いきなり“夢を叶える権利”を貰ってしまったけれど、どうすればいいの? ―虹の袂に待ち人あり―

佐倉伸哉

本編






「おめでとうございます、紳士様ジェントルマン!! 幸運な貴方様に“夢を叶える権利”を進呈致します!!」

 開口一番に初対面の人間にそう言い放たれた自分は、確かに物凄い確率の運を引き当てたと思う。全世界に十億を超す人の中から、たった一人に巡り合うなんて奇跡だ。宝くじ一等前後賞当選よりも恐らく低い。それが幸か不幸か別にして。

 何の取り得もない、何処にでも居るような平凡な大学二年生(二十歳)男性。一体どうしてこうなってしまったのだろうか―――?




 【 いきなり“夢を叶える権利”を貰ってしまったけれど、どうすればいいの? ―虹の袂に待ち人あり― 】




 思い返せば今日は何かとツキに見放された一日だった。

 学食の券売機に並んでいたら今日食べたい気分だった日替わり定食B(豚のしょうが焼き)が直前で売り切れになり、靴紐が異常なくらいに解けたり、人身事故でダイヤが大幅に乱れた帰りの電車が寸前で発車されたり、挙げ句の果てに一日通して晴れの予報が出ていたのに電車を降りた途端に雨が降り出す始末。

 ドシャ降りなら屋根のある場所で大人しく止むのを待つのだが、シトシトと小雨模様。おまけに雲の薄い部分から太陽が透けて見えるではないか。こんな天気いつ降り止むかキリがないので雨が舞う中を強行突破する。

 なるべく濡れないよう足早に歩くが粒の細かい雨は容赦なく全身を万遍なく湿らせる。時折雨粒が目に入りそうになるのもなかなか厄介だ。そんな早く帰りたい時に限って信号は赤ばかり。せめて気持ちだけでも上向けばと目線を上げる。

 灰色の雲が空一面を覆い尽くす中、薄っすらと鮮やかな七色が無機質な空模様に彩りを添えていた。

(……虹、か)

 陽射しがある中で小雨が降っている状態のことを“狐の嫁入り”と表現されるが、そういう時は虹が発生しやすい条件と重なる。なかなか出逢えない現象なので子どもの頃から虹を見つけると何の根拠もないけれど「ラッキーだ」と思ったものだ。

 目を凝らすと虹の描く弧の輪郭が徐々に浮かんできた。味気ない空にカラフルな曲線が描かれている。いつ何度見てもキレイだなと感じていると、よくよく観察してみたら今日の虹は少し様子がおかしい。虹の軌道を目で追っていくと、片側の端が近くのデパートの屋上に降り注いでいるではないか。本来であれば虹は光の屈折や反射の関係で見える錯覚みたいなもので、実際に一定の箇所に留まるなんてことは有り得ないのだが……考えれば考えるほどに疑問が湧いて仕方がないので、虹の袂を目指してみることにした。

 雨で濡れた髪や服を可能な限りハンカチで拭ってからデパートの店内に足を踏み入れる。平日の昼時という時間帯のためか閑散とした空気に包まれ、客層も主婦や高齢女性ばかりで自分一人だけ浮いていた。売り場を早足で通り過ぎて一目散に屋上へ目指す。

 屋上へはエスカレーターもエレベーターも直通していないので階段を黙々と上る。グルグルと目が回りそうな感覚に陥りながら息を若干乱してようやく目的の階層に到達した。

 デパートの屋上は階段から見て真っ直ぐ先に小さなステージが設けられ、その手前にベンチが無造作に置かれていた。壁際には幾つか自販機が置かれていて、テーブルと椅子も端に積み重ねられていた。夏場にはイベントやビアガーデンなどが行われているのだろうが、今は時季を外しているので静まり返っていた。ただ、虹の光が直接降り注いでいる影響からか他と比べて妙にキラキラと明るいように映った。

(―――おや?)

 ステージの手前に、一輪だけ傘の花が咲いているのを確認する。まるで梅雨時に咲いている紫陽花のような深紫色した傘が、寂しそうに空を見上げるように開いていた。その後姿から誰かを待っている風情にも捉えられる。

 今、屋上に居るのは傘の主と自分だけ。興味本位でここまで来たのだ。折角なので踏み込んでみることにする。

 恐る恐る、一歩また一歩と歩みを進める。見知らぬ相手と距離を詰めていくに従って、徐々に相手の印象が浮き彫りになっていく。

 足元には旅行用と思われる橙色した革製の手提げ鞄と、飲み掛けと思われる瓶入りのオレンジジュース。空色のジーンズに藍のジャケット、その下に白のカッターシャツとラフな服装。頭にはリンゴのように紅いオシャレなハンチング帽。顎に若干の髭が生えているが年齢は自分よりも少し年上の青年くらい。その横顔はいつまでも止まない雨を憂いているように映った。

 と、水溜りに思い切り足を突っ込んでしまった。ピシャッと音が立ち、深紫色の傘がこちらへ振り返る。

 やべぇ、見つかった。何も疚しい点は存在しないはずなのに、イタズラを仕掛けるのに失敗した時に似たような感傷を抱く。

 その男性は翡翠のように澄んだ緑色の瞳に自分の姿が投影される。すると男性は驚くどころか非常に嬉々とした表情を浮かべ、興奮気味に叫んだ。

「おめでとうございます紳士様!! 幸運な貴方様に“夢を叶える権利”を進呈致します!!」

 ……一瞬、自分の中の思考が完全に停止した。『時が凍る』感覚を肌で味わった感覚だ。

 夢でも見てるのかな。こんなリアリティ溢れる夢はある意味で言えば悪夢だが。そっと左手で右手の甲の薄皮を抓る。痛い。残念ながら目の前の出来事は現実だ。

 そもそも夢ってそんな簡単に叶うものなの?その人の大半を傾けて届くか届かないか分からない程に際どいものを、敬老の日に孫が渡す『肩たたき券』レベルにポンと貰えてもいいの!?そんなのアリ!?

 いきなり突拍子のないことを言われて混乱の渦にある自分を差し置いて、男性は朗らかに語り始める。

「今時の方々は皆一様に目線を手元の小さな機械へ落としてばかりであったり、明らかに疲れきった表情で俯き加減に歩いていく人ばかり……時には目線をグッと上げて空を眺める余裕を持って頂きたいものです。実を申しますと、今日もまた待ち人至らず虹が晴れる所でございました」

 まるで劇場の舞台で演じる役者のように長口上を述べる男性。確かに、一昔前と比べて人々の視線は下に向いているように感じる。スマホの画面に夢中だったり、ポータブル音楽プレーヤーを操作したり。そして外回りのサラリーマンは山積みの仕事で疲弊して瞳から光が失われている。交差点の信号待ちになれば連れが居ても互いに目線を合わせず手元のゲーム機やスマホに熱中する姿があちこちで見られる。

 自分もあの時偶然にも虹を見つけられたから気付いたものの、これが空を見上げるだけの余裕がないくらいに激しい雨だったとしたら―――恐らく濡れないよう必死に家路を急いでいたか、何処かで雨宿りをしていたに違いない。そうなれば大多数の人々みたいにスマホを触っていたかも知れないし、空を見ても虹の袂まで辿り着けなかっただろう。そう考えれば、この出逢いは運命なのかも知れない、と思えてきた。これが果たして幸か不幸かはまだ分からないけれど。

 男性が仰る通り、現代人はその時その一瞬の出逢いから興味が薄れているように思う。偶然が重なって生まれる光景、奇跡の瞬間、刹那の一拍、それ等は確かに存在している。でも手近な便利にどっぷり浸かってしまった現代社会では風情や余韻に疎くなってしまった。季節の移ろいや変化に対して鈍感になる、とでも言うのか。淡々と毎日を過ごしていく内にその時に出ている色が薄れて味気ないモノクロへ変色していくのだ。正月のおせち料理が簡素になったり節分の豆撒きを周囲に憚って自重したり、お盆の飾りつけをやらなくなったり。代々行ってきた伝統が消えていけば、それと同時に引き継がれてきた味や音、香り、景色が途絶えてしまうのだ。

 出会い頭で面喰ったものの、徐々に気持ちが落ち着くにつれて男性の発する言葉に興味が湧いてきた。本当に“夢を叶えて”くれるのだろうか?

 するとこちらの考えを察したのか微笑みを浮かべながら語りかけてきた。

「おっと紳士様。望みを叶えると申し上げましたが、幾つか制約があります。“欲”や“人の道に反する”願いに関しましては受け付けられません」

「“欲”や“人の道に反する”願い?」

「具体例を挙げますと『大金持ちになりたいから目の前に五億円欲しい!!』や『楽がしたいから国会議員になりたい!!』等は私利私欲に穢れているので除外。それと『アイツが憎いからこの世から消して欲しい』『好きな人が人妻だから別れさせて自分のものにしたい』という歪んだ願いもお断りしています」

「……じゃあ、例えば高校生が『プロ野球選手になりたい!!』とお願いした場合はどうなるの?」

「それに関しては受理されます。但し、あくまで本人が心の底からプロ野球選手になりたいと強く気持ちを持ち続けた上で、努力を重ねることが大前提となります。その上でプロ野球選手になれるよう運の巡りが良くなったり人の縁が結ばれやすくなる等、背中を押す形での応援となります」

 一歩二歩と足を動かしながら男性は熱弁を語り続ける。

「願いを叶えてもらえると聞いただけで人間はすぐに邪な望みを要求してくる。『金が欲しい』など実に醜い。『誰某を不幸に貶めて』とは人として間違っている。私の出来ることは、依頼主様に明るく楽しい人生が訪れるようほんの少し背中を押す程度の小さな力です。あ、それと私、悪魔ではありませんので代価は必要としていません」

 何となくではあるが、男性の言いたいことが分かってきた気がする。夢のない願いや人として倫理に反する望みは断固として受け入れず、その人の純粋な思いに応じて結ばれるよう手助けしたり背中を押したりして、成就するようサポートしてくれる。少々偏屈かも知れないけれど、人として真っ当な考え方だと理解できる。

 けれど―――

「さて、紳士様。私の制約についてご理解頂けたかと思います。では改めまして……貴方様の夢をお伺いしても宜しいでしょうか?」

 “夢を叶える権利”の説明を終えた男性は静かに訊ねてきた。しかし、自分には返す言葉が思いつかない。

 バレエのトップダンサーみたいに指先までしなやかに差し出された右手は見惚れるくらいに美しい。自信に満ち溢れた姿が自然と光を帯びているようで自分の目には眩しく映る。

 答えに窮して黙り込む様に、出された手を一旦引っ込めて澄んだ宝石のような瞳でじっとこちらを見つめている。どうやら自分の言葉をじっと待つ姿勢を貫くようだ。

 どれだけ時間を費やしても男性に伝えられる望みや願いが浮かんでくるとは思えなかった。心の箱を必死に探しても、記憶の片隅に至るまで調べても、欠片も見つからない。上っ面では一生懸命に考えているように装っているけれど、その実は答えなんか存在しないのだ。取り繕う言葉さえ分からず、どうすればいいか全く見当もつかない。

 けれど、自分から切り出さなければ終わらない。

 覚悟を決めて小さく息を吸い込んで長く静かに吐き出すと幾分か心が軽くなった。そのまま自分の率直な気持ちに該当する表現を模索しながら話し始める。

「……正直な話、貴方にお願いしたい事がありません」

 どういう風に話せば相手にこちらの思いが伝わるか頭の中で試行錯誤を繰り返しながら言葉を重ねる。

「子どもの頃から『こうなりたい』とか『あれがやってみたい』と抱いた事が一度も無いんです。自分の予測がつく範囲の中でその場その時に応じて考えて選んで今まで生きてきました。半年や一年の単位でさえ分からない、それどころか十年先なんて遥か彼方遠くの先の話で、自分の将来だと分かっていてもイメージが湧きませんでした」

 男性はベンチに腰を下ろして、こちらの話に相槌を打つくらいで傾聴に徹している。その為か徐々に自分の話したい内容がはっきりと単語となって浮かぶようになってきた。

「普通に勉強して高校に入学して、特に志望も無かったので学力に分相応の大学を受験しました。合格通知が手元に届いた時は嬉しかったけれど達成感とか展望とか思い浮かびませんでした。学生生活も特に問題なく今日まで過ごしてきましたけれど……来年の春には就職活動が控えています。目指したい分野とか行きたい職種を具体的にイメージ出来てない自分に果たして内定が取れるかと考えただけで不安で……だって自分は何の取り得も特徴もない平々凡々な二十歳の男子学生で、それ以外に自分に当てはまる表現なんて無いんです」

 嘘偽りのない心情を吐露していく内に自分の瞳から涙が零れそうになる。喋れば喋る程に自分の心を自分の手で引っ掻いて傷つけている気分になる。

 気の早い友人は既に来年の就職活動に向けて企業の特徴を調べたり業界研究に着手したり手を打つ中で、一人だけ取り残されているような気持ちに陥ることがある。悠長に構えているつもりは毛頭ないが、置いてけぼりにされている感じで内心焦りが募ってきて訳もなく落ち着かなくなる。行き先も決めず風の吹くまま航海を続けてきた自分にとって、就職活動という猛烈な大嵐や荒波を切り抜けた上で無数に広がる島々の中から一つ人生を委ねるだけの目的地を手に入れなければいけない。その膨大な労力を思うだけで不安や戸惑い、苦痛が心を蝕む。

 もし仮に確固たる目標を抱いた素敵な人が“夢を叶える権利”を得られたならば、躊躇なく目指すべき道へ向けて権利を行使しただろう。夢の実現に向けて一歩でも近付きたい人からすれば、男性の申し出は渡りに船であり有意義な提案だったに違いない。もしかしたら世の中の利益に少しでも貢献していたかも知れない。

 でも、自分はそうじゃない。幼少期から夫婦仲良好な両親の手によって育てられ、学童期にサッカー倶楽部に所属していたけど続けていく中で「自分は上手なタイプではない」と自ら悟って中学に進学するとサッカーから離れてしまった。漫画は人並みに読むけれどヲタクみたいに突き詰めている訳でもなく、それ以外に人へ自慢できるような趣味は持たず。勉強は平均ラインをその時々で上下する程度。交友関係も広すぎず狭すぎず、深くなく浅くない距離。特別な能力も秘める才能も持たない、物語に登場する人物に当てはめるなら名前すら付けられないモブ役だったに違いない。

 自分のこと表すならば、世間に無数と存在する何の変哲もない『普通の二十歳の男子学生』としか説明するしかない。それ以上に付け足す要素は皆無だ。そんな中身の空っぽな人間がいきなり“夢を叶える権利”を貰っても……どうすればいいの?

 それがとても貴重で素晴らしい贈り物であったとしても使い道の存在しない相手には、勿体ないけど目に見えない粗大ゴミでしかないのだ。

「だから、申し訳ないですが自分には“夢を叶える権利”を貰っても意味が無いので、他の方に―――」

「素晴らしい!!」

 断りの言葉を述べているのを遮るように男性は突如ベンチから立ち上がって叫ぶ。

「『望みが無い』、それ即ち『やりたい事は分からない』ことの裏返し。実を申しますと各地を転々と渡り歩いている身、水先案内も得意としております。不肖ながら私が貴方様の興味を持てる何かを探すお手伝いをさせて頂くことも可能ですが、如何しましょうか?」

 やや食い気味に勧めてきて戸惑ったけど、まだ自分が知らない可能性を見つけるのも悪くないかなと心の隅っこで思う気持ちがあった。どうせ貰った権利だ、どう使おうと自由だ。

「……じゃあ、お願いします」

「承知致しました、依頼主様マスター!! 必ずご満足して頂けるよう粉骨砕身努めさせて参ります!!……誠に失礼ながら依頼主様の御名前を伺っておりませんでした。何とお呼びすればよろしいでしょうか?」

「あ、自分は好きなように呼んでくれて構いません……えーと、貴方の名前は?」

「申し遅れました。私、“夢を叶える届け人”であり“目的地へと誘う水先案内人”、フェリスと申します。以後お見知りおきを」

 ハンチング帽を外して深々と頭を下げるフェリスの髪は黄金の稲穂を連想させる金髪で、それが印象に残った。道化じみているが細身なスタイルは“紳士”というキーワードがお似合いだと思った。日本人離れした外見ではあったが、不思議と違和感を抱かなかった。

 互いに自己紹介を済ませて間が空いた。フェリスは傘を差し出して自分が濡れないよう配慮をしつつ右手で懐をゴソゴソと探る。何をしたいのか分からず傘の下で待っているとようやくお目当ての品を探り当てたらしくニッと口元を緩める。

 取り出したのは―――銀製の懐中時計。すっぽりと掌に収まるサイズながら文字盤を覆う蓋は使い込まれた形跡が随所に見られて渋い輝きを放っている。カチコチと時を刻むリズムに神経がほぐれる感覚に浸りながらフェリスの行動を待つ。

 銀の懐中時計を開くと、フェリスは時計中心の突起を押す。刹那、それまで等間隔で秒を刻んでいた針の音がピタリと止んだ。直後に目の当たりにした光景に思わず息を呑んだ。

 それまで鈍色の空から降り注いでいた雨粒が、宙に浮いたまま静止している。都会の真ん中にあるにも関わらず喧騒の音は一切聞こえず、水を打ったような静寂に包まれていた。まるで音の聞こえない空間に迷い込んだのではないかという錯覚さえ感じた。

「僭越ながら時を止めさせて頂きました」

 フェリスは意味あり気にウィンクで非礼を詫びるが……いや、そもそも時間って手品みたいにポンと止められるものではないんですけれど?本当に貴方は何者なのか訊ねたくなる衝動に駆られるも、パンドラの箱を開けてしまう予感がしたのでグッと堪える。

 深紫色の傘を手放すと接着剤で固められたように浮かんでいる光景にまだ困惑している自分を置き去りにして、フェリスはベンチの脇に置いてあった橙色の鞄の留め具を外して蓋を開く。鞄の内側は黒い布で覆われ、中には手帳やタオルなど様々な品物が詰め込まれ、長旅に慣れていることが一目見て伝わる。

 これは失礼、とハンカチを広げて中身が目に付かないよう覆い隠すと……フェリスは胸ポケットから細長い筒を抜き出す。どうやらスプレーみたいな物らしく、鞄の内布へ向けて先端を軽く指先で押すと霧状の液体が噴射された。

「それでは今から様々な方の半生を映像としてご覧頂きます。鞄の内側にご注目下さい」

 そう告げると鞄の内側がぼんやりと明るみを帯びてきた。昔のブラウン管テレビのように、最初は漠然とした全体像から徐々に輪郭がはっきりと浮かび上がってきた。

 映っていたのはスーツ姿で背の高い男性。会社と思われる場所でデスクに向かいパソコンのキーボードを叩いていた。

「彼は大学卒業後に総合商社へ就職。ビジネスマンとして働く日々を送っていましたが―――」

 フェリスが手に持つ懐中時計の針を進ませると映像もそれに合わせて早送りされる。次に映し出されたのは、同じ男性がエプロン姿で小さなカウンターの中に立ってコーヒーを淹れていた。

「奥様の出産を機に奥様の地元へ転居。その地で出逢った喫茶店でコーヒーの素晴らしさに感動した男性は一念発起。一年間の修行を経て三十代で独立、自分の店を構えるに至りました」

 サラリーマンからカフェのマスターとは思い切ったことを考えるなー、と最初は感じた。生活は大丈夫かな、失敗したらと思わないのかな、と邪推が浮かんだが……会社員の時より活き活きとした表情を見せる男性の様子を目にして考えを改めた。恐らく以前の生活も決して悪くなかったのだろうが、今の仕事にやりがいを感じているのだろう。

 フェリスは「続きまして」と告げ、指を鳴らす。すると画面が切り替わり、一人の女性が映される。赤子を抱いている様子から子育ての真っ最中と推察された。

「彼女は飲食店でパートとして勤務していた時に同僚と巡り合い、二十一歳で結婚。翌年には第一子を出産して育児に専念することになりました」

 一旦言葉を切ると映像が早送りされ、次に映し出されたのは大勢の子どもに囲まれて笑顔で踊る女性の姿だった。

「子育てで培った経験と喜びにやりがいを覚えた彼女は、第一子が小学校へ入学したのを契機に専門学校へ入学。保育に必要な知識と資格を修得して卒業後は保育士として活躍しています」

 成る程、興味や関心は無くても実際に経験してみる事で自分の中に秘められていた能力や適性に気付く時もあるのか……これまで思っていなかった発見に触れられて参考になった。

 再度フェリスは指を鳴らすと、次に現れたのは自分と同じ年頃の青年。特徴のある顔ではなかったが、真面目そうな雰囲気が外見から溢れ出ていた。

「彼は大学四年生。前年から就職活動を行いましたが、幼い時分より夢や目標を掲げることを苦手としていまして、志望動機に躓いて苦戦を強いられました。何とか飲食業の正社員内定を勝ち取りましたが、本当に自分がやりたい仕事だったか漠然とした不安を心に抱いていました」

 ……何だか自分と共通する部分が見つかり、それまで以上に感情移入して成り行きを注視する。

 次に映された彼が就職した先で一生懸命に働いている姿であった。だが、終業後一人になった途端に見せたのはとても疲れきった表情だった。

「不器用ながら実直な性格で仕事に対して真摯な姿勢で臨んでいましたが、複雑な人間関係に疲弊して心身を病み、入社一年で退職。その後も転職活動に励みますが、景気の冷え込みや実務経験の不足、さらに本人の方向性が定まっていないことから数年に渡って連戦連敗を重ねます」

 挫折する姿を見せられ、自分の気持ちも自然と沈む。中途半端に妥協しても待っているのは暗い未来であることを突き付けられ、果たして自分は大丈夫だろうかと心配になる。

 不安で背筋が凍る思いになっていると遮るように「しかし」と力の入った声が入る。再び画面に視線を戻すと、自室と思われる部屋でノートに向かって一心不乱に何かを書き綴っていた。

「彼は普段から読書を嗜んでおり、試し書いた小説をインターネットの小説投稿サイトへ投稿しました。すると、自分が思っていた以上の反響を受けて大きな自信を得ました。その後も幾つか作品を投稿していく内の一つが出版社の編集者の眼に留まり、商業デビューが決定。第一作を発表した後も、作家として精力的に活動を続けています」

 あれ程まで悩み苦しんでいた人が、一つのきっかけで劇的に人生が変わるなんて……率直に驚き、舌を巻いた。

 これを最後に映像は終わりらしく、フェリスは静かに鞄の蓋を閉じた。

「……如何でしたか?人生とは諦めない限り案外好機が巡ってくるものです。別に夢や目標を持っていなくても問題はありません」

 確かに、これまで紹介された三人は皆最初からやりたい事が決まっていた訳ではなく、成り行きや流れの中で見つけたり気付いたりしている。そういう点では今の自分と同じと言っていい。

 それを思ったのは、全員が成功体験でなく挑戦している途上にあることだ。『こうして私は頂点を極めた』というサクセスストーリーを見せられるより現実味があるし、自分の未来を想像する材料として適しているように感じる。

「人生は一枚のキャンバスに絵を描くことに似ているかも知れません。予め完成図が明確に決まっている方も居れば行き当たりばったりで筆を躍らせる方も居ます。宜しいじゃないですか。早い遅いはありませんし、絵と同じく正解も近道も存在しません」

 一旦言葉を区切ると、穏やかな笑みを湛えて再び語り始める。

「慌てることも焦ることもありません。未来は常に無限の可能性を秘めています。過去を顧みる事は出来ても戻る事や止まる事は出来ません。時の流れに逆らえない以上、身を委ねるのも一興だと思いませんか?」

 フェリスはさらに励ますように続けた。

「それに、依頼主様は決して運が悪い訳ではありませんよ。何故なら私に会った数少ない一人ですから……それは保証致します。ですので、もう少しご自身を信じてみては如何でしょうか?そうすれば必ず運は巡ってきます」

 言われてみれば出会って早々に『“夢を叶える権利”を進呈致します』なんて告げる人なんて世界中探しても稀有な例に違いない。そう考えれば自分は運を持っていない分類には当たらないだろう。

 そうやって考えていく内に、いつの間にか憂鬱や不安な思いは少し軽くなって、柔軟かつ前向きな気持ちになったような気がする。まるで心が洗われたような気分だ。

 フェリスは満足気に一つ二つ頷く。

「……依頼主様の願いは叶えられたみたいですので、私がご案内するのはここまでになります」

 どうやらフェリスによるエスコートは終わりのようだ。出逢った当初は『何言っているのこの人!?』と困惑したが、丁寧で分かりやすい説明は聞いていて心地良かった。喋り方や立ち振る舞いも老執事を思い起こされ、まるで自分が演劇の登場人物になったような感覚だった。

 するとフェリスはジャケットの内ポケットに手を入れて何かを手にすると、それを両手で包み込むようにして自分に差し出してきた。何が出てくるのかと興味を示すと覆っていた手を開いて……現れたのは一枚の栞。四つ葉のクローバーが押し花加工されている、何の変哲もない栞である。

「クローバーは本来三枚の葉ですが、それぞれの葉に『信仰』『希望』『愛』の意味があるとされています。それが四つ葉になると先程の三つの意味に『幸運』が加わる―――と古くから伝えられています。四つ葉が生まれるのは稀であることも重なり、古来から幸運のシンボルとして広く知られるに至りました。迷信かも知れませんが、思いを籠めればいつかきっと持ち主の願いを成就する手助けをしてくれることでしょう。依頼主様に幸多き未来が訪れることを祈念しまして、お渡し致します」

 四つ葉のクローバー、か……小さい時はシロツメクサが咲いていると毎回のように四つ葉のクローバーがあるか探したっけ。懐かしい気分に浸りながら栞を受け取ってクローバーの部分を指で優しく撫でると、幸せが舞い込んでくるような気がした。

 預かっていた傘を返すと、フェリスはニコリと優しい笑みを浮かべながら語りかけてきた。

「心配しなくても大丈夫です。どんなに激しい嵐であっても止まない雨はありません。濃い霧も時間が経てば必ず晴れます。足元を確かめるのも大切ですが、時にはグッと目線を上げてみて下さい。思いがけない出会いに遭遇するかも知れませんよ?それでは……依頼主様の未来に幸あれ」

 傘を差しながら深々とお辞儀すると―――次の瞬間にはマジックのようにフェリスの姿は消えてしまった。そして自分一人だけ人気の無いデパートの屋上に取り残された。

 夢を見ていたのかと錯覚しそうになったが、手にはフェリスから渡された四つ葉のクローバーの栞が確かに握られている。まるで魔法にかかったような、不思議な一時だった。

 ふと空を見上げれば、それまで降り続いていた霧雨が止んでいた。雲の隙間からは太陽が顔を覗かせ、温もりのある光が無機質なコンクリートの床の上に出来た水溜りに反射して輝いていた。

 フェリスも言っていた、『止まない雨は無い』と。ならば自分もいつか晴れが訪れるに違いない。


 ……また、虹が出ていたら袂を目指してみようかな。もしかしたら、不思議な人に会えるかも知れないから。




   END

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いきなり“夢を叶える権利”を貰ってしまったけれど、どうすればいいの? ―虹の袂に待ち人あり― 佐倉伸哉 @fourrami

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