第7話 植物図鑑

 3日目

 最後の朝は、意外と平凡なものだ。蚊はいないのに、雰囲気だけで蚊帳で寝ているから、薄いタオルケットじゃ肌寒い夏の気温に肩を揺さぶられ目を覚ます。

 そして、もう見慣れた温度の持たない少女の「おはようございます」という声で、朝が始まるのだ。

 僕は、眠い目を擦りながら空腹と口の中の気持ち悪さが消えていくのを感じて「やめにしないか」と言った。

 彼女は、心配そうに眉を顰め、とても悲しそうに「そうですよね」と言い、あからさまに落胆した。だが、彼女が思っているような意味で言ったわけではない。ただの仕返しだ。昨日、彼女につかれた嘘に対する、馬鹿げた仕返し。

「君と過ごす有意義な三日間の最終日なんだ。 最後くらい、死神も人間の真似をして、僕らで日常を過ごさないか? 空腹も、口の中の気持ち悪さも元に戻して、歯を磨こう、二人並んで。 できるなら、君の朝ご飯を食べたい」

 彼女は、なんて分かりやすい子なのだろう。悲しければあからさまに落胆し、嬉しければ当たり前みたいに笑みを浮かべる。

「わかりました。 料理は得意です」

 高貴な猫を連想させるようなものは消えていた。もしも、その理由が――彼女を分かりやすいと思えた理由が、僕が死神を理解できたのだとしたら嬉しく思う。

 いつの間にか、彼女の手には歯ブラシが二本、ピンク色と青色が握られていて、青を手渡される。そして、二人で並んで歯を磨いた。鏡に映る僕と死神は、どうしようもなく不釣り合いで、目を合わせて笑ってしまった。でも、笑顔の僕たちは、欲張りなくらい似合っていた。

 ほら、最後だというのに平凡な始まりだろ。でも、僕には欲張りなくらいの朝なんだ。


 死神の手料理というものは、なんだか不思議な感覚だった。今さらになって、死神と名乗った彼女が、少女らしい容姿で良かったと思う。

 もしも、大広間から見える後姿が不吉な黒色のローブで、刃物を扱う音が聞こえてきていると思う……考えたくもない。やっぱり、平凡な朝に台所から聞こえてくる刃物の音は、少女らしい後姿が一番だ。急に抱きしめて「あぁ、幸せだな」なんて思える姿がピッタリなのだ。

 昨日、死神が借りてきた植物図鑑を捲っていると、「どうぞ、味は保証します」と自信ありげな声と一緒に、ご飯とお味噌汁、鮭の塩焼きと側に置かれた卵焼き、それからちょっとしたサラダが振る舞われた。

 僕の腹の虫が、思わず鳴る。久しぶりに取る食事だ。二日間も空腹を消していたからか、久しぶりの空腹に本能が暴れていた。

 口の中に溜まる涎を飲み込んで、手を合わせて「いただきます」と言う。遅れて、死神も「いただきます」と言った。

 最初に、味噌汁を飲んだ。味噌の優しい味が広がり、その中に具材の甘みが溶け込んでいる。

「死神にしては、薄味なんだね」

 死神が、濃い味か薄味かなんて分かりやしないが、僕のイメージは不健康そうなイメージだ。炊き立てのお米を食べている姿より、スナック菓子を食べている方が様になる。

「当たり前です! 健康第一ですから」

 彼女は、黄色いふわふわを口の中に頬張って、至福といえる表情で微笑んだ。

 僕も黄色のふわふわを食べる。死神は、やはり優しすぎると思った。

「死神の手料理が、人間的でびっくりしてるよ」

「私たちは、食事を必要としません。 でも、味覚はしっかり存在しているんで、美味しい物は、やっぱり美味しいです」

 僕は、ふーんと、相槌を打ちながら箸の上に米を乗せ、口元へ運ぶ。

「三日目ですけど、今日は、何をするんですか?」

 口元まで運んでいた米を止める。だが、すぐに口へ入れた。

「何もしないよ。 死神は、何かしたいことある?」

 彼女は、私のしたいこと、と小声で呟いてから味噌汁を啜った。

「そうですね。 植物図鑑の植物を探したいです」

 朝ご飯ができるまで捲っていた図鑑を思い出す。別に、理科が好きだとか生き物が特別好きという訳ではないが、あの図鑑には目を奪われていた。まるで、幼い頃に読んでもらったタイトルの思い出せない絵本みたいだ。ある日、部屋を掃除していると、突然その絵本を見つけ、タイトルは見ないでページを捲り、また本棚の奥にしまい込んでしまう、そんな感じだ。

 僕は、茶碗の中に米粒一粒残さず、丁寧に食べる。

「じゃ、そうしよう。 ごちそうさまでした」

「ありがとうございます。 お粗末様でした」

 少しだけ、ぎこちない挨拶だった。


 朝ご飯を食べ終えた僕らは、早速、図鑑を持って夏草を探しに出かけた。二日目の朝に、カブトムシを採りに行った雑木林だ。

 酷い現実を叩きつけられた場所に行くのは気が引けた。だけど、二度目に対面した僕の憧れだった場所は、やっぱりただの雑木林で、何も感じなかった――いい意味でも、悪い意味でも。

 死神が、しゃがみ込んで紫色の小さな花を指さした。

「これ、ホトケノザって言うんですよ。 かわいいですよね」

 僕も、隣に腰を下ろしてホトケノザを見つめた。

「こんな花、夏に咲いていたか?」

 野花の知識なんて一つもない。だが、雑木林に生えている草や花を見ると、漠然とだが今の季節、場所にあっていないような気がした。

 死神は、照れたように笑う。

「いいんです。 この世界の意味をバレてしまいましたから、もう、私の好きなようにします。 あ、でも、あくまであなたの理想に沿った、私の我儘な世界です」

「死神の我儘な世界で、僕に生きる目的を見つけろっていうのか?」

「はい、それも私の我儘です」

 思わず笑ってしまった。最初に出会った死神は、僕に魂の在り方を説いて、生きる目的を理想の世界で見つけろと強要した。だが、今考えてみれば、この世界に僕の理想はほとんどなくて、ただ都合がいいだけだった。言うまでもないが、理想と好都合は全くの別物なのだ。

 僕は、足元に生えていた白い花を手に取る。この花の名前は僕でも知っている。

「死神は、シロツメクサみたいだよね」

 彼女は、納得いかなそうに眉を顰めた。

「わかりません。 私は、死神であって、他の存在とは決別しています」

「そんなことない。 君は、シロツメクサだ」

「……わかりません」

 なぜ、死神がシロツメクサなのか、あえて説明しなかった。

 僕が、幼い頃にシロツメクサとクローバーが全く同じ植物を指していると知った時の感動は、もう忘れてしまった。だが、シロツメクサの別名がクローバーであり、その一つの植物は、どちらの名前だとしても愛されているというのは、今でも忘れない。シロツメクサもクローバーも幸運の象徴なのだ。確か、花言葉も似たようなものだったと思う。

 僕は、そんなシロツメクサが好きだった。ずっと遠い記憶の中で、シロツメククサを好きだという自分が漠然と佇んでいる。だが、いつの間にか、この草を嫌っていた。

 幸運の象徴だから、人から愛される植物だから、僕が捻くれ者だから――全部違う。理由はない。あるとき突然、シロツメクサを見た時に「嫌な植物だ」と思った。

 大好きだった花が、ウルシやドクダミと同じものになった。

「死神は、好きな花とかあるの?」

 彼女は、植物図鑑に落としていた視線を上げて答えた。

「私は、ワスレナグサが好きです。 青くて小さな春の花なんですけ、とても綺麗ですよ」

「どの花?」

 季節も場所も無視をした。なんでも咲いている雑木林を探したが、青い花は一輪も咲いていなかった。

「この世界にはありません。 必要ないんです」

 必要ない、と胸の中で反復した。つまり、僕の理想に沿っていないということなのだろうか。

 死神が、続ける。

「あの、私の我儘を聞いてくれますか? あなたの理想に沿った、私の我儘」

「構わないよ」

 僕は、まだ、ワスレナグサについて考えていた。

「今夜、夏祭りに行きませんか?」

 考えすぎていたせいで、死神の言葉に反応が遅れる。

「僕が、テロを起こせばいいのか? 今度こそ失敗はしない」

「違います」

「冗談だよ。 いいね、楽しみだ」

 死神が、嬉しそうに笑った。

 僕たちは、もう少しだけ、なんでもありな雑木林で植物と向き合っていた。でも、その間、僕は彼女いう理想――僕の記憶が再現されるであろう夏祭りに怯えていた。

 また、僕は、涙を流すことになる。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る