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朝はやく、千穂は杏奈に連れられて、家のそばのささやかな丘をのぼった。
「いい眺めでしょ」
杏奈が澄んだ青空を仰ぎ、腕をいっぱいに広げて言った。片手にはスコップを、もう片手には籠を持っていた。籠には布に包んだ胎児が入っている。
この丘には、死んで産まれてきた子の墓を作ってあげようという杏奈の思いつきで来たのだった。それを聞いた千穂は、すぐに賛成した。
真似て千穂も腕を広げ、清潔な空気を吸い込んだ。丘は乾いた色合いの草原で、目の前には海がどこまでも広がっていた。千穂は遠くに目をやって、水平線と空のぼんやり触れ合うやさしい青を、見るともなく見た。丘の頂上には蕾をつけた一本の木があった。
「これ、なんの木?」
千穂はそう言いながら、幹に触れた。冬の朝の寒さで、凍ったようにひんやりしていた。
しゃがんでいた杏奈は振り返って、
「桜の木」
「これでここの春が綺麗なのね」
「そう。あったかくなったら見においでよ」
「うん」
千穂はうなずきながら、きっと来ないだろうと、曖昧に考えていた。杏奈も、本当に誘っているわけでも、来ると期待してるわけでもなく、気まぐれに言ってみただけだろうと思った。自分たち姉妹の心はそういう風に癖づいている。かなしくもないのに会いはしないし、会っても路傍からかなしみにそっと手を添えるだけだ。
咲き乱れるこの桜の木を見られない。そんなことが千穂は妙に憂鬱で、蕾だけでもよく見ておこうと、垂れた枝の先に背伸びして顔を近付けた。淡い匂いがした。艶めかしいほど甘い花の匂いが、弱々しいおかげで清純な感じだった。
「はい、できた」
杏奈の声がして、千穂は彼女の方に歩み寄った。
土がひとところだけ小さく盛り上がっていて、名も知らぬ鮮やかな橙色の花が、一輪だけ挿してあった。道すがら、杏奈がひょいと摘んだものだった。
その時、千穂は彼女に聞いた。
「どうするの、それ」
杏奈はまっすぐな眼差しで花を見つめながら、
「綺麗でしょ。この子にお供えしてあげるの」
そう無邪気に頬を綻ばせる杏奈の横顔に、千穂は清らかな魂を感じた。罪も苦しみもすべてゆるしてくれる天女に見えた。
そして、杏奈の手によってできた墓を前にして、千穂のなかで杏奈はいよいよ輝いた。さみしい放蕩の生活に身ごもり、この穢れた身体から流れ出た死児を、海の青の広がる丘の上に、橙色の花で弔ってくれる。自分のなにもかもが、杏奈の慰安の手で透明になっていくようだった。
「ありがとう」
千穂のもらした声に、杏奈はなんでもないことのように笑いながらかぶりを振った。
「この子もここならつらくないよ。お花も毎日わたしがかえてあげる」
「おねがいね」
すがるような千穂の声は、微かに震えていた。この子の花を杏奈がかえる時、自分は男の家の花に水をやっているだろう。ふとそんな風に思い巡ると、わけもなくかなしかった。
涙をぽろぽろこぼす千穂にちらと目をやって、杏奈は慰めるように明るく破顔した。
「それに、ここは春が綺麗だから。桜は咲くし、海はきらきらするし、波の上を蝶々が飛んでることだってあるんだよ」
そう話す杏奈の吐息は、冬の空気のなかで、白く揺らめいた。彼女は千穂の頭をそっと撫でた。
「この息が透明に色づく頃に……」
桜の蕾の匂える朝に しゃくさんしん @tanibayashi
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