第8話 夏祭りとテロリスト

 最終日も半日が過ぎた。

 もしも、世界滅亡を救うことになっていたとしたら、世界中の人が僕を<救世主>と呼んだだろう。

 もしも、悪の組織と戦うヒーローになっていたら、ヒロインの少女を格好よく救っているのだろう。そして、あわよくば、彼女に純粋な恋心を抱いていたのだと思う。

 だが、僕はそのどちらもを選ばないで、死神と日常を過ごすことを選んだ。朝ご飯を食べて、不思議な雑木林で植物の話をして、お昼ご飯を食べ、二人で眠る。

 そして僕の方が先に目を覚まし、昨日借りてきた小説の残りを読んだ。あとがきまで読み切ってから「この本、本屋に売っているかな」なんて考えていると死神が目を覚ます。

「寝すぎちゃいました」

「気持ちよさそうに寝てたね」

 死神は、両腕を上げて大きく伸びをする。その姿は、なんだか猫を連想させて愛らしく感じた。

 夏の午後4時の空は、まだ日は沈まない。水彩絵の具を溢したような澄んだ青空が広がり、死神を見下ろす。だけど、視線を少し遠くへもっていくと、微かに朱色が滲んでいた。

「ねぇ、死神。 この世界の時間を進めることはできるの?」

 僕は、ゆっくりとこの世界の終わりを感じるのが嫌だった。

 小学生の時の八月三十一日を思い出す。朝起きて、いつも通りぼんやりとしていると、いつの間にか日が沈み始める。いくら、待って、と言っても声が届くはずもなく、九月一日を迎えてしまう。あの表現しにくい切ない空気が嫌だった。

 だったら、八月三十一日なんていらないし、夏休みもいらない……とまでは言わないが、とにかく目を閉じて開けた時に、教室で授業を受けている方が何倍もマシだと思えた。

「できますよ」

 死神は、優しく答える。僕を知っている彼女なら、僕の感情を分かり切っているのだろう。

「じゃ、夏祭りの前まで時間を進めてよ」

 目を閉じる。死神に指示をされたわけじゃないが、そうしたかった。

 彼女の「わかりました」という声を合図に、周りの音が早送りみたいに忙しなく流れ始めた。蝉の喧騒が、いつの間にかヒグラシの声に変わり、そして目を開けた時には、夜虫の声に変わっていた。

 僕は、そのまま視線を空に向ける。澄んだ水色を塗りつぶした黒が広がり、月と星を引き立てている。

「さ、お祭りの神社はすぐそこです」

 やっぱり綺麗とは言えない声に視線を向けると、夜の黒がどれだけ美しい存在なのか知ることになる。

 白いワンピース姿で三日間を過ごしていた死神は、群青色の浴衣を着ていた。真冬のトレンチコート姿、真夏のワンピース姿のどれよりも、夏終わりの浴衣姿は、死神を美しく飾っている。

 夜に滲んでしまいそうな彼女へ「似合ってるよ」と言った。

 死神は、微笑みながら「ありがとうございます」と答えた。

 僕は、死神のとなりを歩き神社を目指す。

 意外と僕の心は落ち着いていた。


   *


 分かっていたことだ。夏祭りの会場が、僕の記憶にある――夏祭りにテロを企てた神社であることは。

 死神は、僕の質問に嘘を付かなかった。それに、夏祭りの提案も彼女からの物だ。僕には、いくらでも拒否する権利があったし、場所を変えてくれと頼む余地はあった。でも、僕は、それをしなかった。

 理由は単純だ。僕の記憶が再現されるというのなら、夏祭りにテロを企てて、花火に笑われたから一人で涙を流した、なんて記憶を上書きしたかった。

 夢ばかりを見ていた浅はかな後悔の記憶をどこまでも現実的な死神との思い出に変えたかったのだ。

 神社までの長い石段を肩を並べて上る。苔が生えた石段を一段上がるたびに、祭囃子や提灯の淡い灯りが近づいてきて、屋台の香りや人の声も大きくなる。

「私は、焼きそばが食べたいです。 それからりんご飴も、バナナチョコも、かき氷も食べたい」

「たくさん食べるね」

「美味しいは、正義です!」

 死神は、とても上機嫌に笑っていた。石段を上る下駄の音が心地よく空気を揺らす。そのたびに、何故だか懐かしさが込み上げてきた。嫌な記憶でしかない場所に近づいているはずなのに。

 だけども、この世界の本当の話をしたとき、死神は「あなたの記憶の最良な部分を切り取っている」と言っていた。

 ならば、彼女のは少しだけ違う気がする。懐かしさを最良としてしまうなら、僕の記憶のほとんどは最良だ。

 自殺を試みたあの時だって、今では懐かしさを感じている。

 そんな疑問を死神へ投げかけようとしたが、丁度、石段は終わった。提灯の灯りが、僕と死神の顔を照らし、屋台の香りが疑問なんてものを全て消し去っていった。それに、彼女が、たとえ、まだ嘘を付いていたとしても、どうでもいいことだ。

 三日間過ごしたこの世界は、どこまでも僕に都合がよかったし、優しくあり続けた。もちろん、死神だって僕に優しくあり続けた。

 彼女が嘘を付いて、僕に優しくあるのなら嘘を暴く気にはならない。

 今が最高に都合がいいのだ――生きたいと思うくらいに。

 僕は、死神、と声をかけ、手を引いて夏祭りを楽しんだ。花火が上がる時に、全てが終わることを願って。


 夏祭りは、僕を拒絶しなかった。りんご飴の優しい甘みも、金魚すくいの笑ってしまいそうな緊張感も、焼きそばのソースの香りも、全部が僕たちを受け入れてくれ、歓迎してくれた。

 だけど、夏祭りの喧騒は、三日間の最後を飾るのには少しだけ過剰だった。

 僕は、最後を過ごすのに最適な場所を知っている。きっと、死神にも、この喧騒は不必要だったのだろう。あくまで、僕たちは自然に、涙を流した石段へ足を運ぶ。

 そして、提灯の淡い灯りが微かに届く場所で、腰を下ろした。死神の右手には、黒い金魚と赤い金魚が優雅に泳いでいる。

「死神……ありがとうな」

「いえ、私の我儘です。 こちらこそ、ありがとうございます」

 彼女は、上機嫌だ。決して、初めて会った時のような温度のない表情はない。

 夏祭りの終わりにぴったりの少女だった。

「花火は、いつ頃上がるんだ?」

「きっと、もう少しです。 それより、質問いいですか?」

 何を聞かれるかは予測できた。だから、少しだけ思考をして「構わないよ」と答える。

 彼女は、一拍置いてから、温度のある声色で言う。

「生きる目的は、見つかりましたか?」

 僕は、長い時間を空けて一言一言をじっくり思考し、推敲して、最良の捻くれ者であれる言葉を探していたかった。だが、彼女の微かに照らされている表情を見ると、捻くれ者である必要はないのだと思った――となりの空席に恋をしたときのように。

「生きる目的は見つかっていないよ。 だけど、死ぬのは止めにする。 元から、僕は、死ぬことが目的の本質ではなかったんだと思う。 胸の中の黒い部分を取り除くための方法が<自殺>しか思い浮かばなかっただけなんだ。 僕は、もう少し、この黒い部分を取り除く方法を探してみたい」

 彼女は、ほっとしたように「そうですか」と答え、空を見る。

「花火、上がりますよ」

 その瞬間、夏夜の喧騒がパタリと止んだ気がした。まるで、テロを企てた時のように。そして、過去と全く同じで――だけども、全てが記憶の最良な上書きとして――1発の火の華が打ち上がる。

 僕は、胸の中の黒い部分を『捻くれ者を望む誰か』と形容したい。それを取り除かなければ、僕は、現実世界で生きる意味がない。

 黒い部分は、不必要な部分ではないのだ。汚れているか、あるいは失われているか。とにかく、その部分に何かを補ってあげなくては、僕は、崩壊していってしまう。

 空に向けていた視線を死神へと向けた――一発目と同じように二発目が上がる。

 死神は、僕に優しくあり続けた。嘘を付くことは悪だと思わない。嘘つきが誰よりも優しいことだってある。

 悲しさを嘘で否定して、笑顔でいられるのならそれは優しさだ。

 きっと、死神も、全く同じような優しさを持っている。

 彼女は嘘を付いて、僕に生きて欲しいと願った――では、彼女の嘘はなんだ。

 僕は、今、生きたいと思っている――この世界は、僕にとって好都合な場所ではない――ならば、僕は、彼女の嘘に生かされている。

 三発目が、空に甲高い音を立てて打ちあがる。

 待ってくれ。空を彩らないでくれ。最後の花火が上がってしまったら、彼女が消えてしまう気がした。僕の最も深い場所から。

 僕は、何か重要なことを忘れているような気がした。それは、死神の嘘なのかもしれないし、生きている意味なのかもしれない、胸の中の黒い部分なのかもしれない。それとも、その全て。

「死神、待って――」

 僕の声は、花火に掻き消される。

 僕は、何かを彼女に伝えなくてはいけない。

 だが、その一言目が見つからない。

 花火は、あの夏の日と同じように時雨花火の火の粉を撒き散らしながら、儚く散っていく。

 泣いてしまった。夏祭りも花火も消えてしまった暗い世界で、静かに涙を流した。

「とても、綺麗でしたね」

 死神が告げる。

「死神、僕は、君に言わなくてはいけないことがある……気がするんだ」

 何も返事は帰ってこない。暗闇なのにはっきりと見える、浴衣姿の死神が微笑んでいるだけだ。夏の夜に忘れてはならない、美しい表情だ。

 僕は、深呼吸をして、言葉を探す。

 いまだに、死神へ伝えるべきことはわからない。分からないからこそ、伝えたいのだ。

「死神が、僕を知っているんじゃなくて……僕が、死神を忘れてしまっているのか?」

 やっぱり、彼女は何も答えない。肯定も、否定もしない。悲しいとも、嬉しいともとれる表情で微笑んでいるだけだ。

 だけど、ゆっくりと口を開く。

「私は、あなたを忘れたくなかった。 でも、私は死神だから、生死に対して平等でなくちゃいけない。 だから、最後に、私の知っているあなたの記憶を追憶したかったの。 それであなたが、生きてくれるなら」

 僕は、自分でも分からないくらい泣いていた。彼女の言葉は、僕の問いに対する真っ当な答えだ。それでも、僕は、死神を思い出せない。

 僕は、いまだにとなりの空席に恋をしたままで、幼い頃の夏祭りに涙を流している。いくら記憶を漁っても、死神は出てこなかった。

 僕は、いつでも捻くれ者を望む誰かのために、抗って、失敗して、泣いてばかりいる。

「私は、死神……神。 魂を運ぶことが義務なの。 だけど、自殺者の魂は――運びたくないな」

 死神の最後の言葉は、微かに震えていた。でも、彼女を抱きしめることは愚か、涙を拭ってやることもできない。

 

 僕は、冷たい風が吹きつける屋上に立っていた。いつの間にか頭上からは、雪が降っている。 

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