると、父は聞こえていないふりをした。王が笑って父の背を叩いている。更紗もくすりと笑って、反対隣の奏を見る。彼は力強く頷いた。だから更紗も頷き返し――。

「さようなら」

 ひらりと、やぐらから飛び降りた。

「さ……!」

 思い切った行動に、思わず靖真も奏も手を伸ばしたが、間に合うわけもない。舞の衣装がひらひらと優美な曲線を描きながら更紗は落ち、ちょうどみどりの上、銀の前に収まった。

「……かやろう! もっと普通に来い!」

 更紗を受け止めた衝撃で一瞬息を詰まらせながら、次の瞬間銀は怒鳴った。

「ばかはあんたよ!」

 しかし更紗も負けじと言い返す。拳を振り上げ、思い切り銀の胸を叩いた。

「なにが欲しいものよ、ものなんかじゃない。一緒にいさせて、勝手にいなくなったりしないで――」

 あとはもう言葉にならず、酸欠の魚のようにぱくぱくと口だけが動いた。まるで間抜けな表情に、笑いながら銀もあふれる思いを言葉にすることはとてもできそうになかった。だから更紗を強く抱きしめる。すると更紗も銀を叩くのをやめ、胸に額を押し付けた。

 お互い、ずっとこうしたかったのだとようやく気付いた。更紗の豊かな髪に顔を埋めると、いままで知らなかった、柔らかく優しい香りがした。

 片手で更紗を抱いたまま、空いた手で手綱を引く。みどりはそれだけで銀の言いたいことを理解して、力強く走り始めた。

 今度こそ、わっと広場中に歓声が起こった。

「あいつ、やりやがった!」

「舞手を盗むなんて、前代未聞だ!」

「幸せに! 風がいつも共にあるように!!」

 怒りの声もちらほらあるが、大半は面白がって、笑い祝福し野次を飛ばす声だった。男も女も子どもも老人も、わあわあ好き放題にわめき散らして、追いつくわけもないのにみどりを追った。

 人垣を抜けてしまえば、もう阻むものは何もない。更紗と銀の前には、ただ草原が広がっているだけだ。それは血に染まった、狭く小さなものであるはずなのに、こうして大事なものと飛び出せば、どこまでも限りなく果てしない遠くまで広がっている、未来そのもののように思えた。


 * * *


「どこまで行く気なんだ、あの馬鹿どものは」

 あっという間に人の輪を抜け、丘を越え駆け去っていくふたりと一頭を眺め、王は呟いた。

「あのまま南まで帰る気か」

「まさか」

 族長の一人が反意を述べたが、王は呵呵と笑って靖真に目をやった。

「盛り上がっているし、今更ふたりで父親の前に帰って来れんだろう」

 納得ずくとはいえ、大事な娘をかっさらわれた靖真はさすがに肩を落としていた。深い後悔と悲しみのこもったため息を付き、面白がっているだけの王を見る。

 確かに、このあとのこのこ幕屋に戻ってこられても困る。顔を合わせるのは、お互いこの場から少し距離を置いて、心を整理し改めて場を設けてからにしたい。とはいえ、娘を嫁に出し養子が独り立ちし、新たな土地で遊牧を始めるというのなら、のんきなことを言ってもいられない。準備することは山ほどあった。

 どんな表情をしてよいか、よく分からないまま、靖真は残った息子を見下ろした。場が盛り上がるのに合わせ、竜と少年たちの争いも一時休戦している。竜は再びカザミに乗って、あちこちから、おめでとう、おめでとうと声をかけられていた。

 養父の視線に気付くと、竜は肩をすくめて笑ってみせた。

 仕方ないよ。兄貴と更紗姉だから。

 含み笑いの声が聞えるような気がした。

「さて――舞手が盗まれた! 仕方ない、今年の祭りはこれで終いだ!」

 やぐらの上から、朗々と王の言葉が広場へ響いた。人々は騒ぐのをやめ、老王に注目する。

「慌ただしい大祭だったが――草原に生きる以上、仕方ないだろう。ここはそういう土地だ」

 そこで王は一旦言葉を区切り、集まった人々を眺め、その向こうに広がる青々とした草原を眺めた。草の匂いを存分に含んだ人々の間を駆け抜け、空へと戻っていった。

「だが同胞よ、争うことの無情さを知れ、非常さを知れ。争うことの意味を知れ。その腕に守るべきものを持て。自らが背負うべきものを知れ。そのために争うことを無益と思うな。常に誇り高く馬に乗れ。我らは風とともに流れ、草原によって生かされている。常に、われらと風が共にあるように。草原に誇り高く輝く民であれ!!」

 おお、と人々が答えて吠える。その声は低く響いて、唸り、草原を揺らした。


 * * *


 草原を、みどりはまっすぐに進む。行くあてなどない。ただふたりでいるためだけに、馬はどこまでも先へ、先へ進む。自分がこんなにも自由だったことに、銀は初めて気が付いた。

「銀」

 腕の中で、更紗は震え続けている。泣いているのかと思ったが、違う。笑っているのだ。その顔を見て、銀も無性におかしさがこみ上げて声を上げて笑った。

「なんで笑うの」

「おまえが笑ってるから」

「だって、とんでもない飛び出し方しちゃった」

 笑いながら顔を上げ、更紗は銀を見上げた。

「父さん、今夜きっと泣くわ。娘がふたりとも、ろくでもない相手に獲られちゃったんだから」

「もともと俺にくれるつもりだったと言ってた」

「だとしても、ろくでもない相手であることには変わりないでしょ」

 相変わらず、口が悪い。だがその難点ですら、いまの銀には愛おしく思えた。

「更紗」

「なによ」

 いままで言えなかったのが嘘のように、言葉は素直に飛び出した。

「ろくでもない男かもしれないけど、俺はおまえが好きだよ」

 更紗は驚いて目を丸くして――それから優しく微笑んだ。

「言われなくても」

 再び銀の胸に体を預け。

「わたしもよ」

 みどりが駆け抜ける草原は、風を受け陽を照り返し、きらきら、きらきらと輝いていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

草原に風が輝く なかの ゆかり @buta3neko3

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

参加中のコンテスト・自主企画