第1章 死後の世界で
(1)
頭の揺らぎを感じながら僕は目を覚ました。目を覚ましたといっても真っ暗で何も見えない。周りの音が少しだけ聞こえる程度だ。
起きた場所はベッドの上だろうか、妙にふかふかして気持ちがいい。
周りが騒がしい気がするが、そんなことはどうでも良かった。
その心地よさに満足し、また寝ようとした。
そのときだった。
耳元に吐息を吹きかけられたときのような、ぞわぞわする感覚があった。
「頑張れ」
男の声だ。直接話しかけているのだろう、太い声が耳をえぐる。
「目を開けるには少し時間がかかる。もう少しだ、待ってろ」
目が開けられない? そうか、と思った。目を開けている感覚はあったが、開けていない事実はそれほどには気にならなかった。
もう死んでいるのだから。
男の声はそれ以上聞えなかった。
数分後。彼の言っていた通り、黄色い、もっとよく言えば、薄い白熱電球のような光が見えた。
眩しくて目が痛い。
この感覚は家から出たあの日と同じだ。
まだ完全に外が見えてなかったが足を動かす。
――どうも安定しない。寝心地の良いベッドでも脚は悪いらしい。
そっと立ち上がろうとしたが、やはり安定しないので、おもいっきり立ちあがった。
しかしベッドは、足をふらつかせる。倒れるな、倒れるな、と暗示をかけてみたが、健闘むなしく身体は後ろに倒れていた。
「おっと、大丈夫か?」
倒れる寸前、右腕を誰かがつかんだ。腕を借りて体勢を元に戻す。しかし、足もとが安定しない。
「した、下見ろ」
誰かにそう言われ、思い切り目を凝らしてみた。
重いと叫びながら苦しんでいる、小太りの男性が二人、下敷きになっていた。
二人から足を退ける。地に足をつけている感覚が自然と沸き上がった。
「ごめんなさい」
ううう、と叫びながら立ち上がる小太りの男性二人に、僕は迷わず謝った。謝るべきかと問われると、なぜ彼らの上で寝ていたかもわからないために、謝る必要はないとは思ったが、ベッドと思っていたためと礼儀のために一応。
彼らも悪気がないのがわかっていたためか「大丈夫」とだけ言って、この場から立ち去っていった。彼らの後姿を見ながら、僕は周りを見渡した。
「…………うん、凄い」
どうやら僕は扉の前で寝ていたらしい。
やはりここは、どこかおかしい。
そうは思いながらも、また、死んだという事実を噛みしめ、扉を見ていた。
小学生並みの感想と誰かが言うかもしれない。
ただ、扉を見て初めて口に出していた言葉が、小学生でも理解できる日本語しか出ない程、僕は扉に圧倒された。その扉は豪華絢爛に装飾され、その中でも文様が一番きれいだった。
他の場所を見るため目を凝らす。よく見ると、今いるこの場所はホールのような部屋になっていて、とても広かった。千人くらいは余裕で入れそうな感じがする。見える範囲でも百人ぐらいはいるだろう。お酒だろうか、飲食をしている人や、オセロや将棋などで遊んでいる人もいた。映画館にあるような大きなモニターもある。そのところには三十人くらいがモニターまじまじと見て、涙を流している。どんな映画を観ているのかとモニターを見たが、まだ目が慣れていないためか、黒く真っ暗で何も見えなかった。
「ねぇ、君」
聞き覚えのある男の声に僕は目を向けた。いかつい。一言で彼を表現するならこの言葉しかないだろう。生前はボディーガードでもしていたのだろうか。目の前にいた男性は、立っているだけでも圧倒されそうな迫力があった。
「ごめんなさい、気がつかなくて」
そっと手をはなす。下手をしたら殺されかねない。死んでいるから、死ぬことはないのだけれど。
「大丈夫、大丈夫。怯えなくていいよ。これでも彼はいい人だから」
いかつい男の隣で、眼鏡をかけた黒髪の女性が言った。
スーツをきちんと着こなし、眼鏡をあげる姿から、生前は秘書や弁護士のような真面目な仕事をやっていたのだろう。言葉から強気な説得力を感じる。
「いえ、助けてもらったので、いい人だってことはわかっています」
「それはよかったわ。初めてこの人と会った人は全員、怯えてしまうもの。私でも最初はびっくりしたくらいなんだから。それでも長年一緒にいるとわかるものだけどね」
「話はそれくらいでいいか?」
いかつい男が口を挟む。頬を少し赤らめると、ゴホンと大きな咳をたてた。
「さてとだ」
いかつい男が軽く呼吸を整える。そして、この場所全体に聞こえるような声で叫んだ。
「ようこそ死後の世界に。我々は君を歓迎するよ!」
「――――」
無音。彼が発してから、数秒。小言さえ聞こえない。聞こえたのは、死後の世界だということを確信して出た、僕の溜息くらいだった。
どうせなら異世界だと言ってくれた方が良かった。
周りの人たちは歓迎ムードではない。当然だ。皆何かしらの理由で、生きたかったのに亡くなっている。死んだ直後の人間を歓迎なんてできるわけがないのだから。
それでも、いかつい男だけは当然のような顔で笑いだした。
「いや、すまない。来て間もないのに歓迎なんて出来るわけがないよな」
「いえ、大丈夫ですよ」
上機嫌で笑う、いかつい男に、不謹慎さをおぼえながら苦笑いをする。
どうもこの空気には耐えられない。
彼の隣にいた眼鏡の女性も、呆れたのか遠くの方へと行ってしまった。近くに座っていた人たちも恐る恐る逃げて行く。
逃げたい。
しかし身動きが上手くとれず、最終的にはいかつい男との二人きりとなってしまった。
「いや、君も大変だったろうにな、はっはっはっ!」
いかつい男は未だに笑っている。
なぜ笑えるだろうか?
この世界を楽しめという意味なのだろうか。
それともただ笑っているだけなのか。
「……すいません、あの――」
「どうした! 腹でもすいたか? 食事ならあそこに見えるカウンターに行け」
いかつい男は数メートル先のカウンターと思わしきところを指さしていた。カウンター付近には人が全く並んでいない。中に人がいるかどうかも分からなかった。
「いえ、違います。どうして――」
「ああ、どうしてカウンターに人がいないかって? それはな、死後の世界だからだ。ここにはありとあらゆるものが置いてある。自由に食べ、自由に遊び、自由に生きる。それが、ここのルールみたいなものだ」
「いえ、そうではなくて」
「そうではなくてなんだ? ああ、そうだな他にもいろいろと――」
だめだ。この人は話を聞いてくれそうな人じゃない。
そう思った時だった。
「頑張って」
そよ風のような優しい声と同時に、肩をたたかれたので、おもわず振り向く。
そこには見た瞬間、誰もが美少女と判断できる、同い年くらいの少女が立っていた。
艶めくロングの黒髪に純白の肌。鼻先はシュッとしていてスタイルが良い。着ている白色のワンピースが、純白のドレスのように見えてくる。清楚という言葉がとても似合いそうだ。
「この人とうまく付き合っていくのが、ここでのルールみたいなものだから」
……ルールか。
死んだ後でもルールが存在することを知っていたら、ルールに縛られたくないから自殺する人は残酷だ。この事実さえわかっていれば自殺する人なんて少なくなるだろうに――
「そんなに考え込まなくてもいいよ。これあげる」
はいっ、とグラスが手渡される。急に渡されたので落としそうになったが、どうにか耐えぬいた。グラスに入っていたのは、オレンジジュースと思わしきオレンジ色の飲み物だった。
「ありがとうございます。……えーっと」
名前を訊こうとしたが、彼女は僕に笑顔を向けた後、何も言わずに奥の席へと歩いていった。
もう一度、会いたい。
そんな思いがこみ上げてくる。
しかし僕は、彼女が椅子に座るまで後姿を見た後、いかつい男の話を聞くことにした。
「だから、そうだな。死後の世界というのは……。ああなんだ、もうこんな話はよかろう。そういえば、君の名前を聞いていなかった。君の名前は何というんだ?」
急に手を前に出してきた、いかつい男の手をよけようとして、おもわず尻もちをつく。
いかつい男がそのまま手を差し出してきたので、その手につかまって立ち上がり、僕はお礼をして名前を告げた。
「斎藤祐樹です」
「祐樹か。……そうか。うん、いい名前だ。……そうか……」
「あなたの名前は――」
いかつい男は、僕の返事を聞かず何かを呟いていた。
「ここに来たのは綾香の次か――」
ようやく理解できる程の声が聞こえたかと思うと、いかつい男は強く頷く。
そして――
「綾香、こいつを案内してやれ」
大きな声が場内にこだました。
呼びかけられた綾香と呼ばれた少女は、どこかぎこちない態度で、座っていた席からこっちへ駆け寄ってくる。
よく見ると、さっきの可愛らしい少女だった。
綾香はいかつい男の顔を見ると、悲しそうな表情を浮かべた。
「……私ですか?」
「そうだ、お前だ。しっかり案内してこいよ」
「……はい、わかりました」
綾香はそういうと、僕の手をつかんできた。
僕はつかまれた手を握り返すと、彼女は一歩一歩、歩き出した。
「ああ、忘れていた」
いかつい男はそう呟くと、綾香の肩を叩き、彼女を連れだして、耳元に顔を近づけた。
「あそこにだけは行くなよ」
彼女の耳元で囁いたいかつい男の声が、少しだけ耳に入る。
どんな場所なんだろう、行きたくてたまらない。
それから数秒、いかつい男との話が終わったのか、綾香と呼ばれていた少女は僕に笑顔を向けて手を掴んできた。
「さぁ、いこ」
僕は彼女に手を引かれ、扉を開けた。
死後の世界で君と 結城瑠生 @riru
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