最終話 ただ同じことをする

 冬の冷たい風が、ただ孤独を語っている。まるで、僕へ送られているかのように、夢を見て捻くれ者であり続ける少年を笑うように。

 提灯の淡い灯りと焼きそばのソースの匂いが、微かに届いていた夏夜は幻想みたいにいまは、ここにない。

 午前中の浅い日の明かりに灰色の空が照らされて、そこからハラリハラリと牡丹雪が降っている。屋上の30cmの淵も、この雪ならすぐに潔癖な白で埋もれるだろう。

 僕は、向かう先のある石段から自殺を図るための屋上へ戻っていた。目を閉じたら学校が始まっている幼い日に夢見た夏のように、僕の前から夏と死神は消えていた。

 でも、否定しようがないくらいに、僕の体には、夏の残響や残り香、欲張りなくらい好都合なテトラポットと海、入道雲、花火――それから、死神へ流した涙が、頬を伝っている。それを手のひらで強引に拭った。

 そして、確かな事実を胸で語った。


 僕は、何かを忘れてしまっている。その姿は分からない。だけども、確かに、僕の中にあり続けた何か――人生で欠けてはいけない、たった一つの何かを忘れてしまっている。

 夏休みに駄菓子屋でラムネを飲みながら空想を語り合ったり、夏祭りの花火を笑い合いながら石段に座って、鮮やかな夜空を見上げたり、防波堤に座って通り過ぎる車の音を聞きながら、いまでは思い出せない話をし続けたりした彼女――となりの空席に座っているはずの彼女を忘れてしまっている。

 だけど、彼女の姿や声を思い出したわけではない。やっぱり、僕の記憶での彼女は失われたままだ。僕は、ずっと、となりの空席に恋をしたままだし、夏は泣いてばかりいる。

 でも、都合がいいことに僕の記憶は、上書きされた。

 夏に泣いてばかりいる記憶も、となりの空席に恋をする記憶も全部――<死神>と名乗る少女と過ごした最良な記憶に書き換わる。

 彼女は、僕の理想に沿ったわがままを最後まで貫き通した。

 ――僕へ、生きて欲しいというわがまま。

 違う。

 ――自分のいない僕の記憶へ、落書きでもいいから自分を書き加えたい我儘。

 これが正しい。

 僕は、彼女の我儘だらけの世界が、とても気に入った。

それに、彼女の我儘を許してしまった。一度、許した物を否定するのは捻くれ者ではない。

 胸で語るのは、もう終わりだ。

僕は、きつく閉じていた口を静かに開いた。

「死神、僕の記憶は、いま最良な記憶なんだ。 ずっと悲しい思い出であり続けた夏が、いまでは離したくない思い出に変わっている。 僕は、そんな夏を尊重したい。 君と過ごした夏だけを大切に取っておきたい」

 死神は、この場にいない。ハラリハラリと降る雪の存在だけが、嫌というほど空気を揺らしている。だが、過剰なほど優しい死神が、僕の言葉を聞いている自信があった。だから、ためらいもなく話を続ける。

「僕の自殺をする理由は、方法でしかないって言ったよね。 もちろん、自殺をしたって僕の胸の中の黒い部分が取り除けるわけはない。 だけど、このままこの世界で生きていたんじゃ、余計に黒い部分が増えていってしまうんだ」

 僕の中に、微かに残っていた夏が、完全に消えた。体の芯から酷く凍える。

 さっさと話を終わらせてしまおう。

「僕は、自分の記憶を最良なままにして、とって置きたい。 好きな女の子の我儘に振り回された夏、だなんてロマンチックだろ? 僕は、君との最良な記憶を遠い過去の想い出なんかにしたくないんだ。 カブトムシへ抱いていた憧れみたいに、気づいたら褪せてしまっているなんて嫌なんだ。 だから、これ以上の人生は、ノイズでしかない――僕は、死のうと思う」

 言葉は返ってこない。だけど、僕は、目を閉じて、凍える両手を制服のポケットへ入れた。

 今回は、彼女の答えを長く待つつもりはない。死神から答えを貰えないのなら、身を投げるだけだ。

 だが――僕は、こうなることを知っていた――降り続ける雪の中に、微かな温度を感じる。夏夜の一匹のホタルのような消えてしまいそうな温度。

 そして、あの綺麗とは言えない声も。

「私は、あなたを忘れたくない。 忘れられる辛さをあなたは知っているの? 大好きな人が、自殺をしようとしているのに『やめて』っていう一言で、止められない辛さが分かる?」

 彼女の声は、荒れていた。夏を奪おうとする冬の冷気を吐き出すように、声を荒げる。

「とても回りくどいやり方でなくては、あなたの自殺を止められない」

「そんなことはない」

 僕の否定に、死神が「違う」と言葉を挟む。だけど、その後に、声で微笑みながら。

「あなたは捻くれ者だもの。 私が、捻くれ者でいて欲しいって望んだの。 私のいない世界を否定してくれるような捻くれ者……だから、死神が『やめて』といって踵を返すのは、あなたじゃない」

 なら、話は簡単だ。

「死神、僕を殺してくれ。 背中を押してくれればいい。 殺人なら、君の記憶からも僕は消えないし、僕は君を忘れない」

 僕は、もう何も言う気はない。ただ目を閉じて、捻くれ者を望んだ彼女が背中を押してくれるのを待つだけだ。

 どのくらいの時間が経過したのだろう。多分、1分ほどしかたっていないのだろうけど、僕には何時間にも感じられた。

そして、僕の背中に、冬の冷気よりも冷たい手が添えられる。

 微かな力だ加わった。その力は、僕が殺されるのに十分な力だ。

 僕は、捻くれ者だ。

 自殺者へ「生きろ」と言う誰からも愛される死神を、愛したいとは思わない。あくまで僕は、誰からも愛されない、人の命を無作法に奪う死神を愛したい。


「大好きだ」

 

 となりの空席へ、捻くれ者を望んだ者へ、3日間を過ごした彼女へ――そして、死神へ、僕は告げた。


   『となりの空席へ恋をした(完)』

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となりの空席に恋をした 成瀬なる @naruse

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