羊の毛

しゃくさんしん

1


「朝ごはん食べてくでしょ。っていっても、もう昼前だけど」

 紀子が僕を揺り起こして言った。その言葉に家庭の匂いはなく、どこか子どものままごとじみて聞こえた。

 布団にもぐったまま、辺りに散らばっていたシャツとジーパンを取って着た。座って煙草を吸っているうちに、残る眠気と微かな二日酔いが、五月とはいえ朝の寒さで、すっかり洗い落とされた。

 卓袱台に皿とコップを置きながら、紀子がこちらを振り返った。

「食パンにイチゴジャム塗っといたよ。昔から好きだったでしょ?」

「好きなのはマーマレードだよ。お前は昔からいい加減だな」

 そう答えると、紀子は別に謝るでもなく、軽やかに笑った。物を気にするということがないのも、昔からの彼女だった。

 同窓会の席に並んでいた顔ぶれで、中学時代と変わるところのないのは、紀子くらいだった。

 卒業してから初めて会い、母親になったと聞いても、どうにも信じ難かった。彼女の黒の深い丸い目もあの頃そのままだった。鉄屑が機械になったように大人びた旧友たちの喧騒の中で、その二つの目玉は、浮気にあちこちを移ろいながら、しかし何も見ていないようにぼんやりしていた。

 僕がこうして彼女の部屋に転がり込んだのも、そのせいだったかもしれない。あどけないままの紀子の姿に、生きる屍のように静かに腐っていくだけの僕は、甘い安堵を誘われたのだろうか。

 紀子の肉体も、かつてとほとんど違いはなかった。子どもを産んだせいで、少女の頃よりも乳はいくらか張っていたが、肉体を波打たせながら発する声や涙はそのままだった。母親であるはずなのに泣き声が幼かった。

 僕は紀子と向き合って食パンを食べた。

「島崎くん昔と全然キスの癖変わんないね」

 食事中に露骨なことを言い出す紀子に、らしいといえばらしいが少し面食らって、僕は短く答えた。

「そうか。お前もだよ」

「ふうん。私、癖あるかな」

 考え込むように、紀子の顔つきがぼうっとした。水のように柔らかい唇の端から、食パンの屑がぽろりとこぼれ落ちた。

「誰でも多少あるだろ」

 僕は投げやりに答えた。

 ふと、床に新聞が一つ無造作にあるのが目についた。僕は話を変えようと、それを手に取ってみた。

「意外だな。新聞なんかとってんのか」

「ううん」

 紀子が首を横に振り、事もなげに言った。

「それ太田さんが置いてった」

「太田? 誰」

「覚えてない? 二つ上の、一番怖かった……」

「ああ、あの、オールバックだった人か?」

「そうそう」

「そっか、太田って名前だっけか、あの人」

「地元離れてると、名前とか忘れちゃうんだね」

 紀子がなぜか茶化すような口ぶりで言った。

 太田だけでなく、誰が相手であれ、流されるがまま身を許すのが紀子だったと、僕は今更ながら思い出した。

 僕たちが二十歳になった今でも関係があるのは意外だが、どちらもこの土地に残っているのなら、不自然なことではないのかもしれない。

 僕は目の前の、小さな手と口で食パンを食べている紀子を見つめて、この女は母となった今、幾人の男と交わりを持っているのだろうと、どうでもいいことを思った。

 手に取った新聞を見ると、三か月前のものだった。

「長いこと会ってないのか、太田さんとは」

「なんで?」

「新聞が古いから」

「ドラマの探偵みたいなことしないでよ」

 紀子はくすくす笑いながら、

「そんなことないよ。今日もこの後約束してるし」

「え、ここに来んの? 何時?」

「違う違う、出かけるの。島崎くんはゆっくりしてくれてていいよ」

「いや、でも飯食ったら帰るよ」

「そ、残念」

 紀子は拗ねたように唇を尖らせた。しかし、半ばどうでもよさそうでもあった。そういう空虚は、彼女のどんな表情にもあるものだった。

「今日も泊まってけばいいのに」

「んなわけにいくかよ、新幹線もとってるし」

「そっか」

「それに、今日は太田さんが来るんじゃないの?」

「どうだろ。まあそれでも、三人で寝れば問題なかったんだけど」

「馬鹿言うな」

「え、なんで?」

 紀子が犬のようなぽかんとした面持ちをこちらに向けた。

 僕はなにも答えなかった。

 そんな趣味はないと、真面目に答えるのも馬鹿げているような気がした。

 黙って食パンを食べ終えようとしていると、紀子の後ろにある、部屋の引き戸が開いた。

 出てきたのは幼い女の子だった。

 寝ぼけているらしく、ひよこのような頼りない足取りで、紀子の膝の上に座った。

「ああチエ、起きたの」

 チエというその女の子は、紀子の身体に抱かれて、また眠りに落ちそうだった。

「その子がお前の娘か」

 僕は、女の子の清冽な可愛らしさに驚きながら、ひとりごとのように呟いた。紀子が女の子の寝癖のついた髪を撫でながら頷いた。

 彼女に子どものあることは、昨夜の会のうちに聞いていたが、僕にはチエという幼子が本当に紀子の娘か疑わしかった。

 チエの美しいせいだった。

 紀子は夫がなかった。つまりチエには父がない。子どもができてから縁を切られたとかではなくて、誰の子か分からないのだと、紀子は昨夜、官能の後の倦怠にまぎれて僕の腕の中で言っていた。

 チエの美しさは、そのような出生とはまるで結びつかなかった。たんぽぽの綿毛のようにふっくらとしたいじらしさで、野原に花の咲くのと一緒に清い土から生まれたという方がむしろ信じられた。

 僕がチエを見つめているのに気付いた紀子は、悪戯っぽく歯を見せて笑った。

「なあに、生き別れた自分の娘がかわいくて仕方ないの」

「くだらないこと言うな、僕の娘のはずがあるか」

「そうだっておかしくないじゃん」

「なに」

「だってこの子が私のお腹にいるのが分かったの、中学卒業してすぐだもん」

 僕と紀子との関係は、中学の卒業までだった。

 しかし、僕がチエを僕と紀子の娘だと思わない理由は他にあった。

「そんな問題じゃない。僕とお前の間に子どもができて、こんなに美しいはずがない」

 しかし僕は、チエの母が紀子であるということも、辻褄の合わないことのように感じていた。

「よかったね、チエ。このお兄さん、チエのこと、かわいいって」

 紀子がチエの紅いほっぺを指でふにふにと押した。チエはまだ眠たそうにしながら、紀子の言葉が嬉しいのか指のじゃれてくるのが嬉しいのか、ぼんやりと笑った。

「ママ、このひと、だあれ?」

「ママの昔のおともだち」

「ふうん」

 チエはこちらをじっと見つめてから、やさしく頬をゆるめた。

「こんにちは、森島チエです」

 お遊戯会の台詞のような、なだらかな言い方だった。胸の温かく染まるようで、僕は思わず微笑んだ。

「チエ、いまいくつ?」

 僕がそう聞くと、彼女は指を三つ立てた。

 すぐに、紀子が可笑しそうに頬を綻ばせた。

「四つでしょ」

「なんだチエ」

 僕は揶揄うように言った。

「自分の歳も知らないのか」

 紀子が、まるで女友達と猥談をするような親しい笑みを、チエに向けながら言った。

「ちがうの、この子、いっつも歳を少なく言うの」

「なんで?」

「なんでって、女の子だから」

 チエは嘘を暴かれた恥ずかしさからか、紀子の胸に顔を隠していた。

 四歳の幼女が既に女であるのは、普通のことなのか、あるいは出生や生活の澱みのせいなのか、僕には分からなかった。

 しかし、幼い羞恥に赤らむチエの丸い頬が、ぱっと目に明るく咲いた。

 女の清濁から清潔だけを結晶したようにみずみずしい色彩であった。

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