<6> 土曜日
「雷鳴、雷鳴だろ?」
その声を、言葉を聞いた時、遠雷は驚いて身体が強張ったのかがわかった。それはほんの一瞬だったけれど、そのせいで足を止めてしまった。昼下がりのアンディエルの繁華街の大通り、今日は土曜日ということもあってか人通りも多い。天気は快晴だ。青い空に、白く浮かんだ地球が見える。でも、遠雷の意識は一点に、立ち止まった彼の前に足早に回り込んだ人物だけに向けられた。
「なあ、雷鳴だろ? 久しぶりだな」
目の前に立ったのは遠雷より、そして彼の知る翡翠よりももっと年下の、十代半ばくらいに見える少年だった。見るからに柔らかそうな髪を肩のあたりまで伸ばしていて、翡翠と同じような、けれどもっと色の薄い目の色をしていた。華奢な体つきの彼は、それでも自分を精一杯大きく見せようとするかのように胸を反らして立ちはだかり、挑むような目つきで遠雷を見つめていた。
初めて見る相手だ。けれど遠雷には誰だかわかった。推測だけれど、おそらく外れていない。
「会うと思わなかった」
硬い表情のまま遠雷は冷たく答える。少年は唇の端だけでにやりと笑った。
「おれもだ」そう答えたきり、遠雷は黙った。束の間沈黙があった。遠雷が何も言わないとわかると、少年はつまらなそうに目を細め、軽く左手を差し出す。
「煙草を持ってないか」
訊かれた遠雷は一瞬迷って、それでも上着のポケットから潰れかけた黒い箱を取り出すと差し出した。少年は遠慮なく一本抜き出して口に銜える。
「月のは高価いんで驚いた」
そうぼやいてから両手を広げたので、遠雷はライターも渡してやった。歪んだ形のそれを見て少年は一瞬だけ訝しげな顔をする。それでも黙ってレバー押した。かちりと音がして、けれど力の入れ方が上手くないのか火が点かない。少年が軽く遠雷を睨む。
「そういうデザインなんだ。ちゃんと点く」
遠雷は言ったが、そうするつもりではなかったのに、どこか馬鹿にしたような言い方になってしまった。
「あと、ここは禁煙だ。それに」
遠雷は目の前の少年の姿を頭から足元まで眺めた。その視線に少年が不機嫌そうな表情になる。通りの先に、排煙設備のある透明な壁に囲まれた喫煙所が見えた。遠雷はそこを指差し、少年を促す。彼は冷たい視線を向けて、それでも歩き出した。
「いつからここに」
並んで歩きながら、遠雷は少年を見ずに訊ねた。本当はさして興味もなかった。だが、
「三か月くらい前だ」
という返事を聞いて、彼は目を上げる。ごく最近だ。それから少年に視線を向けた。
「名前は」
「ここでか? 黒南風だ」
「ひどい名前だ」
遠雷は小さく笑った。
「そうなのか? どういう意味だ」
「自分で調べろ」
脇を通り過ぎた若い女が怪訝そうに二人を眺め、素早く目をそらして足早に通り過ぎた。遠雷は束の間、彼女の姿を目で追ってから視線を戻す。喫煙所には誰もいない。中に入ると黒南風は今度こそ、同じライターで煙草に火をつけた。一服してから遠雷を向く。
「おまえは?」
「なにが」
「名前」
ああ、と遠雷は頷いて、
「そのままでいい。大差ない」と、軽く手を振った。
黒南風は怪訝な顔をする。不快な表情ばかり次々に切り替わるところは変わっていない。
彼がそうなら、きっと自分もそうなのだろう。遠雷は考える。
「ここに住んでるのか?」
黒南風がまた訊ねた。遠雷は苦笑する。こんな風に矢継ぎ早に質問するなんて、遠雷の知っている彼にはないことだった。最も、今はすっかり変わっている。相手も自分も。彼は軽く肩を竦めた。
「月に住んでるのかって意味なら、そうだ。アンディエルに住んでるのかって意味なら、そうじゃない」
「じゃあどこに」
黒南風は苛立ったように煙草をふかす。
「教えない」
遠雷は冷たく言ったが、気にする様子もなく黒南風が重ねて訊ねた、
「女と一緒か」と、言う言葉には、一瞬動揺した。
けれどそれを表情に出したりはしなかった。彼が探していた人物のことを、黒南風もたぶんきっと、知っている。
彼は今度は煙草を深く吸って吐き出した。煙が遠雷にも纏わりつく。それから黒南風は忌々しそうに、
「月はつまらないところだな」と、吐き捨てるように言った。
遠雷は自分も煙草の箱から一本取り出すと口に銜えた。何もないまま少年と向かいあうのは手持ち無沙汰だったからだが、意外なことに黒南風が腕を伸ばして火を点けてくれた。
「おまえは何を?」
と、煙を吐き出してから遠雷が訊ねると、彼は唇から煙草を離し、
「信じられるか」
と、遠雷を見ずに言った。遠雷はかすかに眉を顰める。その声がわずかに震えていたからだ。
「おれには家族がいるんだ。携帯端末を持ってた。父親や妹って奴から、家に帰れと電話がくるんだ」
「その話は」と、遠雷は思わず目を瞠った。
「初めて聞いた」
遠雷が持っていたのは月都市の身分証明証だけだった。あとは何も、身につけた衣服と、渡されたわずかな金以外、彼は何も持ってなかった。
「どうやらおれは」
と、さらに震える声で黒南風は続けた。「家出してるみたいだ」
「それでどうした」
黒南風の境遇に初めて興味を惹かれて、遠雷は訊ねる。黒南風は首を振った。
「端末は捨てた」
「馬鹿だな」
遠雷は思わず苦笑する。
「捜索願いを出されるぞ」
「もう出てる。公共端末におれの情報が流れてるの見た」
答えた彼の額にうっすらと汗が浮いている。公共端末と言うのは市役所に置いてあったものの、さらに小型の端末だ。月の町のあちこちに設置されていて、住民が自由にアクセスできる。
「雷鳴、おまえ知ってるか」と、彼は続けた。
「どうしてこの身体が、おれのものになったのか」
遠雷は煙草を指に挟んで離すと、声こそ上げなかったけれど今度こそ笑った。
この身体は遠雷の本当の身体ではないし、遠雷と言う名前も彼の本当の名前ではない。顔を上げると喫煙所の透明な壁越しに、雲ひとつない空が見えた。そこに真昼の地球が浮かんでいるのが見える。六日の間に半球からだいぶ膨らみ球に近づいている。昼間なので青さが空に溶け、雲のかかる部分だけが白く見えた。彼は黒南風に視線を戻す。
彼はまだ三ヶ月足らずで、自分はもう三年以上経つ。その差は大きい。遠雷は今ではもうすっかり慣れて、馴染んでいた。目の前の黒南風はそうではない。それだけのことだ。
黒南風のことがわかったのは、彼が月の言語ではない言葉で話し掛けてきたからだ。その上、聞き覚えのある癖のある喋り方で、だから外見がどんなに変わっていても彼だとすぐにわかった。そして遠雷は忘れていなかった自分に驚いた。通りすがりの女が怪訝な顔をしたのは、きっと聞きなれない言語のせいだろう。遠雷が月で今、自分と目の前の少年が話している言語を聞いたことは、ただの一度もない。
遠い昔、地球には月と同じように人類がいたけれど、環境汚染のせいで彼らは絶滅してしまった。今では地球に人は住めない。それが月での定説だ。
けれどそれはただの定説で、本当はまだわずかに生き残っている。月からは見えない地球の裏側、汚染の少ない土地に身を寄せ合って暮らしているのだ。でも生活は豊かとは言えない。むしろその反対だった。遠雷は覚えている。地球での生活は惨めだった。あの場所にいた時は、そうとは感じなかったけれど。少ない資源の奪い合いと貧困、一部の人間の富の独占。人間の暮らせる場所はわずかずつだが確実に減っているのに、争いは絶えない。実際の争いだけじゃない。保持された技術で構築されたネットワークの中でも、常に罵り合いと揚げ足の取り合いが日常だった。生活に疲れきっていたけれど、誰もがそれに気づかないふりをしていた。遠雷は今でも覚えている。地上から夜空を仰ぐと、濁った大気の遥かな先に緑色に輝く月が見えた。地球から見える月は海より地表の方が多く、その全てが豊かな緑に覆われているせいで、太陽の光を受けて深い森林の色に輝いていた。
月へ生体データを転送することは、一部の地上の人間の憧れであり、希望だった。争いも汚染もない月での生活。けれど、月と地球の間に交流はない。新たな宇宙シャトルを打ち上げる経済力も技術力も、地球からは既に失われていた。だから地球人が月に行く方法はひとつだ。まず、自分の脳内の情報を生体データに変換する。それを転送するのだ。
仲介するのは翡翠が宇宙遺構と呼ぶ、月面人には何のために存在するのかわからない人造物。つまりかつて地上より打ち上げられて、今も回収されないまま地球の周りを回っている人工衛星だ。月には調査技術がないので知られていないが、衛星の大半はシステムがまだ生きている。それ通じてデータを転送し、月面で提供された身体に上書きするのだ。
もちろん危険もある。遠雷も説明を受けた。生体データが完全に転送されるのは七、八人にひとり。さらに上書き用の身体にデータが完全に定着するまで早くて二ヶ月、長ければ一年近く掛かる。その成功率は五十パーセント以下だった。データの定着が八割以下だと、その身体は使えない。途中で途切れた生体データがどうなるのか、データが送信に成功しても、新しい身体に定着しなかったらどうなるのか、遠雷は知らない。地球上に送り返されてまたあの生活に戻るのか、それとも宇宙の途中で千切れてしまい。月の生体にも地球の生体にも戻れないのか。今、月で生活している彼にはわからないままだ。
全ては密輸業者と呼ばれる者たちの手で行われる。彼らが何者なのか、遠雷は知らない。
しかるべき金を払った上で、転送先の身体の用意が出来ればやってもらえる。言い値を用意するのに遠雷は何年も掛かかった。
三年ほど前、彼が今の姿で目を覚ました時には、データの転送も定着も全てが終わっていた。彼が横たえられていた部屋は、日差しが入り込んで眩しく感じた。今ならわかる。あの部屋は有機工法でできていて、変化する部屋だった。頭を上げてあたりを見回すと、人の良さそうな顔つきの初老の男と目が合った。
「お、今度は成功成功」
と、彼は少し嬉しそうに遠雷の顔を眺めてそう言った。
「ここは…?」
と、言いながら遠雷は起き上がって自分の身体を動かす。違和感があった。自分のものなのに何かが違う。手足を眺めると肌の色は見覚えのある自分のものよりずっと、日焼けしたように黒かった。目にかかる髪も元の自分とは違う黒色だ。それで彼は否応なく、自分が本当に地上にいた頃とは違う、別の容姿になったことを理解した。それでも身体の動きは滑らかだ。
「月だよ」
と、言いながら男は指差す。部屋の壁に小さな鏡が掛かっていた。遠雷はベッドから降りて立ち上がった。足の裏に芝生の柔らかい感触。数歩歩いても、やはりぎこちなさはない。鏡に近づき中を覗くと、見知らぬ人間がそこにいた。背も低く、体つきも細い。それでも月面人としては高身長で、体格も良い方だということに気づいたのはもっとずっと後だ。遠雷の知る地球人に比べて月面人は華奢だった。環境のせいかも知れない。
「身分証と、とりあえずの生活費だよ」
鏡の前で呆然としている遠雷に、男が背後から声を掛けて何かを差し出す。遠雷に渡された紙幣は小さな薄い紙束で、おもちゃのようにしか見えなかった。身分証明書だと言って差し出された手帳は、中を開いて驚いた。記入された生年月日から考えると、遠雷の元の年齢より四歳若い。知らない人間の顔写真。今ではそれが自分なのだ。でも、遠雷の心臓が跳ねたのはそのせいじゃない。名前の欄だ。
『遠雷』
月文字でそこに簡潔に書かれたその言葉。初めて見る文字だった。けれど遠雷にはなぜかその意味も、言葉の響きも理解できた。
「文字が読める」と、思わず呟くと男が苦笑した。
「みんなそう言うな。生体情報を書き換えても身体の習得技術が残ってるんだろうな。人によってか定着率によってか、差はあるがね。あんたが今喋ってる言葉だってそうだろ」
言われて初めて遠雷は自分が知らない言葉を話しているのに気づいた。そしてもう一度、新しい自分の名前に目を落とす。
それは地上での名前に似ていた。偶然なのに、計算したみたいだ。
そんなはずない、と思いながら遠雷はこの身体がまるで自分に上書きされるためにあったように思えて仕方なかった。堪らなくなり彼は男に尋ねた。
「この身体は、どういう経緯でおれに提供されたんだ」
「知らないね」
まともな答えは期待していなかったが、さらに素っ気無く男は答えた。
「知ってても答えられないが、本当に知らないよ。私は提供された身体にデータを定着させるだけだからね」
彼の答えはそれで全部だった。男は別の部屋に遠雷を連れて行くと、食事を出してくれた。パンとスープの質素なメニューだったが、それで遠雷は自分が腹が減っていることに気づいて残さず綺麗に平らげた。食事をしている間も、男は月のことをいろいろ話してくれた。後から考えるとそれは彼なりの親切だったのかも知れないが、彼の話し方には遠雷が、もっと言えば月面人になったばかり人間が、月での生活を本当にまるきりなにひとつ知らないという前提が決定的に欠けていた。彼の言葉は遠雷を通りすぎただけだった。
食事を終えると男は食器を片付けるように言い、それが済むと改めて遠雷に、
「置いてやれるのは今晩までだ。明日から、自分の生活を始めると良い」と、言った。
長く世話になろうとは考えていなかったが、やはりこの言葉は唐突だった。遠雷が返事に困っていると、男はさらに言った。
「あんたくらいの年なら、まずは仕事を探すんだな。どうとでもなるよ。地球に比べたら、なんでもましさ」
男は言った。
「地上のことを?」
遠雷が訊ねると、彼はまさか、と言って首を振る。
「知るわけない。でもこれほど月へ逃げ出してくる奴らが多いんだから、さぞかしろくでもない場所なんだろう」
「何人くらいいるんだ」
遠雷は思わず身を乗り出して訊ねた。しかし男は、
「悪いね」と、肩を竦め、
「これ以上は話せない。それに私が知ってるので全員ってわけじゃあない」と言った。
それ以上は訊き出せなかったが、結局遠雷は彼の言うとおり、そのまま一晩だけ男の家に泊まった。
「なぜこんなことを?」
別れ際、ふと気になって遠雷は訊ねた。男は意外そうな表情で、決まってるさ、と言って続けた。
「人助けだよ」
遠雷の背後で扉が閉まった。彼はその場に立ち尽くし、振り返る。しばらく待ったが扉は微かにも動かない。遠雷はそれで、前を向くと歩き出した。あたりを見回すと隣の家は遥か彼方に小さく見えて、周囲は畑が続いていた。家を出たら街道沿いにまっすぐ歩け、やがて市街地に出る、と男は教えてくれた。
しばらく行くと男の言った通り、緑の中に点々と建物があるのが見えてきた。。通りに車の影はない。月では車両は地下を走ると聞いたのを思い出すのは、もっとずっと後だ。人影もなく、静かだった。顔を上げると町の向こうに青い海が広がっていた。遠雷は思わず息を飲む。海は地上にいたときも見たことがあった。吹き寄せる潮の匂いと、さざ波の音。さらに同じ方向へ歩き続けると砂地に出た。遠雷は砂浜に立っていた。彼の前に波飛沫を上げる紺碧の海が広がっていた。その空中に半球状の地球が浮かんでいる。自分が目覚めたのがコノン市で、目の前に広がるのは晴れの海だと知るのは、それから少し後のことだ。
ああ、おれは月にいるんだ。遠雷はその時初めて、実感した。
三年前のことを思い出しながら、遠雷は黒南風を眺めた。彼は自分より四歳若い身体を手に入れたが、黒南風はもともとり十歳近く年上で、それが今、彼より十歳近く年若い身体だ。新しい身体に慣れるのにも自分より遥かに時間がかかるのだろう。
「なあ、黒南風。仕事を探せよ。それか、お前の年齢なら学校に通うのも良い」
「学校? くだらない」
黒南風が眉を顰める。不思議だ、とそれを眺めて遠雷は考える。目の前にいるのは知らない少年だ。けれど表情が変わるとき、やはり見覚えがあるように感じる。
「家族がいるんだろ。本当の家族のふりだってできる」
「記憶がないのに?」
「おれにはいない」
遠雷は言って続ける。
「月都市の身分証は渡されて持ってる。でもお前みたいに、おれの知り合いだと言う奴には会ったことがない。だから偽造なのかと思っていた。この身体も」と、遠雷は自分の胸に左手を当てる。
「生体移植用に、培養されたものなんじゃないかと、勝手に思ってた」
黒南風は馬鹿にしたように鼻で笑った。
「月にはなにもない」
彼はそう言って煙草を吸った。でも彼の唇が、声が震えたのを遠雷は見逃さなかった。それで彼は、
「そうだろうな」と、穏やかに頷いてから続けた。
「気乗りしない盗みを働くこともない。虚勢を張るために薬物を吸う必要もない。嫌がる女を強姦する必要もないし、賭け事で有り金全部持っていかれることもない。なにより、上の奴らの顔色を窺って、いつ殴られるかと怯える必要もない。月では自分を強く見せる必要はないからな。なにもないのと同じだよな。おまえにとっては」
煙を吐き出しながら遠雷は言った。黒南風は居忌々しそうにわざと大きく舌打ちし、
「おまえは何をしてるんだ、雷鳴」と、それでも訊ねる。
「言いたくない」
即答すると、黒南風が忌々しそうに遠雷を睨んだ。それから目を伏せる。
「教えろよ。月の生活には慣れたのか。どうして」
と、彼はすっかり短くなった煙草を最後に吸ってから、砂を盛った吸殻入れに投げ捨てた。
「そんなに落ち着いてる」
遠雷は束の間黙って考える。そうだ、ここは月だ。自分は地球にいた頃の自分ではなくなってしまったし、目の前の彼にしてもそうだ。遠雷が知っていた頃とは、容姿も今の気弱な言葉も、まるで違う。
「おれがわかったのは」
遠雷が訊ねる。
「一瞬だけ写真を見た」
「写真?」
「目覚めた家の親父が持ってた。俺の前に珍しいほど定着率が良かった奴がいたと」
「おまえに見せたのか」
「違う。ファイルに挟んであったのを盗み見したんだ。だから一瞬しか見てない。でも、町ですれ違った時おまえじゃないかと思った。この言葉で話しかけたらわかると思った」
「おれは最初は晴れの海のそばにいた。おまえもそこから来たのか」
黒南風は彼を見ると、小さく頷く。遠雷は続けた。
「あの辺りに仕事を見つけて二年いた。今は別の場所で、そこで知り合った奴のところに厄介になってる」
「仕事って」
「最初は雑用だ。今は食堂で働いてる。来年には」
と、彼は言いながら小さく笑った。
「調理師の免許を取るつもりだ」
「調理師? お前が?」
黒南風は大袈裟に言って遠雷を覗き込むと、
「馬鹿げてる」と、吐き捨てるように言った。
「月では馬鹿げてない」
遠雷は首を振りながら答えて、短くなった煙草を吸殻入れの砂の上に放った。
「煙草、もう一本くれよ」
「箱ごとやるよ」
稲妻はそう言って箱を差し出した。どうせもう何本も入っていない。黒南風は礼も言わずにひったくるようにそれを受け取る。彼はそこからもう一本口に銜えると、遠雷の渡したライターで火をつけ、そのまま懐に戻されそうになったので、遠雷は、
「ライターは返してくれ」と、手を差し出した。
黒南風はそこにライターを落とした。
それから彼は忙しなく煙草をふかす。遠雷はしばらく黙ってそれを眺めていた。彼がもう何も言わないなら、ここから立ち去りたかった。そう思ったとき、黒南風が呟く。
「おまえは臆病になった」
「そうだな」
遠雷は目を細める。彼が不安で不安で仕方がないことは痛いほどわかった。けれど遠雷は今でも彼のことが好きではなかったし、同情する気持ちも湧かなかった。でも彼の言葉には真面目に返事をしようと言う気持ちはあった。
「でも、月に来たから臆病になったわけじゃない。おれはずっと、地上にいたときからずっと臆病者だった。それを悟られたくなくて、必死に虚勢を張ってた。それが嫌になって、月へ逃げ出したんだ」
そう言った遠雷を、黒南風は煙草を持ったまま睨むように見る。
「おまえは違うのか。だったらどうして月へ来たんだ」と、遠雷は訊ねた。
「おれは…」
黒南風はそう呟き、言葉が続かずに黙った。束の間、遠雷はそれを眺めて、
「月では誰もおまえを知らない」と、自分から口を開いた。
「朝目覚めて、今日は誰に罵られるのか怯えなくていい。端末の中でおまえが息をしているのすら気に入らない顔も知らない連中から、今すぐ死ねと罵られることもない。金がないせいで戦場に借り出されることもないし。誰を何人傷つけたか競わなくて良いし、身体に刺青をいれなくて良いし、ただで寝た女の数を数えなくても良い。月では人を凌ぐほど金を稼がなくても、そのせいで他の誰かを傷つけなくても、人間扱いされるんだ」
黒南風は黙ってもう二三度煙草をふかすと、唇を噛んで俯く。それから、
「…信じられない。金もないのに」
と、掠れた声で呟いた。
「そうだよな。おれもそうだった」
と、遠雷は頷いて、彼の横顔に向かって続ける。
「でも、おまえがそれを手に入れようと思ったら、それができる。月ではそれが許される」
そう言ってから遠雷は息を吐いた。話しながら、地上での生活を思い出したからだ。それはまだ忘れ得ない記憶ではあったけれど、それでも少しずつ自分から遠くなっている。
「ここではただ生きてるだけで、おれのことを大事にされたいと思えばそれが叶うし、おれが誰かを大事してやりたいと思えば、恥も屈辱もなくそれができるんだ」
「…だから調理師免許を?」
黒南風が顔を上げて、苦笑しながら遠雷を見上げた。遠雷は唇の端で笑って頷く。
「月の言語と同じだ」と、彼は腕を上げて見せた。
「習ったこともないのに、おれたちは月の言葉が喋れる。おれは料理もそうだった。この身体が持ってる技術が、そのまま残ってる気がする。おまえもそうかも知れない。もう少しその身体と付き合って見ろ」
「余裕だな」
「慣れただけだ」
黒南風の煙草が燃え尽きようとしている。
「おれは行くよ。用事があるんだ」
黒南風はかすかに目を上げる。
「端末捨てたんだよな」
遠雷が言うと、
「おれの情報はアンディエルの市役所に登録してある。情報を呼び出せばおれにもわかる。もし誰かを傷つけたくなったら、まずそうしろ」
「なんでおれに」
「おれはおまえが嫌いだ」
吐き捨てるように遠雷は言った。それは黒南風も充分に承知しているだろう。
「でも、地上にいた頃と同じことは、もうしない」
「ほんとうに腑抜けになった」
「じゃあ、これでお別れだ」
遠雷はそう言って、喫煙所の透明な扉に近づく。黒南風は動かなかった。扉を開けながら遠雷は、
「忠告してやる」と、一度だけ振り向く。
「慣れるまでに早くても一年はかかる。焦るな。仕事を見つけろ。給料が安くても、生活していける。金は貯め込んでても減価してやがてなくなるから、使わないといけないんだ」
「意味わかんねえ」
「そのうちわかる」
遠雷はそう言って踵を返すと外へ出た。背後で黒南風がぶつぶつなにか言っていた。けれどもう遠雷は振り返らなかった。
来た時と同じ駅から長距離列車に乗る。軌道線路は町を区切るように月の表面に続いている。チケットを取り、ビールと軽いつまみを買って、遠雷はブリアルドス行きに乗った。土曜の夜だが車内は空席があって、遠雷の隣も人がいなかった。
遠雷は窓から外を眺める。線路は高架で、アンディエルの緑豊かな町並みが見下ろせる。
不思議だった。
月の技術は遠雷が地上にいた頃と大差ない。整備や普及の仕方はそれ以上だと感じることもある。それなのに月には地球に探査機を打ち上げる技術がない。人工衛星の回収すらできない。月面から望遠鏡で眺めるだけだ。
確かに月は地球の五十分の一の大きさしかない。その資源の使い方も、遠雷が見る限り地球とはまるで違った。人間がそれを食いつぶすようなことはしてない。人口が少ないせいもあるだろう。でも、と一方で彼思う。
隠されているような気がするのだ。本当は地球の、未だ地上に暮らす人類がいることを、わざと知らずに済ませようしている気がする。それは自分の勝手な思い込みかもしれない、と遠雷は思う。月にも犯罪は起こる。殺人も、自殺者もいる。けれど今の暮らしは、地球のそれとは違った。
やがて列車は都市部を離れ、森林地帯に入る。それが切れると雲の海の上を通過した。
家に帰るのは夜中になるだろう。明日には翡翠が帰ってくる。何時になるかは聞かなかった。仕事があるので、顔を合わせるのは夜になるかも知れない。
いつの間にか、遠雷は再び今の生活のことに考えが戻っていた。
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