六 対決

 果たして本当に正しい道なのかわからないまま何時間も走り続け、ようやく馬影が見えてきた、と思う間にそれらは絡み合い、動きが止まった。もう少し近付くと、馬が一頭と人が一人横たわっているのが分かった。そのそばで膝を付いているのが兄だと分かってからは、竜は安堵していた。倒れているのは、おそらく盗賊の一人だろう。血の匂いに落ち着かないカザミをなだめて、なんとか馬から降りた。

 もう少し近くまで寄ってしっかりその場を確認し、竜は息を呑んだ。倒れている馬は、竜もよく見知っている、何度もその背に乗ったこともある、兄の愛馬だったからだ。

「…………アラム」

 兄の、ほんのささやくような声が聞こえた。はっとそちらを見れば、横たわる人の手から力が抜け、今まさに死のうとしているところだった。張り詰めるような沈黙と緊張の中、ぽつりと、子どものようなあどけなさで最期の言葉が浮かんだ。

「いい……馬だったなあ……スイ……」

 竜は混乱した。なぜ、死にゆく盗賊がスイの死を悼むのか。なぜスイを知っているのか。なぜ兄は憎き盗賊の手を取って死を看取り、じっとそのそばで膝を付き沈黙しているのか。

 沁みるような沈黙に耐えかねて、とうとう竜は口を開いた。

「あに……」

「竜、来るなと言っただろう」

 竜の言葉を遮る、それは突き放す声だった。兄は他の年長者たちと比べて、竜に対し優しかったり甘かったりするわけではなかった。むしろ、親代わりだからと言って厳しい態度をとることのほうが多かった。けれどこんな冷たい声音を向けられたことは、初めてだった。竜を、弟を常に気にかけているからこその厳しさであり、こんなふうに背を向けたまま、突き放して拒絶することなど、今まで一度もなかった。

 思わず怯んで、カザミにくっついてあとずさりそうになった竜だったが、寸前でその怯える心を叱咤し踏みとどまる。なんのためにここまで来たのか、それを忘れ、また庇護される子どもに戻るわけにはいかなかった。

「兄貴にやめろと言われても、おれは兄貴について行きたかった」

「竜」

「だから来た。おれはもう、ガキじゃない。兄貴に止められても、自分で、自分の馬で、ここまで来れる」

「竜!」

 鋭い声で名を呼ばれ、反射的に口をつぐんだ。そして唐突に理解した。

 あれは、兄が前に市場で会って一緒に遠駆けしたという人物だ。アラム。そう、そんな名だった気もする。盗賊だったのか。

 そう思って死んだ男と、兄をもう一度順番に見つめる。今兄の背を覆っている感情は、哀悼だ。おそらく、スイに対しての思いが大半。だがそれだけではない。死んだあの男が最期にスイの死を悼んだように、兄もまた、あの男の死を悼んでいる。

 突然泣きたい気持ちが膨らんで、竜は唇を噛んだ。どうして兄は、こうも辛く厳しい役目ばかり背負わせられるのだろう。両親が、家族が友がみんなが殺されたあの夜、竜を守って歯を食いしばり、助けを求め逃げ続けたのは今の竜より幼い兄だ。その記憶を忘れられず、大事なものを大事とも言えずに遠ざけ続けたのも兄だし、更紗がさらわれる現場に居合わせたのも兄で、入り込んだ盗賊を手にかけたのも兄だ。そして今度は全幅の信頼を寄せていた相棒が死に、その死を共に悲しむことが出来た人を、同じ速さで走ることが出来るほとんど唯一の人を、おそらく兄は自分の手で斬ったのだ。

「兄貴」

 絞り出すように名を呼ぶと声が震えた。だからではないだろうが、ずっと追いかけていた背中が、そう大きくはない背中が、わずかに震えた。

 長い間、自分自身と、弟である竜を守り、暗い記憶だけを背負って、先の見えない道を走り続けた兄。

 兄は今、きっと泣いている。

 溢れかけた涙を、歯を食いしばって引っ込めた。兄にただ、幸せになってほしいと思った。兄が一人で抱え込んでいた重荷を分けて背負って、兄にはもう、穏やかで平凡な暮らしを手に入れてほしかった。そのためには、泣いているうちは絶対に荷物を分けてはもらえないだろうと思った。

 それらの思いをどう伝えたらよいのか、言葉を探しあぐねていると、生き残った黒馬がゆっくりと動いた。主だったのだろう、死んだ盗賊を悲しげに見つめていたが、静かに顔を上げ、優しい兄の髪に鼻先を寄せた。

兄と自分と、それから更紗しかその背に乗せなかったスイよりも、幾分柔らかい性格をしているのかもしれない。美しい黒毛はよく似ていたが、人との接し方は異なっているようだった。

「みどり」

 その馬の名なのか、兄はぽつりと頼りなげに漏らした。その声を聞いて、どうすればよいのか、やはり唐突に竜は理解した。自分がこんなふうにやり場のない思いを抱えた時、迷った時、兄はどうしてくれたか、それを思い出すだけでよかったのだ。

「兄貴、更紗姉を助けに行ってよ」

 兄は優しくないし甘くない。竜が迷い悩み困っているときも、手を取り導くようなことはしなかった。けれど、正しくその時なすべきことを教えてくれた。

 兄弟とは、依存し合うものではないはずだ。同じものを見て育った。だからきっと、同じ高さで並び立つことができ、たとえお互いに別の方向を向いていたとしても、その歩みを背で感じていられるだろう。

「兄貴、もういいよ。もう、おれのことなんて気にしないでいい。確かに、兄貴の言うとおり、おれは何もかも覚えているわけじゃない。いや、もうほとんど覚えてないんだ。でも、今までずっと兄貴と一緒にいたのは、兄貴に付き合ってたなんて、そんな理由じゃないよ」

 この思いを伝えて、昇華させてしまったら、おそらく兄と自分の向く方向は異なってしまうだろう。兄が求めている情景は、心の中で思慕しているものは、かつての家族だ。竜は違う。今の家族の中で幸せだったし、今の父母が竜にとっての親だった。生みの親のことを全て忘れ捨て去ってしまったわけではないけれど、今ある幸せの中で、かつてあったものを求め続けるには竜は幼すぎた。どちらが良い悪いではないが、兄弟の年の差で、その決定的な違いが生じてしまったのだ。

「おれは、兄貴と一緒にいたくて、兄貴みたいになりたかっただけだよ。ただおれがそうしたかっただけなんだ。でももういい。おれは、兄貴と一緒でなくても平気だ。もう、一人でだって、どこへでも行ける。だから兄貴は、もうおれなんて見捨ててくれていいんだ!」

 気づけば兄は振り返り、真剣なまなざしで竜を見ていた。この顔が、この瞳が、いつも誰を追いかけて、誰を求めているのか、竜だって知っていた。そして兄が見ていない時に、その誰かが兄をいつも追いかけていることも知っていた。彼らがお互いに想い合い、けれどさまざまな葛藤からそれを遠ざけて、それでもその思いを捨てられずにいることを、他の誰よりも強く確信している自信があった。

「だから兄貴、もう俺じゃなく、更紗姉と一緒にいてやってよ! 更紗姉は……更紗姉は、ずっと兄貴のことが好きだったよ! 他の誰を好きなのよりもずっとずっと強く、一番に、更紗姉は兄貴を好きだったよ!」

 思うままに叫ぶと、こらえきれなかった涙が数滴瞳の端からこぼれた。本意ではないその涙に、悔しくなって乱暴に袖で拭う。うつむいて呼吸を整え、だから兄貴も、とさらに言葉を続けようとした時、前方に影が落ちて頭を押さえつけられた。

「あ……」

 その手を知っていた。竜が調子に乗ってでしゃばりすぎた時、いつも静かに押しとどめるこの手。押し殺したはずの涙が、今度は一気に溢れ出た。たぶん、今自分は、この手のぬくもりと決別してしまったのだ。この、静かで、言葉足らずで、無愛想で――けれど優しい、そんな手が与えられるのは、おそらくこれが最後だ。

「竜」

「……はいッ」

 静かに名を呼ばれ、竜は慌てて返事をして、涙を拭った。その動きを、涙声を気にすることなく、兄は続ける。

「付いて来い。残りは数頭、賊の頭領もいる。父さんたちの仇だ。俺ひとりじゃ、手に余る」

 はっとして兄を見上げる。兄はもう、こちらを見ていない。けれどこれから何をするのか、手に取るように分かった。

「みどり、頼むぞ」

 おそらく、死んだ盗賊のものだったのだろう、残った黒馬に手をかけて飛び乗る。まるで昔から親しんでいたように、彼らの姿は馴染んでいてよく映えた。

「スイたちのこと、頼む」

 兄は竜の背後に声をかけた。振り向いて、ようやく奏やほかの若衆が追い付いて来たことに気付く。彼らは一人と一頭の姿に顔色をなくしていた。特にスイの死は、草原で一番の乗り手の相棒であっただけに、衝撃なのだろう。それでも彼らは、兄の言葉に応えてしっかりと頷いた。

 みどり、というらしい馬の耳元に、兄が何かささやいて鐙を踏む。彼らが歩み始めたので、竜も慌ててカザミに飛び乗った。

「竜、待たないからな。追い付いて来いよ」

 そう最後に言うと、兄はもう、振り返りもしなかった。一気に並足から駆け足へと移り、飛ぶように夕暮れの迫る草原を駆けていく。竜は呼吸を整えるために少しだけ間を置いて、それから、彼の愛馬であるカザミを、彼らに出来る一番の速度で走らせた。


 * * *


 相棒を亡くした痛みと、友をこの手にかけたおそれと、その両方に責め立てられると思っていた。しかし実際は、心はひどく静かだった。

 竜のおかげだということは、分かっていた。こと切れたスイとアラムの傍らで座り込んでいると、その血を吸い込んだ大地に、自身は身体ごと飲み込まれていくような気がした。竜が声をかけてくれなかったら、あの馬から二度と動けなくなっていたかもしれない。動けたとして、人の心を持たない怪物になっていたかもしれない。

 そしてこの、みどり。スイは乗る者を自ら選び、群れの中では統率力を持ち毅然とした態度を崩さなかった。みどりはそれよりも温厚なのか、瞳も、朝の空のような穏やかで優しい目をしている。それでもその走りはスイと同じく見事の一言で、軽やかな風となって銀を運んだ。

 起こった出来事を胸の中に落とし込んでしまえば、あとの思考はこれから目指すものに向かった。それは、親の敵であり、先ほど殺した友の親でもある盗賊の頭領ではない。目指すものはただ一つ。更紗だった。

 更紗のために向かっていると、納得してしまえば、あとはとめどなく更紗への思いだけが胸の中を駆け巡った。

 同い年で、親同士が縁続きで、同じ草原の南を放浪する一族の娘だった、更紗。物心ついたときには既に心の中に彼女がいた。子どもだった頃から変わらずに存在する、胸の多くの一番傷つきやすい柔らかい場所に、彼女は昔から住み着いていた。

 一番古い、はっきりとした記憶は、まだ歩くのさえおぼつかない竜を抱えて三人で遊んでいた時のことだ。更紗がへまをして竜を泣かせてしまった。幼い竜が泣くのなんていつものことで、放って置いてもそのうち疲れて泣き止むし、あやせばもっと早く泣き止むと銀は知っていた。だから放って置いたのだ。けれど更紗は、銀が気付かぬうちに自分を責めて、静かに静かに、涙を流していた。

 いつも強気な更紗が泣いたのでさすがに面食らって、銀は慌てて何か取り繕おうとした。けれど小さな子どもがうまい言葉をすぐに見つけられるわけもなく、更紗はますます泣き、更紗が泣いているのを見て竜も一向に泣き止まない。やがて騒ぎを聞きつけた更紗の姉がやって来て、事情も聞かず銀に拳骨を浴びせると、竜だけ抱き上げ、どこかへ連れ去った。更紗と二人残された銀は、どうにかして更紗を泣き止ませようと必死だった。

 更紗のせいじゃない、とか、うまいもんもらいにいこう、とか、そんな言葉では更紗は泣き止まなかった。ほとほと困り果て、銀はとうとう、最後の手段に出た。竜がなかなか泣きやまない時と同じやり方で、更紗をあやしたのだ。

 泣くな、いい子だから、と声をかけ、額と額を突き合わせて頭を撫でる。更紗は驚いたように瞬き、涙もそこで引っ込んだ。よしよし、ともう片方の手で背をさすると、更紗は呼吸を忘れたように嗚咽も止めた。やがて落ち着きを取り戻した更紗は、ごめんね、ありがとう、と簡単な言葉を口にした。いいよ、と銀は答え、手をつないで竜を迎えに行った。

 こんなに克明に覚えているのは、それがごく珍しい出来事だったからで、思い出の中の更紗はいつもだいたい笑顔だった。

 馬比べで、銀より先に到着していて、後から転がり込んできた銀を迎えると、息を弾ませ笑ってどうだと胸を張る。

 子どもたちの輪の中で、次々と新しい遊びを思いついては、男も女もなく子どもみんなを巻き込んでいたずらに加担させ、みんな一緒に叱られた後ごめんねと笑う。

 盗賊から逃れ辿り着いた市場で、目覚めた時そばにいた。子どもと少女との境目にいたような年だった更紗は、笑おうとして失敗してぐずぐず泣いた。不細工な泣き顔を見て銀が少し笑うと、ぽかりと頭を叩かれた。

 これからはうちの家族の一員だと引き会わされた時、きょとんと目を丸くして驚いていた。まだ時々わけもなく泣いていた竜を抱きしめ、泣いていいよ、いい子ね、いい子、と、いつかの銀と逆のことを言ってあやしていた。姉が思わぬ相手へ嫁ぐ時、腕をぐるぐる振り回して怒りながら、姉へ贈る布へ夜を徹して刺繍を続けた。そんな更紗に付き合わされて、銀は話を半分以上聞き流しながら横に座っていた。

 銀と竜が放牧から戻ると、いつも娘らしくない態度で走り寄って迎えてくれた。銀の夜歩きに付き合って、冷たい夜のふち、さみしげな横顔で舞手になるのと告げた。星空と夜露の舞台で、できたばかりの衣装をまとい、くるくる、くるくると舞を舞った。それは夢のような美しさで、銀は思わず呼吸を忘れ――

 脈絡なく、自然に笑みがこぼれた。場違いだったが、止めることもできなかった。

 おそらく、竜とは随分距離が開いてしまっただろう。涙声で必死に竜が言っていたことを、心の中で繰り返す。もう自分のことは捨て置いていい、一人で平気だと、生意気なことを言っていた。いつの間にあんなことが言えるほど大きくなったのだろう。軽く抱き上げてしまえるほど小さかったのに、背が伸びてもっと小さな子にものを教えるようになって、きっと、己より大きくなってしまうのだろう。寂しさも少しあるけれど、あの弟がどこまで大きくなってどんなふうに草原を駆け回るのか、楽しみでもあった。

 もう自分は、竜の兄だけでなくてもいいのか。

 それなら、この胸を焦がす思いに、身を委ねてもいいのだろうか。奪われ、守られるばかりだった自分に、そんなことは望めないと思っていた。それを与えられるのではなく、自ら勝ち取り、手にすることが出来るのだろうか。

 それは――。それは――。

 八年前のあの夜からこちら、こんなに未来が楽しみで、こんなに希望を持ったのは初めてだと、銀は思った。


 やがて、アラムを置いて先行した一団が見えてきた。彼らの中にスイやみどりほどの駿馬はなく、乗り手も上等ではないのだろう。慌てふためきながら逃げているのが、遠目にも分かった。

 しんがりを走っていた芦毛の馬が、いち早く銀に気付いた。賊の頭領が乗っている馬だ。みどりの脚が早まる。見る間に銀とみどりは追い付いて、賊の頭領はさっと素早く馬を反転させた。荷物のように乗せられている更紗の衣装が揺れて、先日の晩も聞いた飾り玉がぶつかりあう音がした。

「お頭!!」

「お頭より、俺が!」

 慌てて、先を走っていた手下たちが戻ってくる。頭領は一喝してそれを止めた。

「お前たち、戻れ!!」

 大声に、手下たちよりもむしろ彼らの馬が驚き、怯えた様子で足が止まる。みどりも、つい先程までは彼らに連なる馬であったはずだが、立派なことに、怯える様子は一切なく堂々立ち続けて見せた。

「ただの無鉄砲な小僧だと思った俺が間違いだった。こいつは俺とやりあうまで止まらねえ。だからお前らはさっさと国境へ逃げろ」

「それなら、その女だけでも」

「こいつはこの女を取り戻しに来てるんだ。お前らがこの女を連れて行ったら、俺の後はお前らが追われることになる」

「お頭が負けるかよ!!」

 賊ながら威風堂々とした頭領に比べ、手下たちは終始慌てていた。その言葉も、銀に聞かせ、自らを鼓舞するような言い方だった。そうだがな、と手下たちの頼りなさも分かっている様子で頭領は笑んだ。

「俺が国境に着かなかったら、お前ら、しばらくこの土地を離れろ。そうした方がいい」

 確かに、この頭を打ち倒し更紗を取り戻すことができれば、手下たちをわざわざ追う価値はなかった。彼らはまだ納得はできていなそうだったが、返す言葉が見つからなかったのか、未練たらしくこちらを振り返り振り返り、まとまりのない様子で西方へ去っていった。頭領さえいなければ、その次に彼らをまとめるものなどいないのだろう。もしかしたら、アラムがそういう存在だったのかもしれない。

「そいつは、みどりだな」

 銀が草原の先を目で追っていると、男が低く呼びかけた。言いながら、すらりと光るたちを抜き放つ。銀は意識をそちらに戻して、頷いた。

「その馬には、俺の息子が乗っていたはずだが」

「俺が殺した」

 簡潔に答えると、そうかと男は目を伏せた。そしてすぐにきっと顔を上げ、目にもとまらぬ速さで馬の腹に蹴りを入れると、銀とみどりに一息に距離を詰めてきた。銀が指示するのより早く、みどりが避ける。おそらくみどりは、この男と馬の動きをよく知っているのだろう。それに救われたと考えながら、銀はあまりの速さと鋭さにごくりとつばを飲んだ。

「ち、めんどくせえ」

 たった一度のやりとりで、みどりが相手であることの意味をさとったのか、男は忌々しげに吐き捨てる。

 遅ればせながら銀も剣を構え、相手を見据えた。族長の幕屋で見た時と同じ、一族の男たちとそう変わらない外見の持ち主だ。明らかに南国の血が混ざっていた外見のアラムとは全く似ていない。伸びっぱなしを結わえた黒く艶のない髪も、傷だらけの肌の色も、確かに草原の民が持つそれと同じだった。けれど男は草原の一族ではない、盗賊なのだ。

「小僧、これは、おまえの女か」

「そういうわけじゃない」

 銀は慎重に言葉を選んだ。乱れないよう、ゆっくりと呼吸を繰り返し、続ける。

「でも、大切な家族だ」

 男は薄い笑みを崩さぬまま、そうかと答えた。そしてまた、なんの前触れもなく斬り込んでくる。銀は必死でそれを受け止めた。

 男の一撃一撃は重く、そして鋭かった。長い時を盗賊として暮らし、数多くの恨みを買い、多くの人間に疎まれながら生き抜き、部下たちには慕われ、美しい芦毛の馬を乗りこなしているだけはある男なのだろう。

 一合、二合と打ち合う。男の太刀の激しさに、銀は受けることしかできない。

 確かに、草原の一族も盗賊も、どちらも狭量だったのだろう。両者とも、お互いを認め合おう歩み寄ろうとはしなかった。しかし草原はそれが許されるほど広くはなかった。豊かではなかった。無限ではなかったのだ。この厳しい生存競争の中で、せめて自分の近くにいる家族たちを守ろうとした者を、誰が裁けるであろうか。たとえその方法が、他者から奪うようなやり方であったとしても、だ。

 結局は当事者同士、血で血を洗うしか納める方法はない。

 この男に二親を家族を仲間を友を殺された。この男の息子を殺した。仲間を殺した。今ここで己が殺されたら、またどうしようもない憎み合いが続くだけだ。

 負けるわけにはいかない。

 馬上で銀は吠えた。剣を前に突き出して、勇ましいみどりと一緒になって前へ押し進む。銀の得物が初めて相手に届いて、男の肩を浅く斬り裂いた。男も獣のような唸り声をあげ、銀の左腕を狙う。直撃は免れたが、手綱が切れ体制が崩れた。男はなおも追い打ちをかけるように大きく剣を振りかぶる。馬に積まれた更紗が、更紗の腕が髪が服が揺れ、落ちそうになった。銀は思わず叫んだ。

「更紗!!」

 そのため、相手の剣の動きに集中できていなかった。まっすぐ銀に向けて振り下ろされる刃から逃れるすべは、もうないように思われた。いやゆっくり落ちてくるように見えるその刃から目が離せずにいると、みどりが大きくいななき、巨躯を揺らした。

 手綱もなく、その動きに全く対応できていなかった銀は大きく体勢を崩し半ば馬から落ちる。しかしそのおかげで再び男の剣から逃れた。馬上に戻ろうとした銀は、男の追撃がないことに気付きはっと相手を見やり――そして愕然とした。

 目覚めた更紗が、必死で男に抗っていた。

「放せ、小娘!!」

「いや、いや!!」

 不安定な馬上で、全体重を駆けてぶら下がるように男の腕にしがみつき、太刀を奪おうともがく。しかし歴戦の男がそんな淡い力に屈するわけもなく、あっけなく更紗は腕を取り押さえられ、荷物のように馬上から振り落とされた。

「更紗」

 銀は一瞬も迷わなかった。更紗を追って馬から降りる。視界に、落馬してすぐには動けなくなっている更紗へ太刀を振り下ろそうとする男が映った。

「更紗!!」

 大声で名を呼んで、銀は更紗に向かって飛んだ。そして更紗にぶつかり、その勢いでもって小さな身体を抱いたまま転がる。振り向くと、今まで更紗がいた地面に男の太刀が突き刺さっていた。

「銀」

 腕の中で、更紗もほとんど反射のようにうつろに銀の名を呼んだ。その声に、強く抱きしめることで答え、何も言わずに胸の中に更紗をかばった。

 男も馬から降りて太刀を地面から抜き、こちらへ向かってくる。銀の得物である預かり物の剣は、更紗を追って馬から降りた時にどこかへやってしまった。更紗を背中側へ回し、舌打ちして銀は身構える。おそらく銀の剣も、みどりの近くの地面に落ちているだろう。けれど草に埋もれ、正確な場所はここからでは分からない。この状況でそれを探り当て、再び攻守を互角へ持っていく方法が、銀にはさっぱり思いつかなかった。みどりも、心配そうにぐるぐると動き回ってはいるが、男の鋭い眼光はその動きすら牽制していた。

 ゆっくりと近付いてくる男をまっすぐ見据えて考えていると、震えている腕が横に並んだ。更紗だ。

「下がってろ、更紗」

「いやよ」

 答える声も震えていたが、てこでもうごかないと決めているようだった。銀は腕だけで更紗をかばうが、それがなにひとつ防げないことは頭では分かっていた。

 男はそんな銀の姿を見て楽しむように、ますますゆっくりと歩を進める。

「おまえは、たしかに俺が昔殺した連中の生き残りかも知れん」

 そしてあくまでも楽しげに、小さな子に言い聞かせるようにゆっくりとそんな言葉を吐いた。更紗が驚いたように銀を見上げたようだったが、銀は男から視線を外さなかった。

「だがおまえは俺の息子を殺した。手下を殺した。お互い殺し合う理由は十分ある。そこの娘は、高く売れそうだったから勿体ねえが、その態度なら仕方ねえ」

 そして太刀を振りかぶる。銀は無駄な行為と分かっていながら、横の更紗をかばって抱きすくめた。そんな無駄な抵抗を嘲るように、男は高らかに笑い声を上げた。

「いい絵だ。仲良く逝きな」

 風が、吹いている。腕の中の更紗は、暖かく柔らかい。

 その時銀の頭をよぎったのは、そんなことだった。


 ――ヒュッ、と風切り音がした。

 続けてどん、と何かが深く突き刺さる音。

 斬り裂かれる衝撃は、いつまで待ってもなかった。

 いつの間にかつむっていた目をゆっくり開くと、男の手から太刀が抜け落ちるところだった。慌てて後ずさって避ける。今まで銀と更紗が立っていた場所に、信じられないと言うような顔つきの男が、声もなく倒れ込んだ。

 その背に、まっすぐ矢が突き刺さっている。

 言葉もなくそれを見つめた後、銀は視線を引き上げた。芦毛の馬に、対照的に黒いみどり。そしてそれらより少し遠くに、栗毛の馬。

 その馬のことを、スイと同じくらいよく見知っている。そしてその馬に跨る人物を、銀は誰よりも、そう誰よりもよく知っている。

 弓を構えた格好のままの竜が、カザミに乗ってゆっくり近付いて来る。


 はじめに動いたのは更紗だった。

 銀の身体を突き飛ばすように腕から逃れ、転がるように竜とカザミへ走り寄る。その姿は、先ほど血まみれの銀がやぐらへ現れた時の養母とよく似ていた。そしてその時の養母と同じように、更紗はずり落ちるように馬から降りた竜の体を一通り調べると、きつく、きつく抱きすくめた。

 それを確認すると、銀は足元の男へ視線を戻した。男はもう動かない。一応しゃがみ込み、呼吸もなく脈も打っていないことを確認した。竜の矢は、どうやらひどく正確に心の臓を貫いたらしい。

「兄貴」

 頼りなげな声が銀の名を呼んだ。更紗から開放された竜が、よろよろとこちらへ近付いてくる。しゃがんだ銀と立っている竜とでは、竜のほうが視線が高い。銀は弟を見上げ、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「助かった。…………ありがとう」

「兄貴」

 竜は両手をぎゅっと握って震えを隠そうとしたが、それでもぶるぶると震えはおさまらなかった。強く握りしめすぎて白くなっているその両手を、銀は覆うように包み込んだ。

「竜」

 先ほどの弟は、随分大人びて見えた。どこで覚えたか知れないような口ぶりで、生意気なことを言っていた。けれど今は一転して幼く、まるで盗賊に襲われて逃げる夜、馬上でずっと震えていた時のようだった。

 気づけば銀も竜を抱きしめていた。竜の頭が、ちょうど具合良く銀の方に収まって、その背をぽんと撫ぜると竜はわあと泣き出した。

 いくら覚悟を決めたって、まだ十三の弟は、人を手にかけることになるとは思っても見なかったのだろう。けれど遠くから絶体絶命の更紗を見つけて、この弓の名手は射らずにはいられなかったのだ。

「おまえが来てくれてよかった。本当だよ。ありがとう、竜」

 礼を繰り返すと、竜は激しくしゃくりあげた。弟にこんなに真摯に礼を言ったのなんて、考えてみれば初めてのことかも知れなかった。

 背負うものがあるということは、なんて面倒なんだろう。死ぬことも、死なすことも簡単にはできないなんて。しかし肩を濡らす涙のなんてあたたかいことだろう。このあたたかさのためなら死んでもいいと、矛盾したことを思えるほどに。

 唐突に、銀と竜は細腕に抱き寄せられた。更紗だ。更紗も泣いていた。静かに、静かに泣いていた。けれどその涙に言葉をかける必要などないのだと、銀は思った。

 あたたかい更紗の腕に抱かれながら、銀もこの短い間に起こった出来事を思い返した。初めて人を殺したこと、友人と相棒の死や竜の言葉など――考えていると、鼻の奥が熱くなるのを感じた。

 竜だけでなく更紗にも腕を回して抱きしめながら、ああ俺は今泣いているんだと、ぼんやりそんなことを思った。

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