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 僕たち三人は、朝食か昼食か分からない食事を済ませると、家を出た。

 のどかな淡い青空が、アパートの廊下から見えた。ゆるやかに透明の膜を纏っているような、春らしい空だった。

 古びた階段は一歩ごとに軋んだ。アパートの前で、紀子がブラジャーの位置をなおすように胸元に手をやりながら言った。

「じゃあ、島崎くん、悪いけどよろしくね」

 それから彼女はしゃがみこんで、チエの頭にぽんぽんと手を置き、

「今日一日、このお兄さんの言うこと、よく聞くのよ。もしかしたらこの人、チエちゃんのパパかも」

 僕は煙草を咥えながら、横から口を挟んだ。

「子どもに馬鹿なこと言うなよ。本気にしたらどうする」

 紀子がしゃがんだままこちらを見上げた。

 チエは、わけが分からないというように、僕と紀子の顔を交互に見ていた。なぜか、どことなく楽しげでもあった。

「いいじゃん、それはそれで」

「よくねえよ。僕が父親をできるように見えるか」

「私だって、ママっぽくないでしょ。でもママなんだもん」

 紀子は乾いた口ぶりでそう言い、すっと立ち上がった。

「帰ってきたらさ、家の鍵は閉めてないから、好きにして」

「好きにして?」

「チエちゃんと一緒に私のこと待っててくれてもいいし、新幹線で帰っちゃうんなら、それでもいいし」

「帰るよ」

「そ、わかった」

 紀子は軽く頷いた。

 彼女は、こちらに子どものようにぶんぶん手を振りながら去っていった。それを見送ってから僕は、アパートの前に昨夜から停めっぱなしにしてあった車に乗った。

 チエはぼうっと立ちつくしていた。いつまでも紀子の歩いて行った方を眺めていた。

「おい、お前も乗れ」

 運転席の窓を開けて声をかけると、チエはこくりと頷いて、助手席に乗った。子どもを乗せるなんて、初めてのことだった。僕は何となく、火をつけたばかりの煙草を灰皿に押し込めて、両手でかたくハンドルを握り、走り出した。

 助手席のチエは、ついさっきまでの愚図が嘘のように、けろりとしていた。窓の向こうを流れていく景色に、目を開いていた。子どもらしい可憐な移り気だった。

 さっき耳にしたチエの泣き声が、紀子の快楽の瞬間のそれとひどく似ていたのを、僕はふと思い出した。

 チエは今日、紀子に牧場に連れて行ってもらうのを楽しみにしていたのだった。それを紀子は忘れて、太田さんと約束をしてしまっていた。

 牧場に行けないと紀子に告げられた途端、彼女の手にあった食パンをチエは叩き落とした。

「いや、ママの嘘つき、いけず」

 憎しみに潤んだ眼に睨まれて、紀子は困ったように微笑んでいた。

「ごめんねえ、でも、しょうがないの」

 そう言って宥めるように髪を撫でる紀子の手を、チエは鋭く払った。そして、また何か言おうとするように口を開いたが、言葉はなかった。悲しみの火花が弾けるように、小さな身体いっぱい泣いた。

 叫ぶチエと困り果てる紀子をしばらく眺めて、僕は仕方なく口を開いた。

「チエ、お兄さんが連れてってやろうか、牧場」

 チエはぴたりと泣き止んだ。不安げにこちらを振り返った。

「嘘じゃないよ。連れてってやる」

「ほんと?」

 僕が頷くよりも先に、チエはそわそわと歓びをあらわした。見知らぬ大人に警戒や怯えのない、純潔の心が僕をまた慰めた。僕は頷きながら、全てをゆるすような心持ちさえ起きた。

 彼女はすぐ、躍るような足取りで、僕の膝の上に飛び込んできた。

 幼子のささやかな重みと、昼寝を誘う陽だまりのような温かみとが、じんわり滲んだ。僕は自然と、彼女の小さな頭に手を添えていた。細い髪はすっきりと冷たかった。

「あのね、チエね、ひつじとあそぶんだ。おにいさんなにとあそびたい?」

「そうだなあ。チエが遊ぶのに混ぜてもらおうかな」

 髪を弄びながらそう言うと、チエは僕の膝の上で、涙に濡れたままの頬を綻ばせた。

「いいの? そんなこと頼んで」

 紀子が、チエをちらと見てから、僕に言った。

「うん、いいよ。たまにはこういう子と明るいところを歩いてみたいよ」

 その言葉は、少なくとも僕から見て、真実らしかった。心のままの言葉を口にしたのも、チエの可憐につられたのかもしれない。

「じゃあお願いしよっかな」

 紀子は甘えるようなやわらい口ぶりで言った。

 その時の彼女の、悪びれもしない顔つきを、僕は助手席のチエに目をやって思い出していた。同じ無邪気さなのに、そして血を分けた母と娘であるのに、どうしてこうも光と影の違いがあるのだろう。紀子を醜いとするつもりはないが、今の僕に生を与えてくれるのはチエだろう。昨夜から長いこと遠ざかっていた土地にいて、紀子をはじめ、しがらみが幾つもよみがえったせいで、僕は疲れているのかもしれない。

「おにいさん」

 景色を見つめるチエが、おもむろに口を開いた。

「もうすぐつく?」

「いや、まだ。三十分ぐらいだな」

「さんじゅっぷん?」

 チエがこちらを振り向いて、丸々として小さな両手を広げた。

「ええっと、ごふんがひとつ……」

 ほのぼのとした眉根を寄せて、指折をする。しばらくしても、そのまま納得しないので、僕は小さく笑いながら、

「三十分は、テレビのアニメが一つくらい」

「もうすぐ! もうすぐ牧場! あったかいひつじさん」

「そうそう」

 僕は、退屈させないようにという思いもあって、チエに聞いた。

「でも、チエはなんで牧場なんて行きたいの」

「ううん、なんでだったかなあ」

 チエは、花の蕾のように初々しい唇を突き出して、少し黙り込んでから、

「このあいだね、おうちのなかにね、ちょうちょがとんでたんだ。それでね、チエね、いっぱいおはなししたの」

「話した? 何を?」

「ちょうちょね、牧場からきたっていってたの。それでね、牧場にはひかる風がふいててね、ひつじさんがたくさんくらしててね、とってもいいとこなんだって。草もお花も、みんなずっとかれないんだって」

 僕の脳裏に、ひらひらと舞う蝶とチエの幻が浮かんだ。あの古ぼけた静かなアパートの一室に、そのような清らかでやさしい語らいがあるなら、それだけでこの世はすばらしいものかもしれない。

「ふうん。それで牧場に行きたいのか」

「うん。とってもきれいな羽のちょうちょだったから、またあえたらいいなあ」

「見つかるといいね」

「あえなくても、どこかのきれいなお花にいたらいいんだ」

「会えなくてもいいの?」

「うん。ときどきね、とおくからね、羽のおとがきこえるもん。雲があるくのとおんなじおとなの。たのしいおとなの」

「それはいいなあ。僕も聞いてみたいなあ」

「きこえたらおしえてあげるね」





 牧場は小さな遊園地のようなもので、アトラクションこそないが、童話のような温かみのある建物が並んでいた。のどかなレンガ造りの家で、農産物を売っていたり、またあるところはレストランだったりした。白い噴水もあった。いかにもヨーロッパの田舎で奏でられていそうな、ほのぼのとした音楽がどこかから流れていた。

 色とりどりのチューリップが生き生きと咲き並ぶ道を抜けると、開けた芝生に出た。みずみずしい緑が、なだらかに小高く盛り上がりながら、どこまでも広がっていた。草が春風に微かにそよいでいた。

 低い柵があり、その向こうに羊がいた。彼らは春の陽を全身に浴びて、白い光の玉のようだった。

「ひつじさん!」

 チエが駆けだして、柵のところに止まった。そしてこちらを振り返って、

「おにいさん、はやく! だっこして」

 僕は小走りで追いついて、彼女を抱きかかえたまま柵をまたいだ。

 やわらかい草の上におろしてやると、チエは一目散に羊のところまで駆け寄り、大きく腕を広げて抱きついた。羊は悠々と草を食べていた。

「はあ、あったかい水みたい」

 チエがうっとりと目を閉じて呟いた。

「やわらかくてね、どきどきしてるのもわかるの」

 彼女の可愛らしい手が、ふんわりとした羊の毛を撫でていた。

 静かな眼でじっとしている羊と、じゃれつくチエとを、僕は芝生に腰を下ろして眺めた。純真に明るい二つの生命の戯れだった。雲の上の風景のようだった。目にしているだけで、すべてが洗われ、ゆるされるようだった。

 天使に罪を告白したいような欲望に僕は突然かられた。何かを懺悔して、それをなにもかも微笑みに包んでもらう夢が、ふっと胸に浮かんだ。

「紀子と寝てごめん」

 僕は、いつの間にか、ひとりごとのように呟いていた。

 チエが羊の背中に乗りながら、安らいだ眼のままでこちらを見た。

「どうしてごめんなさいするの? ママをかなしくしちゃったの?」

 僕は頷いた。よごれることが、かなしくないはずがないのだ。よごれずにいられぬだけだ。

「でもおにいさんもかなしそう」

 僕はまた、黙って頷いた。

 チエが羊からおりて、僕の前にぺたんと座った。

「もうしないってやくそくして?」

 チエはそう言って、小指をつきだした。

「ゆびきりね」

 僕は、触れていいものか迷ったが、彼女の小指に、自分の小指を絡めた。ほんの小さな指の、なまなましい温もりと甘いやわらかさから、純粋な生命が滲んだ。幼子のやさしさが果てしなく僕をひたした。魂が弾んでくるようであった。

 もう二度と紀子と会うことはないだろう。いや、紀子だけでなく、誰に溺れることもないだろう。

 これから健やかに生きられると、僕は思った。

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羊の毛 しゃくさんしん @tanibayashi

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