2
僕たち三人は、朝食か昼食か分からない食事を済ませると、家を出た。
のどかな淡い青空が、アパートの廊下から見えた。ゆるやかに透明の膜を纏っているような、春らしい空だった。
古びた階段は一歩ごとに軋んだ。アパートの前で、紀子がブラジャーの位置をなおすように胸元に手をやりながら言った。
「じゃあ、島崎くん、悪いけどよろしくね」
それから彼女はしゃがみこんで、チエの頭にぽんぽんと手を置き、
「今日一日、このお兄さんの言うこと、よく聞くのよ。もしかしたらこの人、チエちゃんのパパかも」
僕は煙草を咥えながら、横から口を挟んだ。
「子どもに馬鹿なこと言うなよ。本気にしたらどうする」
紀子がしゃがんだままこちらを見上げた。
チエは、わけが分からないというように、僕と紀子の顔を交互に見ていた。なぜか、どことなく楽しげでもあった。
「いいじゃん、それはそれで」
「よくねえよ。僕が父親をできるように見えるか」
「私だって、ママっぽくないでしょ。でもママなんだもん」
紀子は乾いた口ぶりでそう言い、すっと立ち上がった。
「帰ってきたらさ、家の鍵は閉めてないから、好きにして」
「好きにして?」
「チエちゃんと一緒に私のこと待っててくれてもいいし、新幹線で帰っちゃうんなら、それでもいいし」
「帰るよ」
「そ、わかった」
紀子は軽く頷いた。
彼女は、こちらに子どものようにぶんぶん手を振りながら去っていった。それを見送ってから僕は、アパートの前に昨夜から停めっぱなしにしてあった車に乗った。
チエはぼうっと立ちつくしていた。いつまでも紀子の歩いて行った方を眺めていた。
「おい、お前も乗れ」
運転席の窓を開けて声をかけると、チエはこくりと頷いて、助手席に乗った。子どもを乗せるなんて、初めてのことだった。僕は何となく、火をつけたばかりの煙草を灰皿に押し込めて、両手でかたくハンドルを握り、走り出した。
助手席のチエは、ついさっきまでの愚図が嘘のように、けろりとしていた。窓の向こうを流れていく景色に、目を開いていた。子どもらしい可憐な移り気だった。
さっき耳にしたチエの泣き声が、紀子の快楽の瞬間のそれとひどく似ていたのを、僕はふと思い出した。
チエは今日、紀子に牧場に連れて行ってもらうのを楽しみにしていたのだった。それを紀子は忘れて、太田さんと約束をしてしまっていた。
牧場に行けないと紀子に告げられた途端、彼女の手にあった食パンをチエは叩き落とした。
「いや、ママの嘘つき、いけず」
憎しみに潤んだ眼に睨まれて、紀子は困ったように微笑んでいた。
「ごめんねえ、でも、しょうがないの」
そう言って宥めるように髪を撫でる紀子の手を、チエは鋭く払った。そして、また何か言おうとするように口を開いたが、言葉はなかった。悲しみの火花が弾けるように、小さな身体いっぱい泣いた。
叫ぶチエと困り果てる紀子をしばらく眺めて、僕は仕方なく口を開いた。
「チエ、お兄さんが連れてってやろうか、牧場」
チエはぴたりと泣き止んだ。不安げにこちらを振り返った。
「嘘じゃないよ。連れてってやる」
「ほんと?」
僕が頷くよりも先に、チエはそわそわと歓びをあらわした。見知らぬ大人に警戒や怯えのない、純潔の心が僕をまた慰めた。僕は頷きながら、全てをゆるすような心持ちさえ起きた。
彼女はすぐ、躍るような足取りで、僕の膝の上に飛び込んできた。
幼子のささやかな重みと、昼寝を誘う陽だまりのような温かみとが、じんわり滲んだ。僕は自然と、彼女の小さな頭に手を添えていた。細い髪はすっきりと冷たかった。
「あのね、チエね、ひつじとあそぶんだ。おにいさんなにとあそびたい?」
「そうだなあ。チエが遊ぶのに混ぜてもらおうかな」
髪を弄びながらそう言うと、チエは僕の膝の上で、涙に濡れたままの頬を綻ばせた。
「いいの? そんなこと頼んで」
紀子が、チエをちらと見てから、僕に言った。
「うん、いいよ。たまにはこういう子と明るいところを歩いてみたいよ」
その言葉は、少なくとも僕から見て、真実らしかった。心のままの言葉を口にしたのも、チエの可憐につられたのかもしれない。
「じゃあお願いしよっかな」
紀子は甘えるようなやわらい口ぶりで言った。
その時の彼女の、悪びれもしない顔つきを、僕は助手席のチエに目をやって思い出していた。同じ無邪気さなのに、そして血を分けた母と娘であるのに、どうしてこうも光と影の違いがあるのだろう。紀子を醜いとするつもりはないが、今の僕に生を与えてくれるのはチエだろう。昨夜から長いこと遠ざかっていた土地にいて、紀子をはじめ、しがらみが幾つもよみがえったせいで、僕は疲れているのかもしれない。
「おにいさん」
景色を見つめるチエが、おもむろに口を開いた。
「もうすぐつく?」
「いや、まだ。三十分ぐらいだな」
「さんじゅっぷん?」
チエがこちらを振り向いて、丸々として小さな両手を広げた。
「ええっと、ごふんがひとつ……」
ほのぼのとした眉根を寄せて、指折をする。しばらくしても、そのまま納得しないので、僕は小さく笑いながら、
「三十分は、テレビのアニメが一つくらい」
「もうすぐ! もうすぐ牧場! あったかいひつじさん」
「そうそう」
僕は、退屈させないようにという思いもあって、チエに聞いた。
「でも、チエはなんで牧場なんて行きたいの」
「ううん、なんでだったかなあ」
チエは、花の蕾のように初々しい唇を突き出して、少し黙り込んでから、
「このあいだね、おうちのなかにね、ちょうちょがとんでたんだ。それでね、チエね、いっぱいおはなししたの」
「話した? 何を?」
「ちょうちょね、牧場からきたっていってたの。それでね、牧場にはひかる風がふいててね、ひつじさんがたくさんくらしててね、とってもいいとこなんだって。草もお花も、みんなずっとかれないんだって」
僕の脳裏に、ひらひらと舞う蝶とチエの幻が浮かんだ。あの古ぼけた静かなアパートの一室に、そのような清らかでやさしい語らいがあるなら、それだけでこの世はすばらしいものかもしれない。
「ふうん。それで牧場に行きたいのか」
「うん。とってもきれいな羽のちょうちょだったから、またあえたらいいなあ」
「見つかるといいね」
「あえなくても、どこかのきれいなお花にいたらいいんだ」
「会えなくてもいいの?」
「うん。ときどきね、とおくからね、羽のおとがきこえるもん。雲があるくのとおんなじおとなの。たのしいおとなの」
「それはいいなあ。僕も聞いてみたいなあ」
「きこえたらおしえてあげるね」
牧場は小さな遊園地のようなもので、アトラクションこそないが、童話のような温かみのある建物が並んでいた。のどかなレンガ造りの家で、農産物を売っていたり、またあるところはレストランだったりした。白い噴水もあった。いかにもヨーロッパの田舎で奏でられていそうな、ほのぼのとした音楽がどこかから流れていた。
色とりどりのチューリップが生き生きと咲き並ぶ道を抜けると、開けた芝生に出た。みずみずしい緑が、なだらかに小高く盛り上がりながら、どこまでも広がっていた。草が春風に微かにそよいでいた。
低い柵があり、その向こうに羊がいた。彼らは春の陽を全身に浴びて、白い光の玉のようだった。
「ひつじさん!」
チエが駆けだして、柵のところに止まった。そしてこちらを振り返って、
「おにいさん、はやく! だっこして」
僕は小走りで追いついて、彼女を抱きかかえたまま柵をまたいだ。
やわらかい草の上におろしてやると、チエは一目散に羊のところまで駆け寄り、大きく腕を広げて抱きついた。羊は悠々と草を食べていた。
「はあ、あったかい水みたい」
チエがうっとりと目を閉じて呟いた。
「やわらかくてね、どきどきしてるのもわかるの」
彼女の可愛らしい手が、ふんわりとした羊の毛を撫でていた。
静かな眼でじっとしている羊と、じゃれつくチエとを、僕は芝生に腰を下ろして眺めた。純真に明るい二つの生命の戯れだった。雲の上の風景のようだった。目にしているだけで、すべてが洗われ、ゆるされるようだった。
天使に罪を告白したいような欲望に僕は突然かられた。何かを懺悔して、それをなにもかも微笑みに包んでもらう夢が、ふっと胸に浮かんだ。
「紀子と寝てごめん」
僕は、いつの間にか、ひとりごとのように呟いていた。
チエが羊の背中に乗りながら、安らいだ眼のままでこちらを見た。
「どうしてごめんなさいするの? ママをかなしくしちゃったの?」
僕は頷いた。よごれることが、かなしくないはずがないのだ。よごれずにいられぬだけだ。
「でもおにいさんもかなしそう」
僕はまた、黙って頷いた。
チエが羊からおりて、僕の前にぺたんと座った。
「もうしないってやくそくして?」
チエはそう言って、小指をつきだした。
「ゆびきりね」
僕は、触れていいものか迷ったが、彼女の小指に、自分の小指を絡めた。ほんの小さな指の、なまなましい温もりと甘いやわらかさから、純粋な生命が滲んだ。幼子のやさしさが果てしなく僕をひたした。魂が弾んでくるようであった。
もう二度と紀子と会うことはないだろう。いや、紀子だけでなく、誰に溺れることもないだろう。
これから健やかに生きられると、僕は思った。
羊の毛 しゃくさんしん @tanibayashi
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