6・ディルムン

 ジウスドラの家が学び舎になった。ビルガメシュは葦の筆を持たされ、粘土板にひたすら同じ形を刻む作業を強いられた。

「これで、まじないが身につくのか?」

 卓の向こうで、ジウスドラが眉を吊り上げる。同じように、手に筆を持っている。

「取りとめもなく書いているだけでは、できるようにはならないわ。私の手本をしっかり目で見て、一画ごとの手の動きに気を払いなさい。文字の形を覚えこむの。神々、街、動物、植物、歩くこと、食べること。1000語は覚えないと、美しい文章は書けないわよ」

「1000、とはどのくらいだ」

 ジウスドラはペンの先で粘土板を何度もつついた。

「そこからなのね。商人でも数の読み書きはできるのに、ウヌグ王は勉強不足だわ」

「すまない。努力する」

 ビルガメシュが素直に謝ると、ジウスドラはペン先を止め、やわらかく笑った。

「いいわ。数字も覚えないとダメね。数の書き表わし方から、足し算、引き算、掛け算、面積の求め方と幾何。それに小数、分数。代数と方程式。全て教えるわ。文字に加えて数学を操れるようになれば、世界が違って見えるはずよ」

 朝は、粘土をこねることから始まった。ジウスドラの使用人が朝早く、土を運んでくる。家の外の作業台で、その粘土を、手のひら大の板に形作る。

 10枚作ってから、家の中に運ぶ。部屋の隅に束ねた葦を一本取り、銅のナイフで先を三角に削る。これが筆だ。直角に板に押し付け、そのまま離せば、板に三角の跡が残る。板の上を滑らせれば、微かな音と共に線が刻まれる。

 ジウスドラは手本を残し家を離れている。家の中で一人、ひたすら文字を刻む。

 神。星。命。大麦。空。世界。驢馬。大地。道。小さな家の中で何度も同じ文字を書きつけていると、『驢馬』の字は4本の『脚』で『走り』出し、『太陽』の字は『熱い』 『光』を放ち出しそうに思えてくる。『大麦』は『発酵』して『麦焼き』と『麦酒』になる。

 板がなくなれば、再び外に出て粘土をこねる。乾燥しきってしまえば字を刻めなくなるから、何度も新しいものを用意する必要がある。

 夕暮れには、ジウスドラが1日の成果を検めに来る。10枚しか書けていなければ彼女は顔をしかめ、20、30に及んでいれば美しい笑みをうかべる。

 文字が数をも表わすと理解するのに少し時間がかかった。板の上で計算するのにはさらに修練が必要だった。ジウスドラは幾日か外出せずに、ビルガメシュに付ききりで見守った。いくらか慣れてくると、板に刻んだ練習問題を置いて外出するようになった。ビルガメシュは文字と計算を刻んだ粘土板が、同量になるように学んだ。

 覚えた文字が増えると、不思議と過去の記憶が鮮明になっていく気がした。頭の中で考えを組み立てるのが、少しずつ容易くなっていくような感じもした。

 寝台がある天幕に戻らず、卓につっぷして眠ってしまうことも多かった。食事や着替えなどは、ジウスドラが甲斐甲斐しく世話をしてくれた。ただし学びについては、彼女は厳しい教師だった。ときに手を筆で打たれることもあったが、ビルガメシュは不平を言わなかった。

 ひと月も過ぎたある日、久しぶりに天幕に戻ると、アブラムがフワワに笑いかけていた。ただフワワは笑顔を返さず、難しい顔をしている。

「やあ、ニヌルタの旦那。しばらくぶりに顔を見ますね」

 報酬の大部分を前払いしてある。アブラムはそれを元手に商売に励んでいるようだった。

「いい取引があったのか」

「旦那方が気前よく報酬を払ってくれたお陰ですよ。今度は、銅を仕入れました」

 ビルガメシュは膝をたてて座った。

「銅か。どこに売る? どこかが戦の準備でも始めているのか」

 アブラムが笑みをたたえたまま言う。

「スルスナブ殿の勧めです。ウヌグで必要になるってね。そうなんでしょ?」

「余計なことを」

 舌打ちしたのはフワワだった。ビルガメシュはアブラムに目を据えた。

「詳しいことはまだ話せぬ。だが、アブラム。お前が力を貸してくれるなら、とても心強い」

「何でもそろえますよ。ディルムンとウヌグの橋渡し役は必要でしょ」

「このひと月、ずっと粘土をいじっていたようだが」

 フワワが割り込む。

「ここを訪れた理由を忘れたわけではあるまい。少しでもわかったことがあるのか」

 神々の不死について。ビルガメシュは微笑した。

「収穫はあった。見えてきたよ」

 入口の垂れ幕が乱暴に開き、スルスナブが巨体を見せた。

「失礼、ニヌルタ様。客人です」

 黒い身体の横から、砂埃とともに男が転がり込んできた。

 髪に粘土がこびりついて幾つもの束に分かれている。頬はこけ、目だけがぎらぎらと光って血走っている。だが、ビルガメシュはその顔に見覚えがあった。

「バハトゥラ?」

 ウヌグに置いてきたはずの臣下が、なぜここにいるのか。

 喋ろうとする彼の唇に、フワワが素早く水の椀をあてがう。水はバハトゥラの口からあふれ、上下に動く喉の突起の両側に筋をつくった。

「バハトゥラなんだな? 何があった?」

 やつれた将軍は口を拭うと椀を放り出し、がばとその場に伏した。

「お戻りください。ウヌグが危のうございます」

 ビルガメシュは息をのんだ。

 バハトゥラに肩を貸し、後ろにはフワワとアブラムが続く。渋るスルスナブを説き伏せ、ビルガメシュはジウスドラの家に入った。円卓にバハトゥラを座らせ、促してフワワも座らせる。

 ほどなくして、奥の部屋からジウスドラが現れた。酒瓶と杯を持っている。卓に杯を並べると、立ったまま酌を始めた。どうやらシドゥリとして聞くつもりのようだ。

「話せ、バハトゥラ。できるだけ詳しく」

「ニヌルタ!」

 フワワが声を張る。ここで話すのは身分を明かすことになる。王は首を振った。

「構わぬ。ここにいる皆の力を借りたい。バハトゥラの口から、じかに聞かせたい」

バハトゥラの目がぎらつく。ビルガメシュが頷くと、彼は話し始めた。

「私はビルガメシュ様の命通り、イナンナ様の護衛にあたっておりました。王が出発して7日目、王が不在であるとの話がウヌグに広まると、アン様が触れを出したのです。先代のドゥムジが黄泉の国から戻ってきた。よって、彼を王の座に戻すと」

 バハトゥラは、シドゥリが注いだ杯を干すと、何度も咳き込んだ。

「酒はやめておけ。イナンナはどうしたのだ」

「イナンナ様は拒みました。人間がよみがえることはあり得ない。正当な王はビルガメシュ様のみであると。ドゥムジに祝福を与えず、ウヌグ王として認めない、と宣言されました」

「天空神に逆らったのか? それでは、アンもエンリルも納得すまい」

 ちらと見ると、アブラムとスルスナブが顔を見合わせていた。シドゥリが口元だけで笑いながら、二人の前に杯を突きつける。

「その通りです。2柱の神は兵を出し、イナンナ様の館に押し寄せました。我々は戦う覚悟でした。ですが、イナンナ様が止められたのです。女神は自らの身を天空の神に差し出し、今、エアンナの奥に幽閉されています」

「お前たちが戦うのを、止めたのか?」

 バハトゥラが顔を伏せる。

「神々の争いのために、ウヌグの民を傷つけるわけにはいかないと。イナンナ様だけはまことにウヌグのことを思っておられます。15日前のことです。私はその後すぐ、都市を発ちました。ディルムンの場所は聞いていましたが、途中、盗賊に襲われ、たどり着くのに時間がかかってしまいました」

「何を言う。必死で急いだのは、その顔を見ればわかる」

 ビルガメシュは労いの気持ちをこめ、バハトゥラの背を叩いた。衣の下から、首から下げていた瑠璃の印章を取り出し、手のひらに乗せる。

「アブラム、スルスナブ。これまで、身分と名を明かさずにすまなかった。私はウヌグの王、ビルガメシュだ」

 杯を傾けていたアブラムが、激しく咳き込んだ。

「ウヌグの王様? その印章、本物ですか」

 スルスナブは黙って、その場に膝をついた。

 ジウスドラがため息をつき、酒瓶を卓に置いた。

「そして私がジウスドラよ。ウヌグからのお二人さん」

 フワワが大仰に振り向き、アブラムは何度も瞬きする。ジウスドラはビルガメシュに向けて唇だけで小さく笑った。ビルガメシュは立ち上がり、卓に両手を突いた。

「身分を明かしたのは、ここにいる皆の協力を仰ぎたいからだ。私が一人で棍を振り回しているだけでは、ことは何も変わらない」

 全員がビルガメシュを見ている。王は続けた。

「ウヌグを取り戻す。アンとエンリルから、人の手に」

 ジウスドラが腕を組み、壁に背をもたせかける。

「策を聞きましょうか。ひと月、ここにいたんだもの。何かあるでしょ?」

「考えはある」

「ちょ、ちょっと待ってください」

 アブラムがせわしなく両手を振る。

「なんですか、神さまに逆らって、戦を仕掛けようってんですか」

 ビルガメシュは微苦笑する。

「お前の神ではない。それに殺し合いをするつもりはない。人が死ぬのは避けたい」

「それにしたって、話が違いまさぁ。おれはディルムンまでのお使いのついでに、小金が稼げればいいと思ってただけなんだ」

 アブラムが戸口へ進む。ジウスドラが目配せし、スルスナブが羊飼いを遮る。

「行かせないわよ」

 ジウスドラはぴくりとも動かず、視線だけをアブラムに向ける。

「話が漏れると困るのよ。協力しないなら、ここの牢屋に入っててもらうわ。協力するなら、小銭どころか、大きな商いにかませてあげる。族長の座が狙えるわよ」

「本気で言ってるんですか」

 アブラムは順番に、部屋の中の顔を見まわした。

「神さまに逆らって、勝てると思ってるんですか」

「おれは2度、アンの刺客を退けている」

 アブラムの口がぱっくりと開く。ビルがメシュは続けた。

「だが、それだけではだめだ。命の草を絶たなければ、奴らは甦る。何度でも」

「……なんです、その、命の草って」

「話を聞く気になったか、若造」

 フワワが沈黙を破る。アブラムが右手で髪をかき回す。

「どうせあんたも、びっくりするようなお偉いさんなんでしょ? 聞きますよ」

「北方のスビルの長、フワワだ。黙っていて悪かったな」

「化物の名前じゃないですか」

 フワワは鼻で笑った。

「どうやら、南の連中は我々以上に礼儀を知らんようだ」

 ビルガメシュは、軽く卓を叩いた。

「いいか。全員に役割がある。よく聞いてくれ」

 一頻り説明を終えると、ビルガメシュは休憩と称して外へ出た。頭上を見上げる。陽は傾き、西の空が紫色に染まっている。ビルガメシュは夜空に向かって数歩、足を進めた。

 背後で戸が閉まる音がした。

「本当にやる気なのか」

 フワワの声だ。

「ジウスドラとの学びで悟った。キエンギとアガデで行われてきたことは、変えねばならん」

 振り向くと、フワワは夕焼けの残照の中にいた。その表情は見えない。

「私にも役を割り当てるなら、話してもらおう。神々の不死の謎は、解けたのか」

 ビルガメシュは頷いた。

「簡単なことだ。まじないだよ。あれが古いものの知恵と知識を、新しいものに注ぎ込む。麦酒を別の壺につめかえるようなものさ。神々やジウスドラは、人の身体という器が変わっても、中身は変わらずにいられるんだ」

「……人と壺は違うだろう」

「あなたも学べば、わかるようになる」

「私はヴァルナを果たさねばならん。あなたに力を貸し続けて、それができるか」

 ビルガメシュは微笑し、頷いた。フワワが問いをさらに重ねる。

「だがそれは、あなたの神に背くことだ」

 ビルガメシュはしばし口に拳をあててから、つぶやくように言った。

「おれが神だと思っていた者たちは、そうではなかった。エンキの遺言を読んだ」

「……あの夜、彼が刻みつけたものか」

「ああ。イナンナの助言は正しかった。エンキが成し遂げられなかったことを、おれが為す」

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