薪集めとカレー

 六班が体育館を出たのは最後だった。先の五班は既に学生たちから次にすべきことの説明を受けており、最初に外へ出た班に至っては飯ごうすいさんの準備に取り掛かっている。七人で路川先生の元へ駆けより「六班です!」と告げると、やはり「君たちで最後だね」と言われてしまった。

「あーもう早く早く、急がないと他の班に負けちゃうよー」

 悔しそうに地団太を踏む健一を、路川先生が「別に勝負じゃないんだから、大丈夫だよ」と窘める。

「何事も、早ければいいってもんじゃないよ。もちろんスピード感を求められることも時にはあるけど、今は違う。今一番大事なのは、誰も怪我することなく、美味しい晩ご飯を作ることだからね」

 言いながら路川先生は脇に抱えていたファイルを広げて子供たちに見せた。

「今日これから皆に作ってもらいたいのは、カレーライスです」

 ファイルには康介たちがこれからするべきことが絵と簡単な言葉で書かれていた。それによれば、カレーライスを作る為にしなければならないことはふたつ。かまどを作って火を起こすことと、米を研いで野菜を切り、火にかけるまでの準備をすることだ。それなら、二手に分かれて作業した方が効率がいい。

「皆で話し合って、どっちをやりたいか決めてね」

 七人は顔を見合わせた。かまど作りか、下ごしらえか、どちらを担当しよう。包丁が苦手な康介はかまど作りをするべきだろうが、下ごしらえが嫌だと言う人の方が多ければ話し合いをしなければならない。

「私、野菜切るよ」

 挙手をしたのは朋だった。思わず「おお」と声が出る。

「そ、それじゃあわたしも」

「じゃあ女子が下ごしらえをするから、男子は火を起こしておいて!」

 おずおずと進言した千夜子に続けて鈴花が指示を出す。「また勝手に」と健一はぼやいていたがそれ以上何も言わなかったのは、健一も包丁が苦手でやるなら火起こしの方と決めていたからに他ならない。

 女子たちが家庭科室へ向かうのを見送ってから、残された男子四人は校舎脇の畑へと移動した。

 校舎脇の畑は、今は何も植えられていない。元々は上級生たちが理科の授業で使う花や野菜を育てていた場所だが、今年は校舎改築の関係で使うことが出来なかったのである。授業をするには不都合だったが、何もない畑は今は好都合である。この畑にかまどを作るのだ。作業をする他班を見てみれば、畑の隅に無造作に置かれたコンクリートブロックを積み重ねている。たった今路川先生から聞いた説明を元に、他班の見よう見まねでブロックをコの字型に並べ、それらしいかまどを作ってみた。

 日に当たりながら作業をしていたにもかかわらず、川で濡らした康介たちの頭は乾くことがなかった。乾く前に汗が噴き出し、また頭を濡らしたのである。額に垂れる汗をぬぐいながらかまどを作り上げた時点でちょっとした達成感が得られたが、これはまだ序の口である。飯ごうを支える木の枝や着火剤となるものを、校内で調達しなければならない。

「着火剤……何か燃やせるものを集めなきゃだね」

「枯れ葉や枯れ枝なんかを集めるのによさそうな場所って、どこかな?」

 雅哉に聞かれ、康介は学校敷地内の地図を脳裏に描いた。

 枝を集めるなら当然木の多い場所だ。グラウンドの周りには桜の木が植えてある……いや、駄目だ。桜はあまり枝を落とさないし、落ちていたとしても細くて柔らかいから、飯ごうを支えようとしたら簡単に折れてしまうだろう。他に木の多い場所と言えば……。

「プール裏とかいいんじゃない?」

「いいね!」

 健一の提案に康介も頷いた。プールの裏にはドングリの木がある。そして何より――夏休みに入る前、プール裏の掃除担当は康介たちだった。しっかり掃除をしなければならないことくらい知っていたが、学校敷地の隅ということもあってか、見回りの先生が様子を見に来ることはほとんどなかった。その為掃除の二十分間は、まるまる遊ぶ時間だったのである。一学期の間ろくに掃除をせず、夏休みに入ってからも手つかずの状態であるはずだから、枝も落ち葉もたくさんあるに違いない……いけないことなのだけど。

 そうと決めたらすぐ行動だ。「プールだね。そこまで案内してよ」と言う修と雅哉を手招きして康介は歩き出した。

 夕方といえども夏の陽はまだ高く、日光が容赦なく降り注ぐ。首筋に浮いた玉のような汗を振り払ってプール裏の木影に入ると、それだけで涼しくなった気がした。そこは康介の予想通り――というよりは必然なのだが――落ち葉が積み重なっていた。

「いっぱいあるね」

 青々とした葉が茂る枝を拾い上げて振り返る。しかし雅哉は首を横に振った。

「それじゃ駄目だと思う」

「えっ何で?」

「その葉っぱ、まだ緑色だよ。緑の葉っぱを燃やしたら煙がたくさん出ちゃう」

「そうなの?」

「うん」

 雅哉に続いて修も頷く。

「あんまり煙が出たら他の班にも近所の人にも迷惑がかかっちゃうから、枯れ葉を探さなきゃ」

「そうなんだ」

 所詮葉っぱなのだから燃えそうなものを。これくらいいいじゃないかと思うのだが、あまりもくもくと煙が出るのは康介もごめんだ。康介は手にした枝を地面に落とした。

 ここの落ち葉が駄目なら別のことを考えなければならない。他にどこかいい場所はないか、再び頭の中で地図を広げる。

「じゃあ……ケン、どこがいいと思う? ……ケン?」

 健一に話しかけるも返事がなかった。まさか、いつも通っている学校の中で迷子になったのか? それともどこかに置いてきた? そもそも健一はいつからいない?

 額から噴き出した汗を拭って辺りを見回す……と。

「忍法木の葉バクダン!」

 顔に枯れ葉を投げつけられた。

「えっ何!?」

 頭で考えるよりも先に目を閉じ、鼻先で手を振り回す。顔を襲ったチクチクとした感覚を払い落とし口にまで入ったものを吐き出す。

「何なのこれ!!」

 叫んでTシャツの袖で頬をぬぐい、目で犯人を捉えると、腹の立つことにそいつは――健一は大笑いしていた。

「ちょっと、何すんの!」

「あーおかしい、コースケってほんと想像通りのリアクションしてくれるよなー」

「ひっどい!」

 むくれる康介などお構いなしといった様子で、健一は更に枯れ葉を投げてくる。一歩引いてそれをかわし、足元に落ちた茶色い葉っぱを見下ろして、康介は「あれ?」と首を傾げた。

「ケン、これどこで拾ってきたの?」

「あっちあっち」

 健一が指差した方向、それは学校の敷地外に広がる森だった。学校の内と外を隔てている緑色のフェンスは今は外れかかっている。その隙間から手を伸ばして、健一は外の枯れ葉をかき集めたのだと言う。

 どこの誰が管理している森かは知らないが、プール裏エリア以上に人の手が加えられていないように見えた。昨年の秋に落ちた葉がそのまま冬を越し、春を迎え、夏の盛りとなった今でも、まだこうして積もったままなのだ。これならかまどの着火剤として使える。康介たちは健一に倣ってフェンスの隙間に手を入れた。近くの掃除用具置き場からちりとりを二つ拝借し、集めた枯れ葉をそれに乗せられるだけ乗せた。

 そんな折のこと。もっと遠くまで手を伸ばそうとした健一がフェンスを強く押すと、バキッと音を立てた。子供の力に負けたフェンスがひしゃげたのである。

「げっ」

 やっちまったか。健一は慌てて手を引っ込めたがもう遅い。フェンスは学校の外側に向けて大きく口を開けてしまった。

「え、何? 今の音。ケン何したの?」

「違う、そんなつもりじゃなかったんだ。ただ、手伸ばしたらフェンスが壊れて」

「ああ、フェンスを止めてたねじが折れちゃったんだね」

 網がなくなり枠だけとなった金属のフェンスを見、雅哉が健一を振り返った。

「すごくさびついてる。これじゃ壊れても仕方ないね」

「だからって壊しちゃったのは事実だよ。早く先生のところに行ってこのこと言わなきゃ……」

 そう言ったのは修だ。枯れ葉を集めたちりとりを掴み、グラウンドの方へ戻ろうとする。しかし「待って」とそれを制したのは、他でもない健一だった。

「何で? どうしたの」

「これはおれがやったことだから、おれがちゃんと先生には言うよ。付属小の奴にそんなの頼めないからな」

「月島君……」

「だからさ、おれがこれからやること、見逃してくれよな」

 言うが早いか、健一はするりとフェンスの枠を抜けると校外へ出ていってしまった。

「ちょっと月島君、駄目だって!」

「だから見逃してくれって言ってるじゃん、すぐ戻るしさ」

「そういう問題じゃ……!」

「三秒ルール三秒ルール」

「それ違うよね!?」

 うろたえる修のことなど気にせず、言葉通り三秒ではなかったが確かにすぐ戻ってきた健一は、一本の木の枝を握っていた。直径一センチメートルほど、長さは一メートル以上。まっすぐで、ちょっと力を加えた程度ではしならない。

「かまどに飯ごう吊るすのにちょうどよくね?」

「それは、まあ」

「だろだろ? だから、おれが勝手に外に出たことは先生たちに内緒な。男と男の約束だぜ」

「卑怯だなあ」

「卑怯じゃねーよ。さ、戻るぞー」

 手にした枝をグラウンドに向けて健一が高らかに言う。ずんずんと歩き始める健一を雅哉が追い、その後にちりとりを持った修、康介が続く。縦一列に並んだ様は、最近発売されたばかりのRPGゲームを連想させた。

 先頭は主人公、勇者だ。その後に続くのは剣士、魔導師、賢者といったところか。この並びなら健一が勇者、雅哉が剣士、魔導師は修で、康介は賢者ということになる。自分が賢者にふさわしいかどうかはさておき、こう言っては申し訳ないが雅哉に剣士は似合わないなあと考えていた時だった。

「チャコちゃん、だからそうじゃないんだって!」

 康介の耳にそんな声が入ってきた。

「スズカの声だ」

 雅哉も聞こえたらしく顔を上げる。

「じゃあ家庭科室か」

「すぐそこだね」

 四人で顔を見合わせ校舎に近寄る。窓の位置は高いがつま先立ちすれば覗けそうだ。窓枠を掴み懸垂の要領で身体を支えて中を見ると、下ごしらえ担当の児童たちが包丁片手に悪戦苦闘していた。

 中でも飛び抜けて下手なのが千夜子だった。右手で包丁を握り、左手でじゃがいもを握り、何と切っ先をじゃがいもに当てている。康介にだってそれが間違った切り方であることくらい分かる。

「違うチャコちゃん、皮むく時はそうじゃないの。あたしがやるから、よく見て」

「う、うん」

 鈴花が千夜子の隣で実演する。こう見ていると鈴花の皮むきは意外と上手で丁寧だ。それを千夜子が見よう見まねで挑戦するが、手元はおぼつかなく危なっかしい。うっかり指まで切ってしまいそうだ。それを心配しているのか、泉先生がずっとつきっきりで千夜子を見守っている。

「すげーな花江さん……」

 これでは下ごしらえに時間がかかりそうだ。誰もがそう思ったが、二人のすぐ脇で朋が着々と準備を進めていた。米を研いで水に浸し、にんじんの皮をむいて切り、玉ねぎを刻み、鈴花のむいたじゃがいもの芽をひとつひとつ取っている。それが終わったらごみをまとめ、調理台をふきんで拭き、千夜子がじゃがいもをひとつむき終えるのを静かに待っている。何と朋はこんなところでも頼りになる人間だったのだ。

「すげーな鴇田さん」

「それはすごく、うん」

「このあとの調理、鴇田さんに任せような」

「うん」

 覗いていることを知られたら彼女たちは気を悪くするかもしれない。特に千夜子は、嫌がるのではないだろうか。四人はそっとその場を離れると家庭科室での件を忘れ、かまどの世話に専念することに決めた。

 かまど担当が火起こしに成功し暑さと戦い始めた頃、下ごしらえ担当たちが切り終えた肉や野菜、研いだ米を持ってやってきた。

「お待たせ~。あっ、火ついてるじゃん。準備ばっちりだね」

「くっそ熱い思いして用意してやったんだから感謝しろよ?」

「何をえらそうに!」

 さっそくにらみ合いを始めた健一と鈴花を一瞥しただけで、朋は特に何も言うことなく、かまど脇の飯ごうを手に取った。ひと班にふたつずつ支給されている飯ごうの内ひとつに米と水を入れ、健一が拾ってきた枝に通して火にかける。もうひとつの方ではカレーを作る。油のボトルを持って各班を巡回していた路川先生を呼び止めると、先生は飯ごうに油をひいてくれた。

「油が火にこぼれると危ないからね、気を付けてね」

「はーい」

「あと喧嘩もしないようにね」

「……はあい」

 注意された二人はばつが悪そうに目を反らした。同じタイミングで視線を爪先に落とし、同じタイミングで溜め息をつく。息がぴったりだ。二人は本当は似た者同士かもしれない。康介は何となくそう思った。

 六班の中で一番料理が得意なのは朋である。それは先ほど家庭科室を覗いた男子たちも、朋と一緒に下ごしらえをしていた女子たちもよく分かっていることだ。

「スズカ、お肉と野菜に火が通った。水を足して」

「分かったわ」

「吾妻君、腕時計してたよね。今から十五分経ったら教えてくれる?」

「十五分ね。了解」

「柳田君と月島君、火力の調節をお願いできる?」

「どうやんのそれ」

「たきぎの量を調節してあげるの」

 自然と朋が主導となり、着実に食事作りが進み始めた。朋の指示出しには迷いがなく、しかも的確だったことも、朋を中心として動いた一因だろう。あっという間にただ切っただけの肉や野菜はカレーの形に近づき、飯ごうの米もご飯へと変わりつつあった。

「あとはカレールウを入れて煮込むだけだよ。ルウは……」

「さっき他の班の子が路川先生にもらってるの見たよ」

「そう。じゃあ千夜子、もらってきてくれる?」

「うん分かった」

 飯ごうの中身をかき混ぜる朋の手を見つめていた千夜子が顔を上げた。目で路川先生を見つけ、それから、なんと康介の方を見る。

「ねえ松崎くん、ルウもらいに行ってこよ?」

 千夜子から同行を依頼された。

 まさかここで自分に声がかかるなんて露ほども思っておらず、突然のことに上手く声が出せなかった。どぎまぎしながら「え、う、うん」と間抜けな答えを返し、千夜子に腕を引っ張られるままに歩いた。

 路川先生は二班のかまどの前で六年生がカレールウを割り入れるのを見ているところだった。わざわざ飯ごうを火から下ろし、ルウを入れて溶かしている。何でだろう、千夜子に聞いてみようと思ったが、それよりも先に千夜子は路川先生に話しかけていた。

「先生、カレールウください!」

「六班だね。もうルウ入れるの?」

「うん。もうすぐご飯が出来ますよー」

「そうか、頑張ったね」

 そう言って笑うと路川先生は腰を折り、千夜子の目線に合わせた。『頑張ったね』とは、作業開始前に出遅れたにもかかわらず完成までに他班に追いついたことを指しているのだろう。

「ううん、わたしは何も……」誉められたにもかかわらず、千夜子は正直に首を横に振った。「頑張ったのは朋ちゃんだよ」

「朋ちゃん……? ああ、鴇田さんか。あの子器用なんだね、さっき家庭科室で包丁使ってるとこを見せてもらったけど、あまりに手際がいいからびっくりしちゃったよ」

「朋ちゃん、いつもおうちでお母さんのお手伝いしてるんだって」

「そうなんだ。じゃあきっとこういうことは慣れてるんだね」

 路川先生は肩にかけていたショルダーバッグからカレールウの箱を出して千夜子に渡した。

「でも、ひとりに任せきりにしちゃいけないよ。皆で協力した方が、美味しいカレーが出来るんだから」

 さあ、早く班のかまどのところに戻って。路川先生が二人の背中を押す。

「盛り付けまで出来たら記念撮影をするからね、食べる前に呼びにおいで」

「はーい、ありがとうございます」

 頭を下げて、二人は路川先生の元を離れた。最後の材料、カレールウは手に入れた。あとはこれを溶かして少し煮たら完成である。いつもの、大人任せのご飯とは違う。康介たちが作った晩ご飯だ。しかし。

「本当、先生の言う通りだよねえ」

 康介の耳が千夜子の呟きを捉えた。

「どうしたの、花江さん」

「カレー作るの、ほとんど朋ちゃんにやってもらっちゃったでしょ? 本当は皆で協力してやらなきゃいけないことなのに」

 千夜子が他班の調理の様子を見遣る。ああでもないこうでもないと言い合いつつも、「きっとこうすればいいんだよ!」と最適解を探しながら、皆で飯ごうを見つめている。

「朋ちゃんばっかり頑張って、わたしなんか、何にもしてない」

「そんなことないよ。野菜切ってくれたんでしょ?」

「それも朋ちゃんだよ。わたしがじゃがいも一個むく間に朋ちゃんがにんじんと玉ねぎとお肉切ってくれてた」

 それはまあ……確かに。家庭科室を覗いた時のことを思い出すと、それを否定してあげることが出来ない。

「朋ちゃんはすごいなあ、何でも出来ちゃうんだもん」

「そんなことないよ、花江さんだって」

「わたし、不器用だから、お料理とか本当に駄目で。女の子なのに変だよね」

「そんなこと……」

 困ったように、それでも笑う千夜子を見ていられなくて、康介は空を見上げた。日が傾き、空は薄暗くなり始めている。食事を始める頃には完全に夜になっていることだろう。

 ――と。薄紫色の空の中にひとつ、明るく輝く星が見えた。

「……一番星?」

あれ、と康介が指差した先を千夜子も見上げる。

「あれは……アンタレス、だね」

「何それ、星の名前?」

「そう、さそり座の真ん中にある赤い星。一等星のアンタレスだよ」

「詳しいね。じゃあ……あっちのおっきいのは?」

「それは北極星」

「おーさっすがー」

 ふと、夏休みに入ったばかりの頃、川で千夜子に声を掛けられた時のことを思い出した。どんな星が好きなのか聞かれ、月が好きだと答えた。観察会は新月の日に開催されるから康介の好きな月は見えないが、千夜子が好きな星はきっと見ることが出来るだろう。そんな話をした。

 そうだ。星だ。

「ねえ、ぼくに星のことを教えてって約束したの、覚えてる?」

「もちろん。忘れる訳ないじゃない」

「それだよ、それ」

 康介の言葉に千夜子はきょとんとした。

「何が?」

「鴇田さんが器用なのと一緒で、花江さんは星のことに詳しい。花江さんと鴇田さんは違うんだから、得意なことが違ってたっていいんじゃないかなあ」

 大きな目を丸くして聞いていた千夜子だったが、康介が言い終わって一拍置いた後に、小さく吹き出した。それを誤魔化すように咳払いし、口元に手を当てて肩を震わせ、笑いをこらえている。

「えっ、あの、ちょっと……ぼく何か変なこと言った?」

「そうじゃない、そうじゃないよ」

 千夜子が首を横に振る。そして。

「松崎くん、優しいね」

 康介の目をまっすぐに見つめて、そう言った。

 いつの間にかセミは鳴りをひそめ、日が落ちてからは代わりにカエルがそこら中で合唱を始めていた。子供たちが会話する声に時折薪がはぜる音が交じる。そんな雑音よりも康介自身の鼓動が大きく耳に響いた。自覚した時には既に顔が熱く、首筋には真昼の日光を浴びたかのように汗が流れていた。ひとりでに頬が緩み、思わず顔を下に向ける。

「別に、ぼく、そんなことは……」

 口の中でもごもごと言う。目だけで千夜子の方を見ると、しかし彼女はこちらに背中を向けてさっさと歩き出している。

「ね、早くカレー完成させちゃおうよ!」

 置いていかれたような、でも少しだけほっとしたような、複雑な感情を抱え、康介も千夜子を追った。夕食の時間、そして星の観察の時間が迫っていた。

 六班のかまどに戻ると飯ごうが火から下ろされていた。大きく口を開けてカレールウの投入を今か今かと待っている。

「何で下ろしちゃうの?」

 訊ねると朋は「そういうものなんだよ」。続けて「……今度調べておくよ」と言われれば、「それは、よろしく」と返す他なかった。真実が分からないことよりも、朋にも知らないことがあるという事実の方が驚きだった。

 割り入れられた固形のルウが飯ごうの中で融けていく。再びかまどの火の上に置くとカレーのスパイシーな香りが広がり、さらさらだった液体にとろみがついてきた。代わりに下ろされたもうひとつの飯ごうからは粘り気のある泡が噴き出している。「ご飯が炊けている証拠だよ」と言ったのは雅哉だ。

「さあ、もうできるよ」

 朋が体育館を指差した。皿を持ってこいということらしい。いつの間にか皿とスプーンを持って待機している健一を除き、六班のメンバーはぞろぞろと体育館へ移動した。

 自分の鞄を開け、皿を取り出した康介の足元に何かが転がった。それを視界の端で捉え、何だろうと屈み込む。そこには和之から預かっていたネコのキーホルダーと康介のトラのキーホルダーがふたつ落ちていた。弟のお気に入りである、なくしでもしたら大変である。気付いてよかった、康介はキーホルダーを拾い上げた。

「松崎くん、行くよー」

 千夜子から呼ばれ、慌てて立ち上がる。彼女は既に身体を出入り口の方へ向けていた。皿を二枚持っているのは、千夜子本人のと、それから朋のものだろう。すぐさま立ち上がり「うん、すぐ行くよ」と返すと、康介はキーホルダーをとりあえずポケットに入れた。足を突っ張らせているトラのせいでズボンのポケットは歪に膨らんだが、今は気にしていられない。ボストンバッグのチャックを閉めると康介は千夜子を追った。

 花壇へ戻ると、皆の戻りを待っていた健一が「遅いぞみんなー」と足で地面を叩いていた。皆から皿を受け取ってはご飯をよそい、朋へ渡す。朋がカレーをかける。見事な連携プレーだ。

「どうしたのケン、自分から盛り付けするなんて珍しいじゃん」

 からかってやるつもりで訊いてみると、答えは朋から返ってきた。

「お腹減ったんだって。早くご飯にしよう」

「そういうこと……ほい」

 手渡された康介の皿よりも、健一の皿の方が量が多いように見える。なるほど、自分の取り分を自分で調節したかったということか。

 ご飯をよそいきった飯ごうを覗くと、底には真っ黒に焦げた米が残っていた。火にかけ過ぎたのか、いや火力が強過ぎたのだ、意見交換をしている内に路川先生がポラロイドカメラを持ってやってきた。

「じゃあ記念撮影だ。皆、カレーが僕から見えるようにして持って」

 言われた通り、不平等に盛りつけられたカレーをカメラに向けて並ぶ。

「それじゃ全員が映らないよ。ほら、もっと真ん中に寄って」

 一歩、二歩、と中央による。康介の肩が隣に立つ千夜子に触れる。

「よし、撮るよ。いちたすいちは?」

「にー!」

 パシャリ、パシャリ、七回シャッターが切られ、カメラから七枚の写真が吐き出された。花壇を囲む煉瓦に腰掛けた子供たちの手に一枚ずつ渡る。出てきたばかりの写真は黒く、まだ何も写っていない。絵が出てくるのを待ちながら食事をしよう。路川先生の音頭で手を合わせた六班のメンバーは、声を揃えて「いただきます」と言うとスプーンを手に取った。

 一緒にカレー作りをしておきながらおかしな話だが、康介はまだ付属小の三人のことをよく知らずにいた。相手のことを知らなければどう話しかけていいかも分からない。つい「ねえケン」と健一に声を掛けてしまう。そんな康介と対照的に、健一はカレーを食べながら雅哉たちに次々と質問をぶつけていた。「なあ、野球好き?」「休み時間何して遊ぶの? 何が流行ってる?」から始まり、写真が浮かび上がってきてからは「ポロどこ向いてんのこれ」「あー高島さん目閉じてるー」等々。やはり健一はすごいなあとにんじんを取り除きながら聞いていた康介だったが、突然修から「松崎君、にんじん嫌いなの?」と訊かれ、意識をカレー皿から引き剥がした。

「え、う、うん……少しね」

「雅哉もそうなんだ。ほら」

 言われて見れば、雅哉も器用ににんじんを皿の隅に集めている。

「ちょっとぉ、せっかく作ったっていうのにキングってば残す気?」

「俺、にんじんだけはどうしても駄目なんだ」

「そんなの知らないわよ、いいから早く食べなさいよ!」

 言うが早いか鈴花は雅哉のスプーンを掴むとにんじんをすくい上げ、雅哉の鼻先に押し付けた。「食べなさい!」「いやだ!」、何と恐ろしいやり取りだろう。内心雅哉に手を合わせ、にんじんを弾いたカレーを口に運ぶ。が、途中で視線に気付き、手を止めてそちらを見た。千夜子が康介の方を向いていた。

「好き嫌いはよくないよー」

「んん、そうだよね……」

 身体にいいとか高い栄養価がどうとか、そんなことは家庭科の授業で聞いて知っている。しかしそれとこれは別だ。この味をどうしても好きになれないのだ。

 今度は別の方向から視線を感じる。その先にいるのは健一だ。「何?」と振り返ると、健一は声色を変えて言った。

「好キ嫌イハヨクナイヨー」

 千夜子を真似したつもりだろうがおそろしいほどに似ていない。「全然似てないよ」と、朋にもばっさり切り捨てられる。それでも「いい線いってると思うんだけど」などと主張してくるので、康介は選り分けたにんじんを全てすくい上げ、無言で健一の皿に移してやった。

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