後日談
後日談
六月も後二日で終わりを迎え、早いところでは梅雨明けが発表された。
俺たちの地域はまだまだ湿気た空気からは逃れられなさそうだったが、多下幸――俺の姉と最後に会った日からは、極端に天気が崩れることもなく、快晴と胸を張って言える日はなかったものの、一般的な梅雨時と思えば清々しい日が続いていた。
今日はあいにくと雨模様であるが、そんなに鬱陶しくは俺の目には映らなかった。
「それで先輩の思い出した記憶を駆使した推理は、私のどこまでを見ていたんですか?」
降る雨に抵抗するように、達宮の陽気そうなその一言かで会話が始まった。いつになく機嫌がよさそうな様子を見て、俺が小学校四年生の頃に入院していた時ではないが、少しだけ鬱陶しく思ってしまった。
そんな感情になるのがおかしくて、俺は隠すつもりで笑い声を鼻にかけた。
達宮はそれに気が付いたのか、ころころと変わる表情を分かりやすく不機嫌なものに変えると、一瞬だけ作った不貞腐れ顔をまたころっと変化させて笑顔を作った。
「それでどうなんですか?」
達宮は自分の質問を望んで、もう一度俺に問うてくる。
俺は答えるかどうしようか一瞬だけ考え、そのせいで場に沈黙が流れた。
今までとは違い、居心地のいい沈黙をそのまま保存してしまっておきたかったが、それは違うと思い改め、俺は口を開いた。
「俺が多下幸――姉ちゃんに騙されて屋上で気を失ったその日、一日俺は青木って奴の家に泊まっていることになってた。それはお前が直接、俺の母さんに伝えに行ったんだろ? 母さんは来たのは男の人って言ってたけど、お前の容姿だったらある程度変装すれば男に見えないこともないからな。それに、幼い頃に病院であったとしても、俺の両親がお前の蚊を覚えているはずはない。だから俺の両親は訪問して来た人物がお前だとは分からなかったんだ。成長してるんだからな。それが一つ。
次に俺が気を失った後、何故か公園にいてそこで目覚めたことだ。姉ちゃんのことを考えると、異次元に繋がったとかオカルト的な可能性も考えられないことではなかったけど、そんなことはそうそうに起きるはずがない。現実的に考えると思い当たるのはお前しかいないんだよ。一見、無理そうに見えるけど結構鍛えてるんだよなお前。星を見にデー……、出掛けた時なんかはそうだったけど、俺はあの時、腹が痛くて一人で歩けないほどだった。そん時達宮は肩を貸してくれたけど、俺はほぼ全体重をお前に乗せてた。それでも意に介す様子は全く見せずに支えてくれていた。それで分かったんだ。
今言ったことを踏まえて、俺が高二の頃に屋上で見つけたノートの切れ端もお前が設置したものだったんだろ? 俺の記憶を取り戻すために置いたのはお前意外にありえないからな。屋上は一見逃げ場がない。ただ一つ、隠れられるところがあるとすれば塔屋の上だけだ。お前はその鍛えた体を目一杯駆使して、フェンスをよじ登って塔屋に身を潜めたんだ。俺が屋上に立つ後ろ姿を姉ちゃんだと見間違えたのは、屋上の扉からある程度離れたところにいたことと、あの日は風がやたらと強くて視界を奪われたから。後は髪型。二人とも近いショートカットだったからな」
俺が話し終えると、達宮は感心したように目を見開いてわざとらしく拍手をした。
なんとなく馬鹿にされている気分になって、拍手の音よりも雨音に集中していると達宮も口を開く。
「大体正解です。さすが先輩ですね。事故後の私の体力は落ちる一方で、元から喘息を患ってもいました。今はほとんど気にならないくらいに治ってきていますけどね。体力が落ちれば免疫力が低下してまた喘息がぶり返す。幼い頃から積極的に運動をして呼吸器系を鍛えていたこともあって、私は先輩よりも先に退院することができました。それでも事故後の後遺症は残ってしまって、身体機能には問題なかったんですけど、精神的なダメージが酷かったんです。一気に家族を失った時のストレスで身体が食事をするのを拒否して、事故後目覚めて一週間はろくに食べていませんでした。本当に何も受け付けなくて。そんな時に看護師さんに教えてもらった、事故に遭った相手のご家族も一人だけ命が助かったこと、それが先輩のことだったんですけど、聞いて直ぐに希望とはちょっと違うんですけど、それこそ、罪滅ぼしができる人がいるって思えて、それからは無理をしてですけど食べられるようになりました。生きるために。だから私が今生きていられているのは先輩のおかげっていうのも少しあるんです。まだまだ食事も思うようには摂れないですし、お寿司屋さんの五皿もかなり無理をしてあれですからね」
達宮は笑ってそう話し、
「ただ、先輩の話してくれたことですけど、一点だけ補足しておかないといけないことがあります」
と追加する。
「先輩を階段の踊り場から公園に移したのは私だけの力じゃないんですよ。さすがの私でも先輩の身体を、しかも意識を失っていましたし、一人で担ぐことなんてできませんからね」
「え? じゃあ誰が?」
「校長先生とは話をされなかったんですか?」
達宮は俺の疑問に疑問で返した。
「達宮については話すことはなかったな」
「事故についてもですか?」
「事故? 俺たちが幼い頃に遭ったやつのことだよな?」
「はい。その事故です」
「ああ、それについてはお前が俺ん
「なんでさっきまではキレッキレな雰囲気を出していたのにこれには気が付かないんですか? まあ、いいですけど。これから校長先生に報告しに行くんですよね? じゃあ私もついて行きます。その時に分かると思いますよ」
強く疑問には思ったが、答えが分かるというのなら考えるよりも行動しようと思い、達宮の同行を承諾して、徒歩で後十分ほどで到着する峰館林高校まで並んで歩く。
途中、高校の屋上で姉と交わした会話の内容を断片的に達宮に話し、彼女はその目に涙を溜めて静かに聞いていた。
雨音が邪魔をしてところどころ聞こえていなかったかもしれないが、それはそれでいいと思った。
峰館林高校に着くと、時刻は昼の一時を回っていた。
校門から入って右手側はいつも教員の車でごった返しているのだが、今日は休日ということもあって疎らにしか車は置かれていない。一番手前側を見ると見慣れた田嶋校長の愛車とその奥には、いつの日か深夜の学校に侵入した俺を、家まで送っていった車が目についた。
いつも通りに昇降口から校内に入って行くと、生憎の雨で外での練習ができなくなった野球部とサッカー部の連中が、一緒になって廊下を右から左へと駆け抜けていく。室内練習の真っ最中のようだ。床を激しく蹴る音が怒号のようで、校舎が崩れてしまうのではないかと思ってしまう。
練習の邪魔にならないように廊下の隅を二人で通って行き、昨日、田嶋校長と会う約束をした校長室に辿り着いた。
短くノックを二回すると中から返事が戻ってきた。
校長室の扉を開けると、当然ながら田嶋校長ともう一人、よく見知った顔の人物が目に入った。
「こんにちは。残念だね、今日は雨に降られてしまって」
「こんにちは。そうですね」
たわいのない挨拶をすると、後ろについて来ていた達宮を確認した田嶋校長は一瞬驚いたが、気前よく、達宮が同席することを了解してくれた。
応接用の椅子に達宮と並んで座り、あの日と同じ決まり文句を言って田嶋校長は俺たちの目の前のテーブルにお茶を静かに置いた。
田嶋校長は俺の斜め右にある椅子に座ると、もう一人の人物は俺たちの目の前の椅子に腰かける。
準備は整ったと言わんばかりに、田嶋校長の低い声が校長室にこだまする。
「わたしのほうも事前に言っておかなかったのでお互い様ということで。……彼のこと、知らないはずがないですが、一応紹介しておきますと――」
田嶋校長の丁寧な言い回しから紹介が始まるのかと思ったのだが、その声は途中で当のゲストによって遮られた。
俺もそれでいいと思う。紹介されたところで知っている人物なのだし、そんなことをするほうが野暮だっただろう。今年、一気に注目の的になった人物なのだからなおさらである。
その人物は、ゴリゴリに固められた筋肉をはちきれんばかりに動かし、ボディビルでよく見るあの典型的な格好をした。始業式でも見たがスーツ姿は全く似合わないと改めて思う。
「生徒指導の片織源助だ。自己紹介など不要だろうから話を進めたい。本当にきみたちが、あの日事故に遭ったご家族の子どもなのか?」
片織先生から出たのは突拍子ない質問だった。
あの事故というのは大体見当がつくが、片織先生がなぜそんなことを疑問視するのだろう。
達宮のほうを見ると、彼女は既に何かを察したようで、一人で、はい、と答えた。
前かがみになった片織先生は、達宮を一瞥すると今度は俺のほうに視線を向けて、通常時でも圧力のある双眸を見開いた。
俺もなんとなく予想はついていたが、まさか田嶋校長から聞いた話と同一人物とは思えず、疑心暗鬼ながらに、はい、と返事をした。
その答えを聞いた片織先生は、一気に全身の力が抜けたのか、後ろの椅子にドシリと音が鳴るほど激しく座り込んだ。一度天井を仰ぎ見て、校長のほうへと顔を向ける。
田嶋校長は深く一回頷いて、改めて片織先生の紹介をし始めた。
「きみたちも何となく気が付いているようだけど、彼がその、当時きみたちを事故現場から救った張本人なんだ。今ほどムキムキではなかったけどね」
田嶋校長は冗談交じりにそう紹介し終えると、テーブルに置かれたお茶を一口啜った。校長が考えている通り、俺と達宮の予想は当たっていたため、あまり驚いた様子を見せなかった。
逆に驚きを隠せていないのは片織先生のほうで、放心状態というか今にも天に召されてしまうのではないかと思うくらいに表情が変わらない。
田嶋校長がお茶を啜る音だけが校長室に響き、少しの沈黙の後、片織先生は瞬きをしきりにしては、隠しきれない涙声で安堵の声を発した。
「本当にきみたちで間違いないんだな?」
「はい」
「……そうか。よかった。本当に生きていてくれてよかった」
片織先生はとうとう我慢することを止め、胸ポケットにあったハンカチを持って目元を押さえた。マッチョがするその丁寧な仕草は、俺達にはギャップがありすぎて、失礼ながらも途中で笑ってしまった。
片織先生がポカンとした表情で俺たちを眺め、その様子につられて田嶋校長も笑い出した。
校長室は、笑い声をあげる三人と泣くマッチョという、極めて不可思議な空間に早変わりした。
空間が落ち着きを取り戻した後、田嶋校長はまだ全容は話していないということだったので、できるだけ細かく、多下幸の不思議な現象についても話した。
さすがの片織先生も幽霊の話には驚き、俺の姉があの世で元気でいることを伝えると、また大きく安堵の息を漏らし、校長にお茶のおかわりお願いした。
その後も話は続き、時間にして五時間をも校長室で過ごした。
時刻は夜七時を回っていた。
校門を出たのはつい三十分前のことで、田嶋校長と片織先生から食事に誘われたが、話し疲れたこともあって丁重にお断りした。二人とも残念がっていたが、近いうちに必ず俺と達宮で誘いに乗ることを約束し、なんとか解放された次第である。
雨はとっくに止み、真っ黒に焦げた空が重々しく広がっていた。
俺たちはいつもとは気分を変えて、初めて子供多下と一緒に行ったファミレスに寄っていた。
「さすがにこの時間だとお客が多いですね」
目の前の席に座る達宮は、とらえ方によってはそう聞こえるだろう愚痴を垂れ溢した。
「まあ、土曜だしな」
「……珍しいですね。先輩が私の意見に賛同してくれるなんて」
「そんなことねえだろ。いつも賛同してやってる」
「そうですかぁ?」
達宮は鼻につく喋り方でそう言うと、テーブルに用意されたメニュー表を開いた。
「先輩のおごりでいいですよね? なに食べようかなー」
「何言ってんだお前は、割り勘だ」
「ケチですね。あ、そういえば、あの多下幸さんの子ども版の子はどうなりました?」
「ん? ああ。なんて言うか、お互いに詳しくは知らないけど血は繋がっている、みたいな?」
「なんですかそれ? 生き別れってことですか?」
「いや、生きてるところを見ていなかったから、そうはならねえけど、言っちまえばそんな感じだな。当時の新聞、被害者は全員で八人になってた。達宮の家族はお前を除けば両親の二人、俺のほうは俺を除けば三人であと一人いたことになる。通行人が被害に遭っていたっていう事実はないってことだったから、考えられるのは、俺ん家かお前ん家のどっちかで、母親のお腹に子どもがいたってことになる。それで実際に現れた小二の少女は名前を多下って名乗っていたから、きっと俺の母さんが身ごもってたんだろうな。それで、事故の記憶がない俺と子供多下――もう妹なんだから幸って呼んだほうがいいよな――を一緒の家に置いてしまうと混乱してしまうと思って引き離したんだろう。まだ詳しくは今の親に訊いてないから分かんないけどな」
「たぶん当たってると思いますよ。私は記憶もちゃんとありましたし、親にも色々聞いていましたので。私が知っている限りでは、私に他の兄弟がいた事実はありませんから」
達宮はそう言い終えると、注文のためテーブルに備え付けられていた呼び鈴を鳴らした。メニューを見ながら淡々と商品名を言っていく達宮は、自分では到底食べきれない量の注文をした。店員が注文を繰り返し、店の奥へ戻って行くのを確認してから、澄ました顔の達宮をいぶかった。
「お前、なに勝手に頼んでんだ」
「先輩どうせ、俺はいい、とか言って頼まないんですから適当に注文しておいてあげました。割り勘でいいですから」
達宮はそう言って、さきほどまでの話を続けようと切り出した。
「それで、妹さんはどうするんですか? ご両親に訊いてみないと何とも言えないところだとは思いますけど、公園で最後会ってからそれっきりなんですよね? 探すつもりなんですか?」
浮かない表情でそう言った達宮に対し、俺は見向きもしない無関心のまま、店の外を眺めた。
止んだはずの雨がまた降ってきたようで、傘を差して早足に通り過ぎていく人が右に左に流れていく。カップルっぽい二人組や、背丈からして兄弟だろうと想像できる幼い子どもらが、前方からくる大人の群れを器用に避けながら俺の視界から消えていく。
全く安定しない空模様は、どこか俺に似ているところがあるかもしれない。
止んでは降って、考えては捻じ曲げて、そうして辿り着いた答えは最善なものではない可能性もある。それでも、少しでも最善だったと思えるように、悔いのない選択をしよう。
過去、俺の姉が事故で痛んだであろう身体を構わず俺を助けるために必死に動かしたように。
「俺の唯一の兄妹だからな。見つけるさ、絶対に」
「安心しました、そう言ってもらえて。……でも、まずは疎かになってた勉強のほうに力を注いでくださいね」
達宮は笑顔でそう言った。
高校に入ってからまともに机に向かってこなかった俺が、これからいい就職先や進学先が見つかるとは到底思えない。妹を探すよりもずっと大変な道のりになるに違いない。
それでも、俺には進む未来があるのだから、今を精一杯歩いて行く。
姉もそう望んでいるだろう。
注文した料理が、いつの間にかテーブルに運ばれてきていた。
俺は、思ったよりも多めのオーダーに戸惑いつつも、同席している少女が食す何倍もの量を腹に叩き込むために箸を持つ。
今度は俺が注文しよう。
そう心に決めて、先にメロンクリームソーダから手を付けた。
あくる日の六月より 榎本知音 @enomoto_yo
★で称える
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