月と星
結局、康介が申込用紙を担任の泉先生に提出したのは終業式の日であった。出し忘れて参加出来ない、なんて間抜けな事態だけは避けたかった為早い内から父親に申込用紙を渡しておいたのだが、これがいけなかった。父親がサインすることをすっかり忘れていたのだ。しかも何かに挟んで、それが何だったか覚えていないなどと言う。思い付く限りの本や雑誌をめくり、新聞紙の束をひっくり返した。しかし申込用紙は見つからないまま終業式前日を迎えてしまった。諦めてもう一枚学校でもらってこようか、いや提出期限は終業式の日なのだから今更もらってきてももう遅い、などと考えていたところで、母親がサイン済みの申込用紙を持って現れた。曰く、「お父さんがほったらかしにしてたから、なくしたらまずいかと思って預かってたの」。こうして親のサインをもらうことに成功した康介は、期限ぎりぎりではあるが何とか星の観察会に参加出来る運びとなったのである。
終業式当日の朝、職員室で配布物――夏休みの過ごし方、注意をまとめたプリントや、夏休みの宿題一覧、そしてあまり見たくはない通知表――をまとめていた泉先生の元を訪ねると、そこには先客がいた。同じクラスの鴇田朋だ。先生の手元にあるのは通知表。一学期の成績の話でもしているのだろうか。職員室で話をするなんて、よほど成績が悪かったか、逆にとてもよかったに違いない。康介のいるところから朋の表情を窺うことは出来ないが、先生の方は明るい顔をしているし、何より朋はクラスどころか学年中が認める『頭がいい人』である。当然後者だろう。
近付く康介に先生が気付き、少し遅れて朋も康介を見た。
「話し中?」
「別に」
短く返し、朋が手で康介を促す。邪魔になる訳ではないなら、と康介は持っていた申込用紙を先生に手渡した。
「へえ、松崎君も」
用紙を見た泉先生は少し驚いた表情を見せた。
「松崎くんで四人目だよ、うちのクラスの参加希望者」
「四人?」
「ええ。思ったより多くて関心だわ、勉強熱心ね」
健一と千夜子が参加することは知っている。それに康介を加えて三人だ。なら、あと一人は誰だろうか。
「ぼくの他は誰が?」
訊ねると泉先生は机の上のブックスタンドに手を伸ばし、クリアファイルを取った。
「花江さんに月島君、それから」
先生が傍らに立つ朋を見る。朋が持っていた紙を広げて見せる。それは康介が今先生に渡したものと同じ、星の観察会の申込用紙だった。
「私も参加しようと思って」
「え、鴇田さんも?」
「悪い?」
「まさか。そうじゃないよ」
そうじゃないけど――朋の申込用紙を見て康介がまず思ったことは『意外だなあ』だった。鴇田朋といえば、いつでも冷静で、問題に対する指摘が的確な人間だ。現実をしっかり捉えている彼女のことだから、星だ宇宙だといったロマンチックなことに興味がないのではないかと勝手ながら思っていたのである。『星? そんな遠くのことよりも目の前のことに気を配ったら?』――なんていう風に。
しかし、改めて朋のことを振り返る。前述の通りの彼女であるが、クラスで特別浮いている訳ではない。逆に女子たちからの信頼は厚いようで、クラスの相談役というポジションに収まっていた。少なくとも康介の目には、誰とでも上手くやれているように映っている。中でも特に朋と親しくしているのが花江千夜子だ。もしかしたら、朋は千夜子に誘われて観察会の参加を決めたのかもしれない。
先生は二人分の申込用紙をクリアファイルに入れ、代わりに腕章を取り出した。白地に緑色で『引率』と書かれている。
「その観察会だけど、私も参加するからよろしくね」
「先生もなんだ!」
「ええ。皆がちゃんとお勉強してるか、よその学校の子たちに迷惑かけてないか、しっかりチェックするからね」
声を低くする先生に、康介も朋も首を横に振る。
「そんなことくらい、ぼく大丈夫だよ」
「他の人に迷惑なんてかけません」
「もちろんそうだと信じてるよ。でも、念の為ね」
先生は康介と朋の額を指でつつくとクリアファイルをブックスタンドに立てた。今この瞬間、康介の星の観察会への参加が正式に決まったのであった。
夏休みに入ってからは毎日があっという間だった。川で飛び込みの練習をしたり、泳いだり、釣りをしたり。毎日やることがたくさんあった。健一や同じクラスの友だちと一緒のこともあれば、兄弟と一緒のこともあったし、一人の時もあった。
一人で川釣りに挑戦していた時のことだった。橋が作る日陰に座って釣糸を垂らし、何となく水面を眺め、それからひとつ大きなあくびをした。釣りというのは結局のところ自分との戦いだ。敵は目の前の魚ではない、自分自身である。魚が仕掛けにかかるまで耐えきれるかどうかなのだ。
透き通る川の底ではイワナが泳いでいる。あいつが餌にかかるまで動かないぞ――川べりで心に決めた康介だったが、近くで自転車のベルが二回鳴り、それにつられて顔を上げた。
「あっ、やっぱり松崎くんだー」
「は、花江さん」
川の向こう岸から自転車に乗った千夜子がやってきた。彼女は橋の上、康介の真上で自転車をとめると欄干から顔を出した。つばの大きな麦わら帽子が千夜子の顔にまばらに影を落としている。真っ白なワンピースが眩しかった。
風が吹いて、川の流れに逆らって波を作った。風は橋の上にいる千夜子をも煽る。彼女は片手で自転車を支え、もう片方の手で麦わら帽子を押さえた。彼女のスカートだけが自由にはためき、康介は反射的にうつむいた。
「何か釣れた?」
「ううん、まだ」爪先を見つめたまま答える。「まだ、始めたばっかりだから」
「そっか。じゃあこれからだね、がんばって!」
「ありがとう」
礼を言う時くらいは顔を見なければ失礼だ。見上げるとスカートはもう重力に逆らわずにおとなしくしていた。少しだけがっかりした。
「そうだ。松崎くんはさ」
千夜子が欄干を掴んで身を乗り出した。
「どの星座が好きなの?」
「星座?」
「えっと、星座じゃなくても、星でもいいよ」
「星ね……」
星に関すること。教卓の前で申込用紙の話をして以来、いつかは訊かれるだろうと思っていたことだった。しかし康介が星に興味をもとうと決めたのはつい先日のことである。好みを語れるほど宇宙にも星にも詳しくない。自由研究としてまとめる必要もあることだし、観察会までに少しくらいは勉強しておかなければ、と思っているのだがまだ実行に移せていない。
「ぼく、あんまり詳しくないんだけど」
正直に前置きし、一度千夜子の顔色を窺う。「うんうん」と頷いているから、前置きにもかかわらず康介の話に興味をもってくれているのだろう。少し安心して後を続ける。
「月が、好きだな」
「へえそうなんだ!」
「うん。もしかしたら、ぼくたちが大人になる頃には月に旅行できるようになってるかもしれないでしょ? そう思うと、月って他の星よりもぼくたちに近い存在だよね」
「そうだよね。ハネムーンでムーンに行けるようになるかもしれないもんね」
突然そんなことを言い出すなんて、ダジャレのつもりだろうか。しかし――ウェディングドレスを着た千夜子を想像する。純白のドレスを着て微笑む彼女は最高に可愛いに違いない。勝手に頬が緩んだが、「あ、でも」という千夜子の声に意識を引き戻された。
「観察会、新月の日だからその日は月が見えないね」
「新月?」
「そうだよ。月が明るいと月の光で他の星が見えづらくなっちゃうでしょ? だから天体観測は月がない日にした方がいろんな星が見えるんだよ」
「へえ」
間抜けな顔で答えてしまってからはっとする。無知を晒してしまった。よりにもよって千夜子の前で。
「じゃあ……それじゃあさ!」
康介は慌てて続けた。
「観察会の日は、月は見えないけど、他の星はよく見えるんだよね?」
「そうだね。天気もよさそうだし、きっと天の川も綺麗に見えると思うよ」
「じゃあ二日は、花江さんの好きな星のことを教えてよ。実際に見ながらの方がいろんな話が出来ると思うんだ」
「素敵! そうしよう!」
ぱちんと両手を打ち鳴らし、千夜子がにっこりと笑った。
「松崎くんとお話が出来て嬉しいな」
「それは……」
どういった意味なのだろう。きっと『「星の」お話が出来て嬉しい』のだろうが……というかそうに違いない。分かっていても、胸のどきどきが収まらない。
訊き返す訳にもいかず、何も言えない内に、千夜子は「じゃあ二日、よろしくね!」と言うと自転車にまたがった。小さく手を振って走り去っていく。妙な期待などするつもりはなく、したところで何の意味もないことは十分に承知しているが。
「楽しみ、だなあ」
星の観察会当日を心待ちにする権利くらいは、康介にだって与えられているだろう。
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