7・ウヌグ
イナンナがエアンナに幽閉され、二月が経とうとしていた。
部屋に窓はなく、灯りもひとつきり。粗末な寝台と机、椅子がひとつずつあるのみだった。
戸口の横に、侍女がひとり顔を伏せて座っている。聾者なのか唖者なのか、イナンナが語りかけても何一つ返事をしなかった。
不安で、退屈でたまらない。寝台に身体を横たえ、今後のことを考えた。
ビルガメシュは、今どこで何をしているだろうか。
扉が開き、光が部屋になだれ込む。イナンナは手を目の前にかざした。槍を持った兵士が、二人入ってくる。
侍女が顔を上げる。兵士たちは戸惑う彼女の両腕をかかえ、半ば引き立てるように外へ連れ出した。扉が閉まる。あとに、頭巾を被った女性が残った。
「イナンナ様ですね」
女は言いながら、頭の覆いを外した。豊かな黒髪が垂れ、アーモンド形の目が女神を見る。
「この二月で、話しかけられたのは初めてよ。だれかしら?」
女は両腕を胸の前で交差し、跪いた。
「ディルムンから参りました。ジウスドラと申します」
イナンナは跳ねるように上半身を起こした。
「ジウスドラ。大洪水を生き延びた太古の人間。ビルガメシュは成し遂げた。彼があなたを寄越したのね。彼はどこ?」
「王は城壁の外に。女神の身を案じ、力になるようにと私をここによこしたのです」
ジウスドラの目が、値踏みするようにイナンナの身体をねめつける。
「なるほど。お美しい」
「よく、エアンナに潜り込めたわね」
「使えるものはみな使いました」
ジウスドラの唇が曲がる。イナンナは寝台から脚を降ろした。
「ここから連れ出して。ビルガメシュのもとへ。わたしがいれば、彼の王位を正当化できる」
「できません」
イナンナは目を見張った。ジウスドラが女神を見つめ返す。
「アンとエンリルはドゥムジを立てている。あなたがビルガメシュにつけば、ウヌグが二つに割れます。ウヌグの北には、キシュのアッガが陣をしいています。アッガはウヌグの混乱を突いて、先の戦いの恥を雪がんとしている。そのようなこと、許してはなりません」
「戦になっても、ビルガメシュは勝つわ。彼を呼ぶために、ここに幽閉されてまでバハトゥラを送ったのに」
「王は言いました。戦に勝っても、神に勝ったことにはならないと」
イナンナは顔を伏せ、唇を噛んだ。
「そうね。そうかもしれない。ならあなたは、ここになにをしに来たの?」
ジウスドラは、にやりと笑った。
「あなたさまに、まじないを教えに。王にしたのと同じように」
「それで、なにか変わるのかしら?」
「変わります。イナンナ様の手で、ウヌグに祝福を与えるのです」
集まった農民は3人だけだ。むきだしの砂地に両膝をつき、怯えたような戸惑ったような、硬い顔でこちらを見上げている。周囲は天幕で囲ってある。ビルガメシュも片膝をついた。
「よく来てくれた。ビルガメシュだ」
あえて、ウヌグ王とは名乗らなかった。
「ここにいるのはみな、ウヌグの地主だ。まとまった収穫を、神殿に納めている者を誘った」
地面から葦の筆をとり、砂にあてる。
「今日から、まじないを教える。みなに覚えてもらいたい」
髭面で、顔に深い皺が入った男が、膝に両手をついて言う。
「ウヌグ王、猛き雄牛のビルガメシュさま。お訊ねしたいことがあります」
ほかの二人はまだ若い。代表して、口を開いたものらしい。ビルガメシュは筆を持った手を膝に戻した。王と呼ばれたことは、否定しなかった。
「聞こう」
「先日、ウヌグにドゥムジ王が戻ったそうです。神官は、ビルガメシュ王はもう王ではないと言っております。それに、噂がたっています。ビルガメシュ王は戦を起こし、ドゥムジ王を倒そうとしていると。これが本当なのか、教えてほしい」
ビルガメシュは微笑した。
「戦を起こすつもりはない。人が死ぬのは、もうごめんだ」
初老の男は身を乗り出す。
「鯉の洪水がまだ来ないのです。我々が心配しているのは、来季の収穫だ。昨年までキシュとの戦に若者を兵にとられ、ようやく人手が戻ってきたところです。今また戦になれば、我々は、ウヌグは飢えて死ぬしかありません」
「そうだな。民には随分負担を強いてしまった。おれは民を守る。約束する」
若者二人が不安そうに視線を交わしている。おそらくキシュとの戦いのときには、兵士として戦場にいたはずだ。
「……それで、まじないを教えるっていうのは、どういうことなんです」
初老の男は視線をビルガメシュの膝に向けた。筆を見ているらしい。
「これは、神々が行うことでしょう。何のために、わしらにこれを教えるんです」
「自分達がなにをどれだけ神殿に納めているか、正しく知るためだ。必ず役に立つ。言ってある通り、通ってくれた分の日当は出す。協力してくれないか」
「神々に背くことになりませんか」
「神々は学ぶことを禁じていない」
初老の男は不満そうに、口をつぐんだ。
ビルガメシュは筆で、砂の地面に横に一本、線を引いた。さらにその上下に、短い斜めの線を添えていく。
「さて。何に見える?」
男たちが首をひねる。若者の一方が、おずおずと図を指さす。
「麦の穂、みたいに見えます」
ビルガメシュは頷いた。
「そう。これが、麦だ。神々は粘土板の上にこう描いて、大麦を表わす」
初老の男が首を突き出す。
「これは線、絵だ。大麦とは違う」
「子供にかえったつもりになれ。見えなくはないだろ」
天幕をめくって、アブラムとバハトゥラが姿を見せる。二人とも粘土板を何枚も抱えている。
「これぐらいでいいですか、ビルガメシュの旦那」
「こら。口のきき方に気をつけろ」
「やめろ、バハトゥラ。アブラムは大事な商売相手だ。二人とも、座れ」
円形に座った5人に、ビルガメシュは粘土板と筆を配った。
「とにかく、理屈は後から考えろ。今は何度も粘土板にこの絵を刻んで、形を覚えてくれ。線の数が違うと、伝わらないこともあるからな。ほかにも穀物や、家畜の形を書いてみせる」
「えーっ、あたしもやるんですか?」
「やかましいぞ、アブラム。ビルガメシュ様に従え」
「言うことを聞いてくれ。まじないが扱える商売人が、いたほうがいいんだ」
フワワは、キシュ王アッガの前にいた。
青銅の槍を持った兵士が、羊の皮をめぐらせた天幕の内側にずらりと並んでいる。
アッガは木製の椅子に腰かけ、片肘をついてフワワを睨んでいる。信用されていないようだ。
「我々がここにいることを、なぜ知った。それに、お前がなぜここにいる」
アッガが苦々しそうに口をひらく。
「まず言っておく。キシュとエビフは長く交易を続けてきた。その友誼を、私は忘れていない」
フワワは慎重に、言葉を選んで、続けた。
「私がここに来たのは、キシュとウヌグの争いを止めるためだ」
「争いの種を播いたのはやつだ」
アッガが椅子を蹴って立ち上がる。兵士が持つ、槍の穂先が揺れた。
「ウヌグの小倅は、キエンギとアガデの王たるわしに逆らった。目をかけてやったのにその恩を忘れ、わしを辱めた。その咎を受けるべきなのだ。フワワよ、お前も、キシュが敗れるなりウヌグに寝返ったな」
「エビフはキシュにもウヌグにも与しない。我々が生きるうえで、より良い選択をするだけだ」
「ビルガメシュの使い走りになっておいて、よくほざくわ」
「それは違う。中立のものとして、間を取り持ちに来たのだ」
「取り持つだと」
「戦になれば、勝敗はさておき、キシュの兵も、ウヌグの兵も死ぬのだ。ビルガメシュはキシュからの貢物を廃し、互いの交易をもって換えようと申し出ている。どちらの利益にもなる話だろう」
「ウヌグから奪えばよいだけのことだ。知っているぞ」
アッガはにたりと笑った。
「ビルガメシュに、もはやそれだけのことを決める力はあるまい。わしがここにいるのは、天空の神アンと、嵐の神エンリルのお召しがあったからだ。天空の神は、キシュこそが世界の中心に、その王にはこのアッガがふさわしいと考えておられる」
「アッガよ」
フワワは右手の拳を固め、砂地に軽く突いた。
「ウヌグを滅ぼし、アンとエンリルを迎えて、その後どうする。キシュの実りを神々が食いつくせば、神々は次にニップルかシッパルをそそのかし、キシュを滅ぼしてその都市に移るぞ」
「黙れ、神を敬わぬ者よ」
アッガが足元の砂を蹴る。フワワは微動だにしない。
「帰るがよい、フワワよ。ビルガメシュを殺し、その後貴様がまだ生きていれば、エビフとの交易、改めて話さんでもない」
「よく考えろ、アッガよ。戦のあと、ビルガメシュと契約を交わしたはずだ。キエンギとアガデの者にとって、契約はなにより優先すべきものではないのか」
「約定はウヌグ王とのものだ。ビルガメシュはすでに王ではない。契約は無効だ」
「王の称号を与えるのはイナンナだ。女神はドゥムジを祝福しておらぬ。王はビルガメシュだ」
槍の穂がさざめく。兵士たちに動揺がみられた。
アッガは再び椅子に身を沈め、じろりとフワワを睨みつけた。
「もう一度言う。帰れ、フワワよ」
フワワは立ち上がり、腰布を翻して、キシュ王に背を向けた。
「ビルガメシュの3分の2が神だというのは、まことだ。ひとりで天牛の兵を20葬るのを、私はこの目で見た。王であるのがやつの強みなのではない。あやつは一人でも脅威なのだ」
立ち去るその背中に、アッガの声がかかることはなかった。
「アッガの目は、あなた憎しで曇っている。利と損を説いても、無駄だった」
「……そうか。残念だ」
ビルガメシュは空をあおいだ。雲ひとつない青空が広がっている。秋から冬にかけ、本来は雨が増える時期だが、この20日、晴天が続いていた。
背後の天幕の中では、アブラムとバハトゥラがまじないを教えている。二人の上達は早かった。集まる民は20人ほどに増えていた。
ビルガメシュは羊皮の幕をめくり、人の輪の中にいるアブラムとバハトゥラを手招きした。
「どうだ、手応えは?」
「どれだけ収穫があったのかがわかる、という話が広まったようですね。みな真剣ですよ。使いこなせれば、作付けがやりやすくなるらしい」
「バハトゥラ、本当によくやってくれている。アブラムもだ」
バハトゥラは手を胸の前で組んで礼をし、アブラムはあいまいに笑った。
「アッガとの交渉が上手くいっていない」
ビルガメシュは本題を切り出した。
「バハトゥラ、キシュまで行ってくれ。その間アブラムは、ここを頼む」
「えっ、あたし一人じゃ、無理ですよ。それにキシュまで、バハトゥラの旦那だけで何しに」
「おれがいるだろ。全部一人でやれってわけじゃない。アッガの兵を何とかしないと、次の手が打てないんだ。だから、どうにかする」
「どうにかって、どうするんです」
「王に対して質問が多いぞ、アブラム」
「よい。バハトゥラ、お前には、数年キシュに潜りこんでいた経験がある。それを生かせ。おれがキシュを攻めんと向かっていると噂を立てろ。ザババへ粘土板を書くから、もってゆけ」
「承知しました。集まっている農民の中には、兄弟や息子が王のもとで教練を受けた者がいます。構わなければ彼らを呼んで、ともに向かいます」
「それでよい、手配してくれ。それから、ジウスドラと連絡をつけたい」
「スルスナブを呼びますよ。ちょっと行ってきます」
アブラムが小走りにその場を離れる。フワワが首をかしげる。
「スビルの民を使うか? 戦いを望まぬにしろ、兵は必要だろう」
「……そうだな。だがフワワ、あなたはウヌグにいてくれ」
「わかった。使いを出そう」
焚火の向こうのスルスナブに、ビルガメシュは壺入りの麦酒を勧めた。スルスナブは頭を下げてから、葦の吸い筒に口をつけた。
「ジウスドラ様からは、決まった日ごとに粘土板で知らせを受けています。イナンナ様は、ビルガメシュ殿より覚えがよいとのことですよ」
ビルガメシュは微笑しながら、自分も吸い筒を手に取った。
「彼女は賢い。期待通りだ」
麦酒の味が、常より苦く感じる。
「ですが、長い文を書けるようになるには、もう少しかかる、ともありました」
「待とう。おれもその間、学びを続ける」
スルスナブは、麦酒の壺を脇へどけた。
「猛き雄牛のビルガメシュ殿。ひとつお尋ねしたい」
「話せることなら、話そう」
「噂を広めるなら、ご主人を危険な目に遭わせる必要も、イナンナ様にまじないを学ばせる必要もありません。この学びがなぜ必要なのか、俺にはわからない。わけを説いていただきたい」
「ほしいのは噂ではない。女神イナンナが語っているということが、はっきりとわかるものだ。それには粘土板に、イナンナの印章を捺してもらうしかない」
「ご主人は書ける。女神に学ばせることはない」
「言葉にするのがむずかしいが、試みよう」
ビルガメシュは目を閉じ、腕を組んだ。
「おれはウヌグを、人間の都市にしたい。これまでは神に言われるまま、進む道を委ねてきた。それをもう終わりにしたいのだ。いま、ウヌグの民にまじないを教えている。誰を王に戴くべきか、イナンナが書いたものを民が読み、民が選ぶ。そうしたいのだ」
「ビルガメシュ殿か、ドゥムジかを選ばせると?」
「神の世を続けるか、終わりにするかだ」
スルスナブは壺を手元に引き寄せ、吸い筒を口に戻した。
「アンを追いやって、あなたが後を襲う、というわけですな」
「そうではない」
「ご心配なく。ご主人の言いつけですから、ビルガメシュ殿には従います」
「わからんのか、スルスナブ。永遠などない。誰も神になどはなれないのだ」
唐突なビルガメシュの言葉に、スルスナブは大きく目を見開いただけだった。
神などいない、と続けようとして、ビルガメシュは口を閉じた。
スルスナブは理解していない。ジウスドラはわかっているかもしれない。この空虚を。この空虚な世界を。エンキは悟っていた。
もしかしたら、イナンナも知るようになるかもしれない。
さらに20日が経った。集まる民は50人ほどに増えていた。ビルガメシュらは天幕を、一回り大きなものに作り変えていた。
中では、人の群れが2つの輪をつくっている。みな粘土板と葦筆を持っている。一方の中心にはビルガメシュ、もう一方にはアブラムがいた。
幕がめくれ、フワワが顔をのぞかせた。
「ビルガメシュ。来てくれ」
筆を置き、ビルガメシュは人の輪の外へ出た。フワワに続いて、天幕の外へ出る。
「アンから使者が来ている。神があなたを呼んでいるそうだ」
「そうか。アッガは撤退したか?」
「いや。まだ粘っているな」
「では、まだ早い。会う気はないと追い返してくれ」
「本当にいいのか? 天空神アンは、あなたたちの最高神のはずだが」
「今はまだこちらに力がない。会えば向こうのいいように、話を持っていかれてしまうだろう。スビルのあなたならそれほど抵抗なく、神の使いを追い返せると思うが」
「それはそうだが。攻め込まれたらどうする?」
「また場所を変えよう。隠れていれば、攻めようがないさ」
フワワは目を閉じ、自分を納得させるように、何度か頷いた。それから衣の胸元に右手を入れた。ビルガメシュに差し出して見せたのは、1枚の粘土板だ。
「これは?」
「最近ウヌグに出回っているものだ。スルスナブが手に入れてきた」
丁寧な筆致で紋様が刻んである。ビルガメシュは1行目からたどった。
『書板をとり上げ、読んでみよ。
ルガルバンダの長子、勢い全きビルガメシュ。
勇士にして、ウヌグの猛き雄牛。強き網、兵士の守り、石の城壁をも砕く怒涛。
深淵を覗き見た人について、わたしは我が国に知らしめよう。
すべてを知った人について、すべてをわたしは教えよう。
彼はあらゆる国々を調べつくし、知恵をきわめた。
秘められたことを見つくし、隠されたことを聞いた。
囲いの街ウヌグの城壁を建てさせた。
聖なるエアンナを建てさせた。
ウヌグの城壁に上り、行き来してみよ。
イナンナの居所、エアンナに近づいてみよ。
諸王にまさり、名声あふれ、容姿優れた王、
完全にして、畏怖を抱かしめるビルガメシュ。
肩を並べ、われこそ王、と言い得るものは誰もいない』
冠をかぶり、杯を受ける女神の印章が、板に捺してあった。
「イナンナが書いたのか」
「その印章は彼女のものか。なら、そうだろう。どうだ、感想は」
「おれを褒めすぎだとは思うが。……見事だ。おれの業績を記し、ウヌグ王にはほかに相応しい者がいないと、はっきりと言ってくれている」
「その印章だけで、ウヌグの民に、イナンナが書いたものと伝わるだろうか?」
「イナンナ神殿に大麦を納めているものなら、受け取りの粘土板にこの印章があるのを知っている。彼女の信者は多い。わかるさ」
「見込み通りというわけだな。こちらは、まじないが通じるものをもっと増やそう」
「ウヌグでの評判は聞いていないか?」
「そうだな。扱えるものは、まだそう多くはない。スルスナブによると、イナンナの粘土板はこれだけではない。何種類も、しかもそれぞれ何十枚も出回っている。新しいものが出ると、まじないを扱えるものがほかの民を集め、声に出して内容を聞かせているそうだ。推測だが、人が集まるということは、支持されているということだ」
ビルガメシュは頷き、イナンナが彼を讃えたまじないを、粘土板を懐にしまった。
冷たい粘土の板が、イナンナの手が触れたように、じわりと温かかった。
ビルガメシュが足を降ろすと、畑はざくりと音をたてた。土は乾ききり、あちこちがひび割れている。ほど近いブラヌンの流れは細り、灌漑の水車は放っておかれ、砂埃をかぶっていた。
はるか南、かすかに人の群れが見える。アッガの兵だ。西から、羊の皮をまとった人影が早足で歩いてくる。ビルガメシュはひとしきり、手の中の粘土板をいじりまわした。
人影、アブラムは、ビルガメシュのそばで崩れるように腰を降ろした。
「どうだ?」
「どうって。東に30人、南に50人くらい。ウヌグの農夫たちが言う通りですよ」
「おれも同じくらいと見た。なら、掛け算をして、やはり1500人ほどだな」
アブラムが背嚢から水袋を取り出し、栓をぬいて、大きくあおる。
「日照りで喉が渇いたな。兵の外側を数えただけですからね。中のほうはわかりませんよ」
「それでも、ひとつの目安にはなる。前回の攻撃、たしかエンリルが4000人だと言っていた。半分以下だな。動きはなかったか?」
アブラムは両足を埃っぽい大地に投げ出し、両手を背後に突いて、呆れたように南を眺めた。
「ありませんや。朝、めし時に火を焚いてたくらいですね。やつら、農夫の倉を襲わずに、何を食ってるんでしょう」
「アッガはアンに召されて、おれに対する備えとして呼ばれたんだ。ウヌグの民から略奪をはたらいたら、やつは民を敵にまわし、おれの味方にしてしまうかもしれない。北から、荷物を満載した驢馬車を見ている者が、何人かいる」
「キシュから大麦を運んでるんですか?」
「それしかないだろうよ。だがそれも、もう終わりだ」
ビルガメシュは粘土板の上に、右手の人差し指をはわせた。
「バハトゥラから便りが来た。キシュを落としたそうだ」
アブラムは身体を起こし、目を見開いた。
「あの兄ちゃんが? 一体、どうやって」
「キシュの都市神、ザババの身になって考えてみろ。アンとエンリルがキシュに来れば、たちまち日蔭の身だ。アッガを廃するかわりに、これまでの地位を保証すると言ってやったんだ。これでキシュは、名実共におれのものだ。大麦はもう、キシュから来ない」
アブラムはだらしなく口をあけて、ビルガメシュを見上げた。
「こりゃ、驚きだ。みんながビルガメシュの旦那をほめちぎるのも、納得ですよ」
ビルガメシュは膝をつき、アブラムの顔を覗き込んだ。
「呆けてる場合か。今日、お前と一緒にここまで来たのは、これを見せてやるためなんだぞ」
アブラムが粘土板を見る。
「その便りですか?」
ビルガメシュは首を振って、右手で南を指した。
「違う。兵士だ」
アブラムがその手の先を追う。その目つきが、少し鋭くなる。
「これから食うものがなくなる、1500人の兵士か」
ビルガメシュは微笑した。
「察しがいいな。おれはまだ、十分な銀を持っている。お前ならウルで大麦を買い付けて、あいつらに売り付けてこられるだろう」
アブラムの大きな唇から、白い歯がのぞく。
「ちょっとぐらい値が張っても、買うでしょうね」
「多少はふっかけて構わん。ただし、儲けは半々だ。元手はおれが出すんだからな」
「決まりだ。ビルガメシュの旦那、あんたと会えたことを神に感謝しますよ」
「こいつめ。ディルムンで名を明かしたときは、そうは見えなかったぞ」
夜、ビルガメシュはひとりで焚き火に向かっていた。
はるか南の地平線が、ぼんやりと橙色に輝いている。キシュの兵士たちが野営している光だ。
ビルガメシュは、炎のそばの灰に右手をのばした。焼きあがった大麦粉の練りものを取り、左手で灰をはたき落とす。唇を細めて息を吹きかけると、水気をふくんだ煙がたちのぼった。
炎が照らす輪の中に、北の闇から、粗末なサンダルを履いた足が踏み込んできた。ビルガメシュは顔を上げ、笑みをうかべた。
「バハトゥラ」
バハトゥラは髪も衣も、砂埃にまみれている。両腕を胸の前で組んで、その場に膝をついた。
「王よ。ただ今戻りました」
ビルガメシュは部下の前に片膝をついた。
「何度も長旅をさせて、本当にすまない。だがお前は、いつも期待する以上に働いてくれる」
言いながら、麦焼きを差し出す。
「今焼いたんだ。食べてくれ」
バハトゥラは笑い、右手で麦焼きを受け取った。
「ありがとうございます。何よりの褒美です」
「もっといいものもある。麦酒だ」
「ありがたい。旅のあとの麦酒ほど、良いものはありませんね」
ビルガメシュは背後の暗がりから壺を取り出した。吸い筒をさしてバハトゥラにまわし、もうひとつを自分の前に置く。二人は焚火をはさんで向かい合った。
「キシュでは、よく働いてくれたな」
バハトゥラは麦焼きを大きくかじり、数口で平らげてしまった。
「アッガは兵を残したままキシュに召還されました。それから、北の都市の倉から、大麦と銀をいくらか運ばせています。アッガの力を削ぐと同時に、こちらの力になるでしょう。スビルの若者たちは、大いに力になってくれました。50人ほど、ウヌグまで連れてきました」
「助かる。アブラムもうまくやっているぞ。飢えたキシュの兵に大麦を売って、かなりの利益を上げた」
「アブラムですか。あいつ、ふざけて見えますが、仕事はできます。しかし、王よ。それでは、アッガの兵を助けることになりませんか」
「忘れるな。おれはアッガを倒したとき、キシュの王にもなった。あれは本来、アッガの兵ではない。おれの兵なのだ」
「……王の命令を、彼らが聞くでしょうか」
「時間をかけて、なんとか手なずけてくれ。いくつかの隊に分け、各地に潜ませろ。神々の目から隠すんだ。それから、アブラムのやつが銅を大量に抱えている。キシュ兵に買い取らせて、武器を新調させてやるんだ。まだ蓄えはあるだろう」
「承知しました」
バハトゥラは吸い筒で麦酒を吸いながら、王を見つめた。
「なんだ? 何か言いたいなら、言うがいい」
バハトゥラは目を見開いたまま、言った。
「王よ。あなたは変わられた」
ビルガメシュは一口、麦酒をすすった。
「失望させたか?」
「いいえ、まさか」
バハトゥラは麦酒の壺をわきへ除けて、砂に両手をついた。
「力を感じます。今までの王とは異なる力を。深淵と知恵の神のような」
ビルガメシュは炎と、その向こうの部下に身を乗り出した。
「ここ数週で、アンとエンリルから、何度も呼び出しがあった。今日の昼もな。そろそろエアンナに赴かねばなるまい」
「いよいよ、神々と対決されるのですか」
「準備はしてある。雨が降らぬことが、こちらの武器になる」
「棍ではなく、雨を武器にするとおっしゃられるのですか?」
「それだけではない。これは、今までの戦いとは違うからな」
「わかっております。一介の兵士からわたしを取り立ててくださった王のため、わたしは力を尽くすのみです。その先に待つのが勝利だろうが、そうでなかろうが」
「感謝する」
ビルガメシュは2頭立ての驢馬車で、北からウヌグの北西の門を目指した。
狭い車体に、フワワとバハトゥラが同乗している。手綱をとっているのはビルガメシュ自身だ。アッガとの戦の前、キシュからウヌグへ戻ってきたときは、大麦が黄金色の穂をつけていた。あの時は城壁を入ってすぐにイナンナがおり、館にはエンキがいた。
「大丈夫か、ビルガメシュ」
「問題ない」
フワワの声に、間髪入れずビルガメシュは答えた。
閉ざされた門の前には、鋲を打った衣を纏い、青銅の槍を持った兵士が7人、見張りに立っていた。どの顔も、ビルガメシュは知っていた。手ずから鍛え、ともにキシュの兵と戦った、ウヌグの若者たちだ。口元や眉の動きから、ビルガメシュは戸惑いや驚きを感じとった。
驢馬車を止める。訓練され揃った動きで、七つの槍の穂先がビルガメシュを向く。
ビルガメシュは微笑した。
「おれのいない間、よくウヌグを守ってくれた」
槍の穂先が動揺する。
「戻ったぞ」
奥の兵士が、槍を伏せた。
「門を開けろ」
6人の兵士がその命令に従って槍を収め、ビルガメシュに背を向けて、門の左右に両手を当てた。
香柏の門が、きしみながら開きはじめた。
最初に槍を下ろした兵が門の中に頭を入れ、ウヌグに向かって叫んだ。
「王の帰還だ!」
ビルガメシュは手綱を上げ、ゆっくりと進み始めた。
見慣れた大路に車を進める。家の戸口から、窓から、屋根の上から男が、女が、子供が姿を現す。ビルガメシュの姿を認めると、それぞれに腕を振り上げ、胸を両手でつかみ、口に両手をあてて、歓呼の声をあげた。どこからか花が、大麦の実が振りまかれた。
ビルガメシュは黙ったまま、右の拳を宙に突き上げた。歓声がひときわ高くなる。民は次々に家を出ると、驢馬車のあとについて行進をはじめた。
バハトゥラがつぶやいた。
「勝手なものだ。以前はみな、王を罵っていたというのに」
ビルガメシュは笑顔のまま、振り向かず、言った。
「よせ。民にとって大切なのは、その日の暮らしだ。苦しめる者がいれば恨みごとも言おう。今彼らは、おれに現状の打破を求めているのだ」
白く輝くエアンナの前、ウヌグの広場へ出た。群衆が驢馬車を取り巻く。ビルガメシュは驢馬車を止め、拳を振り上げた。
「天空神アンよ。姿を見せよ」
民が一転して、静まり返る。静寂の中、ビルガメシュは叫んだ。
「なぜ雨が降らぬ。なぜ雨を降らせぬ! 冥界から戻ったというドゥムジは、本当にウヌグの王に相応しいのか。雨が降らぬのは、ドゥムジが御心に叶わぬからではないのか!」
続いて、バハトゥラが声を張り上げた。
「ウヌグの民よ、今こそ聞こう。キエンギとアガデの王、ウヌグの王であるべきなのは誰か! イナンナの御心にかなわず死したドゥムジか、キシュを打ち倒し、ウヌグに栄と勲を齎した、猛き雄牛のビルガメシュか!」
甲高い子供の声が、どこかから響いた。
「ビルガメシュだ!」
賛同する声が、ぱらぱらと続く。
王の名を呼ぶ声が続く。
やがてそれが連呼となり、大合唱になって、エアンナを包む。
バハトゥラが不安そうにつぶやく。
「アンは、姿を見せるでしょうか?」
「来るさ」
ビルガメシュが言うと、神殿のバルコニーに、人影がゆらりと現れた。
屈強な身体の、壮年の男だった。
右目が碧い。男が空を見上げると、その右目が太陽の輝きを照り返し、ビルガメシュと民を射すくめた。声が静まり、民はその場に両膝をついた。
フワワがビルガメシュの耳に口を寄せる。
「あれがアンか」
ビルガメシュは男の面相を見据えながら答える。
「おれの記憶と違うな。まずはそれを確かめねばなるまい」
ビルガメシュは手綱をバハトゥラに預け、車を降りた。
「話をしてくる。手筈通りに頼むぞ」
「承知しております」
会議室の奥に、男が座っている。その右目は瀝青の火を受け、妖しく輝いている。エンリル、ウトゥ、ほかの神々の姿はなかった。
香柏の卓をはさみ、ビルガメシュは男の対面に座った。男が口を開く。
「よく戻ってきた、ビルガメシュ。お前の生死が不明だったのでドゥムジを王位に据えたが、やつは器量ではなかった。天空神アンの名のもと、お前を王位に戻そう」
「きさまに会うのは何度目かな」
ビルガメシュは話をそらした。
「おれがはっきりと覚えているのは、ウヌグの城壁の上だ。北の荒野でも、お前はおれを殺そうとした。牛の頭をかぶって、天牛と称していた。このエアンナの中で、右目を負傷した神官を見た覚えがある。あれがきさまだったんだ、アンドゥよ」
ビルガメシュは瑠璃の右目を指した。
「その右目は、エンキが奪った。きさまはそれ以来、エンキとおれをつけ狙ってきた。きさまがエンキを殺した。そしておれが留守の間にアンを殺し、成り代わった。イシムがエンキに成り代わったように」
男は顔の前で両手を組み、微笑をうかべた。
「神の身に何が起こるか、人の身では推し量ることもできまい」
「おれは知っている。自らを神と呼ぶ者は、自らの経験をすべて、粘土板にまじないとして記す。やがて死が訪れると、次に神となる者がその粘土板を見る。過去の神々の経験は、すべて次の神に引き継がれる」
アンの微笑が消える。ビルガメシュは続ける。
「きさまらは不死などではない。ただの死すべき人間にすぎない。まじないを扱えるか否か。民と神を分けているのは、それだけだ。エンキは、エビフで育った。北の荒れ野で育った者ですら、まじないに長けていれば神の座につける。きさまらは、それが知れ渡るのを恐れている」
アンは身を乗り出した。
「天空神の名において命ずる。それ以上語るのは許さぬ。そして文字を民に教えるのをやめろ」
「止めても、もう無駄だ。何百人もの民が、自ら文字を学び始めている」
ビルガメシュはアンにならい、「まじない」を「文字」と呼びなおした。アンは拳を固めた。
「お前は、自分が何をしているのかわかっておらん。600年前に最初のアンが生まれて以降、都市が増えるに従って神も増えた。しかしそれは歴代のアンが、慎重に神官と協議して決めてきたことなのだ。誰が文字を学んで神官となり、その中の誰を神とするかは、厳重に管理されねばならん」
「死すべき人間が不死の神を称して、民から大麦を奪い続けてきたのか」
「いいか、ビルガメシュよ」
アンは背もたれに身を預け、腹の上で両手の指を組んだ。
「神がいなければ、誰がこの世界に正義と秩序をもたらす。生きる標を誰が示す。神がいないことを知れば、民は進むべき道を見失う。人とは何なのか。どこから来て、どこへ行くのか。シュルッパクを大洪水が襲ったときのように、キエンギとアガデは滅びかけるぞ」
「人の問いに偽りで答えることは、誠実ではない」
アンが顔を傾ける。右目の瑠璃が光る。
「偽りではない。星辰と向き合い、答えのない問いに向き合い続けた人々が辿り着いた答えだ。それを愚弄するのは、誰であろうと許さぬ」
「許すつもりがなければ、どうする。アッガは失脚したぞ」
「なに?」
「斥候を出せば、キシュの兵がもういないことはすぐにわかる。それにこの場からおれが戻らなければ、バハトゥラが率いる民衆がエアンナになだれ込む手はずになっている。もっとも、おれがお前に負けぬことは、もう何度も証してみせたな」
アンは左目を閉じた。瑠璃の右目は依然として、ビルガメシュを睨みつけている。
「何が望みだ」
ビルガメシュは机の上に両腕を広げた。
「まず、先刻きさまが言った通り、おれは王位に戻る。そして今、民は不安にかられている。雨が降らず、鯉の洪水が来ないことで、来季はおそらく凶作だからだ。彼らに仕事をつくり、倉にため込んである大麦を支払ってもらおう」
「仕事とは?」
「きさまらは神の偉大さを謳いたいとみえる、ならば、塔でも建てるがいい。天空神が住むのにふさわしい、天に届くような塔を」
「われわれの倉に、それほどの蓄えはない」
「あるはずだ。もう一度調べろ。それでも足りないとなれば、ウヌグ王の穀倉から貸し付けをしてやる。きっちりと証を交わしてな。それから」
「それから?」
ビルガメシュはひと呼吸はさんで、続けた。
「女神イナンナを、解放しろ」
アンの顔に、にじむように笑みが広がった。
「女神か。1に挙げた王位も、2に挙げた民も、どうでもよいのだろう。お前の最大の望みは3番目に挙げたものだ。女神イナンナが欲しいのだろう」
ビルガメシュは頬がひきつるのを感じた。
「黙れ。受け入れるのか、受け入れぬのか」
笑みをたたえたまま、アンは言った。
「まずは1だ。実は、ドゥムジは既に殺した。戻りたくば、いつでも王の館に戻るがいい」
ビルガメシュは反応を、わずかに唇を動かすだけにとどめた。
「そして2。確かに、民には大麦が必要だ。ただ分け与えるより、後々役に立つ事業にあたらせたほうが良いだろう。お前の言う通り塔を築き、民を人夫として雇って、大麦を支払おう。足りぬ分は貸すというなら、借りてやる。3はだめだ。イナンナは渡せぬ」
「なぜだ。女神はお前との戦いを避けるため、自ら捕らえられたと聞く。ウヌグを守る女神が、いつまでも囚われの身でいいわけがあるまい」
「口を慎め。イナンナは、父である天空神の庇護下にある。虜囚ではない。女神とその印章がきさまの手に渡れば、なにを始めるかわからぬ。それだけはならぬ。兵を挙げるなら、そうするがいい。だが、勝利をおさめても、貴様の手に女神が抱かれることはない」
ビルガメシュは拳を握った。
「女神の侍女は、おれの友人だ。彼女だけでも引き取らせろ」
「……妙な気を起こすな。きさまは、民衆がエアンナになだれこむと言ったが、民は神を恐れている。神殿を襲うことなどできはしない。きさまを殺すことはできなくても、きさまの回りにいるものを殺すことはできる。それは、キシュから戻る道中で思い知ったはずだ」
ビルガメシュは掌に爪を食いこませた。
「女神の部屋はどこだ」
声を張り上げそうになるのを、かろうじてこらえる。アンは言った。
「南西の端だ」
ビルガメシュは椅子を蹴り、部屋から駆けだした。
門番の槍を押しのけ、扉を開く。机に女性が二人向かっている。ビルガメシュは安堵のため息をついた。廊下の奥から、牛頭の兵士が現れる。両目は開いている。獣の臭いとともに、くぐもった声が言う。
「アン様から、侍女を解放しろと指示があった。女神と印章は出さぬ」
門番が顔を見合わせる。天牛兵は続けた。
「イナンナよ。印章を見せよ」
はちきれそうな乳の間から、細い指が、黒光りする円筒を取り出す。
天牛はためらいもなく部屋に入り込み、女神の印章を手の中の粘土板に転がした。粘土板を上に掲げ、横に傾け、壁の灯との角度を何度も変えて、印影を確かめている。ビルガメシュはその様子をじっと眺め、身動きしなかった。
「確かに、真正の印だ。女神よ、肌身離さず持っておけ」
天牛が女神の乳房の谷間に、印章を押し込む。
「ちょっと。やめてよ。失礼ね」
ビルガメシュは頭を垂れた。
「すまない。もう少し、こらえてくれ」
「もう少し、ましな部屋にするように言ってよ」
「伝えておくよ」
天牛が侍女の背中を押す。
「貴様は出ろ。早く」
ビルガメシュは転びかけた肩をとらえ、身体を支えた。
「よく頑張ってくれた」
「来るの、遅いわよ」
隣でずっと、神官が突然の訪問を咎め、知恵の神が会えない理由を並べ立てている。ビルガメシュはかまわず、神殿の奥の扉を引き開けた。
酒のにおいがこもっている。壺が転がり、麦酒が床にこぼれている。男がひとり椅子に腰掛け、大きな壺に吸い筒を差し、液体をすすっている。
「エンキ。……いや、イシム」
イシムが顔を上げる。瞳が揺れる。どこか遠くを見ているようだ。
「これはこれは。ウヌグ王のお出ましだ」
神官が首を振りながら、廊下を下がっていく。ビルガメシュは扉を閉め、隅にあった椅子を引き寄せて、腰を下ろした。
「酔っているのか」
「酔いませんね。いくら飲んでも」
「罪の意識か」
「罪? 何がです?」
「エンキは若かった。神官として勤めていても、お前が知恵の神になる機会はまずなかった。だが突然彼が死に、お前がエンキになることになった。思いかけず手に入った地位を喜ぶ気持ちと、尊敬していた神の名と顔を奪うことへのやましさ、どちらもあるのだろう」
イシムはひとしきり吸い筒に口をつけてから、言った。
「急に、何を言い出すんです。私はそんなこと、考えていませんよ」
「なら、なぜ神殿にこもって、酒におぼれている」
「先代ならこう言うでしょう。あなたがいない間に、状況が変わったんですよ、ビルガメシュ」
吸い筒を壺から抜き、その先でイシムはビルガメシュを指した。黄金の筒が不安定に揺れ、先から琥珀色の液体が垂れる。
「イナンナは捕らえられた。エンリルは土地を放り出してニップルに逃げました。ウトゥとエンキは、土地と引き換えに安全を保証してもらった。シッパルやエリドゥにまだ十分な耕地があれば、エンリルのようにそこに逃げ出して、神官団を維持することもできたのに」
「抵抗しなかったのか」
「アン神殿には、天牛兵が500います。エンリルは神殿の兵を出して戦ったが、敗れた。兵を持たない我々が、抵抗できるはずもない。もともと我々の神殿には、兵を常備しておくだけの収入はない。アンはあれだけの権勢を持っているのに、さらに、を望んでいる。ほかの神をみな追い落とすつもりだ」
「公正とは言えんな」
「あいつは、強欲です」
ビルガメシュは身を乗り出した。
「おれに力を貸してくれ、イシム。アンを倒せる」
イシムは目を細め、顔を王のほうに突きだして、唇の端を釣り上げた。
「なぜかは知りませんが、神のことを知ったらしい。王よ。あなたは私を憎んでいるはずだ。エンキ様とあなたは親友だった。エンキ様が亡くなったというのに、何食わぬ顔をしてエアンナの部屋に座っていた私を見て、裏切り者だと思ったでしょう」
ビルガメシュは身体を引いた。
「少しは、それも考えた。だがあのときは、おれがおかしくなったのかと思った」
「みなの言う通りです。私は顔を2つ持っている。外ではいい顔をしながら、内では裏切りを企んでいる。私は卑劣なんだ」
ビルガメシュは椅子から立って、イシムの肩をつかんだ。
「自分を憐れんでも何にもならん。今はお前が知恵の神だ。ウヌグのことを考えろ」
「神を相手に戦っても、勝ち目はない。わかるでしょう。アンを殺したと思っても、次の日には別の者が神の座を引き継いでいるんです」
ビルガメシュは、懐から粘土板を取り出した。イシムの瞳が、そこに刻まれた文字を見る。
「それは」
「エンキの遺言だ。この神殿に武器が眠っている。一緒に探してくれ」
「武器。天空神を倒せる武器など、あるのですか」
ビルガメシュは微笑した。
「あるとも。おれの友、お前の師は、知恵者だった」
文字を教わる民が、その日を境に集まらなくなった。
「アンが触れを出しました。文字を学ぶものは厳罰に処す、と」
天幕の中で両膝をつき、バハトゥラが言う。
「王にもその旨を伝えてあると、アン神殿のものが街中で声を張り上げています」
ビルガメシュは椅子に座り、左手の粘土板に、右手の葦筆を押しつけ続けた。
「ほかにもあるのだろう?」
「粘土板を読むこと、それに親子を除き、3人以上で集まることを禁じると」
ビルガメシュは手を止めて、右手で顎に触れた。
「効果的だ。民が力を集め、蜂起するのを防ごうとしている」
「残念でなりません。私は文字と数字を学んで初めて、ウヌグがどれだけ神殿に大麦を奪われていたかを知りました。民の多くも、同じはずです。王が先頭に立って戦えば、神にさえ勝てたかもしれなかった」
ビルガメシュは苦笑し、立ち上がって、足元を眺めた。砂地には、大麦の容積を計算したあとがびっしりと書いてある。
「買いかぶりすぎだ。おれに、それほどの力はない」
「なら、どうするんです」
バハトゥラが立ち上がり、語気を強める。
「ウヌグの女神は捕らわれ、民は声を封じられた。勝とうが負けようが道を共にする気持ちに変わりはありません。ですが、このようにただ死を待つのは耐え難い。戦いましょう、王」
ビルガメシュは筆をバハトゥラの口元に突きつけ、言葉を遮った。
「お前が今、言っただろ。今のおれの武器は、これだ」
バハトゥラは息をつき、右手で筆に軽く触れた。
「筆で、神が倒せますか」
ビルガメシュが答える前に、天幕が上がった。息をきらしてアブラムが駆け込んでくる。
「旦那、やばい。一大事」
「やばいではわからん。説明しろ」
「怪物だ。雄牛の化け物が、群れで」
ビルガメシュはすぐに天幕をくぐって外に出た。
城壁を背に、砂煙が上がっている。天牛の軍団が乾いた大地を蹴り、角を振り立てて、まっすぐ天幕へ向かってきている。
「二人とも、行け。兵を集めろ」
「しかし、お一人では」
「旦那、ありゃ何なんです?」
ビルガメシュはバハトゥラとアブラムを手招きし、二人を並べて、双方の肩をつかんだ。
「野営地を変え続けてきたが、とうとうばれたらしい。あれはアンの天牛兵だ。エンキは、その数は500だと言った。キシュからの兵は1500いるはずだ。彼らをかき集めてきてくれ。お前たちがやってくれれば、数ではこちらが勝る」
アブラムが唇をもつれさせながら言う。
「しか、しか、しかし、ありゃ化けもんだ。大体旦那、戦わないって言ったじゃないですか」
「お前、兵糧の大麦も武器になる銅も、喜んで売りつけに行っただろう」
「そりゃ、商売となりゃあ話は別でさ。でも、あたしが殺されるのはごめんですよ」
「戦うつもりがないから、なおさら兵が必要なんだ」
「王は、どうされるのです」
ビルガメシュは振り向いて、押し寄せる兵を見やった。
天幕の裏から、フワワが現れる。
「バハトゥラが連れて来たスビルの若者が50人いる。しばらくはもつだろう」
ビルガメシュは頷き、バハトゥラとアブラムの肩を叩いた。
「行け。じきに囲まれるぞ!」
バハトゥラが敏捷に、アブラムが転げるように駆け出す。
天幕の周囲を、棍を持った北の民が固める。
フワワはビルガメシュの横に並んだ。
「ビルガメシュ。たとえ勝てずとも、私に悔いはない」
ビルガメシュは拳を握りこみ、答えなかった。
牛の頭をいただいた異形の兵が、ぐるりと天幕を取りかこんでいる。
「守れ。こちらからは手を出すな」
ビルガメシュはスビルの若者たちにそう指示した。
兵の列が割れ、輿が進み出てくる。
その上に座ったアンは、大仰な冠をかぶっていた。額のすぐ上に、太く、横に大きく広がった牛の角が1対。その後ろにも1対、もう1対。後ろにいくと角は細くなり、先端は少しずつ天のほうに向かっている。6対12本もの角が、アンの冠には取り付けられていた。フワワが鼻で笑い、あれで強くなったつもりか、とつぶやいた。
ビルガメシュは鋲を打った革をまとい、その隙間から棍を覗かせて、口を開いた。
「何をしに来た。天空神よ」
アンがたっぷりと余裕をふくんだ笑みをうかべる。
「迎えに来たのだ。王の館に入ってもらおう。キエンギとアガデの王が、いつまでも野に居を構えていてはいかん」
「断ると言ったら?」
「理由を聞こう」
ビルガメシュは棍を握り直した。
「腹の探り合いは性分ではない。今のウヌグは、アンよ、お前の監獄だ。いや、今だけではない。お前が君臨してからずっと、ウヌグは人の監獄だった」
アンがゆっくりと手すりによりかかり、頬杖をつく。
「そのように思われるとは、悲しいな、ビルガメシュ。私は人を我が子のように思っている。そのために雨を降らせ、鯉の洪水をもたらし、大麦やなつめやしを実らせてきた。ウヌグの繁栄は、私の喜びだ」
ビルガメシュは棍を持ち上げて、肩にかついだ。
「雨と鯉の洪水は、エンキやダムの役割だと聞いている。大麦やなつめやしの手入れをしているのは農民たちだ。アン、貴様は何をしている?」
何人かの天牛兵が怒りの声を上げ、足を一歩踏み出す。アンは右手を上げてそれを制した。
「私の役目は、世に理があるようにすることだ。何が正しく、何が誤っているか。神と神官、王と人はどのように関わるのか。この世はなぜこうあるのか。それを示すのが我が役割だ。正しさと誤りが示されなければ、盗人や人殺しが咎められることもなくなる。そのような世の中、人が生きていくには辛かろう」
ビルガメシュは棍を振り下ろし、地に叩きつけた。
「何が正しく、何が誤っているのか、貴様が決めるというのか」
「そうだ」
「傲慢だな」
「だが私がやらねば、誰がそれをやる」
「貴様の役目ではない。貴様は神ではない。ただの人間だ」
ビルガメシュは棍でアンを指した。
「神官が、なぜ神を称する。民の実りを奪うため、神の名を騙っているにすぎない。貴様は理を守るためなら、仲間を殺すことすら厭わぬ。貴様は、邪悪だ」
フワワが小さく、落ち着け、とささやいた。ビルガメシュは、落ち着いている、と返す。
「ビルガメシュよ」
アンは右手の指で、瑠璃のはまった右目の横をさすった。
「記録に残る600年の時の流れの中で、ここまで知恵の高みに上った王はお前が初めてだ。エンキやイナンナ、ジウスドラの力を借りたとはいえだ。神として、我々に加わる気はないか」
「なに?」
天牛兵がどよめき、顔を見合わせる。アンは右手を差し出し、指を広げた。
「過去に例がなかったわけではない。ウトゥもイナンナも、私の子供だ。つまり我々が認め、神々の座に加えた者たちだ。ビルガメシュ、お前は強い。アッガを倒し、キシュからキエンギとアガデの王の座を奪い取った。そして今回のことで、深淵を覗き見たような知恵をも身につけた。粘土板に名を刻みつけられるときには、その前に天空神の文字を付すにふさわしい」
ビルガメシュは棍を水平に持ったまま、目を閉じた。
「どうだ?」
アンの声が、耳にまとわりつく。
ビルガメシュは目を見開くと棍を持ち替え、両手で棍の先を大地に突き立てた。
「いくつか、確かめたいことがある」
「何でも聞くがいい」
「正邪、善悪を貴様が決めるというなら、裁きは、時と場合で変わるのか?」
アンは手を引っ込め、瑠璃色の右目の脇に添えた。
「私の気分や都合で変わるかというなら、否だ。人の身分、事件や紛争が起こったときの状況、もろもろを考慮して、アンは古来より裁きを重ねてきた。裁きの積み重ねから外れれば、神々や神官の支持を得られない。天空神の名において、私は公正な裁きを下す」
「神々の間での契約はどうだ? それは必ず守られるのか?」
「契約はどんな内容だろうが、すべて文書が残る。裁きの公正さと同じように、契約は絶対だ。神々の契約が守られなければ、戦争に繋がることさえある。無用な争いを避けるため、契約は必ず守らせる」
ビルガメシュは頷き、胸元から右手で粘土板を取り出した。アンは目を細めた。
「なんだ、それは。返事はどうなのだ」
「エンキの神殿がアンの神殿へ、貸しつけた大麦の記録だ。返答の前に、これを清算する」
「債権か。それをなぜ、貴様が持っている」
「正当な手続きで買った、と言っておこう。3年前に60グル(約1万8000リットル)を、1グルにつき1バリガ(約60リットル)の利子で貸している」
アンは鼻を鳴らした。
「その債権が何だというのだ。商人同士なら利子は1バリガ4バン(約100リットル)が相場だ。エンキは安めに融通してくれた。3年前なら、返済は96グルだ」
「違うな。計算が苦手なのか」
ビルガメシュが言うと、アンは左目をぎょろりとうごめかせた。
「私を侮辱するのか」
「契約の文を覚えていないようだな。いや、知らぬのか」
ビルガメシュは粘土板に左手の指を添え、1行ずつたどってみせた。
「貴様の計算は、1年で1バリガの利子がつく場合だ。この契約はひと月で1バリガ、翌月は元本に利子を含めた額に、更に利子がつくようになっている」
「なに?」
アンが身を乗り出す。ビルガメシュは続けた。
「返済額は3月めで103グル3バリガ2バン4シラだ。一年で534グルになり、16カ月で1000グルを超える」
みるみるアンの表情が険しくなる。構わずにビルガメシュは続ける。
「24カ月で大体4770グル。36カ月経った今、貴様が支払うべき総額は3万5440グル2バン7シラ(1063万2027リットル)だ」
「ばかな」
アンが吐き捨てるように言う。
「3万5000グルだと。60グルの大麦が、そんな量に化けるものか」
「アン。貴様は、文字と数字が持つ力を十分に理解していない」
風が吹いて、ビルガメシュの前髪を揺らす。微かな水の匂いを、ビルガメシュは感じた。
「エンキは、よくわかっていた」
「その計算は間違っている。いや、そもそもその契約文、でっち上げだろう」
「この文書には、天空神の印章が捺してある。それに契約文書は必ず、2枚作成して互いの手元に置いておくことになっている。神殿に同じものがあるはずだ。疑うなら、探しにやらせろ。以前のアンはかなり年を重ねていたし、お前と同じように右目が不自由だった。契約を結ぶ時、エンキはその視界の悪さを利用したらしい。が、印章は捺された。貴様も神官としてその場にいたかもしれぬ。確認を怠った貴様らの過ちだ」
ちらりと見遣ったフワワが頷くのを見てから、ビルガメシュは続けた。
「回りで牛の仮面をかぶっている神官に計算させてみろ。利子を元本に繰り入れて、36回掛け算を繰り返すだけだ。同じ答えになるはずだ」
アンが乱暴に右手を振る。左右の天牛兵が、牛の頭を自ら引きちぎった。下から人間の顔が現れる。彼らは棍の柄を地面に擦りつけて、計算を始めた。
空を薄雲が覆い始める。しばらく、静かな時間が過ぎた。
神官の一方が手を止め、気まずそうに隣を見る。続いて手を止めた神官と視線が合う。アンはその様子を見ると、冠を脱ぎ、地面に放り捨てた。
「下ろせ。私がやる」
アンは足を踏みならして輿から降りると、神官が差し出した金の筆を奪うように手に取り、一心に地面に書き付けを始めた。
曇天に青い光がひらめき、遠雷がひびく。光がやんだあとも、不穏な音は続いた。天牛兵がざわめき、囲みの外を向いて棍を上げ、足を踏ん張って構えをとる。
「雷はエンリルの娘、イシュクルの仕事だったかな」
「黙っていろ」
長い計算を連ねては足で踏み消し、また計算しては踏み消し、3度繰り返したあと、アンは金筆を地面に叩きつけた。
「無効だ。こんな契約、断じて認めるわけにはいかん」
「それは通らんぞ、アン!」
ビルガメシュは声を張り上げた。
「貴様が自分で言ったんだ、神々の契約は絶対だと。裁きの積み重ねから外れれば、神々の指示は得られないと!」
「60グルの貸し付けに3万5000グルの支払いを要求する者など、過去にいなかった! これは公正ではない。こんなことがまかり通るか!」
「ウトゥとエンキへの文書を見た」
ビルガメシュは声を低くした。
「武力を背景に、貴様は彼らの耕地をむしり取った。おれの要求が通らぬと言うなら、彼らも同じことを言うだろうよ」
アンは肩を揺らし、唇を広げて笑った。
「そうだ。今のこの状況を思い出せ。お前は天牛兵500に囲まれている。それに私の手元には、イナンナがいる。お前にとって、何より大切な女神が」
王の横に、頭巾をかぶった人物がすいと進み出てきた。
ビルガメシュは粘土板を胸元に収めた。
隣の人物の頭から、両手で恭しく革の覆いを外す。豊かな黒髪がこぼれ、ちょうど空に走った雷光を照り返した。
アンは少女の顔を見て、眦を震わせた。
「きさま、なぜここにいる」
少女は足を広げて大地を踏みしめ、左手を腰に当て、右腕をしなやかに体の横に垂らした。
「あたしはイナンナではありません。しかるべき知識と経験を持つ女性に、女神としての心得を伝え、地位と印章を受け継がせました。ディルムンの商人、ジウスドラにね。ビルガメシュはこのことに関わっていません。あなたとの約定を破ってもいません。『女神イナンナ』は今も変わらず、エアンナに有るのですから」
「あの厄介者がからんでいるのか」
アンは右目の横をかきむしった。
「女神の祝福なしで、王ではいられぬぞ」
「そうでしょうか。彼はあたしと契らずにウヌグを経営し、キシュを打ち倒し、フワワとの交渉を成立させました。十分な働きです。彼を王として扱わなかったのはあなたです。ただの使用人頭、神の下僕としてしか、考えていなかった」
「女神がこちらの手にあることには、変わりはないぞ」
「イナンナを侮らないで」
少女は微笑んだ。
「今のイナンナには、あたしよりはるかに力があるわ。独自の財があり、妖を従えている。あなたに天牛兵がいるように、イナンナには漆黒の肌をした兵がいる。黙ってあなたの手の中におさまってはいないわよ。あたしはビルガメシュの枷だった。あなたがそうなれと言ったし、あたしもそのつもりで近づいた。けどもう、天空の神と豊穣と戦の女神の利益は、一致しなくなったのよ」
「黙れ、小娘」
少女は上半身を前に乗り出す。背から腰、脚がやわらかい曲線を描く。
「よく聞きなさい。あなたは、その小娘にしてやられたのよ。あんたたちは印章、神としての地位さえ見ていればいいと思っていた。けど、ビルガメシュはあたしを愛した。女神をじゃない」
フワワが含み笑いをもらし、ビルガメシュは黙って棍を見つめた。アンが右拳を振り上げる。
「殺してやる。皆殺しだ。そのふざけた文書は、この場で破壊する」
ビルガメシュは顔を上げ、右手の親指を立てた。
「回りをよく見ろ。貴様が計算に必死になっている間に、状況は変わった」
アンが周囲を見回し、眉を上げる。
大勢の兵が、王を囲む天牛兵を、さらに取り囲んでいた。兵士たちの兜には、キシュの意匠である渦巻きが彫りこんである。豊かに実った大麦の穂のように、金色に輝く槍の穂先が隙間なく並んでいる。
「囲みを解いて、私を守れ」
アンが叫ぶ。天牛兵たちは棍を構えたまま滑るように動き、円形の包囲陣から、アンを中央にした方陣に移る。ビルガメシュとアンの間に、厚い兵士の層ができる。
キシュ兵の間からバハトゥラが駆け寄ってきて膝をつき、アブラムがその後ろからよろめき歩いてきて、地面に両手をつく。
「キシュの兵を、よく動かしてくれた」
ビルガメシュは二人を労った。アブラムが額の汗を拭く。
「いや、それがですね旦那。思ったよりずっと簡単でしたよ。距離があったから、少しばかり時間はかかっちまいましたけどね」
バハトゥラが胸の前で両腕を組み、王を見上げる。
「兵士を率いる将軍は、先のウヌグ攻めで弟を亡くしたそうです。なんでもその遺体を、王にキシュまで送り届けてもらったとか。我々ではありません。王の逸話が兵を動かしたんです」
エンキとイシュタルとともに、北のスビルの地へ向かった旅を、ビルガメシュは思い出した。
「……ああ。そんなこともあった。……今は、彼が将軍なのか」
フワワが後ろから棍を突き出す。
「どうする、ビルガメシュ。死力を尽くせば、アンを滅ぼせるぞ」
天幕の周囲、ビルガメシュのすぐ後ろには、スビルの若者たちが控えている。
少女は横で腕を組んでいる。
アンは再び輿に上り、歯をむき出して王を睨みつけている。
ビルガメシュは大地に突いた棍の柄に、両手をのせた。
「今日までの備えは、すべて戦わぬためのものだ。この債権も、兵士たちも、戦わぬためだ」
そうつぶやいてから、ビルガメシュは声を張り上げた。
「天空神アンよ。深淵の神エンキとの契約に基づいて、大麦を支払ってもらおう」
アンが叫び返す。
「断る。3万5000グルなど、大地に実った大麦すべてをかき集めても足らぬわ」
「ならば、耕地と財物でそれに代えてもらおう。神殿の所有する畑、瑠璃、紅玉髄、価値があるもの、すべてだ。エアンナから出てもらうぞ」
「私から、すべてを奪うつもりか」
「新しく、天空に届くような塔を建てると言っただろう。そこに入れ。数百年も重責を背負ってきたなら、アンはそろそろその荷を降ろし、暇になっていいころだ」
「そのあと、世界をお前が支配するというのか? とるに足りない人間に過ぎないお前が! 自分たちがどこから来たのか、自分が何者かも知らぬ人間が!」
ビルガメシュは静かに棍を持ち上げると、半身になって構えた。
「周りをよく見ろ。お前たちの行く道は2つしかない。誰も死なずに塔に入るか。天空神が死に、神官どもも大勢死んで塔に入るかだ」
アンは歯を食いしばり、肩の高さで両方の拳を固めた。
「ならぬ。こんなことは、あってはならぬ。一人の人間に、神が敗れるなど」
再び雷鳴がとどろき、ビルガメシュの頬に冷たいものが当たる。
ひとつ、ふたつ。大きな3つ目の粒が右手の甲に当たった。
天牛兵が頭上をあおぐ。キシュ兵の間でもどよめきが広がる。
つめたくおおきなあめが、ビルガメシュとアンのうえにふりはじめた。
天牛兵のひとりが牛の頭を外し、棍を放り出す。大きく口を開け目を閉じ、髪に手ぐしを通して地肌を潤す。歓声をあげる。ひとり、ふたりと、同じように武装を解いて、雨に身をゆだねる者が続く。
数か月ぶりの雨だ。
ビルガメシュは雨音に負けぬように、声高に言った。
「天空神は、おれを認めた!」
アンが目をむき出す。
「私は認めてなどおらん!」
ビルガメシュは足を踏みだして、棍を水平に振った。鋭い音がして雨が断ち切られ、水飛沫がとんだ。
「この雨が証しだ。天空がこの取引を認めたから、乾いた大地を潤し、大麦を実らせる雨を降らせたのだ。何を言おうと無駄だ。積み重ねてきた裁き、神々の契約、お前という器の中に受け継がれてきた神の叡智と経験が、この取引を認めたのだ。雨は降った。お前ではなく、人の王が治めるウヌグの上にな」
牛の頭を外した神官たちは、棍を降ろしてビルガメシュを見ていた。
雨は降り続けている。
アンは身体に打ちつける水滴の重さに負けるように、ゆっくりと肩を落とした。
「好きに、するがいい」
バハトゥラが拳を突き上げる。
「ビルガメシュ!」
アブラムが続く。
「ビルガメシュ!」
二人は笑って、頭上で拳を打ちつけあった。
キシュの兵が槍を振り上げ、唱和をはじめる。
少女が大きなため息をついて、その場にへたりこむ。
アンの神官の中にも、、王の名を叫ぶ者がいる。フワワがビルガメシュの肩に手を置く。
「まるで、あなたが雨を呼んだようだ。こうなるとわかっていたのか?」
ビルガメシュは笑って、首を横に振った。
「まさか。それはまさに、神の領分さ」
「ひとつ聞きたい。エンキは雨と関係があるのか?」
ビルガメシュは空を見上げた。右目に雨粒が落ちる。瞬きをして、目尻から水滴を追い出す。頬を水の筋がつたう。
「エンキが天空に向かうと、慈雨が降るそうだ」
「では、エンキはあなたに味方したのだな」
「あいつはいつも、おれの味方だったさ」
ビルガメシュは空と雨に向かって、わずかに唇を動かした。
翌日、ビルガメシュは城壁の中に入った。
アンは自らの神殿にこもり、一行は王の館に身を寄せた。
イシムを呼び出し、ビルガメシュはエンキの座を空位にすると告げた。
「お前には昔のように、おれを補佐してもらいたい。手当ては支払う」
イシムはうなずき、承知しました、と短く答えた。
王の館に卓はない。椅子に腰掛けているのはビルガメシュだけで、イシムをはじめフワワもアブラムも、てんでに床に敷いた羊毛の敷物の上に座っている。
壁に寄り掛かって立ち、腕を組んでいる少女が、口をはさむ。
「そんな簡単に答えちゃって、いいの?」
「王が考えていることはわかります。神殿を維持するには、大麦と銀がかかりすぎる。それに、私にエンキの名前は重すぎます。イナンナ様には、わかっていただけると思います」
少女は首を傾げた。
「ま、ね。贅沢はできるけど、めんどくさいことが多すぎるしね」
「一応、確認しておくぞ。彼女はイシュタルだ」
ビルガメシュは言い、イシュタルは舌を出した。
「そゆこと。慣れてよね」
「ジウスドラ――今度のイナンナは、ディルムンでの交易を取り仕切っている。食い扶持は自分で稼いでもらう。税はない。民が自ら貢物をするというのは、別だが」
イシムが以前の、能吏の口調で聞く。
「ウトゥは、どうするのです?」
「アンと同じだ。神殿に閉じ込めておく。他の都市にやれば、やつらはそこを食いつぶすからな」
「今の神々が死ぬまで?」
「そうだ。そのあと、神官を神として据えることはしない。無駄だ」
「それで、民が納得するでしょうか?」
「王がしっかり神の声を伝えればよい。知恵と裁きを示すのには、少数の神官がいれば足りる。今までのように巨大な神殿に税を奪われるより、よほどいいはずだ」
ビルガメシュはウルの商人に目をやり、脇においてあったぶどう酒の杯と麦焼きを出した。
「おれの部下でもないのに、よく働いてくれた、アブラム。本当に、感謝している」
アブラムは両手でぶどう酒と麦焼きを受け取り、いぶかしげに見つめた。
「あのー……。あたし、かなり頑張りましたよね。それで……」
バハトゥラがアブラムを小突く。
「王の手づからものを頂けるのは、名誉なことだぞ」
「いや、でも、これだけじゃあんまりです」
ビルガメシュは可笑しそうに笑った。
「アブラム。お前にはウヌグの取引全般を取り仕切ってもらう」
商人がいつものように、大きな唇をぽっかりと開ける。
「あたしが?」
「なんだ。不安なのか。お前は全ての事情を知っている。キシュとの取引をまとめてくれたし、スビルともディルムンとも、お前を通すのが一番安心できる。それに、かなりの儲けになるぞ」
口を開けたままのアブラムに、再びバハトゥラが言う。
「礼を言えよ。これが褒美だ」
「あ、いや」
アブラムはにんまりと笑った。
「いやあ、ウヌグから逃げ出す旦那方を運んだときには、こんなこと考えもしませんでした。ほんとに、ありがたいったらないや」
「あいかわらず、ひどい口調だ」
言いながら、バハトゥラは笑っている。ビルガメシュは続けた。
「おれたちはこれからアンなしでやっていくが、お前たちには別の天地の造り主がいる。天の上にいるという神が、いつまでもお前と一族を見守っているように、祈っている」
アブラムは両手のものを下に置き、地面に両手をついて頭を垂れた。
「祝福に感謝します。このことを言い伝えます、一族に。旦那、いえ、あたしたちにとって唯一の正当な王のことを」
「おいおい。大げさだな」
黒い夜の中に、ぽつんと炎がゆらめいている。
ビルガメシュは小雨が降る中、柔らかい土を踏み、葦の茂みをかき分けた。
ブラヌンの流れにほど近い湿地で、フワワが2つの器に向かっている。一方には火が燃え、もう一方には、水面に雨粒が円を描いている。
「探したぞ。水がいるなら、井戸があるだろう」
うつむいていたフワワは振り向き、うつろに笑った。
「流れている清浄な水がいるのだ。世界の王が、何の用だ」
「皮肉を言うな。隣に座るぞ」
返事を待たず、ビルガメシュは北の民の長の横で脚を組んだ。
「為すべきことは、為したつもりだ」
「ああ。ヴァルナは果たされた。思いがけず、ドゥとアンの間の、ミスラもな」
フワワは火に、ひとつかみの枝を投げ入れた。瀝青のおかげか、雨に打たれても炎の勢いは弱まる様子はない。
「……それが本当の、エンキの名か」
「そうだ。神殿に仕えてからは神の名をとり、エンキドゥと名乗っていたそうだ」
「おれは、あいつの名も知らなかったわけか」
ビルガメシュは、フワワの前にある小さな瓶を指した。
「できることなら、おれにもやらせてほしい」
フワワは頷いた。
「お前は、それにふさわしい」
ビルガメシュは乳の小瓶をとって、水の杯に振り入れた。
「約定は神聖だ」
フワワが炎に獣脂を投げ入れる。
「ひとりの誓約、ヴァルナ。ふたりの契約、ミスラ。お前とドゥはヴァルナとミスラで、アンが偽りの神だと証したように思えてならない」
「数字には力がある。エンキは、エンキドゥは、それをよく知っていた。おれだけではアンを追い詰められなかった」
「あなたたちの神以上の力をもつ何かが、やはりこの世にはあるということだろう」
ビルガメシュは夜を舐める炎を見つめて、呆然とつぶやいた。
「アブラムには、彼らの部族を守る神がいる。だがそれは、やはり虚ろなものではないのか」
フワワが儀式の器から視線を外し、ビルガメシュを見る。
「60グルの大麦を、3万5000グルまで増やした理がある。最後のときに、あなたの上に雨を降らせた天意がある」
ビルガメシュは答えずにいた。フワワが続ける。
「あなたに味方した、ヴァルナとミスラをすすめようとする力がある。アンのように神を騙り、それに背こうとする力がある。この世界は戦いだ、ビルガメシュ。善と悪の戦いの舞台が、この世界なのではないのか」
ビルガメシュは曖昧に笑った。
「考えてくれ、フワワ。あなたが亡き後も、子孫に考え続けさせてくれ。この世界のことを。おれが抱いている空虚を、いつかあなたたちが埋めてくれるかもしれない。いや、おれが死んだあとにも、同じような空虚を抱えるものが必ず現れる。そんな者たちには、世界と、自分をわかるための考えが必要なんだ」
フワワは炎へと目を戻した。
「私が亡き後もか」
「子供たちのためだ。その先の世代のためだ」
ビルガメシュは城壁に上って、ウヌグを眺めていた。
被った頭巾を水滴が叩く。降雨はもう3日続いていた。
「何してるの?」
イシュタルの声だ。ビルガメシュは右手を上げ、エアンナの右を漠然と指した。
「あの辺りに空き地がある。アンの塔は、あの辺りに建てよう」
横にイシュタルが並ぶ。同じように、羊の革を被っている。王の指の先には、まばらな灌木に覆われた小高い丘があった。
「アンが姿を見せなくなるなら、雰囲気だけで神の存在を感じられるようにしなくてはダメよ。それがそこにあるだけで、驚くような」
「エウニル(驚きの家)か。そうだな」
「あなたが旅立つ前にも、ここで、こうして話したね。本当にあなたが勝つなんて」
「あなたの助言があったからだ」
「勝利は、それを信じて道を行ったからよ」
「イシュタル。あなたはこれから、どうする」
「当分はエアンナで、ジウスドラの手伝いよ。それよりあなたは本当に、これでよかったの」
「民の暮らしは、だいぶ楽になる」
「ウヌグの人々はみな、あなたがアンを倒して勢力を広げたと思っている。イシムやアブラムだってそうでしょう。でもあなたは文字を学んで、人が神を演じていたことを知った。得たんじゃない。世界が生まれた物語、依るべき大きな物語を、あなたは失った」
ビルガメシュはため息をついて、高欄に腰掛けた。
「エンキが目の前で死んだときに、おれを支えていたものがなくなった。あとはそれが何なのか、確かめるだけだった」
「あなたはこの世を変えたつもりかもしれないけど、おそらく何も変わらないわ。アンは地位の回復を狙い、エンリルもニップルで力を蓄える。それどころかもしかしたら、民はあなたの名の前の接頭語を変えて、神として崇めだすかもしれない。神を倒したあなたのことを。虚空を抱えたあなたの苦しみを、誰も知らない。知ろうとしてもおそらく、理解できない」
ビルガメシュは、イシュタルの右手をとった。
「あなたが知っている。ウヌグが変わらず、イナンナが変わらずとも、少なくともあなたを神の定めから解放した。おれには、それで十分だ」
「……ありがとう」
イシュタルは頭巾の中で微笑んで、王の手の甲に左手を重ねた。
「あたし、あなたの物語を書くわ」
ビルガメシュは目を見張った。
「おれの?」
「神々の物語がないなら、ほかのことを語ればいいのよ。一人の人間、迷いながら深淵を覗き込んだ王の物語を書く。驢馬のことを語ってもいいし、大麦や豆の話だって、あってもいい。神々がなくたって、書くことはたくさんあるわ」
「……そんなこと、考えたこともなかった」
「あたし、才能あるって。ジウスドラが言ってくれたわ。あなたも読んでくれたって、フワワから聞いたよ」
「読んだよ。素晴らしかった」
ビルガメシュはウヌグの街並みを見遣った。
「粘土板に文字を刻んだとして、それはいつまで読まれるだろうか。このウヌグは何年先までここにあるのだろうか。フワワやアブラムは、それぞれ別の神々を信じている。みなが神を信じている。自分以上の何かがあると信じている。おれたちの苦悩は、伝わるだろうか」
「焼いた粘土板は丈夫よ。エアンナには、何百年も前から残る文書がある。読ませる。残すわ。もしかしたら何千年も先、あたしたちが想像もできないくらい遠い地の人が、あなたのことを読むかもしれない」
「何千年か」
ビルガメシュは城壁の向こうを漠然と見つめた。
「東だ。親父はアラッタまで行った。ジウスドラははるかメルッハと交易している。その先にも人が住んでいるだろうか。彼らにも神がいるのだろうか。生きる苦悩を知っているだろうか」
「さあ。一緒に行ってみる?」
ビルガメシュは微笑した。
「それもいいな」
イシュタルは、ビルガメシュの隣に腰を下ろした。
「ひとつ、お願いがあるの」
ビルガメシュが頷くと、少女は続けた。
「エンキがあなたに、何を遺したのか知りたい」
「複利の債権があることは、あいつが最後に書いた粘土板で読んだ。それから」
「それから?」
ビルガメシュはうつむき、目を閉じた。
雨が頭巾を、二人の衣を叩き続ける。
イシュタルは、ビルガメシュの膝に手を置いた。ビルガメシュは絞り出すように言った。
「あいつは自分を北の地から見出した神官を呪い、神としての知恵を呪った。あいつは、今の俺とおなじ空虚をずっと抱えていた。そしておれに、自分のことを忘れないでほしいと」
ビルガメシュはイシュタルの瞳を見つめた。イシュタルはビルガメシュを見つめ返した。
「読ませてくれる?」
ビルガメシュは胸元をさぐり、タブレットを取り出した。
深淵を覗き見たもの @kamishiro100
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