ルシア聖王国<6>


オレ達は、教会の中に足を踏み入れた。


「ルシア! 無事か⁉」


隅で民衆と固まっていたルシアは、オレに気付くと涙を流しながら駆け寄って来た。


「ごめんなさい、勇者様! わたくし、わたくし……」

「いいんだ。よくがんばったな」


泣きじゃくるルシアの頭を、オレは撫でてやった。


「……それで、魔物は?」

「それが、何もしていないのに急に苦しみだして……」


オレは魔物を見た。

天使のようなそれは、植物のツルのようなものを身体に巻き付け、うめき声をあげていた。

まるで、自分の中で暴れる何かを押さえつけようとするかのように。


オレは眉をひそめた。

勝手に自爆したのか?

しかしその仮説は、先程倒した魔物のおぞましい笑い声を思い出して、すぐに消えた。


ふいに、ニナがオレの裾を引っ張った。


「早く出よう。ここ、すごくいやな感じがする」


ニナは震えていた。

旅の中で極限状態を何度も経験してきた彼女だが、今ほど怯えていたことはなかった。


「……分かった。全員早くここから──」

「ギア。ガアアア‼」


突然、天使が叫んだ。

その瞬間、ミシミシと音を鳴ったかと思うと、背中から大量の血が飛び出し、壁を濡らした。

顔を歪めながら、天使はゆっくりと二枚の羽根を掴み、それを無理やり引き千切る。

その瞬間、先程まであった黒い翼の何倍よりも大きな真っ白な翼が、大きく羽ばたいた。


先程までの苦しみが嘘のように、恍惚とした表情を浮かべている。

自身を縛っていたツルを引き千切り、天使はゆっくりと立ち上がった。


オレは寒気が止まらなかった。

天使の周りの空気が歪んで見えるほどの異常な魔力が、彼女の周りに漂っていた。


「なんだよこいつ……。気味悪ぃ」


アランが思わずぼやいた。

加護を一切持たないアランでさえも気取れてしまうほどの魔力。

もしかしたら、勇者の加護よりも……。


ふいに、天使が大きく息を吸った。

そこに尋常でないほどの魔力が集約する。

ヤバい‼


「全員、耳を塞げ‼」

「アアアアアアアア‼」


美しささえ感じるソプラノだった。

だがそれが人を殺せる凶器だということは、必死に手で耳を塞ぎながらも理解できた。

気を抜けば意識が飛ぶような音。だというのに、手を離して聞いてみたいと思わせる言いようのない誘惑に駆られる。

それを振り払うように、歯を食いしばってオレは耳を押さえつけた。


声が収まると、すぐにオレは辺りを見回した。


「全員無事か⁉」


仲間達もルシアも、恐怖で顔を引きつらせながらも、こくりとうなずいた。

ふと、民衆の中にいた男が、呆然としながら天井を見つめていることに気付いた。


「おい、お前。一体どうし──」

「美しい」


男は、ぼそりとつぶやいた。


「気付かなかった。世界は、こんなに美しかったんだ」


恍惚とした表情で、男は笑い始める。

かと思えば、今度は急にその場で足踏みを始めた。


「ほっほっほっほ」


声をあげながら、胸につくほど大きく腿を上げている。

その異常さに、オレ達は声をかけることすらできなかった。


「ほっほっほっほ」


男は掛け声をあげたまま、ゆっくりと後ろ向きに走り出した。

つまずき、背中からひっくり返っても足は止まらず、そのまま走って行く。

ガンと壁に後頭部をぶつけ、男は倒れ込んだ。

男はぴくりとも動かない。


「あ、あなた!」


男の妻と思しき女性が慌てて駆け寄った。


「あなた、しっかりして!」


女性が男の肩を揺さぶる。

男の手が何かを握っていることに、オレは気付いた。


「離れろ‼」

「え? ……うっ‼」


女性の胸に、大きなガラスの破片が刺さっていた。

自分の妻を刺した男は、焦点の合わない目で、にこにこ笑っていた。


「大丈夫だ。安心してくれ。お前もすぐに楽園に連れて行ってやる」

「あ、……な、た……」


口から血を吐き、女性は倒れた。

再びガラスを刺そうとする男を、オレは押し倒した。


「邪魔するなああああ‼ 妻を楽園に連れて行くんだああああ‼ ここに来ればみんな幸せになれるんだああああ‼」


男はもがいていた。

アランと二人掛かりで押さえつけようとしているが、なかなかうまくいかない。

人間とは思えない力だ。


「ティア‼ すぐに処置を‼」

「ダ、ダメ……。傷が深すぎる‼」


女性の顔は既に真っ白で、震える身体で、男の方へ手を伸ばしていた。


「あな、た……しっかり……」

「大丈夫だ! 大丈夫だ! すぐにお前も理解できる! ここに来ればもう安全だ‼」


女性は一滴の涙を流し、そのまま絶命した。

オレは歯噛みした。


「あああああ!」


男がアランの腕に噛みついた。


「ぐあ‼ てめえ‼」


思い切り殴りつけ、アランは慌てて後ろに下がる。


「楽園だ‼ 楽園だ‼」


男はばりばりと音を立てて自分の首をひっかき始めた。


「やめろ‼ 正気に戻れ‼」


押さえようとしても、オレ一人の力では無理だ。

指が血で染まっても、男の力が弱まることはない。

すぐにぷつと何かが切れる音がして、大量の血が噴き出た。


オレは思わず飛びのいた。

傷つけてはいけない血管を傷つけてしまったのだ。

噴水のように飛び出る血を見れば、もはや助からないのは明白だった。


「楽園、だ……。これが、真の楽園……。ここに、妻と……二人で……」


男は、幸せそうな笑みを浮かべたまま、事切れた。


オレ達は、全員動けないでいた。

ほんの数分の出来事だ。

だというのに、身体の芯から疲れていた。

自分の無力さに、この場の絶望感に、心が苛まれていた。


ひたと、天使の歩く音が聞こえて、はっとした。

天使は小さく首を傾げ、美しく神々しい笑みを浮かべていた。


その姿に惹きつけられれば惹きつけられるほど、心の芯から震えてくる。


「全員逃げろ」


オレは静かに言った。


「シーダ一人で戦うの⁉ 私達も──」

「分からないのか。足手まといだ」


そう。

ことこの場に限っては、仲間が多いことは不利になる。

なにせ相手は、声一つで人間を狂わせることができる怪物だ。

その異常な魔力に対抗できる人間が、一対一で戦うのがベストだろう。


しかし、そこまで詳しく説明してやれる余裕は、今のオレにはなかった。

ショックを受けているのか、何も喋らないティアの肩に、クレナが手を置いた。


「ティア、行くよ。ここはあいつに任せよう」

「でも……」

「このお人好しがここまで言うんだ。アタシ達にできることは何もない。勇者を信じるのもツガイの仕事だろ?」


ティアは返事をしなかった。

だが、クレナの言葉が響いたのだろう。

文句も言わず、民衆たちを誘導しながら、彼らは教会から脱出した。


オレは一人、天使と向き合っていた。

自然と、冷や汗が頬を伝う。

オレは小さく息をついた。


「喋れるか?」

「……ア」


掠れた声だ。

けれど意思疎通ができるのは、なんとなく分かった。


「お前はデス・クックなのか?」


巨大クモの魔物が言っていたデス・クックの能力と、この天使の能力は、似通っている部分がある。

その可能性は十分にあった。

しかし、天使は首を振った。


「ワタシハ、兵器」


拙い言葉で、天使は喋り始めた。


「デス・クック様ガ生ミ出シタ、国ヲ壊滅サセルタメノ兵器」

「生み出す? 奴は生物を作れるのか?」

「人間ヲ改良シテ、魔力ヲ貯メラレル身体ニシタ。生マレタラスグニ死ヌ。デモ、デス・クック様ノオ役ニ立テテ、ウレシイ」


人間を操る能力で天使を操っているのか。

胸クソ悪さに吐き気がしてきた。


「デモ、コノ国ハ大キスギル。ワタシ一人デハ壊セナイ。ドウイウ意味カ、ワカル?」


オレは黙った。


「オ前ノ考エテイルコト、ワカル。デモ、ソレハ正シイノカナ」


天使は、にたりと笑った。


「ドッチニ転ンデモ、ワタシノ勝チ」


瞬間、天使は消えた。

オレの背後に、気配を感じる。

速過ぎる。

水の剣でやっと反応できる速度だ。


「だが、無意味だ」


天使が噛みつこうとした時、その動きが止まった。

天使が目をぎょろぎょろと動かし、動揺している。


「炎は怒りを燃やして舞い上がる。水は欲望を吸い上げその身を汚す。一対一でしか使えないから、ほとんど使うことはないと思っていたがな」


オレはゆっくりと振り返った。


「お前の魔力が高ければ高いほど、それを吸い上げてオレは強くなる。本当にぞっとする。この能力がなかったらと思うとな」


ゆっくりと、天使の顔に切れ目が入っていく。

その細やかな切れ目は、天使の全身にまで行き渡った。

天使は笑った。


「使ッタ、使ッタ。コレデ勇者ハ役立タズ」


ずるずると、指先から肉が崩れ落ち、炎となって消えていく。


「デス・クック様。勇者ハ想像以上ノ化ケ物デシタ。デキルナラ、私ノ命デ最後ニシテクダサイ。アナタ様ニ神ノゴ加護ヲ」


祈るように目を瞑り、天使はバラバラになり、炎となって消えた。


「……奴らからすればオレが化け物か。笑えるな」


その瞬間、とんでもない激痛が走り、オレは思わず膝をついた。

まるで全身の皮膚が焼け爛れているかのような痛みに、脂汗が止まらない。


「これが……後遺症か。炎の剣よりも、やばいらしいな」


まずい。

目が霞む。

今は敵陣のど真ん中だ。

こんなところで気絶なんてしたら……。


ふいに誰かが教会に入って来る気配がする。

オレはそちらに目を向けるも、既に視界がぼやけてうまく見えない。


剣を構えようとするも、もはや目を開けることすらもできなかった。

オレは指一本動かすことができず、その場に倒れ、ゆっくりと目を閉じた。


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