第2話

嫌な事があった。その内容は大したことではない。語る必要も思い出す必要もない。ただ、もやもやと心に尾を引くだけだ。

だから、私は町へと繰り出した。薄闇が少し広がり始めた時間帯だ。大禍時、逢魔が時、誰そ彼時。様々な呼び方を持つ時間帯。明るい瞬間から暗い瞬間に落ちる間際、この瞬間が実は最も暗い時間とされる。目が闇に慣れる前に日が落ちる。だから、悪いものや事に出遭うとか、隣の人の顔も判別しにくいとか言われている。それをそのまま当てはめたのが先の呼名となる。以前、どこかで聞いた話をぼんやり考えながら空を見上げた。

空には北極星が瞬いていた。理屈はわかるが、動かない星というものはよくよく考えたら不思議なものだ。

とりとめのない事を考え、心に巣食うもやもやを意識しないようにしていた。

しかし、そう意識しているからこそ逃れられないことに私はうすうす感づいていた。

そんな時、私はふと気付いた。

目の前にある小さなブロック塀の上に一匹の猫がいた。薄闇の中にキラキラ輝く翠と蒼のオッドアイはまるで宝石のように煌めいて見えた。

目が合っている。向こうも真っ直ぐにこちらを見つめ、向こうも私がじっとその瞳を見つめていることに気付いていた。そう確信があった。

「おや?悩みでもあるのかな?それとも何かに迷っていると見える」

どこからか声が聞こえた。

「何をキョロキョロとしている。私は今、君の前にいるだろう。そう、私だよ」

声の先には猫しかいない。

猫が喋った?

私は思わず呟いていた。それを聞いた目の前の瞳は細く流れ、はははっ、と人のように笑った。

「人間は喋るのに猫は喋ってはいけないのかな?あぁ、いや、すまない。困らせる気はないさ。わかっているとも。我々も他の種の前では滅多に話さんさ。だが、知っておくと良い。我々ならずこの地に住む生物は全て話すのだよ。ただ、理から離れるためおいそれと話さないだけさ」

そう言ってゆっくりと伸びをすると猫はゆっくりと座り直した。

ええと、と驚きを隠せず口をぱくぱくさせるしか私にはできなかった。

「私は野良ゆえ、名前は無いよ。そうだな、まんまではあるが猫とでも呼ぶと良いさ」

いえ、名前のことではないです。思わずそう呟きそうになったのをぐっと飲み込んだ。何故かこの猫さんとは話しても良い気になった。驚きはあれど恐れはなく、むしろ、なんとなく気を許せる気がしていた。

猫さん、少し聞いてください・・・。

私は今日あったことをつれづれと語った。頭の片隅で、猫に心中を吐露するなんて、不思議で可笑しい気もした。でも、何故か心地良かった。

「ふむ、なるほどな。だが、私にはどうすることも出来ないだろう。なにせ、猫だからね。人の理やルールなんてわからない」

猫さんはそう言ってゆっくりと立ち上がり、軽く伸びをした。少し顔を撫でて整えるとぴょんと塀から飛び降り、私の足元で綺麗に着地した。

「ついてくると良い。君の心を私は救えない。だが、君の問題を打破するヒントになるかもしれない何かを見せることなら出来るだろう。君がもし、人の世の理を越えたものを見る勇気があれば、だがね。まあしかし、後悔はさせないさ」

そう言って猫さんはゆっくりと歩き出した。私はほんの刹那だけ悩み、答えを出した。

猫さんはきっと、私に見せたいものがあるんだと。

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