Edge

中原 緋色

 真上に昇った太陽が、嘲笑うように見下ろしている。

 視線を下へと繰れば、たくさんの車の行き交う道路。

 皮肉げに澄み渡った空に、ひとりの人間のいのちが呑み込まれていく。


 はずだった、のに。


 楽になろうとした瞬間、三途の川のこちら側へ引き摺り戻された。

 小さいのに力強い手が、どこか必死に腕を引く。

 決して高くないフェンスを乗り越えた背中が、屋上の床へと叩きつけられる。

 衝撃で肺から空気が絞り出されて、あぁ、生きてるなぁ、なんて思う。

 不満を云おうと目を開ければ、すぐそばには少女がペたんと座り込んでこちらを見ていた。

 澄んだ瞳に射抜かれて、ぎくりと胸が窄まる。

 ハーフアップにまとめたミディアムの黒髪は自然な緩いウェーブがかかっていて、瞳の色も明るい。

 どこか異国情緒漂う少女に、冷えきらない思考のまま、自分でもどうかしているとしか思えない問いをぶつけた。

「…………なんで、ボクを助けたの」


「なんでって、……僕も消えたいから?」


 こてん、とかわいらしく小首を傾げながら発された予想の直角真上を行く返答に、戸惑ったのはこちらのほうである。

 ……答えになってない、と思ったけど、そうでもないのかもしれないな。

「よかったらお話しませんか、……きっと僕ら、話が合いますよ」

 チョコレート色の目を細め小さな唇を三日月に釣り上げて、少女は微笑った。







「……ボク、相原冬也っていうんだけど……名前とか、訊いてもいい?」

「それ本名です?」

「ぇ、うん……」

 発言から間発入れず投げかけられた質問に頷けば、ふふっ、と小さく笑い声が上がる。

「僕は……四宮真冬。冬繋がりですね」

 足許に置いていたリュックサックから350mlのストレートティーのペットボトルを2本取り出して、1本をこちらに勧める真冬と名告る少女。

 それを受け取るときに少し手が触れて、年不相応にも心臓が跳ねた。

「キミは……どうしてここにいるの?」

「よく来るんですよ、ここ。母の職場なんです。……あと、こんな名前だけど誕生日は夏なんですよ僕、……8月の17日」

 冬也さんは?

 と見上げる視線がくすぐったくて、目を逸らした。

「ボクは……名前の通りかな。2月、19日」

「じゃぁ誕生花はアネモネですね」

 いいなぁ、と真冬も視線を落とす。

「……知らなかった。……キミの誕生花は?」

「月下美人。……僕には不似合いだなぁって、思ってた時期もありました」

 ひと晩だけ開く、純白の花片。

「そうだね。……よく、似合ってると思うよ」

「ぇ?」

「や……なんでもない」

 ビル風とタイヤの廻る音に攫われた台詞がとても気障なものだったことに気が付いて、慌てて振り払った。

 沈黙を攫う、冷たい風。

「冬也さんは……なんで、死のうと思ったんですか?」

 目を合わせないまま放たれた核心を突く問いに、冬也はふわりと笑みを零した。

 そんなことを訊かれたら耐えられないくらいに胸が疼いて叫びだしたくなってしまうんじゃないかと思っていたけれど、思いのほか心穏やかにその言葉を聞くことができた。

 それはきっと、その問いかけを口にしたのが、この少女だったから。

「まぁあれだよ、よくある……未来に希望がもてないとかそういう、ぼんやりした不安?……みたいななにか?かな」

「冬也さん、歳はおいくつなんですか?」

「19。……キミは?」

「ぁ、14です」

「そうなんだ。もっと大人っぽく見えてた」

「よく云われます」

 視線は、相も変わらず合わない。

 けれどふっと漏らした笑い声が重なって、呼吸の合わさる感覚が心地よかった。

「……なんか、あれだね。自分で云っててわかんなくなっちゃったな。なんでそんなことで自殺しようと思ってたのか」

「なら頭が冷えたってことじゃないですか」

 未開封の紅茶を飲もうとキャップを回しかけたところで、真冬の動きが不自然に軋む。

「どうしたの?」

「ぁー、えーっと……」

 ぇへへ、と上目遣いに茶色い瞳が見上げてくる。

「……開かなく、て」

「あー……ちょっと貸して?」

 はい、と頷きとともに素直に渡されたボトルの蓋を回せば、パキッ、という快音がして栓が開く。

 じっと冬也の手許を見ていた真冬の表情がぱぁっと輝いた。

「ありがとうございますっ」

「あ、いや、うん、ぜんぜん……」

 しばらくぶりに、人間らしい温かみのある言葉に触れた気がして。

 あたりまえのことをしただけなのに大袈裟にお礼を云われ、なぜかこちらがどぎまぎしてしまう。

「……そういえば、さ」

「ふふ……えぁ、はぃ?」

 ひと口飲んだだけのペットボトルを嬉しそうにぎゅっと胸に抱きしめていた真冬が、冬也の言葉に弾かれたように顔を上げる。

「キミは……なんで、消えたいって思うの?」

「ぁ……僕は…………」

 目を逸らし、視線を落として、どこか寂しそうに真冬は云う。

現代いまのひとって……機械ばっかり相手にしてて、心が欠けてる感じがしませんか」

「……する」

 自分の云いたかったことをすぱっと云ってもらった気がして冬也は思わず真冬の肩を掴んだ。

「それ思ってた!わかる、なんかみんなすっごい機械じみてるよね!!怖いくらい!!」

「ひゃ!?ちょ、ちょっと……おち、おちつ、落ち着いてください!!」

「あっ……」

 ごめん!と手を離せば、「あぁ、ぃゃ別に……びっくりしただけ、です」と目を瞬かせる真冬。

「なにか楽器やったりしてた?」

「ピアノと……お琴を少し。……冬也さんも?」

「ボクは……ピアノと、ギターかな。エレキ……」

 意外な共通点に、議論に火が点き一気に盛り上がる。

「あのあのっ、やっぱり思いますよね!?若いひとたちって、心冷たくないですか!?自分のことしか考えてないっていうか!!」

「わかるわかるっ、やっぱりおかしいよね!?それなのにボクたちのほうがおかしいみたいに扱われてさ、たまったもんじゃないよね!!」

「ほんとに!!最近の若者はどうとかってテレビで偉そうに喋ってますけど、そのなかに括られたくないですよね!」

「思うもんね!最近の若者はなんとかーって!!」

 お互い、声のボリュームなどまったく考えず感情のまま捲し立てていた。

 同じことを考え、同じような感性を持っている人間がいることに、少なからず救われた。

「……そこにいてそういう考え方を持っているだけでお互い苦しいのって、いじめられるよりつらいんですね」

「そうだね。……だって、誰も悪意なんてないからね」

 悪意なんて、害意なんて、誰も抱いていないのに。

 その考え方が、発言が、誰かを苦しめてしまうことだってあるのだ。

 自分さえよければそれでいい、という自己中心的な考え方の人間は、クラスに1人いるだけならその1人が空気読めない奴という扱いになるのだが、群れてしまえばそちらが正義になってしまう。

 それは、まわりのことを第一に考える人間にとってどうしようもなく息苦しく生き苦しいことなのである。

 自分でもなにがしたいかわからなくなって、その苛立ちを外側の、自分より弱そうな人間にぶつけてしまう、いわゆる尖っている時期というのは誰にでもある。誰も悪くないから、不調和が生むストレスは結局自分の内側に向いてしまう。

「ボクがなにをしたっていうんだろうなぁ……。自分さえいなくなればいい、って思っちゃうことって、やっぱりあるよね」

「そうですね、……でも、それって悔しくないですか?」

「ぇ……?」

 思わず真冬に目を向ける。

 悔しい、という言葉の選び方が、冬也にとっては途方もなく意外なものだったのだ。

 下ではなく上、薄青い空を斜めに見上げるその横顔は、どことなく消えてしまいそうな薄さを孕んでいた。

「だって、……僕らが死んだら、あの方々の傍若無人な振る舞いに待ったをかける人はいなくなっちゃうんですよ。向こうからしたら願ったり叶ったりかもしれない、死んじゃったらあいつらの思う壺かもしれないじゃないですか……そんなの……僕は悔しい」

「……そっか。…………そうかも。云われてみれば……そうだね、ボクもだんだん腹が立ってきた」

「でしょう?」

 ふわり、と真冬がこちらを振り仰いだ。

 死にたいと思うということは、まだ心が死んでいないことの証拠である。

 身体が悲鳴をあげるより先に心が限界を迎えてしまった人間は、死にたいを通り越して消えたいと思うものだ。死にたいと思うことも、心身ともに生きていないとできない。

「消えたくて消えたくてしかたなくなって、でも死ぬならともかく消え去ることってできないから。それに、僕が今日もこうやって生きていることこそが、僕を受け容れない彼らへの、なによりの報復になるんじゃないかと思って」


 だから僕は────復讐のために、今日も生きてる。


 そう云って微笑む少女は、儚さと、終わりを知っているからこその美しさを纏っていた。

 緩やかで翳りを帯びた復仇のために生きることを選んだ真冬は、冬也なんかよりもずっとずっと、大人だった。

「……復讐のため、かぁ」

 思い返せば、なんのために生きているのかわからないような人生だった。

 今からでも、やり直せるだろうか。

「でもね、冬也さんが僕と同じ理由で生きていく必要はないと思います」

「ぇ?……じゃあボクは、どうしたらいいの……?」

 助けを求めるような、媚びるような響きを含んだ声に、自分でも嫌悪が込み上げる。

 人生の後輩に、自分はなにを訊いているんだ。

 そんな冬也の胸中も露知らず、「そうですねー」と真冬は笑顔でこちらを振り向いた。


「なんのために生きているのか、って、……その問いに、答えじゃなくて、答えを返せるように生きてくださればいいと思いますよ」


「……ボク、だけの、答え……」

「はい」

 変わってもいい、はっきりしてなくてもいいから、ちゃんと、を持ってください。

 そう云って微笑う少女は、やはり月下美人のように何者にも染まらぬ純白の意思を持っていた。







 よく来るって、云ってたのにな。

 自殺をやめた冬也が、そのあと何度同じビルに足を運んでも、真冬に逢うことはできなかった。

 もしかしたら神さまがボクに見せてくれた、自殺を止める妖精さんだったのかな、なんて思っていた。







 21歳。

「内定……もらったよって、春から社会人だよって、云いに来たけど……やっぱりいないよなぁ」

「いますよ」

 飴玉を転がすような、忘れもしない声に振り返れば、


「……ぁ」


「お久しぶりです、真冬です。しばらく学校行ってみてました、……覚えてますか?」


「忘れるわけない……」

 思考なんて飛んでいた。

 小さな身体を抱き寄せて、ぎゅぅっ、と力をこめる。

「ちょ、ちょっと、……もう」

 困ったように声を上擦らせて、でも最終的には抱きしめ返してくれるこの少女が、もう引き返せないほどに愛おしい。

 キミに出逢えてよかった。

 自殺しなくてよかった。

「ありがとう……それとね、」


 好きだよ。


 少し屈み込んで耳許で囁くと、強めに胸を押し返された。

「そういうことは……ちゃんと目を見て云ってくださいよ」


 僕も、冬也さん、好きですよ。


 冷たい風にほんのり色づいた頬と潤んだ瞳は、2年越しの淡い両片思いを繋いだ。


 ねぇ、ボクは、キミに会うために、今日まで生きてきたんだよ。


 これからは、キミのために生きてもいいかな。








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Edge 中原 緋色 @o429_akatsuki

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