付属小の子

 どれだけ丁寧に説明をされたとしても、分からないことが多過ぎれば理解が追いつかず、自由研究としてまとめるだけの知識も得られず、お粗末な結果になりかねない。千夜子との会話以降そんなことを強く意識していた康介は、物置から四年生、三年生の時に使っていた理科の教科書を引っ張り出して勉強を始めてみた。それまでずっと遊び呆けていた康介が教科書を読んでいる――その事実に康介の父親は驚き、母親は歓喜した。その日の晩ご飯は魚の干物の予定だったが、急遽康介の大好物である唐揚げになったほどだった。

 そして星の観察会当日の朝。天気予報通り空はよく晴れており、雲ひとつない。絶好の天体観測日和に胸を高鳴らせつつ。

「学校におとまりいいなー」

 うらやましがる弟の和之を尻目に、康介は荷作りを進めていた。

 観岳小の五年生は自然教室と称し、五月に山一つ越えた向こうのキャンプ場で一泊二日の宿泊体験をしている。必要なものはその時とそう変わらないだろう。自然教室のしおりを見ながら、康介はタオルや筆記用具、虫よけスプレーをボストンバッグに詰めていった。

「ぼくも行きたいよー」

「駄目だよ。五年生と六年生しか行っちゃいけないの」

「こーくんのけちー」

「そんなこと言われても、ぼくのせいじゃないし」

 だいたい、まだ小学一年生の和之は母親が買い物等のちょっとした用事で出掛けただけでも不安がるし、帰りが遅くなると泣き出す。それなのに母親なしで一晩外泊なんて出来る訳がない。

「お母さんは一緒に行かないんだよ?」

「えええ……」

 案の定、母親が同行しないことを伝えると渋い表情を見せる。そして何をどう考えたのかはさっぱり分からないが。

「じゃあぼくの代わりにこれ連れてってよ」

 そう言うと、和之はネコのキーホルダーをボストンバッグに入れた。今年の正月に親戚が集まった時、海外旅行に行っていた叔父が土産だと言ってくれたものだ。尻尾がスイッチになっており、引っ張ると目が光る。和之はこれを非常に気に入っており、毎日ランドセルにつけて登校していた。

「何これ、いいの?」

「あげるんじゃないよ」

「分かってるよ」

 康介も同じようなトラのキーホルダーをもらっている。ふたつもいらない。

「ぼくの行けないところにはそのネコさんに行ってもらう。そしたらぼくの代わりにネコさんが楽しんでこれるでしょ」

「……かずくんがそれでいいなら、別にいいんだけど」

 キーホルダーひとつくらいなら大した荷物ではない。それくらいなら、と康介もネコの同行を了承する。そして、せっかくなら、と目の光るトラも用意した。

 更にポスターにあった持ち物、皿とスプーンを入れれば、準備は完璧である。食器棚を開いてそれらを揃えてバッグに入れ、康介はファスナーを閉じた。あとはただ、集合時間を待つのみである。

 太陽はまだ東の空にある。夕方までに小学校の校庭まで行けばいいのだから、時間はたっぷりとある。

「それでは和之隊員、松崎家の安全は任せたぞ!」

「らじゃー!」

 毎週見ている特撮番組の主人公たちのように和之に敬礼し。

「お母さん、ぼく学校行ってくるね」

「気をつけて行ってらっしゃい。先生の言うことちゃんと聞くのよ」

 庭で洗濯物を干していた母親に声をかけて。

 ボストンバッグのベルトを少し伸ばして肩にかけ、康介はまず健一の家に向かった。


 昼前に家を出たにも関わらず、康介と健一が学校に着いたのは結局集合時間の十五分前だった。校門の前には一台のバスが停まっており、康介たちと同年代の子供が幾人も降りてくる。どれも見覚えのない顔だ。

「あれが付属のやつらか」

 健一に言われてバスの正面に回り込めば、フロントガラスに『梢葉大学付属小学校星の観察会御一行様』と書かれたプレートが貼り付けられている。

「そうみたいだね」

 康介も首を伸ばして御一行様の列を見た。

 バスから降りた児童のほとんどが観岳小に来るのは初めてなのだろう。自分たちの学校との違いを探そうとしているのか、絶えずきょろきょろしている。何かを見つけては指差し耳打ちし合っている。

 彼らの反応は興味深いものがあったが、校庭の朝礼台前に見知った顔が集まっている。その集団はまっすぐに整列している訳ではないが、それなりに並ぼうとする意思は感じられる。列のような何かの先頭には先生が立っていることから、点呼が始まっていることが窺える。

「早く行かねーとやばそうな感じ」

 健一にボストンバッグを引っ張られ、付属小学生から目を離す。振り向いた時には既に駆け出していた健一の後を追って、康介も観岳小学生の集団にもぐり込んだ。

 紛れた先は絶妙なポジションだった。周りを見る余裕もなく列に割り込んだのだが、そここそが康介たちのいるべき五年生の列だったのだ。

「月島くんに、松崎くん?」

「あんたたち遅いじゃない」

 千夜子が目を丸くし、朋が呆れたように息を吐き出す。朋は更に康介たちの頭のてっぺんから足の先まで見て、「ふたりとも何なの?」と眉間に皺を寄せた。

「どうしたの、頭」

「どうもしてねーよ、頭イカれてるみたいな言い方すんなよ」

「そうじゃない。びしょ濡れじゃん。汗?」

「ちげえよ、川で泳いでたんだよ」

「は?」

 眉間の皺を残したまま朋が首を傾げる。「分かんねーかなあ」と言うと、健一はにやにや笑いながら肩をすくめた。

「学校風呂ねーじゃん。だから今日は風呂入れないっしょ? だから来る前に川で泳いで、ついでにからだも洗ったってわけ! 遊びながらきれいになれて、これこそイッセキニチョーってやつ?」

「ふうん……でもそれなら、家出る前に普通にお風呂入ってきたらよかったんじゃないの? 水浴びよりも温かいお湯で洗った方がきれいになるし」

 朋の正論に健一の表情が固まる。そのあと健一が言い返さなかったのは、タイミングよく先生が話を始めたからではなく、言い返す言葉が見つからなかったからだろう。朋から目をそらして列の前を見る。康介も改めてそれらしい列を作り直すと、泉先生の声に耳を傾けた。

「じゃあ六年一組から順番に名前を呼びます。呼ばれたら元気よく返事をしてください。一組、木野本さーん」

「はい」

「林さーん」

「はーい」

「じゃあ次、二組呼びますよー」

 先生がひとりひとり名前を呼び、児童たちがそれに挙手を返す。更にクラス毎に人数を数えて出欠を確認した先生は、見知らぬ子供たちをぞろぞろと引き連れてこちらへ向かってくる、やはり見知らぬ大人を見て会釈した。先生同士が挨拶し合っている間に子供たちも互いを見遣る。友だち同士でつつき合い目配せし合い、「あれ、よその学校の」「やっぱ知らないやつばっかだな」「見てあの子背高ーい」などと囁き合う。

 しかしそれもわずかな間だった。誰かが手を叩く音でざわめきはぴたりと止んだ。皆一斉に前を見た。

 そこに立っていたのは泉先生ではなかった。泉先生は観岳小の先生の中でも年若い方だったが、それよりも若そうな男の人だった。半袖のTシャツに膝下丈のジャージ、少し日焼けした肌からは快活そうな印象を受けるが、細めの体型とすましたような顔はその印象とちぐはぐだった。

 康介たちが知らない人なのだから、あれは梢葉付属の先生だろう。そう思い康介は隣の集団をちらりと見たが、付属小の児童たちも少なくない人数が落ち着きなくこちらを見ていた。彼らも知らない、付属小の先生ではない人らしい。

 ならばあの人は何者なのか。皆が男の人の次の言葉を待った。

「みなさん、こんにちは」更にちぐはぐなことに、声が低くて大きかった。「今日は星の観察会に参加してくれてありがとうございます。僕の名前は路川潤です」

 路川と名乗ったその男の人は、梢葉大学に通う大学生だった。何年も前、まだ子供だった頃は、康介たちと同じように観岳小に通っていたらしい。自己紹介の間に「路川先生は大学で学校の先生になる為のお勉強をしているんですよ。先生の卵ですね」と泉先生が挟むと、「やめてくださいよ」と困ったように恥ずかしそうに笑っていた。

 路川先生以外にももう四人、大学生の先生が来ていた。四人とも路川先生と同様、梢葉大学で先生を目指して勉強中なのだそうだ。学生先生たちの挨拶、付属小の引率の先生と観岳小の引率の先生(つまり泉先生)の自己紹介の後、話はようやく本題に入った。

「今日のメインイベントは星の観察ですが、今はまだ太陽が出ています」

 路川先生が人差し指で空を差す。

「皆の中にはもう知り合いだよーっていうお友だち同士もいるかもしれませんが、知らない人の方が多いんじゃないかなと僕は思っています。ですから、メインイベントの前に、少しでもお友だちを増やしましょう」

 路川先生がそう言うと同時に、学生たちと先生たちがプリントを配り始めた。それを手にした児童がざわつき始めたことから、その内容には察しがついた。

 プリントには今日明日行動を共にする班のメンバーが書いてあった。

 そこに並ぶ名前は四十ほど。その中から見慣れた康介自身の名前を見つけ出すまでに、さほど時間はかからなかった。六班だ。なら花江さんは――自分の名前を中心に視界を広げようとする。

 しかしそうする必要はなかった。探すまでもなかった。千夜子の名前は康介のすぐ上にあったのだから。

 まさか、こんなことがあるのだろうか。千夜子と同じ班だなんて! これまで何度か千夜子と同じクラスになったことはあったが、学級班で一緒になったことは一度もなかった。一緒に掃除をしたことも給食を食べたこともない。遠足や社会科見学の、自然教室の時も違う班だった。その千夜子と一緒に、千夜子の大好きな星を見られるなんて! 一生分の運をここで使い果たしてしまったのではないだろうか!

 横目でちらりと千夜子を見ると、なんと彼女もこちらを見ていた。目が合った。小声で「よろしくね」と言っている。康介も何か言い返そうかと思ったが言葉が出てこず、ただうなずくだけに留まった。

 千夜子どころか、健一と朋まで同じ六班のメンバーだった。他の班の様子を見る限り、少なくとも観岳小からの参加者たちは同じクラスの者同士で班分けをされているようだ。

「よかったな。なあ、コースケ君?」

 前に立っている健一が振り返ってつついてくる。康介は努めて冷静に答えた。

「何のこと?」

「まったまたぁ、とぼけちゃって」

「そうだね、ケンと同じ班になれて嬉しいよ」

「棒読みはやめろっつーの」

 健一の視線が一瞬千夜子へと向けられる。にやりと笑って返し、康介は改めて手元のプリントを見た。

 六班は全部で七人である。康介たち四人の他、梢葉付属の三人が同じ班のメンバーだ。名前から察するに男二人女一人。いったいどんな人だろう。無駄とは分かっていつつも、康介は首を回して隣の付属小児童の島を見た。

「まずは体育館に移動して……体育館、ここから見えていますね、あれです」路川先生が体育館を指差して、「班ごとに荷物をまとめてください。そして同じ班の仲間に自己紹介しましょう。それが済んだらまたグラウンドに来てください。出てきた班から順番に飯ごうすいさんの説明をします」

 先生の手拍子がスタートの合図だった。子供たちは荷物を全て抱えると、我先にと駆け出した。

 体育館には六つのカラーコーンが設置されていた。それぞれに一班から六班までのプレートが貼りつけてある。自分の班のコーン近くに荷物をまとめて置けばいいようだ。先に体育館に入った児童たちは早くも自己紹介を始めている。康介たちは出遅れてしまったらしい。急いで六班のカラーコーンに向かった。

 六班の集合場所には既に二人以外のメンバーが揃っていた。千夜子と朋、それから男子二人女子一人。プリントの通りだ。

「あんたたち遅いよ」

 朋が呆れたように肩をすくめ。

「とっとと自己紹介するわよ!」

 付属小の女子が手を上げた。

「あたしからいくね! あたしは梢葉大付属小五年の高島鈴花、よろしく! はいじゃあ次、遅れてきたあなた!」

 そう早口でまくしたて、鈴花は健一を指差した。健一はそれにむっとした表情を返す。

「何だよお前、突然仕切り始めるなよ」

「何よ、悪いの? 次にやることがあるんだから、のんびりしてたって仕方ないじゃない」

「だからって勝手にするのはよくないと思いまーす。あと人を指差すのもいけないと思いまーす」

「一番遅れてきた人にあんまり口出しされたくないんですけど!」

 初対面同士でよくここまで言い合えるものだ。康介は感心しかけたがこのままでは班の空気が悪くなってしまう。二人を止めなければ。健一の腕を取ろうとして、しかしそれよりも早く二人の間に割って入った者がいた。

「落ち着きなよスズカ。のんびりしても仕方ないのはその通りだけど、特別急ぐ必要だってないよ」

 付属小の男子の内、背の低い方だった。彼は鈴花を黙らせると(いったいどうやったというのだろう!)黒目がちの目を健一に向けた。

「ごめんね。スズカはその、ちょっと気が短いから」

「いや……おれの方こそ」

「あ、俺は吾妻雅哉。スズカと同じ付属小五年」

「おれ月島健一、観岳小の五年二組」

「そうなんだ。よろしく」

 なんということだろう。雅哉の登場で健一と鈴花の一触即発な空気はどこかへ消え去ってしまった。康介はただただ驚くばかりだったが当の本人は涼しげな顔で癖毛を撫でている。このくらい特にすごいことだとは思っていないのか、それともいつも学校でも喧嘩の仲裁をしているのだろうか。

「えーと、じゃあ自己紹介を続けようか」

 付属小のもう一人、背の高い方の男子が一歩前に出た。黒縁眼鏡をかけ、背筋をぴんと伸ばしている。着ているものは活動的なポロシャツだが、どことなくニュース番組のアナウンサーみたいだと康介は思った。

「僕は柳田修」

 名前までアナウンサーみたいだ。

「雅哉と高島さんとは同じクラスなんだ。二人共々、よろしくお願いします」

 深々と頭を下げた修につられ、康介も思わず「こちらこそ」と頭を下げ返した。

 それぞれ個性的な付属小の三人に気圧されつつ、千夜子、朋、康介も、名前を言うだけの簡単なものではあったが自己紹介を済ませた。次は路川先生たちから飯ごうすいさんの説明を聞かなければならない。外に出ようという空気になりかけたが、うんうんと頷いたかと思うと鈴花が「決めたわ!」と人差し指を立てた。

「仲良くするにはやっぱりお互いをあだ名で呼ぶべきよ。千夜子ちゃん、あなたのことはチャコって呼ぶわね」

「え、わたし?」

「それと松崎君はマツスケ、月島君はツッキーね」

「またお前は勝手に、人を怪獣みたいに呼ぶなよ!」

「悪くないと思うんだけど、ツッキー」

「そういう問題じゃねーだろ!」

「ちょっとケン」

 また喧嘩腰になる健一のタンクトップの裾を引っ張る。それで一応収まったのか健一は口をつぐみ、代わりに鈴花が再び口を開いた。

「ちなみに」雅哉を手で示して「彼はキング」、修を示して「彼はポロって学校のみんなから呼ばれてるから、そう呼んであげてね」と言う。二人を見れば少し困ったような顔をしていたから、呼んでいるのは皆ではなく鈴花だけかもしれない。

「それから……」

 鈴花が朋に向き直った。

「あなただけ何にしようか、いまいちぴんと来ないのよねー。どう呼ぼうかしら」

「高島さんは、普段なんて呼ばれているの?」

「あたし? あたしは下の名前、スズカよ」

「じゃあ私もトモでいい。名前で呼んで」

「あ、そう。じゃあそうするわね、トモ!」

 実際に呼ぶかはさて置き、これで皆の呼び名が決まった。満足したらしく先陣を切って鈴花が体育館の扉に向かい、千夜子と朋、雅哉と修が続く。その後ろについて外へ出る途中で、健一は康介に「あの女子、絶対大人になったら嫁に行き遅れるタイプだよな」とそっと耳打ちした。

「えーそうかな?」

 康介の彼女に対する第一印象は『テレビで見かける子供モデルのよう』だった。吊り上ってはいるが大きな目と少し高めの鼻、ふっくらとした唇がバランスよく並び、カチューシャで留めたウェーブのかかった髪が顔に華やかさを添えている。手足もすらりと長い。

「高島さん、可愛いと思うけど」

「分かってねーな、女は顔じゃないってことだよ」

 そう言って健一は口をへの字に曲げた。「じゃあケンは何が分かってるのさ」と言い返してみたものの、それは彼の耳には入っていないようだった。

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