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 なんだここ。

 幼き日の俺、澤村京谷改め、多下京谷はそう思った。


 口許に透明のマスクみたいなのが付けられている。他にも日常では感じられない感覚が身体のいたるところあった。


 身体が重い。動かそうとしても眠っているようにピクリとも反応しない。邪魔だ。外したい。誰でもいいから身体を動か仕方を教えて。


 そう思っているところに、数人の人の姿が見えた。真っ白い服に身を包んでいる。見るからに清潔感があるその人たちは、俺のほうを除くと大慌てでどっかに行く人もいるし、俺のところに近寄って何かを言っている。全然聞こえない。口をぱくぱくしてるだけでいるから、俺は池の鯉みたいだなと思った。


 俺がぼうっと見ているだけで不審に思った白衣を着たおじさんが、耳元まで顔を近づけてぼそぼそと何かを言っているようで、俺はくすぐったい気がして避けるようにした。それでも思うように身体は動かなかったが、白衣のおじさんは何かに納得したように顔を上げてこちらを向くと、大きな親指を立ててグッと前に突き出した。俺はその仕草に安心して、うまく動かなかったが、必死に笑顔を作り出した。


 時期に大慌てでどっかに行ってしまった白い服の女の人が、二人の大人の人を連れてきた。男の人と女の人で俺には見覚えのない顔だった。二人とも必死に口を動かしているだけで、また鯉みたいだと思って動きの鈍い顔の筋肉をまた笑顔を作るために歪めると、白衣のおじさんも口をぱくぱくし始めて、二人はそちらに顔を向けてそのまま止まっていた。ちょっとするとまたこっちに顔を向けて、女の人のほうが安心したように顔を綻ばせて涙を流していた。


 俺はどこにいるか分からないまま、ぼうっと上を見つめていた。何も音がしない。自分の鼓動だけが耳に響いてくる。一定で安定している心臓の音を聞いているうちに俺は眠りついてしまっていた。



 ふと目が覚めると、機械音が俺の耳に痛く聞こえてきた。この音嫌だ。その声が自分の耳にも聞こえて初めて、自分が発した言葉ということに気が付いた。近くにいたさっき泣いていた女の人が近づいてくると、「キョウヤ。キョウヤ分かる?」と言ってくるので、俺はキョウヤ? と思いながらも何となく、うん、と答えた。女の人は俺の頭の上にある何かを掴んだ。十秒とかからないうちに、白い服の女の人と白衣のおじさんがやってきて、ここが病院であることを告げられた。


 いくつか質問をされたのだが、俺は全部に首を横に振った。白衣のお医者さんと看護師さんが顔を見合わせていると、白衣のお医者さんが、隣でその場を見ていた女の人に声をかけ、俺が見えない所まで連れ出していった。


 看護師さんが何か作業をしているところをぼうっと眺めていると、三十分位いなくなっていた白衣のお医者さんと女の人が戻ってきた。女の人は俺のほうに向かってきて、「大丈夫だよ」と小さく言い、誰がどう見ても分かるほどへたくそな作り笑顔をした。大丈夫って言われても、その心配そうな表情じゃ何も伝わらないよ、と俺は思った。


 俺の怪我の経過は思ったよりも早く良くなったらしく、運よく事故の後遺症も残らず、それから数日後には集中治療室と言う所から大部屋へ移された。複数付けられていた器具も次第に減っていき、リハビリが始まった。初めは筋肉を意識して動かしたこりなど、負担の少ない簡単なことから徐々に慣らしていくとのことだった。


 身体のほうは自分でも分かることだったので、白衣のお医者さんのやりたいことは大体理解していたのだけれど、問題は他のところにあった。白衣のお医者さんに色々と質問されたけど、算数の計算とか漢字の読み方は、俺の知識の範囲なら答えられたけど、事故に遭ったこととか、自分の名前とかは分からなかった。繰り返しそう訊かれていたので、何となく自分でも予想ができていたが、言ってしまえば俺は記憶喪失になってしまったらしい。正直、そう言われたところで記憶が無いわけだから、聞いた時には全くピンと来なかったけど、いつも俺に会いに来る女の人は度々複雑な顔をしていたのは強く印象に残っている。白衣のお医者さんからは近いうちに答えを出すようにと言われていたみたいだが、話し合いがあった翌日には答えを出した。


 初めて集中治療室で会った男の人と女の人は俺の親になることを決めた。

 それが、澤村京谷の誕生となった。

 そして記憶は無理に思い出させることはせず、そこでは俺が事故に遭ったこと、本当の両親や姉がいたことはなかったことにしようと、事実を知っているその場にいた人は皆、全てを隠し通していくことにした。


 と言っても、幼い俺なりに、それ相応の疑問が浮かんでくるもので、何がどうしてここまでの大けがになるのだろうか、とか、両親的には俺の記憶はこのままでいいのか、と訊きたくなったが、その時は俺の意識の深いところで混乱していたこともあって、そんなことをズバズバ訊けるような精神状態ではなかった。普通以上に普通に接してくれる仮の両親も白衣のお医者様も、心配かけさせまいとしていたのを察して、俺もそれに徹した。いつしか疑問は疑問ではなくなり、それが普通なのだと信じて疑うことはなくなった。


 勝手に動き回れるようになってからはいい機会だしと、リハビリも兼ねて病院の散策に明け暮れた。


 ある日、病室を出ようとしたところで、俺と同じ背格好の子に行き会った。目を輝かせるその子に抱きつかれて驚いた俺は、慌ててその子を引き離した。この子はやばい子だ。直感でそう思った子が、今とは全く雰囲気の違う、俺の夢の中では『いつもの子』と言っていた、達宮一だった。


 性格は今と全くもって変わらず、事あるごとに俺に話しかけてきた。ナゾナゾの作り方とか回文とかを教えてもらったのは、その頃からだったと思う。特別仲良くしていなかったのに、やたらと接触してくるその少女を煩わしく思い、俺はいつの日か、できるだけ無視してやり過ごそうと決意していた。冷たくあしらっても少女は気にすることもなく、ある日わけの分からないナゾナゾを出したのだ。


「ねえ。どんなに努力しても戻ってこなくて、逆に努力した分無くなっていく『もの』って何だと思う?」


 屋上で見つけたノートの切れ端に書かれていたのとまったく同じナゾナゾだ。

 俺はその時は答えを少し考えていた。今までに聞いたことのないナゾナゾだったので答えることができなくて、達宮一を無視するようになったのは不貞腐れていたことも原因の一つになっていたかもしれない。


「時間だよ。時間」


 時間? なんで時間になるんだよ。他にも答えがありそうな国語的なナゾナゾじゃんか。この文章は卑怯だ。と幼い頃の俺は思っていた。けれど一度無視をしたからには、それを崩したくなかったし、反応することで少女を喜ばせてしまうことになる。俺は黙ったままそっぽを向き続ける。


「なんでそんなに不思議そうな顔をしているの? ……まあ、私が考えたナゾナゾだし分からないのも無理ないか。……あのね、私、あの頃に戻りたいの。なんでだと思う?」


 そんなこと知るか。本当に鬱陶しい。私情ばかりで、俺が何かを押し付けられてるみたいじゃないか。しかも、分からないのも無理ないかって、そんなに考える時間も与えなかったくせに。

 俺は幼さをできるだけ捨てた表情で、少女を睨みつける。


「またその顔? ……私にも分からないの。でも、あの頃に戻りたい。それだけは切実に思うの……」


 勝手に思っててくれればいいのに。


「私、帰るね。また来るから。じゃあね」


 やっと帰ったと思ったら次の約束を交わされた。別に俺は、いいよ、とか、いやだ、とか言ってないけど、なんでこんなに自分勝手な性格をしているんだろう。


 俺は少女の去り際にちらりとそちらに目を向けた。


 少女は泣いていた。


 今まで見てきた他人の泣き顔のどれにも当てはまらないその顔は、どこか儚げで脆そうで、何よりも美しくて、俺は少女の後姿を恍惚として見入っていた。


 それからはなんとしてでも少女と顔を合わせないようにと試行錯誤を繰り返したが、事あるごとに少女は俺の居場所を突き止め、いつの間にか俺の隣にいた。売店でも待合室でも休憩室でも、少女は確実に俺を見つけ、俺は確実に少女に見つけられていた。


 ただ、そんな完敗状態の俺の作戦も一度だけ成功したことがあった。少女が作ったナゾナゾよりもずっと卑怯だと思って止めようと思ったけれど、ある日の少女の言った言葉に動揺して、俺は後から何を言われてもいいという覚悟を持って実行に移した。男子トイレ。それが最大最強の隠れ場だった。


「私ね、明後日退院することになったの」


 俺はその言葉に驚いて少女の顔を見上げた。今なんて言ったの? しかし今まで無視をかましていた俺には、そんな質問する勇気はなかった。なんでか悲しくなった。高校生になった今と同じで恋愛感情とかはなかったと思うけど、歳も近くて気さくな少女の性格が、俺にとっては色んな寂しさをなくすのに必要だったんだと初めてそこで思った。


 当日は何も知らない、聞いていないと俺は颯爽とトイレに隠れた。たぶん少女は俺がトイレに隠れていることなんて気が付いていたかもしれなけど、それでもよかった。忘れないとまた精神が不安定になる。俺の幼き日の頭はそればかりに気を取られていた。


 作戦は初めて成功した。完全にばれていたけど、見られていない、俺の完全勝利に間違いなかった。こんなもの自分勝手な自己満足で問題ない。少女もそうしていたのだから。


 その数日後には俺も退院することになり、リハビリは続けることにはなっていたけど、若さはどんなものよりも一番の強みになって、一か月としないうちにリハビリも終えることになった。その最後の日に専任のリハビリの先生から、荒く切り取られたメモ用紙を渡された。簡単二つ折りにされていたその紙を開いて、中を見ると、そこには誰かの字で、達宮一、と書かれていた。たぶん名前だ。この字もその人が書いたものに違いない。しかし思い当たる節がなかった。先生もパッとしない俺の顔を不思議そうに見ていた。


 今となってはかなり驚くことなんだけど、子どもの頃の記憶能力ってものは思った以上に頼りにならないもので、その時には既に俺の思い出せる記憶として少女の姿は無くなってしまっていた。


 そして光陰矢の如し、俺の記憶はどこか奥にしまい込まれて後ろから足音を立てることなく、約八年という月日を何事もなかったかのように歩き続けることになったのだった。

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