第3話
私の目はだんだんと闇に慣れだした。気付けば空は完全に夜空へと変わっていた。先程は北極星ののみが瞬く宵闇の空は今や幾つかの一等星二等星が支配していた。月は三日月ながらも淡い光で私たちを照らしていた。
前を歩く猫さんは長い尻尾を持つロシアンブルーを思わせる淡いグレーの毛並みであることに今更ながら気が付いた。なるほど、闇の中では輪郭が朧げにしか見えなかったわけだ、と私はぼんやりと先程の出会いを思い返していた。スラリとした体で歩くその姿はどことなく美しく妖しさを醸し出していた。おそらくは、話したことによる非現実感が私の目にはそう映ってしまったのかもしれない。
「ふふっ、猫の身の私とて、そんなに見つめられては照れてしまうよ」
猫さんはそう冗談めかして軽く振り向いた。
すみません、思わず見惚れて。
私は素直に謝った。
「ははは、いや、すまない。なんとなく言ってみただけだ。気にしないでくれ」
猫さんはそういうと歩きながら空を見上げた。
「見てみたまえ。今宵は月が笑い、星は踊っている。そして、数多の煌きは地を照らしている。今日は特に空が輝かしい」
あぁ、上弦の月が笑った口に見えるのだろう。しかし、星はちらほらしかなかったような。私はそう思いつつ、猫さんのように歩きながら空を見上げてみた。
驚いた。つい数瞬前に見上げた空とはまるで違っていた。真っ暗で標高の高い山から空を見上げたかのごとく、低い空で無数の星が瞬いていた。しかも、流星すら流星群の日ですら拝めないのではないかと思うほど流れていた。
あぁ、これは確かに踊っている。
無意識に呟いていた。そしてその美しさが心に染み渡っていった。あぁ、心が震えるとはこういうことなのか。私は今まで感じたことのない感動を覚えていた。
「空は常に美しい」
猫さんは優しくそう言った。
「しかし、人はあまり空を見ない。いや、見ようとはしないものも多いように見受けられる。それは実に勿体ない。星の有る無しだけではない。雲も太陽も朝も昼も夜も、空は常に美しくあり続ける。嵐の空に揺れる心もまた美しさを際立たせる。自然とはある見方からは芸術となる。空とて例外ではないよ。描く物、作る物、奏でる物だけが芸術ではないのさ」
猫さんの言葉は理解できる。理屈では言われなくともわかっていた。しかし、本当の意味で理解することはそうそう出来はしない。しかし、この空はそれを私の心に理解させ、真実だと刻みつけた。
人は日々の暮らしの忙しさにそれを見たくても見れないのかもしれない。
私はそう答えるのが精一杯だった。それは今まで気付けなかったことへの言い訳であることは自分自身が一番理解していた。
「忙しい、か。心を忙しくしているのは君達自身だと私は思うがね。まあ、猫は猫、人は人だ。その違いによる時間の捉え方にも差があるのかも知れないな」
猫さんはそう言って少し立ち止まり思案するような素振りを見せた。
しばらく立ち止まったのち、何事も無かったのようにまたゆっくり歩きだし、私に問いかけてきた。
「人の格言に、時は金なり、というものがある。それは知っているかな?」
もちろん知っている。有名な言葉だ。時間は金のように価値あるものということだ。
私はそう答えた。
「確かに一般的にはそうであろう。しかし、私はこう考える。時間も金もあるからといって幸せになれるとは限らない。しかし、なくては君達人を必ず生きれなくしてしまうものだ。ゆえに、扱いが難しく使い方を良く考えろということだ、と」
それはどういう意味なのか?私は問い返した。
「金は人の世界では生きるために必要な物と交換するのだろう?そして、時間とは人を休ませたり、気分転換させるのに必要だ。なくては生活はできないし、心も体も病ませてしまう。しかし、ありすぎたとて、欲や怠惰に駆られ、人をダメにする。その扱いは紙一重だ。つまり、金も時もコントロールし程々に扱わねばならない。つまり、同等のものだと警告しているのだろう。価値あるもので止めるので無く、その本質を見極めて上手く使わねば生きてはいけないという教訓ではないのかな?」
思わずなるほど、と思った。確かに見方を変えればその通りだ。価値があるからなんなのだ。それに価値を持たせるもの、その価値とは何かを考えねば確かにぼんやりとした言葉にしかならない。
「君達人はその価値のみに注目し、本質を見ていないのではないかな。だから、心は貧しくなるし、空を見ようとはしないのだ。それに、時と金の価値に注目するがあまり、他の価値あるものを見落としている。君も見ているだろう。この空の美しさをその価値を。価値とは俗物的なものだけではない、真の価値あるものとは心と命を活かすものだろう」
確かにその通りかもしれない。でも、何故急にそのような話を?
私は問いかけた。
「忙しいから見ないのではないよ。価値を見抜けないから人は空を見ないのだ。それは寂しいことに私は感じるよ」
あぁ、そうか。私の苦しい言い訳は見抜かれていたのだ。猫相手にすら私は見栄を張ろうとした。しかし、猫さんはありのままで語りかけてくれた。そして、態度でありのままでいることを示してくれているのだ。見栄は恥ずべきもので、わからないから知ろうとする、感じようとする、考えようとする、受け入れる。その大切さを語ってくれているのではないか。私はそう感じていた。無垢な子供の頃のように、なんでも輝いて見えた幼き日々のような思いが体を包んでいるように感じた。
「すまない、説教臭いような言い方だった。私は糾弾する気も失望する気も嘲る気もない。ただ、君達の考え方や物の捉え方が勿体なく感じてしまったのだ」
急に黙り込んだ私を気遣うように猫さんは優しく語りかけてきた。チラリとこちらを振り返り、小さく首を下げた。
いや、謝るのは私の方だ。そして、ありがとう。私も確かに周りを見ようとしなかったことを勿体ないと感じたんだ。
私もそう言って頭を下げた。猫さんはそう言ってくれると私も気が楽になるとおどけてくれた。
そうだ、私は猫さんの見せてくれるものを全て素直に見ていこう。わからないものはわからない、綺麗なものは綺麗だと胸を張って言いたい。そう強く思っていた。
「そこの角を曲がると道が狭くなる。人の君でも通れる道を進むつもりだが、念のためそのつもりをしておいてくれ」
わかった。
私はそう頷いて前を見据えた。猫さんの見せてくれる何かに期待を膨らませながら。
猫と私と不思議な夜 詩歌 @siika0
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