<7> 日曜日


「遠雷!」

 昼過ぎにモノレールのホームに降り立つと後ろから聞きなれた声がした。遠雷はすぐに振り返る。予想通り背後に小さく手を振っている翡翠と、彼に握られた引き綱の先に飼い犬の姿が目に入り、自然に彼の口元がほころんだ。遠雷は駅の階段に一番近い車両に乗っていたが、動物同伴用車両は最後尾だ。

「翡翠、タフタ」

 遠雷は、改札とは逆方向に歩いて彼らに近づいた。傍まで来るとタフタは後ろ脚だけで立って前脚を持ち上げ、遠雷の太ももにのしかかる。彼は犬の首から頬にかけて毛皮の中に両手を突っ込み、少し強めに撫でてやった。

「同じ電車だったんだね。どこ行ってたの?」

 翡翠が笑いながら、遠雷と犬を眺めて言った。

「酒買いに行ってた」

 遠雷はボトルの入った袋を見せた。学園都市のブリアルドスでは酒を販売してる店が限られている。今朝は犬の散歩もなかったので、二駅離れた専門店まで午前中から出かけていたのだ。遠雷が手を離すと、タフタも前脚を地面に下ろす。さあ帰ろうと言うとタフタはさっそく歩き出す。遠雷は翡翠から引き綱を取り上げた。

「早かったんだな」

「うん、遠雷が仕事行く前に帰ろうと思って」

「みんな元気だったか? 赤ちゃんは?」

「母子ともに健康だって。ほんとにそうだった。良かったよ。でも赤ちゃん、可愛いんだけど、なんかぐにゃぐにゃしてて、おれ抱っこできなかった。ちょっと怖くて」

 犬を連れているので専用のゲートを通り、彼らは改札を抜けて駅から出る。家まで歩いて十分ほどだ。

「新年には遠雷ちゃん誘ってって言われたよ。あのね、きっと遠雷の手料理を食べたいんだと思うよ。食材なんでも用意しとくからって言ってたもん」

「そんなに凝ったもん作ってないよなあ」

 遠雷は以前訪ねた時のことを思い出しながら首を傾げる。

 まあ、母さんも姉さんも遠雷のこと気に入ってるしね、と

「でも、そう言ってくれるならお邪魔しようかな」

 遠雷は翡翠を含めて彼らに家族とは仲が悪く、連絡を取っていないしこれからも取るつもりもないと話してある。少し悲しそうな顔をされただけで、納得してくれたようだった。月は遠雷にとって居心地の良い場所だが、それでも仲の悪い家族も確かにきっと存在するのだ。

「遠雷は? 会いたかった人には会えた?」

 翡翠の言葉に遠雷は一瞬言葉に詰まり、わずかに考えてから、

「いや」と、彼は答えて首を振る。

「会えなかった。住んでるところ、見つからなかった」

 そう言うと翡翠の方が悲しげな顔をして、彼の顔を覗きこむ。

「そう、残念だったね。せっかく中央市まで行ったのに」

 遠雷は小さく笑って、

「でも、意外な奴に会った」と、黒南風の変わり果てた姿を思い出しながら言った。

 翡翠がほんと、と目を上げる。

「もう会うこともないと思ってた奴だ。立ち話をしただけだけど」

「会えて嬉しかった?」

 翡翠に尋ねられて、遠雷は返事に詰まる。首を傾げてから、

「…どうだろうな」と、曖昧な表情をして見せた。

「よくわからない。でも、そのうちあの時会っておいてよかった、と思える日がくるのかも」

「それじゃあ探してる人にも、そのうち偶然会えるかもね」

 翡翠が笑ったので、遠雷は頷く。


 月面人の身体が用意できて、生体データの転送が決まった時、遠雷には一緒に月へ行くと約束した女がいた。密航業者は「月で会えるよ」と言っていた。その言葉を鵜呑みにしたわけではなかったが、信じたいとは思っていた。新しい身体のことも成功率の低さも、その時には既にすべて聞かされていた。けれど誰だって『自分だけは上手くいく』と思い込んでいるものだ。現に遠雷はこうしてここで生き延びている。月で目覚めて、自分が成功したのだと理解できてからすぐに彼は、あの家主の男に向かって訊ねた。

「女が来なかったか」

 それは遠雷が最も気にしていたことだった。

「知らないね」

 素っ気無く男は首を振った。

「一緒に来るって約束したんだ」

「私の仕事はデータの受信と定着だけだ。知らないよ。女が必ず女の身体に入るわけじゃない」

 言われた金額を払っても、必ずしも自分の希望に適った身体が手に入るわけじゃない。男が必ず男の身体に定着するわけではないし、女もそうだ。年齢もばらばらだが肉体の加齢に比例して定着率は悪くなる。そのせいで子どもの身体になることもあると言う。それはほとんど運の世界だと、地上で密輸業者に説明を受けていた。

「おれの前に転送した地球人は? それか、これから転送する予定は」

「そういうのは話せない。後々トラブルになるといけないからね」

「頼む。大事なことなんだ」

 縋るように遠雷は言った。

「話せないよ」

 彼は素っ気なく答えて、それから少しだけ優しい笑顔を浮かべた。

「ひとつだけ、私からの忠告だ」と、言って続けた。

「ここは地球じゃない。地球であんたに何があったか、私は知らない。だけど忘れるんだ。月で新しい生活を始めるんだ。あんたはもう地球人じゃない。月面人だ。記憶は地球にいた頃のものかも知れないが、身体は月面人で、これから月で、月面人として生きていかなきゃならないんだ。今までのことは、全部忘れたほうが良い」

 どんなに大事なことでも、と彼は言った。

 それを聞いても遠雷は食い下がった。でも結果は変わらなかった。男は隠していると言うより、本当に知らないようだった。諦めはつかなかったが、それで遠雷は質問するのを止めにした。

 男の家から出た遠雷は、明け方の晴れの海を眺めて決めた。

 転送された生体データが定着するのに長くて一年。この近くの土地で一年待とう。あの時、遠雷は夜の海のほとりに立ってそう決意した。結局あの場所で三年待った。けれど手がかりはひとつもない。彼女の行方は知れない。無事に月で身体を手に入れたのか、せめて生死だけでも知りたかった。けれど確かめる術はなにもない。アンディエル市役所に登録した自分の情報にも、アクセスはないまま。

 けれど遠雷は気づいていた。今ではもう、自分はそれに慣れてしまった。


「なあ、翡翠」

 と、言うと、なに、と翡翠が目を上げた。

 翡翠と目が合う。その色は名前の通り緑色だ。地球から眺めた月は海面よりも陸地が多い。そのせいで太陽の光を受けた森林地帯が緑色に輝いて見えるのを、遠雷は覚えていた。

 それは翡翠と出会った彼のこじつけかもしれない。今は月に暮らす彼は月の外から天体を眺めることはないせいで、勝手に記憶を書き換えたのかも知れない。

「さっき、すぐにおれだってわかった? モノレール降りたとき」

 傍らを歩く翡翠にそう訊ねながら、本当は、と遠雷は考える。

 月面人なんて存在しないのかも知れない。月面で暮らすのは全員生体データ移植をした地球人に過ぎないのかも知れない。でも、それは彼にはわからないことだった。

「うん」と、翡翠はすぐに頷く。

「だって遠雷、背が高いし。タフタもすぐ気づいてたよ」

 翡翠はなんでもないようにそう言って、前を向く。遠雷がなんと言おうか迷っているうちに、彼の思考はもう別のところへ行ってしまったようだった。

「今日も地球がきれいだね」

 遠雷はそう言った翠憐の視線を辿って、彼と同じように空を見上げた。明るい青空の色に溶けるように、綺麗な円の形をした青い天体が浮かんでいた。


<了>

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◆月郷憧憬 挿絵 @fairgroundbee

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