真月海桜也の空想哲学
橘月くいな
幸運、あるいは……
校舎の何処かから、多様な楽器の音が聞こえてくる。まとまりなく響くそれは、意外にも平穏という音楽を奏でているようだ。まあ、それはどうでもいい。
それよりこちらだ。【空想哲学部】と呼ばれているこの一室には、雑に並んだ長机と不揃いの事務椅子、整理されていない本棚。そして、二人の人間がいた。
「ねぇぶちょおー」
「はあん?」
ひどくだらしなく椅子に座った制服姿の少女が、手に持った本を読みながら呼びかける。それに答えたのは椅子を複数使って寝転ぶ青年だ。
「幸せって、なんですかねぇ……」
「しらん」
「無慈悲っ!」
青年にバッサリと切り捨てられた少女が、ガタガタと椅子を鳴らして抗議する。青年は気にした風でもなく、椅子から起きて本を物色し始める。少女はそんな青年を見て、質問の内容を変えた。
「じゃあ、一日一善ってなんですかねぇ……」
「一日一回、人のためになることをしなさい。とかそんなんじゃなかったか?」
「そうじゃ! なくて! 人のために何かして、自分に何かいいことあるんですか!?」
「あるだろ」
「あるのっ!?」
盛大な溜息とともに本の物色を止めた青年は、椅子に座って少女へ向き直った。
「幸運とか幸いっていうやつは、文字通り運によるもんだが、運と言っても宝くじとそう変わらん」
「うーん???」
「はあ……要はな、自分に何かあった時に助けてくれる人がいる状況、ってのは、誰かに何かあった時に自分が助けれられる状況ってことだ。その時、自分と他人は
青年の出来るだけ噛み砕いたつもりの説明に、少女はクッと首を傾げた。
「全然わからないことはわかった!」
「どアホウ!」
ダンッと長机を打った青年は、わずかに痺れる手を振りながら天井を仰いだ。渋く寄せられた眉間のシワを揉みほぐすと、すこし呆れたように少女に向かった。
「あー、つまりだな。誰かが誰かを助ける、っていう誰かのどっちかにお前は入るんだよ」
「あっ! うん? おー?」
「わかったのかわかってないのかっ! わかってないな!?」
「わかりませんっ!」
「はぁ……お前がやった良いことを誰かもやっている。お前がやらなかった良いことを誰かもやってない。何かあった時、助けてくれる人間の数は多いほうが、まあ多分助かる確率は増えるだろ?」
「えーと? 助けてくれる人はいっぱいいたほうがいいから私も助ける人になったほうがいい! みたいな話?」
「大体、そんな感じ」
なるほどー? と相づちを打ちながらも、少女は首を傾げて事務椅子の上でくるくると回り始めた。
「にゅー?」
妙な声を上げながら、ピタっと止まった少女の瞳が青年を捉え……そこねた。目を回したらしい。
「思うに、一日一善とはなんか違いません?」
「お前そういうとこだけ妙に勘良いのなんでなんだ……」
「にゅふふふ……」
褒めてないがな……という青年の呟きは少女の耳には入らなかったようで、今度は逆回りに回り始める。
「ま、だが大した変わりない。ないことはないが、効用的には変わらん。良いことをする人間がいなければ、良いことは起きない。特に人為的なものは」
「小難しい言葉で煙に巻くのやめたほうがいいですよ~」
「うるさいわ……」
青年は小さく息を吐いて、また本棚を物色し始めた。クルクルと回り続けていた少女が、止めるのに失敗して派手に倒れる。
「あ! 部長!」
「あんだ?」
「部費でお菓子買っていい?」
「お前、部費がどこから出てるかわかってるか?」
「部長のポケット! そもそも学校から出てたら買わないし!」
「あぁ、ぶちのめしたい、その笑顔……」
「まあ、もう買ったんだけどね!」
ガンっと激しく拳が叩きつけられて机が跳ねる。さすがの少女も驚いて飛び上がり正座した。
「先に言え。買うな、とはそうそう言わん」
「サー! イエッサー!」
「舐めてるのか?」
「すみませんっ! 了解ですっ!」
「よろしい」
よろしい、とはいったものの青年の心中は複雑だ。すでに二回、似たようなやり取りがあったからだ。無数の中古の事務椅子、使われていない他の教室の書架。たった数万ほどで、殺風景な部室は雑然とした空間へ変わった。それを良しとしたのはなにか、勘のようなものに働きかけてきたから、たったそれだけ。
部屋を間借りしていただけの【空想哲学部】が非正規とは言え部活として認められたのも少女の手腕によるものだ。アホだが。
「そろそろ時間だな」
「帰りますか!」
「待ってなくていいぞ」
「まぁーたまたぁー、照れなくてもいいんですよ?」
「はあ……好きにしろ」
これが恋愛感情であればむしろ断りやすいものを……と青年は心中でも溜息をつきながら部室を出た。バタバタと鞄に私物を詰めた少女が少し遅れて出てくる。
「じゃ、
「はいはい」
「先輩!」
「はぁ……すぐ行くよ、
「はいっ! 了解ですっ!」
無駄に輝く笑顔で送り出す愛花に背を向けて、海桜也は早足に歩き出した。
早く行かないとやたらと不機嫌になることを海桜也は学習していたのだ。
「幸運……ね。幸せは貴方のそばにある。あながち間違いでもないんだがな……」
ひとりごちた言葉の意味を知るのは、彼以外にいない。
春先の風はまだ少し冷たく。青年はもう少しだけ歩く足を早めた。
真月海桜也の空想哲学 橘月くいな @ryuuto_dainsref
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