ルシア聖王国<7>
オレはゆっくりと目を覚ました。
目の前にいるティアが、オレを見下ろしながら、ほっと安堵していた。
「よかった。目を覚ましたのね」
「……ティア」
起き上がろうとして、再び全身に痛みが走る。
「慌てないで。まだ完治してないんだから」
ティアは、オレの頭を支えるようにして、再び寝かせた。
彼女がオレの腹に手を置くと、その手から薄い光が灯り始める。
あれほどの激痛が、それだけでずいぶんと和らいでいくのが分かった。
「なんで来たんだ」
「だって、私は勇者のツガイだから」
そう言って、ティアはにこりと笑った。
「足手まといだと思ったら、見捨ててくれていいから。勇者は一人だけど、ツガイはいくらでも代わりがいる。少しでも役に立てるなら、私はそれで満足なの」
別れ際に言ってしまったことが尾を引いているらしい。
オレは手で目元を隠し、小さくため息をついた。
「……足手まといだなんて、オレは思ってない。お前達がいるから、オレは戦えるんだ」
それは本心だった。
彼らがどれほど精神的な支えになっているか。
仮に一人だったら、旅の途中で既に心が折れていただろう。
「……うん」
ティアは嬉しそうにしながら、オレの頭を撫でた。
◆◆◆
わたくしが聖女ともてはやされるようになる遥か前。
物心ついたころには、既にわたくしは一人ぼっちだった。
両親が誰かも分からない。施設の前に捨てられていたわたくしを、彼らは拾うしかなかった。施設のシスターたちは、そんなわたくしを厄介そうな目で見つめていた。
わたくしは、他の人とは違った。
誰が何を考えているのかがなんとなく分かったし、しおれた花を元気にしてあげることができた。
そんなわたくしを、みんなが怖がり、みんながいじめた。
大丈夫だ。12歳になれば厄介払いができる。
そんなことを、わたくしを見る大人たちは、いつも考えていた。
そんな時、いつも空想するのは、わたくしの両親だった。
母と父がいれば、きっとそんなことは考えないだろう。
わたくしがどれだけおかしくても、強く抱きしめてくれるだろう。
そんな願望にも似た空想は、わたくしの心を埋めるために、別の願望へと徐々に変化していった。
わたくしの子供には、きっとこんな思いはさせない。誰よりも愛情深く育ててあげよう。
いつの日か、それがわたくしの生きる意味になっていた。
ある日、わたくしはシスターに連れられて、ご神体の前で座らされた。
青く燃え上がる炎の中で垣間見える人のような姿。それは子供のわたくしにとって、とても恐ろしいものだった。
泣いてシスターに懇願しても出ることは叶わず、地下の扉に錠をかけられ、何日も閉じ込められた。
食料も水もない。女神様に認められれば出してあげるという言葉だけを信じて、青く燃える火の光を頼りに、私は祈り続けた。
扉が開けられた時、わたくしは餓死寸前で、何を喋ったのかもはっきりと覚えていない。
しかしその日から、わたくしは聖女候補として、大切に育てられることになった。
手のひらを返したような態度に戸惑いながらも、わたくしは粛々と決められた役割をこなしていた。
わたくしが聖女でないことは、自分自身が一番よく分かっていた。
本当の聖女なら、あんな汚い言葉で罵られることはない。両親が捨てるような、いらない子供であるはずがない。
けれど、わたくしはそれを受け入れていた。
それが勘違いであろうとなんだろうと、以前の状態に戻るよりは、ずっとマシだと思っていた。
聖女が子供を産めないという事実を知るまでは。
「聖女様。聞いてんのか?」
アランさんの言葉に、わたくしは、はっとした。
皆が、わたくしを心配そうに見つめていた。
「も、申し訳ありません。少し考え事をしておりました。何のお話でしたか?」
「だから、外よりも城に逃げた方がいいんじゃないかって話だよ。聖女様はどう考える?」
「アタシは反対だね。魔物はこの国を落とすために攻撃を仕掛けてきた。真っ先に潰すべきは軍隊だ。もはや壊滅していると考えるべきだね」
「んなこと言って、外にも魔物がうじゃうじゃいたらどうするんだよ。ここにいる奴らだけじゃなく、野生の魔物の相手もしなくちゃいけないかもしれねえんだぞ」
わたくしはしばらく考えた。
「……外に逃げましょう」
「ほらね」
クレナさんのしたり顔に、アランさんはむっとした。
「俺様が言った問題はどうするんだよ。こんな大勢の人間を守りながら戦うなんて無理だぞ」
「ですが、生き残る可能性が最も高いのは外です。列強国の援軍が、今なおこの国に向かっております。おそらく、わたくし達が頼りにできるのは彼らだけでしょう。ならリスクがあっても外に向かい、彼らと合流するべきです」
「なるほど。さすがは聖女様だ。冷静でいらっしゃる」
違う。もはやわたくしには、そんなことしかできないということだ。
魔物を倒すために、わたくしは血がにじむような修行をしてきた。でももはや、わたくしは魔物に対抗する気力がなくなっていた。
自分の無力さを痛感し、魔物の恐ろしさを体感し、とにかく逃げることしか考えられなかった。
「聖女様ってのは、加護の力も相当なんだろ? いざという時は頼むぜ」
びくりと肩が震える。
心臓が高鳴り、呼吸が荒くなる。
……駄目だ。どうしても、戦える気がしない。
その時、ぎゅっと誰かがわたくしの手を握ってくれた。
ニナちゃんだった。
心配そうに、わたくしを見上げている。
「無理しなくていいからね」
その言葉が身体に浸透すると、不思議と恐怖がなくなった。
乱れていた呼吸が落ち着き、冷静でいられた。
この子は何なのだろう。
ついこの前会ったばかりで、どんな国で過ごしてきたのかも知らない。
なのにわたくしは、既にこの子を、他人とは思えなくなっていた。
ふいに、彼女の後ろにあった看板が動いた。
看板から腕が生え、足が生え、一本角の悪魔となってニナちゃんに襲い掛かる。
わたくしは、咄嗟にニナちゃんを庇うように前へ出て、悪魔にヴェールを巻き付けた。
「ギエエエ‼」
悪魔は悲鳴をあげながら青い炎をあげて消えていく。
わたくしは肩で息をしていた。
自分で自分が信じられない。
あれほど恐れていた魔物を、反射的だったとはいえ、こうも簡単に撃ち滅ぼすなんて。
……違う。
普段なら、きっと足がすくんで動けなかった。
あの子だったから。
襲われたのが、ニナちゃんだったから。
だから、わたくしは──
「……お前ら、静かに」
先頭に立っていたアランさんが、つぶやくように言った。
先に広がる道を見て、わたくしは理解した。
先程の教会で見た女性の姿をした天使が、何体も道に蹲っていたのだ。
まるで眠っているかのように、彼女達はその場から動かない。
「迂回するしかないね」
「駄目です。外に出るなら、ここを通らないとかなり遠回りしてしまいます」
わたくしは生き残っている人達を見た。
子供だって大勢いる。これ以上、極限状態の中を歩く体力は残っていない。
アランさんは、慎重に天使に近づいた。
あと一歩も踏み込めば、天使の身体に巻き付いている根に触れてしまう。なのに、天使はぴくりとも動かなかった。
「……音か何かに反応するのか? どっちにせよ、慎重に動けばなんとかなるかもしれねえ」
「はぁ。行くしかないね」
アランさんが先導し、わたくし達は一列になって、ゆっくりと歩いた。
「根の部分に気を付けろ。地面から隆起しているところがある」
アランさんの言う通り、地面に突き刺さった根が盛り上がり、段差になっているところがある。
わたくしたちは、慎重に足をあげ、そこを乗り越えていく。
コツン
ふいに、男性の足が根に当たった。
その瞬間、ぶつかった足に根が巻き付き、その先端を突き刺した。
「うわああああ‼」
その方は断末魔の叫び声をあげながら、みるみるうちにミイラと化した。
突然、天使の背中から血が噴き出たと思うと、羽根を大きく羽ばたかせた。
それに連動するかのように、全ての天使が次々と羽根を広げ始める。
「逃げろぉっ‼」
アランさんの掛け声で、全員が走った。
中には根につまづき、血を吸われる者もいる。
それでも振り返らずに走った。
天使が塞ぐ道を突破し、目の前に外へと続く門が見える。
「みなさん! もうすぐです‼」
一人遅れた男の子の足に根が伸びる。
ニナちゃんが、その男の子を突き飛ばした。
その根は、ターゲットをニナちゃんに変更して、足首に巻き付いた。
わたくしの胸が、かっと熱くなった。
思わず転倒するニナちゃんの方へ、すぐさまヴェールを飛ばした。
パァンと、小気味良い音がして根が破裂する。
しかし、切っ先だけになった根はまだ生きていた。
わたくしの加護が足りなかったのか、その根は燃えることもなく、ニナちゃんの足に鋭い先端を突き刺そうとする。
「すぐに剥がして‼」
ニナちゃんは慌ててそれを剥がした。
かなり弱っていたらしく、子供の力でも引き離すことができたようだ。
ニナちゃんは、その根を投げ捨てて、わたくしに微笑んだ。
思わず笑みがこぼれる。
けれど、ニナちゃんの背に立つ天使が大きく息を吸っているのを見て、わたくしの顔は青ざめた。
「ニナちゃん‼」
ニナちゃんが振り返った時、天使の声が辺りに響き渡った。
◇◇◇
「シ、シーダ。もう少しゆっくり走って」
そう言われて、オレは初めて、自分がかなりのスピードで走っていたことに気付いた。
後ろを見ると、ティアは肩で息をしている。
「悪い。つい気が急いて……」
先程の天使が言っていたこともあって、どうにも嫌な予感がするのだ。
「アアアアアア‼」
遠くから、天使の声が聞こえた。
一瞬死が頭を過ぎったが、どうやら遠すぎると効かないらしいと分かり、ほっと息をついた。
「でも、この声が聞こえたってことは……」
オレはうなずいた。
すぐに走り出し、オレ達はその場に辿り着いた。
何人もの天使たちが、道に立っている。
その奥で、耳を塞ぎながらも驚愕するアラン達。
彼らが見ている光景を目にし、オレは叫び声をあげそうになった。
倒れ込み、耳を塞ぐのが遅れたニナ。その耳を、代わりに塞いでいるルシアがいた。
自分の耳を塞がずに、ニナの耳だけを塞いでいた。
「……あ……が……」
ルシアはぱくぱくと口を開けるも、声になっていなかった。
ニナは、呆けたようにルシアを見上げた。
未だに彼女の耳を、必死に塞いでいるルシアを。
「……ルシアお姉ちゃん?」
「……大丈夫、よ。ニナちゃんは、ママが守ってあげる」
ルシアは妖艶な笑みを浮かべ、両手でニナの首を絞めた。
「がっ! ルシ、ア……お姉ちゃ、ん」
「わたくしがあなたのママになってあげる。だから、一緒に暮らしましょう。わたくし達を傷つけない、誰も邪魔しない場所で、二人きりで」
ルシアの手に力がこもる。
彼女は優しく微笑んでいた。しかし頬を伝うその涙が、彼女の本心を物語っていた。
「……う……ん……」
ニナは苦しそうにしながらも、ゆっくりと目を瞑った。
目尻に溜まった涙がこぼれ、ルシアの手に当たった。
「いいよ……ルシアお姉ちゃんとなら……」
その時、ルシアの顔色が変わった。
「がああああ‼」
ニナを突き飛ばし、ルシアは頭を抱える。
「う、が……楽園……違う。……この子に、手は……出させ……」
「ルシアお姉ちゃん! ルシアお姉ちゃん、お願い‼ 正気に戻って‼」
ニナは泣き叫んだ。
一縷の希望にすがって、必死に叫んだ。
ルシアはそれを聞いて、ニナの方を向いた。
「……ええ。わたくしは正気ですよ」
ルシアはにこりと笑った。
「ですから、共に楽園へ参りましょう」
ルシアが、ゆっくりとニナへ近づいていく。
ニナはもはや逃げなかった。まるで、そうするのが唯一の贖罪だとでも言うかのように。
アランもクレナも、天使から民衆を守るので精一杯で、彼女達をどうにかすることはできなかった。
動けるのは、オレしかいない。
オレはごくりと息を飲んだ。
ルシアはオレの頬に触れてくれた。オレの告白を聞いてくれた。
オレを、何の見返りもない愛で包んでくれた。
オレの手に、母さんを貫いた時の感触が蘇った。
もう一度母さんを殺すのか?
嫌だ……。そんなの嫌だ。
またあんな間違いを犯すなんて、そんなの──
「かわいそうに。泣いているのですね。大丈夫ですよ。今、ママが救ってあげますから」
ぴくりと、指が動いた。
ニナは泣いている。顔を俯かせ、地面に座り込み、動かない。
ルシアはゆっくりと手を伸ばした。
彼女が、自分の子供のように想っているニナに。
オレは走った。
間違ってもいい。
恨まれても、悪魔になりさがろうと構わない。
ルシアの、あの清らかな心と、彼女が望んだものを守るためなら──
「オレは、何度だって間違ってやる‼」
ルシアがオレに気付いた。
その瞬間、彼女の胸に、オレの剣が突き刺さった。
ずぶりと、やわらかい感触が手を覆った。
彼女の生暖かい血が身体にかかる。
彼女の温かさを感じる度に、オレは自分の心が冷えていくのを感じた。
きっとオレは、慣れてしまったんだ。
人を殺すことに。罪を犯すことに。
この先、オレは涙を流すことも、何かに悲しむこともないだろう。
ぴしりと、自分の剣にヒビがはいる。
おそらくそれは、オレの心が死んでいく瞬間だったに違いない。
でもそれでいい。
彼女を救えたのなら、それで──
「ありがとう……」
事切れる直前、彼女は確かに、そう言った。
オレの目から、涙がとめどなく流れて来た。
それは彼女の優しさだった。
心が支配されている中、身体が冷たくなっていく中、必死になって残してくれた言葉だった。
ヒビのはいった剣が、みるみるうちに治っていく。
冷たく死んでいくはずだった心が、そのたった一言で生き返ったのだ。
「……礼を言うのはオレの方だ。お前のおかげで、オレは……」
皆まで言う間もなく、ルシアはオレの方へ倒れ込んだ。
冷たくなった身体を、オレは歯を食いしばって、強く強く抱きしめた。
「……ルシアお姉ちゃん」
ぼそりと、ニナが言った。
「ニナのせいだ。ニナがいたから。だからみんな……」
「違う。ニナ、違う。そんなこと──」
「ソウダネ」
見ると、そこには一人の天使がいた。
天使はにこりと笑った。
「アナタガイナケレバ、聖女ハ死ナナカッタノニネ。勇者ノ次ニ邪魔ナ奴ヲ殺セテヨカッタ。オ礼ヲ言ワセテ」
ニナに近づき、天使は首を傾げた。
「アリガトウ」
その瞬間、天使が吹き飛び、壁に激突した。
おぞましいほどの魔力を感じる。
それは、オレのよく知る人物の身体から溢れ出ていた。
「……お前のせいだ」
ニナは、拳を握り、天使を睨みつけた。
「ルシアお姉ちゃんは、お前が殺したんだあああああ‼」
耳をつんざくような叫び声は、地面に亀裂が入るほどの衝撃を生んだ。
ニナの身体に異変が生じる。
徐々に肌が青白くなり、牙が生え、獣のように目が血走る。
オレは思わず息を飲んだ。
それは、まさに魔物そのものだった。
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