EGOIST

相心

EGOIST

 十二月二十五日。世間はクリスマス一色である。街中は活気に満ち溢れ、僕の目の前にも大勢のカップルがたむろしている。彼らは大抵お揃いのパーカーを羽織っていた。背中には『KAKOI』と筆記体で記されており、両手で円を作るデザインがプリントされている。

 そう、今日は彼女の公演日だ。



 南方みなかたかこい――弱冠十八歳でデビュー。ファーストシングルが口コミを重ね、気付けばミリオンを達成。そこから出す曲すべてがオリコン一位。まさに二十一世紀の歌姫と呼べるだろう。

 師走並の寒さが押し寄せていると気象予報士が述べたのが一ヶ月前。今ではそれよりも寒くなってきたように感じる。しかしこの会場内は例外だ。人口密度の高まった熱気が体温の上昇を余儀なくさせる。

 一曲目を歌い終えた彼女は、すぐに二曲目へと突入する。昨年高視聴率を獲得したドラマの主題歌だ。観客は一瞬歓声を挙げ、すぐさま静寂に包まれる。偽物と本物との狭間でもがき苦しむ主人公を表現した歌詞で、切なさが胸に染みる曲だ。

 彼女の声は、やはり可憐で美しく、そして強い芯がある。聴く者全てを魅了し、依存性を高めさせる。まるで中毒患者達の集いとも言えるだろう。もちろん、これは比喩だ。ただ、それだけ南方かこいという人物が素晴らしいということを述べたかった。

 隣の二人組の男達は僕が席に着いた際には品のない話をしていたが、今では閉口し、じっと彼女を見つめている。また僕の左側にいる女性は瞳を閉じ、自分の世界を創りながら彼女の歌に耳を傾けている。その世界で形成された水滴が瞳から流れてはいるが、僕は見なかったことにした。あまり周囲ばかりを見るのは変人に思われるだろうし、今は彼女だけに集中するべきだと思ったからだ。

 現在二十二歳の彼女は今日、公演を迎えていた。僕は、数万を超える人の中の一部として彼女を見つめる。そして、あの日々を思い出す――。







 入学して早々に桜の花びらは散り、例年になく気温が高かったことを覚えている。 児童から生徒に変わった感覚はまるで皆無で、先生からは小学七年生だと揶揄された。けれども僕達は意に介さず、中学生という立ち位置に興奮していた。全てが新鮮で、初めてのことばかりで疲れたが、それすらも楽しかった。

 好奇心が旺盛だった当時の僕は、屋上に行ってみたかった。先生達は許可をしていなかったが、先輩達も勝手に侵入していることは知っていたので、後は誰にも見つからずに行くだけだった。


「なぁ、知ってるか? 屋上にいる女の幽霊」


 小学校からの付き合いのカズが屋上というワードを発した時、一瞬自分の内心を読んだのではないかと驚いたが、実際はオカルトめいた話題で安心した。よくある学校の怪談だ。それはそれで俄然屋上に対する興味が湧いたので僕は彼に尋ねた。


「聞いたことないな。で、その幽霊はどんなことをしてるの?」


「誰もいない放課後にな、聞こえるんだとよ。怨念の込められた女の嘆きが」


 音楽室ならピアノが勝手に鳴る、トイレなら花子さんがいる、というありふれた内容には辟易していた。聞いた限りまた何かの噂なんだろう。僕は適当にカズをあしらった。

 そしていよいよ実行日。部活もなく早く帰宅できる月曜に僕は焦点を当てた。誰にも見つかってはいけないというスリルが僕を高揚させる。普段は行かない領域へと踏み込んだ瞬間、新たな世界をこじ開けたような錯覚に陥った。そこはドラマで見たような光景ではなかったが、校庭を見下ろすと、野球、サッカーなど外を生業とする学生達が溌剌と部活に励んでいる。この学校の頂上にいるのだと実感できた。

 黄昏れているのも束の間、目の端に何者かを捉えた。カズが話していた陳腐な怪談話が脳裏をよぎる。たとえ噂だとしても、その現場に居合わせると体は硬直し、まともに動くこともできない。僕はかなり焦った。こんなことならカズも連れてくればよかった、と後悔の念に駆られた。


「ねぇ」


 その声に、まるで拘束から解き放たれたかのように体の自由が戻った。首を僅かに左に曲げると、女の子がいた。足はあるし、髪が特別長いわけでもない。普通の女子中学生だ。彼女が例の噂の元とは到底思えず、やはり噂というのは信用できないなと強く感じた。


「君、ここは立入禁止でしょ。何で入ってくるかなー」


 自分は許可されているような口ぶりではあるが、それはこちらも同意見である。


「その言葉をそっくり返したいね。あなただって禁止でしょ?」


「私はいいのよ。ここは練習にはもってこいの場所だから」 


 その発言の内容を理解することはできず、僕は困惑の表情を浮かべていたらしい。彼女はむっとして口を開く。


「何よ、まるで私がおかしな人みたいじゃない。いいわ、教えてあげる。ここで私は歌を練習しているの」


「へぇ、合唱部なのかい?」


 僕はこの怪談話の元凶は彼女の可能性を再度考えた。つまり、合唱部に入ったものの、歌が下手な彼女が屋上で練習。それを偶然聞いた生徒が幽霊と勘違いして話が広まったのだと推測した。しかし、彼女はすぐに返答することなく、機嫌も優れないままだ。どうやら合唱部ではないらしい。


「……はぁ、違うわよ」


 一言の否定の後、小さな口から大きく息を吸い、彼女は言の葉を空気に乗せた。その声は僕の五感を飲み込み、肌を震撼させるには十分すぎるものだった。全て海外の言語で、勿論内容は不明だ。ただ、流暢な発音の snow と、抑揚による感情表現から、冬の季節の切ない男女の間柄だけは想像できた。 

 歌というもの自体、たいして興味もなく、好きな歌手も存在しなかった。けれど、この瞬間に僕は名前も知らない少女のファンになっていたに違いない。

 歌い終えた彼女に、自然と両手を打ち合わせていた。


「あの、とりあえず……すごかった。うん……すごかった」


 我ながら薄い感想だと思ったが、それしか浮かばなかったのだから仕方ない。


「何? その感想。別にいいけど」


 機嫌が良くなったのか、ようやく彼女は頬を緩めた。僕は怪談話は間違っていなかったと思った。なぜならこの歌声は人を感動の渦へと引きずり込むから。一度聞いてしまえば、その魅力からは逃れられない、そのような恐怖。


「君、名前は?」


 その問いは、僕もしたかったものだった。けれど、僕はこの時期名前に対してコンプレックスを抱えていた。だから、ずるをした。


「……須永だけど。『必須』の『須』に『永遠』の『永』で須永」


「須永ね……で、名前は?」


「……」


 最も避けたかった疑問だったが、これに返答しなければ彼女の名前は聞けない。さらにずるをすることも可能だったが、彼女にはしたくなかった。


「そう。なら私が先に言うわ。ミナカタカコイ。『南』に『方法』の『方』でミナカタ、カコイは木偏に『存在』の『存』でカコイと読ませるの」


 空中に文字を記し、彼女は、南方栫は教えてくれた。


「変わった名前だと思った?」


「……いや、珍しくて覚えやすいと思うよ」


「そ。私は最初嫌だったわ。女の子らしくないし、漢字も不細工。親は『囲』よりも、こっちの方がかっこいいだろ、とか言って今の漢字になったのよ。本当ありえないでしょ」


 心底うんざりした表情を見せる南方。再び機嫌が悪くなったようだ。さらに彼女の不満は続く。


「それに、『かこい』とか地味でしょ。キラキラにもならないし、その癖読みにくいとか最悪……でも、今は少しだけ落ち着いたわ」

 

 それは、諦めた、ということなのだろうか。確かに名前の決定権は僕らには存在しない。生まれてすぐに自我でも持たない限り。


「諦めたってことなの?」


 愚問であることは自分でも理解していたが、思わず声に出していた。

 

「違うわ。前向きに捉えるようにしたのよ。『囲い』は周りを取り巻くもの。だから私は人の心を、目を、耳を囲ってやろうと思ったの。歌でね」


 否定から肯定へ、はたまた傲慢な思考へと移動している気がしたが、不思議と不快感はなかった。むしろ南方なら、実現できるだろうと思った。今の僕にはそこまでの境地には達せないが、これだけは伝えよう。


「名字は須永。名前は――」







 続けざまに奏でられる音と歌の調和に魅了され、時の流れが狂わされる。過去を懐かしんでいる間に、彼女は三曲を歌い上げていた。今は観客に曲の紹介をし、感謝の言葉を述べている。


『――なんと言っても、今日はクリスマスですね。みんな来る場所間違ってない? 大丈夫?』


 ユーモアを加えて観客の心を掴みつつ、一つの問を掛ける。


『皆さんは、冬が好きですか? 寒いのは嫌いですよね。私も朝は布団から出たくないです……けど、それも季節が移ろいでいる証しです。雪は勿論、息が白くなって、普段なら見えないものが見えたり……月がさらに美しく見えたり……一つ一つが当然のようで当然ではありません。今だけのものです。そうやって考えると、どの季節も素晴らしいですよね。皆さんも、今日という日を当然だと思わず、大切に過ごしてください。是非、今日は楽しんでいってください』


 拍手が起こり、彼女は深々と頭を下げる。そして、次の曲が始まる。序奏が流れた瞬間、僕は再び過去の扉を開けた。この曲は、南方かこいのデビュー曲だ。






 高校を卒業し、都会の大学への進学が決まった僕は、引っ越しやら手続きやらに追われ、春休みも碌になかった。入学し、どんなバイトやサークルを選ぼうか悩んでいた時、親父から連絡があった。なんでも親父の旧友が事務所を設立したものの、人員が足りなくて困っているらしい。そこで僕に白羽の矢を立てたというのだ。はた迷惑な話だったが、バイトはまだ決まっていなく、時給も悪くなかったので面接に行くことにした。最悪少しだけ働いて辞めればいい、そんな軽い気持ちだった。

 事務所は想像したよりも小さく、本当に場所が合っているのか何度もスマホの地図で確認をした。最終的に間違いではないと判断して入ると、受付の女性がすぐに僕に反応し、要件を尋ねてきた。面接予定の須永です、と伝えると、奥の部屋へ通される。どんな人が対応するのかと緊張しながら待っていると、四十代中頃と思われる男性が現れた。


「初めまして。卯月うづき久良ひさよしと言う者です。今日は来てくれてありがとう。まぁ楽にして」


 僕も名前を名乗り、いつものごとく名前について少々話す。中学時代に比べれば慣れたものだ。会話を続けていくと卯月さんが親父の旧友であることが判明した。僕は面接の相手がこの会社の社長であることに緊張度合いが増したが、同時に事務所名のグッドムーンが卯月さんの名前を引用していることに気付き、可笑しくもあった。


「君のお父さんとは高校時代の親友でね。しかしもう大学生かー。時の流れを感じるねー。僕なんてまだ独身なんだけどね……っと関係ない話をしすぎちゃったかな」


 卯月さんは立ち上がると扉を開ける。ただの雑談で終わり、これでいいのかとも思ったが、人手が不足しているなら仕方がないのだろう。


「この後も予定が詰まっててね。もしよければ、明日から手伝ってほしいんだが、どうだい? 仕事内容はその資料の通りなんだけど。後はおいおい説明していくよ」


 断る理由も特になく、親父の顔を立てる意味合いもあり、承諾した。何か質問はある? と聞かれたので、率直な疑問を口にした。


「ここの事務所はどんな方が所属しているんですか?」


「あー、うん、ここは小さくてまだそれほど抱えていないんだけど、一人デビューが近い子がいるんだ」


 へぇ、と相槌を打ち、どんな人なのか気になった時、彼女は現れた。


「お疲れ様です。社長」


「おー栫ちゃん。お疲れ。社長とか照れ臭いからやめてくれって言ってるのにー。あ、こちら須永君。明日から来てくれるんだ」


 少し伸びた髪。きりりとした目は健在で、薄く塗った化粧が年齢以上に大人びて見える。こんな偶然があるのか。僕は驚いた。けれど、僕と彼女との間には五年の隔たりがあった。あの屋上の邂逅から、ちょくちょくすれ違う機会はあったが、それだけだった。そして中学一年の秋、彼女は引っ越した。


「あっ……どうも、須永です。よろしくお願いします」

 

 相手は覚えていないだろうと思い、南方に対し、初対面のふりをした。僕はずるばかりする。 


「南方栫です。こちらこそよろしく、君」

 

 と金。五年間の時を経て、僕は久しぶりにそのあだ名を呼ばれた。彼女は覚えていた。ずるをした僕は恥ずかしくなった。卯月さんはよく分からずにぽかんとしていたが、まぁいいか、と一笑し仕事へと向かった。


 

 事務所付近の喫茶店で僕達はテーブルを挟んで会話をしていた。南方が少し話をしようと誘ってきたからだ。お互いのこれまでの経緯を報告し、南方が親の転勤で都会に引っ越し、中学、高校と過ごしてきたこと、今は一人で暮らしていることを知った。そして、近頃デビューすることも。

 卯月さんの述べていた人物が彼女であったのか、と合点がゆくのと同時に、当然だろうなとも感じた。僕の反応が薄かったためか、南方は機嫌が斜めへと傾いたので、話題を転換した。


「よく僕のことを覚えていたね」

 

 それは僕が一番聞きたいことだった。南方からしたら屋上の件は過去の一部でしかなく、ましてや僕はどこにでもいる一般人の内の一人だ。それにも関わらず、なぜ覚えていたのか。


「当然よ。名前が印象的だったしね。それに、あなたは私の歌を聞いた一番目の観客だったし……で、あれから納得はできたの?」


「今でもまだできてないかな……でもあの頃よりはましだね」


 やはり名前か、と思ったが、それでもありがたい。さらに僕が最初の客だったという事実にも驚いた。


「そ。なら名前で呼ぼうかしら」


 少し意地悪な顔をして、南方はアイスコーヒーを手に取る。カラン、と氷が心地よい音を出す。


「いや、あだ名の方でどうか」


 僕は頭を下げて懇願し、機嫌の良くなった彼女は静かに笑った。



「……ねぇと金。私の曲が受け入れられると思う?」


 お互いのコップが空になったところで、南方は不意に弱気な姿勢を見せた。


「急にどうしたの?」


 穏和な口調を心掛けながら、会話を繋げる。


「私は小さい頃から歌手を夢見て生きてきた。だからデビューが決まったことは嬉しいはずなのに、胸の中を占める割合は恐怖でいっぱいなの。結局世間からの評価が一番だからね」


 僕はこれまで南方のことを聖人だと思っていた気がする。勝手に自分の中で評価を上げて、理想の人物として祭り上げていた。けれど彼女は人間だ。知らない世界に踏み込むのは怖い。誰だってそうではないか。


「受け入れられると思うよ。根拠はないけど」


 僕はコップを持ち、僅かに残った氷の残骸を軽く振りながら話した。


「無責任ね」


「初めての客がそう言ってるんだ。自信を持ちなよ」


 彼女ははぁ、と溜め息を吐いた。すると少し表情が和らぎ、と金、とあだ名を呼ぶ。


「あなたって本当に無責任ね……でも、ありがとね」


「それは良かった」


 こうして、僕達は再会した。この後、彼女の曲が多くの人を魅了したことは言うまでもない。





 『南方かこい』は着実に世間への知名度を上げていった。リリースする曲はあっという間にミリオンを達成し、今の時代にCDがこれほど売れるのか、と人気の凄さを思い知らされた。スケジュールも空白がある方が珍しいくらいだった。メディアへの露出は歌番組のみで、深夜には一時間のラジオ番組に出演するようになった。

 月日は流れ、僕は大学に入学して四度目の春を迎えていた。マネージャーのバイトをしていることは周囲にも話したが、南方かこいと接点があることは口には出さなかった。と言うより出せなかった。きっとその話はすぐに広まり、混乱を招く事態にまで発展することが予想できたから。このことから、如何に南方が周囲に影響を与えているかが垣間見られた。彼女なりに言えば「囲う」だろうか。屋上の時の発言が現実になっていることに、少し体に震えが生じた。

 しかし、一方で南方は名声を得る代償に制限が多くなった。外出も簡単にはできず、熱狂的なファンの追っかけも度を過ぎて警察沙汰にも発展した。ストレスも高まっているせいか、体調が優れない日もよく見られた。けれども、南方は休まなかった。

 僕にできることは、邪魔にならない程度に彼女をサポートすることだけだった。この三年、バイトの僕と女性社員の辻さんとで彼女の担当をしてきた。僕と辻さんが他の用事で出られないときは、社長の卯月さんがヘルプで随行することもあった。僕は働いていない卯月さんを見掛けることはなかった。


「と金。今回の歌詞はどう思った?」


 作詞も作曲も一人でこなす南方は、常にメモ帳を携え、譜面や文字を羅列しては破ってくしゃくしゃにする。そうしてメモ帳に残った数枚の紙だけが、歌となり彼女の口から美しい音色として発せられる。

 彼女は歌詞を完成させると、周囲の人に意見を求めていた。プロ、素人に関わらず意見を参考にしようとする貪欲な姿勢は、歌に対してどれだけ真剣に取り組んでいるかが分かる。僕も何回か尋ねられたが、口出しなんてできるはずもなかった。辻さんは女性同士感じる部分があるのか、よく南方に意見を述べていた。


「うーん、相変わらず良い歌詞だと思うけどね」


 僕は決まって当たり障りのないことを言う。彼女が努力を重ねていることは知っているつもりだから。やはり素人が意見をするのはおこがましいと思っていた。


「あなたはいつも同じことを言うわね。遠慮しなくていいのよ。サビが地味だ、とかここの語呂が悪い、とか」


 この頃になると、南方は苛立つことが増えてきた。声色や表情にはあまり変化はないが、僕には読み取れた。このような時は波風を立てない対応が大事だ。


「その言い方だとサビが気に入らないっぽいけど」


「サビは要所に入れられるけど、それだとしつこいと思わない? 大事なことは一度伝えればいいと思うし。最後にサビを導入できれば、どれだけ素敵なのかな、と思う。けど今の私では駄目。 “南方かこい” に相応しくない」


 南方自身は周囲を囲っているのではなく、囲われていた。いつのまにか能動から受動へと立場が逆転していたのだ。それはマスコミ、連続ミリオン記録、など要因は多々挙げられるが、彼女の精神は相当磨り減っていた。


「少し、間を空けてから再考すればいいんじゃないかな。まだ期限はあるんだからさ」


 返答に不満があったことは明白で、気まずい空気が僕達の間に流れる。


「ねぇ、と金。あなたはこれからどうしていくの」


 独り言のようにも思えたその発言は、語尾が跳ねるわけでもなく、淡々とした口調だった。そのため、南方が僕に疑問を投げかけたのだと気付くのに時差が生まれた。


「どうしていくって……それはどういう意味?」


「調和を取ることと自分の意見を言わないことはまったく異なるものよ。あなたはそれで就職ができるの? あなたには感謝してるわ。事務所が今とは違って人手不足が深刻だったから、助けられたことは何度もあった。でも、もうあなたは自分の道を決めていかなければならない」


 そうでしょ? と最後に彼女の目が訴えていたが、当然僕は困惑した。かつても不機嫌な時はあった。しかし、これはマネージャーの解任通告のようなものではないか。納得のいかない僕は食い下がった。


「僕はもう必要ないって言いたいのか?」


「そこまでは言ってないわ。けれど、あながそう捉えるのなら構わないわ。それとも、この流れで正式にマネージャーになろうと考えていたの?」


 確かにこの時期になると、マネージャー業にも慣れつつ、やりがいがあることを実感していた。図星に近かったが、僕のひどく矮小なプライドが、それを許さなかった。


「まさか……君が大変だと思ったから、僕は今まで付き添ってきたんじゃないか」


 苦しい言い訳だ。なぜ僕は意固地になるのだろう。この三年間を否定されたように感じたからだろうか。南方はぴりつかせていた顔を少しだけ解いた。


「そう……悪かったわね。でも私は大丈夫よ。あなたは生涯を懸けて働きたいものを見つけるべきだわ。一生私の付き人なんて嫌でしょ?」


「……ああ、そうだね。なら今月限りで僕はここを離れるよ。引き継ぎもしないといけないしね。卯月さんが来たら伝えるよ」


「ええ、それがいいわ」


 ここからの僕の行動は早かった。卯月さんにこの仕事を四月いっぱいで辞めると伝え、引き継ぎも滞りなく済ませた。その間、南方とは会話らしい会話はしなかった。

 卯月さんは引き留めはしてくれたものの、結局僕の意思を尊重してくれた。ここから新たな道へ向かっていくんだ、と決心したが、彼女との最後の会話での憂いを帯びた顔を忘れることができなかった。





 十一月。僕はぐだぐだと大学四年生を終えようとしていた。内定は取れず、焦る毎日。いや、もう焦ってもいなかった。諦め――その単語がよくお似合いだった。結局僕の学生生活は、サークルにもほぼ行けず、事務所へ行く日々だった。僕のモラトリアムは、ほとんどが彼女によって奪い取られてしまった。コンビニで缶コーヒーを買い、手で転がしながら外に出る。もう時期、冬がやって来る。今の僕の心境に相応しい季節だ。


「よ」


 聞き覚えのある声に顔を上げると、卯月さんが片手を挙げて待ち構えていた。いろいろとお世話になった人ではあるが、今は誰にも会いたくない気分だった。お辞儀をして別れようとしたが、すれ違った際に肩を掴まれた。


「おいおい、冷たいな。おじさん泣いちゃうぞ?」


 いつも陽気な卯月さんはどんな状況でもその性格を崩さない。尊敬できることではあるが、今の僕にとっては鬱陶しいだけだ。


「何の用ですか? 忙しいご身分でしょうに」


「はは、そりゃそうだ。これを栫ちゃんから君へ渡すように頼まれてね」


 卯月さんから手渡されたのはクリスマスに行われる彼女の公演だった。なぜこれを僕に渡したのか、理解できなかった。一緒に過ごす相手がいないだろ、という皮肉にも受け取れた。そう考えると、腹の付近が渦を巻き、この紙を破ってしまいたい衝動に駆られた。


「……何で僕なんですか。彼女は僕を切ったんですよ。それにも関わらず、何で……そうです。南方は昔から傲慢なところがあったんです。卯月さんだって思ったことあるでしょ? 南方は世間からもてはやされ過ぎたんです。一度痛い目に遭わないと駄目なん――」


「須永君」


 今まで聞いたことがないほど優しい口調で卯月さんは話す。僕は怒られたかった。完全にこの事務所との繋がりを取り払いたかった。そうすれば、二度と彼女とも会わないから。嫌なことを忘れられるから。都合のよい思い出だけを永遠に噛み締められるから。


「確かに栫ちゃんは不器用だよ。だから、これを渡すように僕に頼んだんじゃないかな。あの子は君に伝えたいことがあるんだ、この公演で」


「そうですか……検討はしてみます。それでは」


 とにかくこの場から離れたかった。僕は卯月さんの話を受け流して、そのまま帰路に向かおうとする。


「やれやれ、君も不器用だな……本当は言わないつもりだったんだけどね……」


 僕が不器用? そんなはずはない――と反論する気もなかったが、思わず振り返ってしまった。そこで僕は、耳を疑う事実を知る。


「須永君……栫ちゃんは、手術を受けなければならないほど重い病を抱えているんだ」







『――皆さん、本日はありがとうございました!』


 二時間に渡るライブもこれにて終わる。彼女は静謐さを少しだけ崩し、はにかむ。ステージ裏に消えていく姿を、皆が拍手で労う。しかし、当然まだ終わりではない。ライブの恒例である、アンコールが発生する。その声援と手拍子は渦のように広がりをみせ、瞬く間に会場を熱気へと誘う。

 彼女は白いワンピース姿でステージ上に再び現れ、ボルテージは最高潮に達する。最後に一体何を歌うのか? 周囲は期待と興奮を隠しきれずに彼女に熱い視線を向ける。僕も実際何を歌うのかは興味があった。歌姫、南方かこいが今年最後にどのような曲を選択するのか。けれど、もう一つの意味を知っているのは、観客の中で僕だけであろう。そのことを知らなければ、どれほど幸せだっただろう。


『――このような寒い中、本当は好きな人とイチャイチャしたい中、私の公演に来たくださり、本当にありがとうございます!』


 観客は彼女のユーモアに笑い声をあげる。


『この時期に、この場所で、こんなに大勢の前で歌えるなんて、数年前には夢にも思いませんでした。でも、こうして……今日ここにいることは……紛れもない事実です。たくさんの人に支えられて、私は今、ここにいます。とても、幸せなことです』


 一瞬、目が合った気がした。そんなはずがないのに。あんな別れ方をしておいて、そう錯覚する自分に嫌悪感が沸き出る。


『あんまり長話はしたくないのですが、皆さんには話しておきたいことがあります』


 意を決した真剣な彼女の声色に、笑顔でいた観客にも緊張感が走り、顔が引き締まった。僕はここまで自分だけが知っていた特権が平等に周囲にばらまかれることに、少しの安堵と心残りがあった。


『私の身体は現在……病に蝕まれています。この公演の終了後、手術をする予定でいます』


 ウソ、マジかよ、と戸惑いの声が会場を埋め尽くす。当然の反応だ。事前に知っていても、やはり動揺する。


『正直、自分の体が切られると思うと怖いです。たまに眠れなくもなります。けれど、今日、皆さんの声援を受けて、またここに戻ってきたいという気持ちが強くなり、勇気を貰えました』


 どこまでが彼女の真意なのかは分からない。けれど、彼女の意思はとても固い。それだけは理解している。彼女がそう言うのなら、きっとそうなのだろう。


『……しんみりさせてしまい、すみません。でも、約束します。私、南方かこいは、この病魔に打ち勝ち、またみなさんの前に姿を見せます!』


 暖かい拍手が送られる。二十代前半の女性が命の際に立たされているにも関わらず、約束するとまで言った。彼女は強い――観客全員がそれだけは思っているはずだ。僕も改めてそのことに気付かされた。


『と言っても、最後の曲もしんみりとした曲なんですけどね。ごめんなさい、私って結構我が儘なんです』


 頬が緩み、少し意地の悪い顔をする。久しぶりに見たその表情は、当時の幼さを残しつつも、大人びた姿に見えた。


『――そしてこの曲は、この公演だけの限定です。新曲としても考えておりません。なので、正真正銘、最初で最後の曲です。……それでは、聞いてください。 “EGOIST” 』


 エゴイスト。確かに時折彼女にはその部分が強く表れていた。けれど誰だって利己的な感情は持っている。自分だけ突出している、と考えていたなら、それは間違いだ。

 静かに、演奏が始まる。スローテンポの曲は、南方かこいが最も得意としている分野だった。




葉が落ちる 日が沈む 頬を伝う雫

君は言う 側にいると でもそれは違う


花が咲く 月が照らす 頬が緩んでいく

君は言う さようならと でもそれも違う




 透き通った声は、どこまでも響く。消極的な単語から一転して積極的に、次は反対に。今までの彼女にはなかった趣向だ。若干の間の後、サビが来た。




あなたが私を離す時

私は拒みたくなるの

あなたが私を包む時

嗚呼世界が動き出す 嗚呼世界が動き出す




 彼女は公演が終わると、体を支えなければ歩けないほど疲労が蓄積する。体を支えた機会はあったが、本当に軽く、一体どこからその美声が出せるのか疑問に思ったほどだ。前半が終わり、後半へと向かっていく。




歩みを止めないで

でもこっちを振り向いて

歩みを止めて

けどこっちは振り向かないで



あなたが私を離す時

私は拒みたくなるの

あなたが私を包む時

嗚呼世界が動き出す 嗚呼世界が動き出す




 歩み、か。もしかしたら、これが彼女が僕に伝えたかったことなのだろうか。僕は今、行き止まりにいる。それでも足を止めるなと言うのか。なぁ、南方。君は傲慢だよ。理知的で、美しさを求める君らしくもない曲だ。だけど、何でそんなに笑顔なんだ? 

 長い演奏が続く。おそらく、次が本当のサビなのだろう。音が次第に強くなる。




そう 私はエゴイスト

あなたのことなど何も考えていない

それでもこの胸のつかえを 消したいの




 歌い終えてから、ピアノの独奏が続く。時間にして五分にも満たないであろう彼女の歌だが、観客にとっては長く感じられたに違いない。時間の流れは人の心境によって変化する。楽しければ一瞬、悲しければ永遠。今は後者だ。

 終わらないで――多くの人の心の内は、そんな共通の祈りで占められているだろう。僕の視界が不意にぼやけた。ピアノ演奏者の指が止まる。数秒の沈黙が大勢の拍手によって一気に破られる。

 そうか、やっと分かったよ南方。僕達は似てたんだ。不器用で、名前に対してコンプレックスを持ってて、恐怖に怯えていて。君だけが利己的なんかじゃない。自分勝手なのは、僕も同じだったんだ――。






 南方かこい、手術へ――芸能ニュースではネットも新聞でもこぞって取り上げている。あの歌声が聞けなくなるのではないか、とファンの間でも悲鳴の嵐だ。事務所も取材の応対で忙しいらしい。年の瀬だというのにご苦労なことだ。

 そんな僕は今、喫茶店で窓越しに向かい側の病院を見つめる。家族やご老人、若い人など、老若男女問わず多くの歩行者が通り過ぎる。いつ終わるかも分からない状況ではあるが、卯月さんが事務所を代表して病院で待機しているので、終わったら連絡が来るようになっている。来ないかとも尋ねられたが、遠慮した。今の僕では彼女に合わせる顔がない。


「まったく、目の前まで来てるのなら来ればいいものを」


 呆れ顔をした卯月さんが、僕の隣の席に腰かけた。手術は当分終わりそうにないらしく、この喫茶店に息抜きに来たそうだ。驚いたが、すぐに落ち着きは取り戻した。僕は卯月さんに先月の無礼を詫びたが、気にするな、と一笑された。


「なぁ、須永君。君も待合室に来たらどうだ。当然彼女のご家族も居られるが、そこは僕が許可を貰うからさ」


「……僕は所詮バイトのマネージャーですよ。それに駆け付けたくても対応に追われて来れなかった方々に申し訳ないです」


 知っている。逃げていることは。僕は肝心の精神面の成長からはずっと逃げてきた。彼女は囲われていた壁を打ち破った。けれど僕は、彼女が命を懸けて歌ってくれたのにも関わらず――自分の情けなさにつくづく吐き気がする。


「栫ちゃんはさ……今年の春頃に異変に気付いていたみたいなんだ。須永君、おかしいと思わなかったかい? 彼女が突然君を突き放して」


 言われてみればそうだ。けれど、僕は下らない意地を張って、結果決別した。


「今思えば、そうですね……」


 今なら分かる。南方は僕に負担をかけさせたくないために、あのような発言をしたのだと。僕が彼女の立場なら、やはりそうしただろう。そして気付いた。僕がマネージャーを続けていられたのは、彼女がいたからだと。もしも南方がいない世界になったら、僕はこの職業に執着できていただろうか? 多分、無理だろう。

 

「大人になると、腹の探り合いが増えてね。外に出された言葉だけが本当だと信じられなくなってきた。大人になってきた証かもしれないが、汚れてきたとも言える。そんな中、君達の関係は羨ましくも見えた。言葉を交わさずとも、お互いのことを分かり合っている、そんな風に見えたんだ」


 卯月さんがそんな風に思っていたことを初めて知った。いつも笑顔を振り撒いていたのは、社会に揉まれてできた処世術なのかもしれない。


「買い被りすぎですよ」


「まぁそう謙遜するな。ただ、君達は不器用でもあった。時にはきちんと話し合うことも大事だ。これは僕の老婆心だけどもね」


 まったくもってその通りである。話さなくても伝わるなど、それこそ勝手で、傲慢な考えだ。だから、今このような状況に陥っている。


「仰る通りです……でも……」


 でも、僕は踏み出せない。まだ子どもだったあの頃の好奇心は、霧散してしまったのだ。本当面倒くさいな、自分は。卯月さんはやれやれ、とコーヒーを一気に飲み干し席を立つ。


「過去のことは変えられないんだ、須永君。今できることだけを考えるんだ。後悔はさ……したくないだろ」


 その大人の経験の詰まった重い一言が、後押しとなったのかどうかは不明だ。けれど、気付けば喫茶店から出ていた。卯月さんも、そうやって後悔という名の過ちを繰り返してきたのだろうか。僕は、幸せ者だ。こんなにも親身になってくれる上司がいてくれて。ふと、顔に何かが付着する。

 

「雪か」


 空を見上げた卯月さんは呟き、僕達は歩行者信号が青になるのを待つ。

 彼女は冬が好きだと述べていた。でも、僕は嫌いだ。冬は終わりを連想させるから。一年の、季節の、生物の――。雪の結晶にはどれ一つ同じ形がない。それはまるで人を表現しているように感じた。一人一人に個性があり、皆儚く平等に消えていく。



 待合室では、南方の母親が座っていた。卯月さんが僕のことを何やら説明し、承諾を貰ったのか僕もこちらへ来るように促してきた。僕は指示に従い、歩み寄る。一度だけ顔を見たことがあったが、挨拶するのはこれが初めてだ。


「どうも、いつも娘がお世話になってます」


 少し疲れた表情をしながらも、丁寧にお辞儀をする。釣られて僕も頭を下げた。


「いえっ……こちらこそ大変お世話になっています……」


 正確には、お世話にではあるが、そこは隠した。嘘を吐くのはいつでも気分を悪くさせる。

 僕の顔をじっと見ると、彼女の母親ははっとして僕に尋ねる。


「もしかして、あなたが『と金』君?」


 久しぶりに聞いたそのあだ名に、僕は懐かしさを感じずにはいられなかった。


「はい……そうです」


 やっとのことで喉を通して発せられた声は震えていた。


「あの子がよく口にしてたわ。何だかとても信頼してるようだった。それに、とても楽しそうに話していて……」


 そう言うと、ハンカチを取り出して目頭を押さえる。


「ごめんなさい、こんな形での対面にはなったけれど、会えて良かったわ……」


 南方の母親のその言い方に、彼女の命がどれだけ瀬戸際に立たされているかを実感した。身近な人がいなくなる――そんな経験をまったくしてこなかった僕には、あまりにもこの感情は重すぎる。と金は、と思考も整理できないまま発言する。


「と金は……栫さんが僕と初めて会ったときに付けてくれたんです……僕の名前は、歩美あゆみだったんですけど……いろいろ……あって」





 歩美……ね。いい名前じゃない。私は変だと思わないわ。って、説得力がないか。なら、あなたが自分の名前を肯定できるまであだ名で呼ぶわ。そうね、『と金』なんてどうかしら。将棋から拝借したの。弱い駒でも、一歩ずつ進んでいけば輝ける時が来るの……ちょっと、何渋い顔してるのよ。いいでしょ、と金――。





 僕は、泣いていた。最近の僕の涙腺は緩い。どうして、今思い出したのだろう。こらえようとしても、次々と涙が溢れ出る。南方の母親は、ただ黙って頷いていた。卯月さんは、僕の肩にそっと手を置いた。

 南方、僕は今でも名前に肯定感を見出だせないよ。でも、今度君と会ったら名前で呼んでほしい。君が呼んでくれるなら、受け入れられると思うから。僕が歩み続けるためにも、君が必要だから。僕は、南方栫のファンだから。

 

 指の隙間からいつ零れてしまうかも分からない、奇跡の砂を僕達は手にしている。一粒にはそれほどの価値がなくとも、山積することで黄金に輝く、奇跡の砂を。当たり前のことが幸せだと、どうして砂を落としてから気付くのだろう。そのことがとても悲しく、切ない。きっと人はそれを繰り返して、大人になっていくのだろう。



 点灯していたライトが消えた。僕も、卯月さんも、南方の母親も一斉に立ち上がる。今から突き付けられるであろう結果を、僕達はまだ知らない。固く閉ざされていた扉が開く。外では、雪が深々と降っていた――。



       EGOIST 完

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EGOIST 相心 @aishin

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