空の外側
水城
星の観察会
空には雲ひとつなく、太陽は眩しいくらいに輝いている。その光は熱を帯びて、木々や畑の作物、アスファルトの地面、そして道の真ん中に立つ人間にも等しく降り注ぐ。空からの熱、そして地面から反射してくる熱。上からも下からも襲われて、康介は朝からトースターの中のパンの気分を味わっていた。
(あつい……)
至るところから聞こえてくるセミの大合唱が暑苦しさを更に煽る。まだ家を出て数分も経っていないというのに、ランドセルで隠れた康介の背中は早くも汗で濡れ始めていた。
背を伝う汗はくすぐったくわずらわしいし、暑さは気力を奪っていく。しかし康介の足取りは重くない。畑と畑の間をぬうようにして作られた農道を早足で歩く。泥がはね、洗ったばかりのスニーカーが汚れたがそれでも気にしない。そんなことよりも目の前に迫った『楽しみ』の存在の方が、ずっと大きかった。
今日はもう七月の半ば。あと一週間もすれば夏休みなのである。
特にどこか遠くへ旅行するとか、何か美味しいものを食べるとか、そういった予定がある訳ではない。しかし、学校に行かなくてもいい日が一カ月以上続くのである。それだけでわくわくするには十分だった。いつもと違う毎日が続くなら、いつもと違う何かが起こるかもしれないのだから。
ほとんど駆け足で農道を抜けた先には川が流れている。川に架かった橋の向こう側に立っているのは町内会の掲示版だ。ベニヤ板を貼り合わせただけの簡素なもので、雨で濡れないようビニル袋に入ったプリントが画鋲で止められている。町の大人たちが連絡し合うのに使っているものだからいつもなら気にすることなく通り過ぎるところだが、今日の康介は立ち止まった。
左上から右下と順番に眺めて、それからもう一度真ん中の一枚を見た。
――『星の観察会』
大きな文字のタイトル。星空を見上げる子供のイラストの下には、会の日時や集合場所等詳しい内容が並んでいる。
開催は八月二日から三日にかけて。二日十六時に集合。持ち物は皿とスプーン。項目をひとつひとつ見て、康介の記憶と違わないことを確認していた時だった。
「おっはようコースケ君!」
どすん、とランドセル越しに背中を強く押された。つられて踏み出した足は一歩目で止められたが、肩から上までは止めることは出来なかった。目の前に星空のイラストが迫る。たまらず目を瞑る。
直後、康介の額に痛みが走った。身体がかっと熱くなり、全身から汗が噴き出す。頭突きを食らわせてしまった掲示板から額を引き剥がしてさすってみると、何となく腫れているような気がした。
振り返って再び目を開けたが視界はぼやけていて、そこにいる人物の顔がよく見えない。が、誰かなんて分かっている。
「お、どうしたコースケ、涙目じゃん」
やはりこの、すっとぼけた調子の声。思わず口をへの字に曲げる。
「誰のせいだと思ってんのさ!」
手の甲で涙をぬぐいながら、康介は意識して低い声を出した。
「朝からこれは過激じゃないかな、ケン」
改めて背後の人物を見る。康介のすぐ後ろでは、同じクラスの月島健一がトートバッグを振り回しながらにやにや笑っていた。それどころか。
「えー、ただのゴアイサツじゃん、ゴアイサツ」
と言い出す始末。ただのゴアイサツで被害者が出ているとはどういうことだ。声には出さずに胸の内で呟いて、康介はただ首を横に振った。
健一とは幼稚園入園前からの付き合いだ。だから健一に悪気がないことくらいは分かっているし、康介もそれ以上は何も言わない。何も言わなかったが、凶器となった健一のトートバッグ(多分中身は水着)を振り回すのだけはやめさせておいた。
「で?」健一が掲示板に目をやった。「参加すんの? アレ」
「うん、そのつもりだよ」
「へーどうしたんだよ。この前の自然教室もめんどくさがってたのに?」
「いいじゃん、たまには」
「何だよ……あっ、あれか? 誰か気になるカノジョが参加するとか?」
さすが健一、つきあいが長いだけのことはある。いいところを突いてきた。康介が頷き返すと、健一は「えっ本当? 誰誰?」と目を輝かせた。
健一の言う通りである。日本全国全ての小学生が気になっているであろう『カノジョ』のために、康介はこの観察会に参加することに決めたのだ。
深く息を吸って、人差し指を健一に向ける。
「じ、ゆ、う、け、ん、きゅ、う!」
康介の答えが想定外のものだったのだろう。健一はただただ目を丸くしている。にやりと笑い「先に行くよ!」と言うと、康介は学校に向かって走り出した。
この辺りの土地一帯では一〇〇〇メートル級の山が幾つも連なっている。それらは観岳連峰と呼ばれており、その最高峰が最南端に位置する観岳山だ。康介たちの通う小学校は観岳山の裾野にあり、だからこそその名もずばり観岳小学校という。
観岳小学校は昨年創立百周年を迎え、それに伴い古くなった校舎の改築が進められていた。およそ一年半かけて修繕を行い完成したのはつい先月のこと。新しい学舎は外壁が柔らかなクリーム色に塗り替えられ、耐震工事も施され、雨の日に雨漏りすることさえなくなった。
百周年と新校舎の完成を祝い、観岳小学校ではいくつもの催し物が企画された。学校百年史の編纂や、劇団を呼んで学内観劇会を行ったこともその一環である。
そして今回の星の観察会も、新校舎完成を記念してのものだった。綺麗になった学校に一晩泊まり、夜空を見上げて星と宇宙の神秘に触れ、更には参加者同士で交流の和を広げるのが目的だ。主催は数年前に観岳小を卒業したかつての児童たち。今は地元の大学に通う彼らが小さな後輩たちの為にと企画したのである。
観察会のポスターが掲示されているのは町内会の掲示板だけではなかった。学校の児童用玄関のガラス戸にもテープで貼り付けてある。靴を履き替えた健一が、それまでは昨日のテレビで見た野球の話題で盛り上がっていたくせに急に話題を変えたのも、戸のポスターが目に入ったからだろう。
「観察会ねえ……その観察会ってのは何をやるんだ?」
突然の健一の問いに康介はきょとんとした。
「何を、って、そりゃあ星の観察でしょ」
星の見ないのならイベントの名前を『星の観察会』にするはずがない。しかし健一は康介の答えに首を横に振った。
「そんなの分かってるよ。そうじゃなくて、いくらなんでも一晩中空見てる訳じゃないよな、ってことだよ。そんなことしたら首が痛くなっちゃうじゃん」
「そういう問題?」
「そうだよ。それにコースケ、お前徹夜したことある?」
「ないよ」
「だろうな……あのな、夜って長いんだぜ? 全然時間が過ぎねーの。一時間くらい経ったかなって思って時計見ても十分しか進んでねーの」
「あーそれは何となく分かる」
徹夜の経験はないが、夜寝付けない経験なら康介にもある。布団に横になって目を瞑っていても眠くならなくて、外もちっとも明るくならなくて、寝返りを打つ度に時計を見てみるのだが、時計の針は前に見た時から全然進んでいないのだ。
「そんだけ時間があるのに、まさか一晩星見るだけってことはねーだろ」
「あっ、そういうことか。それなら」康介はもう一度ガラス戸のポスターを振り返った。「飯ごうすいさんと花火やるって書いてあったよ」
「花火!」
健一の顔がぱっと明るくなった。靴箱の戸を閉めると健一はズボンのポケットに両手を突っ込んで歩き出した。
康介たち五年生の教室は北校舎の三階にある。二階分の階段を上りながら健一は何やら考えていたようだが、教室に着く頃には「よし決めたぞ」と手を打った。
「何、何を決めたの」
「おれもその観察会に参加する!」
「本当に!」
健一の決断に、康介の声も上ずった。実は康介には、少しだけ心配事があったのである。
今回の観察会に参加出来るのは観岳小の児童だけではない。会の主催者が通う梢葉大学には附属小学校があり、そこの児童にも会に参加する権利があるのだ。両学校から同数ずつ参加したとして、単純に半分は知らない顔である。よその学校の児童との交流も会の目的であるし、きっと何とかなるだろうとは思っていた。しかし、やはり知らない人に声をかけるのは緊張する。それでもし万が一、誰とも話すことが出来なかったら――そんな気がかりが全くない訳ではなかったのだ。
その点において健一は康介よりもずっと優れていて、一度会えば誰とでも友だちになってしまう。思ったことを何でもすぐに言ってしまうのは健一の悪いクセだが、裏を返せば正直者で、どんな人とも会話が出来るそれは長所でもあった。
「ケンが一緒だと心強いよ」
素直に本心を述べると、健一も「そうだろ?」と頷いた。
「おれもだよ」
「そうだよね、やっぱり友だちがいるといないとじゃ」
「今年の自由研究はすぐ終わりそうだ!」
「えっ」
心強いって、そっちか! 康介は口から出かかった台詞を何とか押さえつけた。代わりに健一の顔を覗き込んでみる。
「ええと、共同研究にしよう、ってことだよね」
訊けば健一は「もちろん!」と答えた。
「毎年すげー悩んでたんだよ、自由研究」
「でも毎年ちゃんとやってたんでしょ?」
「まあなーいっつも同じようなのだったけど」
「あれ、使い回しだったの?」
「違えよ。毎年夏休みの最後の日に慌てて貯金箱作ってたんだ」
「ああ、あれ」
夏休みの宿題リストの中には、毎年必ず『オリジナル貯金箱コンテスト』が載っている。これの他、読書感想文、理科の自由研究、社会の自由研究が同列に並べられており、小学生たちはこの中からひとつ以上選んで課題をこなさなければならない。宿題を後回しにし過ぎて気付いた頃には読書感想文を書いたり自由研究に取り組んだりするほど時間に余裕がない者は、必然的に貯金箱工作に手を出すことになるのだ。例えば去年までの健一のように。
「でも今年のおれは違うぜ!」
満面の笑みでこぶしを突き上げる健一を見ていると、まあ別にいいかな、と思えてきた。健一は康介と自由研究が出来るし、康介は友だちと一緒の参加で心強い。お互いにメリットしかないではないか。なら、何も問題あるまい。
「じゃあケン、これ」
康介は黒板前に立って健一を手招きしながら教卓の引き出しを開けた。一枚の紙を取り出す。星の観察会参加申込用紙だ。数日前に全児童に配られたものだから健一も持っているはずなのだが、ついさっきまで観察会に興味がなかったのだから、数日前の健一なら配られても目もくれずに捨ててしまっているだろう。実際、健一は「何これ」と首を傾げた。
「もーしこみしょ?」
「そ。学校に泊まるからね、親の許可が必要なんだって。この前もこんなの出したでしょ」
「前って、自然教室の時のこと? そうだったっけ?」
「そうだよ」
「別にうちの親、駄目なんて言わないけどなあ」
「その『駄目じゃありませんよ』を先生たちにちゃんと証明しないといけないみたいだよ。終業式までに先生に出してね」
「へー意外と面倒くさいな」
面倒でも自由研究をこなす為である。健一は申込用紙を受け取ると半分に折り畳んだ。
その時だった。
「ねえ、松崎くん」
不意に名前を呼ばれた。見なくても、声だけで主が分かる。まっすぐに康介のことを見ているに違いない。普段向こうから声をかけてくることなんてほとんどないのに。何かしただろうか――康介は口元を引き締め、そっけない様子を装いながら顔を上げた。
やはり彼女は、花江千夜子は真ん丸で黒目がちな目で康介を見ていた。一度目が合うと、柔らかな眼差しから目を外せなくなる。緊張したが視線を逸らすことが出来ない。康介は千夜子の目を見つめながら「おはよう」と言った。
「おはよう」
挨拶を返して千夜子が微笑む。そして健一が折り畳んだ星の観察会の申込用紙を指差した。
「それ、もう一枚あまってる?」
間を空けずに教卓の引き出しを見た。今月の給食の献立表やら保健室からのお知らせやら学級通信やら、これまでに配布されてきたプリント類が雑多に詰め込まれている。引き出しの奥の方では何も印字されていない藁半紙が皺を寄せている。
混沌とした教卓の中で、星の観察会の申込用紙は一際目を引く存在だった。真っ白な紙にかすれた黒の印字、ポスターと同じ観察会のロゴ。康介は申込用紙を蝶の羽をつまむようにそっと取り出し、千夜子に差し出した。
「あったよ」
ちょっとだけ声が上ずってしまった。恥ずかしい。千夜子は気付いただろうか。顔色を窺ってみたが、彼女はもう康介を見ておらず、申込用紙の内容を目で追っている。気付いていないのか、それとも単に気にしていないのか、康介には判断がつかなかった。
「ありがとう」
千夜子がまた微笑む。そのまま教卓を離れようとする。そして。
「ねえ、花江さん」
突然のことにぎょっとした。健一が千夜子を呼び止めたのである。何のつもりだろうと健一を見れば、「ほら」とランドセル越しに背中を押してきた。掲示板に頭突きしたあの時よりも、強く。
「なあに?」
千夜子は少しだけ首を傾げている。それに合わせて肩までのまっすぐな髪が揺れる。健一がまた背中を押す。
「ええと、その……」
唸りながら、康介は胸中で健一への恨み言を呟いた。こうして彼女の前で何も言えないなんて、印象が悪いに違いない。しかしこのまま何も言わないことは更に悪印象だ。何か言わなければ。
「花江さんも観察会に参加するの?」
そして康介は後悔する羽目になった。わざわざ申込用紙をもらいにきた人間が参加しない訳がない。分かりきったことを訊くなんて、自分は何て馬鹿なのだろう。
案の定千夜子は「そうだよ」と答えた。これで会話は終わりだ。彼女はまた教卓から離れようとする――そう思った。
実際は、そうではなかった。
「そう聞いてくるってことは、松崎くんも参加するんだね?」
思いもよらぬ質問だった。康介は二度首を縦に振った。
「うん、まだ申込用紙書いてないけど」
「そうなんだ。わたしと一緒だね」
「そうみたいだね」
「わあ、嬉しい!」
千夜子はぱっと顔を輝かせると両手で康介の手を握った。手を! 康介の手を!
それに『嬉しい』だなんて!
康介は身体中の血が沸騰したかのような錯覚を覚えた。耳が熱い。それから、ちょっとだけ苦しい。
「あ、あの、花江さん?」
何とかそれだけ絞り出すと、千夜子は「あっ、ごめんなさい!」と手を離した。手を握られたことについて咎めている訳ではなく、むしろ咎めるつもりなんか全くないのだが、逆にそれは嬉しかったのだが。
「そんな、気にしないで」
そう康介が言うと、千夜子は「本当、ごめんね」と困ったように眉尻を下げて少しだけ笑った。
「わたしね、星が好きなの」
「ああ、だから観察会に」
「そう。でも家族も友だちも星見るのが好きって言う人あんまりいなくて……だから星が好きな人と夜空を見られるなんて、本当に素敵なことだと思うの!」
どうやら千夜子は勘違いをしているらしい。『わたしと一緒』とはただ『観察会に参加すること』ではなく、『星が好きだから参加する』ことを指していたのだ。しかし喜んでいる千夜子を見ると、今更違うとは言えない。自由研究の為の参加だなんて、千夜子には言えない。
「もともと楽しみだったけど、もっと楽しみになっちゃった!」
「そうだね、ぼくもだよ」
「じゃあ、観察会の日はよろしくね」
「こっちこそ」
小さく手を振って、千夜子は今度こそ教卓から離れていく。康介も振り返して、そして自分の手を見下ろした。
まさに夢のような時間だった。いや、本当に夢なのではないだろうか。しかし康介の肩にもたれかかってくる健一は重たいし、耳を引っ張っても頬をつねっても痛い。これはまぎれもない現実である。
「いやあ知らなかったなあ、コースケ君、夜空を見上げるなんてロマンチックなご趣味をおもちだったんですね」
にやにやと康介の顔を覗き込んでくる。
「ねえ、ケン」
「何だよ」
「ぼく、今から星の観察を趣味にすることにしようと思うんだ」
「……そいつはまあ……」
健一がひゅうと口笛を吹いた。
「悪くない趣味だと思うぜ、それ」
ふたつに折った申込用紙をひらひらさせながら、健一は自分の席へと戻っていった。始業のチャイムが鳴り、他のクラスメイトたちも席に着き始める。康介もそれに倣って席に戻りかけ、途中で引き返した。教卓の引き出しを閉めて、改めて席に着いた。
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