3


 長いこと話込んでいたこともあり、俺の右側でかろうじて点滅していた電灯は、力なくその間隔を開けていった。星の光もどこかに消えてしまったようで、淡くも地上を照ていた灯は、俺たちを見限ってしまったのか公園の暗闇を一層引き上げた。


 それを見ていたかのように、吹き荒れていた風は時間とともに脅威を衰えさせていき、六月のしまった空気を運ぶにはやや頼りなげに弱弱しく木々を揺らしている。


 達宮は依然として顔を上げることはないのだが、俺の話はしっかりと聞いていたようで、彼女自身が気になったことには小さく頷くような素振りを見せていた。


 全てを知った上で許しを請うのは虫のいい話極まりないと思うけれど、今まで忘れていたことへの謝罪をしないわけにもいかず、俺は達宮に素直に頭を下げた。


 その謝罪の返事は当然直ぐにはもらえることはなく、代わりに達宮から再三見ているノートの切れ端が渡された。お互い無言でやり取りをして、俺は早速渡されたノートの切れ端を裏表隈なく見澄ました。渡されて時に見えていた面とは逆側に何か一言書いてある。暗闇の中で読めず、俺は左ポケットにしまっていたスマホを取り出して電源を入れた。スマホの画面に照らされて、ノートの切れ端の白に反射する。ノートの切れ端には「屋上で待ってる」と、そう書いてあった。


「もう考えなくても何のことか分かりますよね? ……行ってあげてください。先輩の――、多下京谷のお姉さんの所に」


 達宮を見つけてから初めての彼女の声だった。

 俺は頷くだけをして達宮を背に公園を飛び出した。

 去り際に見た公園唯一の電灯は、まだ、もう少しと俺にエールを送っているかのように、最後を力を振り絞り点滅の間隔を狭めていった。



 公園からは歩いて十数分の所にある県立峰館林高校まで、俺はノンストップで走った。


 向かっている途中、等間隔に配置された街灯の光の筋に入っては出てを繰り返しているうちに、怪しげに空にかかった焦げすぎた雲が、この時を待っていたと言わんばかりに雨滴を落とし始めた。弱弱しく降り注ぐわりには俺の身体を効率よく濡らしていき、あっという間に服も紙も湿っぽさが分かるようになった。静かな住宅街に静かに響く雨音が、これから目にする光景の異常さを誇張させていく気がした。


 目的の地に着くころには雨脚も強まり、全身をぐっしょりと濡らすほど激しさを増していた。息を荒げて高校の校門前に到着する。もうちまっこいやり方で侵入するつもりはなかった。校舎の裏手に回れば、この前も鍵が開いていた昇降口の一角のドアから簡単に口内に忍び込むことができた。宿直の教師がいるかもしれない可能性も考えられたが、そんなことはお構いなしに俺は屋上までの階段を駆け上がる。心臓が破裂しそうなくらいに脈拍が跳ね上がっていた。ドッドッという鼓動を聞きながら、乳酸が溜まってきた脚をそれでも動かし、屋上に続く扉の前に立った。


 一旦呼吸を整える。数秒では戻らないであろう息切れを抑えるため、大きく息を吸いゆっくりと吐いていく。学校独特の埃っぽい空気が直に肺に入り込み、一瞬むせ返りそうになった。なんとかそれを押し留め、深呼吸を繰り返す。完全には収まるわけがなく、俺はある程度まで呼吸が安定してきたのを見計らい、屋上に続く扉を開いた。


 一気に雨滴が顔や身体に当たる。夕方ほどに強くはない風に当てられ、屋上の奥にゆっくりと歩みを進めると、以前にも見たあの後姿が現れた。ただ、今回の後姿は確実に本人のものだ。


 相手は俺が来るタイミングを分かっていたというように、ゆっくりと後ろを振り返った。


 約一年ぶりに再会する顔は、俺が知っている顔とは少し違い、不良ぽい荒々しさが消え、柔和な表情を浮かべている。


 間違いなく正真正銘、多下幸――、俺の姉の姿がそこにはあった。


「久しぶり。やっと見覚えのある顔になったね」

 姉はそう切り出した。


「そうか? 俺は姉ちゃんから助けを求められる前からこんなだったと思うけど」

 俺が冗談混じりにそう言うと、姉も気が付いたようにクスクスと丸く柔らかな笑顔を作った。


 姉は食い入るように俺を見つめると、ゆったりと俺のほうに足を向けた。正面に立つと俺が姉を見下ろす形になり、俺を見上げる姉は小さな声で、「本当に大きくなったね」とそう言った。


 一年前の屋上での出来事。

 手助けの依頼者として俺の前に現れた多下幸――俺の姉は、屋上から身を投げ出し、あたかも消えたように錯覚させた。錯覚という言葉が正しいかは分からないが、消えている、という表現に近い状態の姉にとっては、何も不思議なことではない。もう既に死んでいるのだから。


 霊が自らの身体をどう使っているのかは俺には到底分かることではなかったけれど、この世に存在していないことになっている身体を、屋上から飛んで俺の視界から消えた瞬間に完全に消すことで、消失というトリックを作ったのだ。ミステリアスには変わりないが、見る人によっては納得できないことに違いない。俺も内心はそんなことがありなのか、と疑問に感じはしたが、霊的な存在にとって、自分の存在を他人に認知させるにはそれをする他ないだろう。姉もただ、俺に自らの存在を認識してもらいたかっただけなのだ。


「驚いたでしょ? 屋上から落ちたの」

「まあね。でも何が起こっていたのか、大体予想することはできた。最近できた友達に青木って奴がいるんだけど、そいつの言うことがヒントになったし、極めつけは校長が、多下幸は在籍していない、って情報をくれたからね」

「なるほどね」

 姉は感心したように俺を見ていた。


 長い期間が開いてしまい、俺はつい先まで姉のことすら忘れていたので、なんだか赤の他人と話している感覚になってけど、この人は疑いの余地の無い、正真正銘の俺の姉、多下幸だと思えることができた。


「私側からはあんまり話せないことなんだけどね、私がこうして京谷に存在をアピールしたから、あなたは記憶を思い出すことができたの?」


 俺はその問いに答えるのは一瞬躊躇した。しかし、もう気を遣うことのない姉弟の関係なんだからそれはなし、と思い、俺は正直にそのことを答えた。


「実は違うんだ。姉ちゃん、達宮一には会ったことあるだろ?」


 俺の反問に姉は優しそうな表情を一瞬だけ曇らせると、雲が晴れないままの複雑な表情のまま、うん、と答えた。


 俺はその表情を見て、胸に突っかかるものを感じ、話の途中だけどここで切り上げてしまおうかとも思った。それでも、姉は無理をしてそれを訊いているはずなので、途中で逃げるわけにもいかず、俺は苦慮しつつも続けることにした。


「事故で完全に無くなっていた記憶ほど、達宮の印象は薄いものじゃなかったんだと思う。なんたって、そんな非日常的な出来事の最中に会った奴だったから……。こうして姉ちゃんとも話せるのも、あいつのお陰でもあるんだよ」

「……そうなんだね。私もそう思うよ」


 無理をして姉は笑顔を見せた。

 その表情を見るのがあまりにも辛く、俺は姉から目を反らした。


 しきりに降り続ける姉が屋上に床に当たっては四方八方に飛沫を飛び散らせる。既に靴の中までびしょ濡れで、次第に体温が下がっていくのが感じられた。それでも鬱陶しくは思わない。この雨は後押しの意味もあるが、俺と姉にとっては見せたくないものを隠すのには最適な天からの贈り物だった。


 僅かな沈黙の後、姉の心地のよい口調が俺の耳の響き、懐かしさのあまり途切れさせたくなったが、俺はそれを必死に抑えた。


「京谷の言う通り、達宮さんに会ったよ。あの時も今みたいに雨が降ってた。『努力しても戻ってこないものはあります。時間とか、家族、とか』って言われちゃってね。遠回しに迷惑って告げられてるのが分かったよ。チャンスがあれば京谷の前に顔を出そうと思ってたけど、そんなこと言われたら気になっちゃって無理だよね」


 姉の苦しそうな全く出来の悪い笑顔は、今まで見てきたどんな表情よりも汚くて、歪んでいて、見るに堪えられなかったけど、それ以上に優しくて、温かくて、何よりも大好きだと思った。


「そんなことないよ。姉ちゃん遠慮しくなったな。昔とは大違いだよ」

「……そうだね」

「うん」


 俺と姉は生まれて初めて、蜃気楼のような笑い方をした。

 それと同時に姉の叶わない願いごとが顔を出す。


「あの時、守ってあげられなくて、ごめんね」

 途切れ途切れの声を出す姉の顔は、冷たい雨と混ざり合った。


「安心できるように、抱きしめたかった」

 分かってる……。


「星、綺麗だよって、ありがとうって、言いたかった」

 それは俺だって……。


「こんなに、早く、……死にたくなかった!」


 怒りではなく悔しさからくる感情を抑えきれずに、姉は声を荒げて叫んだ。今まで中和の取れていた塩っけは次第に濃くなって、どこかへと流れて落ちていく。嵩が増していくのを俺はただ見つめていることしかできず、熱くなる目を隠すために雨滴の降り注ぐ空へ顔を向けた。それを合図にするかのように、雨の勢いは次第に衰えていき、隠すことを阻むように雨音も飛沫も消え去っていった。屋上に残ったのは、姉の鼻をすする音だけになった。



「私、現実を受け止められなかったんだよ。ついさっきまで元気に話してて、車の中は京谷の声で一杯になってたのに、ほんの一瞬でなんでもかんでも逆さまになっちゃんたんだからね」


 雨が止んでから十分近く泣いていた姉は、ようやく落ち着きを取り戻し、いつも俺が校長と屋上で話をする立ち位置のままフェンスの手前に並ぶ。俺と姉の間にある空間は、八年間で開いてしまった距離を表しているようだった。


 見下ろせば、所々カーテンの隙間から少ない光を覗かせる住宅街が、視界一杯に見渡せた。時間が止まってしまったかのように、静けさが家々を包み込み、まるで星空のようにも見える。


 風はまた強まり、遮るものがない屋上に容赦なく吹き付けていた。地上から天へと突き上げて立っている木々が、風に大きく揺られ、葉と葉だけではなく枝と枝がぶつかる音も囁きくらいに聞こえてくる。


「必死で叫んでも届かないって、案外精神的にくるんだよね。しかも、近づこうとすればするほど遠ざかってく矛盾は追い打ちって感じで……」

「ああ……。俺は姉ちゃんと違って記憶を失ってたから、そんなこと思えなかった。今思えば失っててよかったって思ってるよ。姉ちゃんには悪いけどね」


 冗談でそう言った。姉ちゃんは明るく、それもそうね、と笑って同意すると、大きく背伸びをした。緊張した筋肉を一気に脱力させると、意識を含んだ意味ありげな溜息を吐く。近づく別れを直感的に思わせた。


「そういえば、姉ちゃんはなんで、俺に星の本を買ってくれたんだ?」


 無意識に出た、なんとかして姉との残された時間を長く持とうとした苦し紛れの俺の抵抗のような質問だった。答えなんかあるわけがない、たわいない日常の会話。それを姉は、必死に追い求めていた。意味がない物ほど大切な物になる。それは俺も姉も同じ気持ちだった。


 今考えたのか、実際に両親が考えていたことなのか、苦し紛れに姉から出た答えは、無条件で大切な物へとなって積み重なっていく。俺にはそう見えた。


「私の名前――多下幸には星が関係しているの。お父さんが言うには、星が多く輝く空の下は幸せに満ちている、って意味で付けたんだって。ちょっと恥ずかしい気もするけど、話を訊いた時は私も幼かったから、凄く素敵だなって思ったの。だから星の本は買ってあげることにした。私そのもの。お守りみたいな意味合いがあったから」

「父さんって凄いロマンチストだったんだな」

「そうみたい。でなきゃ急な京谷の頼みの了承してくれなかっただろうし」


 そう言ってまた笑った。本当に内容がない空っぽな会話。しかし今はそれを綴っていく。


「俺にもあるのかな、そういうの」

「どうだろ……。私も自分のしか訊いてなかったから分からないけど、絶対に何か意味があって付けてくれたとは思うよ。なんたってロマンチストな父親だからね」


 きっと意味はある。もう訊くことは叶わないが、むしろそのほうが俺には都合の良いことだった。父が考えた意味とは反するものになってしまう可能性もあるが、自分の名前の意味を自分で考えるのも悪くない。穴の開いた今後の生活を埋めてくれるはずだ。


 知らないことがあれば調べればいい。何もないなら自分で創ったらいい。それが自分勝手な妄想だったとしても、それを口うるさく言う人がいるのなら、その人を見なけれないいだけなのだ。


 姉は、俺のその思いを感じ取ったらしく、「そろそろかな」と一言うと、住宅街のほうに向けていた身体を俺のほうに向き変えて、姿勢を正した。

 俺もこれ以上は野暮だと思い、姉から出るだろう発言を聞くために、耳を澄ませた。


「見えている、っていう状態って結構体力を使うんだよ。私も無理言ってここに来させてもらってるから、時間制限付きなのは承知の上なんだけどね。思い出してもらえなかったらどうしようかと思ったけど、しっかりした弟を持って姉は誇らしいです!」


 姉は、はっきりと笑顔でそう言った。悲しみも恥ずかしさも、何もなさそうな表情に、俺は、姉ちゃんも大概だな、と思って応えた。


「俺もこんなに優しい姉の弟として生まれてこれてよかった。一生の自慢だよ」


 照れくさかったが、俺も姉の気持ちに応える義務があると思って、色んな感情を押し殺して言葉を綴った。


 きっと、高校生くらいの姉と弟がこんなやり取りをしているのを傍から見たとしたら、たぶん気持ち悪がられるかもしれない。ただ仲が良いだけに思う人もいれば、偏屈な考え方をする人も少なからずいるはずだ。それでも、俺たちの中でこのやり取りは普通でしかない。きっとそれは、子供の頃の気持ちがまだ新しく心に残ってるからだろう。これから俺の中では止まっていた時が動き出し、いつかは遠い昔の記憶になって忘れてしまうかもしれない。今回と同じことをまた繰り返してしまうことになってしまうかもしれない。それでも前を見て、止まってしまった姉の時間とともに生き続けなければ。


 涙を耐え、必死な作り笑顔をお互いが見せつけあう中、姉の身体は徐々に背景の黒と混ざり合っていく。今までそこにあった質感のある塊は、蒸発するように一定の速さで消えていく。


 こんなことが実際に起こるなんて、ファンタジーの世界にでも飛ばされてしまったのか、俺の身体はふわふわとした感覚に陥った。


 そういえば――。


 訊こうとしていたもう一つの質問は、無情にも姉には届くことがなく、気が付いた時には例の公園のベンチに寝そべっていた身体を起こす俺がいた。

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