お菓子と悪戯――姉と弟の選択の行方

RAY

お菓子と悪戯――姉と弟の選択の行方


結衣姉ゆいねえ、遅いな……」


 パソコンの画面に表示された「11:00」という数字を目にしたたくは、キーボードを叩く手を止めて小さく溜息をつく。


「イベントが終わるのが八時半だからぁ、十時までには帰れると思うよぉ」


 前日に電話口で聞いた、結衣の鼻にかかったような声が脳裏に蘇る。

 拓は、ハロウィンのデザインがほどこされた箱からオレンジラテ味のポッキーを取り出す。袋を開けたばかりなのにこれが最後の一本。期間限定品というのは通常よりも量が少ないようだ。


「早く会いたいな」


 座椅子に深く背を預け仰け反るのけぞるように天井を見上げた。

 くわえたポッキーの「ポキン」という音が拓の心に虚しく響く。


 結衣は、拓と六つ違いの大学二年生。名古屋で一人暮らしをしており、大学に通う傍らファッション雑誌の読者モデルを務めている。その関係で、月に一度は東京の実家へ帰省する。

 この日は、都内で開催される読者交流イベント――ハロウィンパーティーに参加した後、実家に泊まることになっていた。


 拓はポッキーの残り半分を口に放り込んだ。オレンジラテがついていない部分だけに、口の中がモサモサして後味が悪い。ショートケーキのイチゴを最後に食べる拓としては、これでおしまいと言うのはどうにも納得がいかない。

 「嫌なら食うな」。ポッキーの箱に描かれたジャック・オー・ランタンの三角の目がそんな言葉を吐いているように見えた。


「余計なお世話だ。カボチャ野郎」


 拓の口から捨て台詞のような言葉が漏れる。

 次の瞬間、独り言を言っている自分が恥ずかしくなった。結衣のことを気にするあまり苛立いらだっているのがわかった。


 不意に車のエンジンの音に混じって人の話し声が聞こえた。

 拓は窓のところへ走り寄るとカーテンの隙間から外を眺めた。家の前にハザードランプを点けたタクシーが停車している。


「ただいまぁ」


 階下から聞き慣れた声が聞えた。

 拓の顔にホッとした表情が浮かぶ。再び腰を下ろすと、たかぶった気持ちを落ち着かせるようにペットボトルのお茶を喉の奥に流し込んだ。


 トントントンという階段を上る音が廊下を歩く音へと変わる。

 足音が止むと、それに取って代わるようにドアをノックする音が聞こえた。


「拓、ただいまぁ。入ってもいい?」


「う、うん。いいよ」


 甘ったるい声を聞いた瞬間、緊張のあまり拓の声が上擦うわずる。

 ガチャリという音とともにドアが開く――が、ドアの向こうに結衣の姿はなかった。


「えっ?」


 想定外の出来事に、拓はポカンと口を開けて狐につままれたような顔をする。


「じゃぁぁぁぁん!」


 そのときだった。場を盛り上げる効果音を真似た声とともに、ドアの陰から結衣が姿を現した。


「似合うかニャン?」


 シースルーの黒いワンピースを身にまとった結衣がクルリと一回転すると、レースのフリルがついた、短めのスカートが緩やかな弧を描く。目尻の下がった大きな瞳が少し照れたように微笑んでいる。

 頭には猫耳をイメージしたカチューシャ。手にはひじまである黒い手袋。足には黒いニーソックス。スカートのお尻にはモフモフの尻尾。そして、両頬には薄らと引かれた、猫のひげのようなメイク――そこにいるのは、キュートという言葉がピッタリの黒猫だった。


「ゆ、ゆ、結衣姉……それって……」


 拓の中で驚きと喜びがいっしょになったような感情が湧き上がる。いつもと違った由衣に激しく動揺しているのがわかった。


「今日はハロウィンの仮装パーティーだったんだよぉ。予想以上に人が多くて長引いちゃったけどねぇ。雑誌社がタクシーを出してくれたから、着替えずにそのまま帰ってきちゃった。拓に見せたくてね。でも、変かなぁ? お姉ちゃんがこんな格好してるのって」


 黒猫のコスプレをした結衣が上目遣いに拓を見つめる。

  

「そ、そんなことあるわけないじゃないか! すごく似合ってる! 女子高生だって言っても通用するよ! 変だなんて言う奴は頭がおかしいんだ!」


 まるで選挙の街頭演説のような、熱く、力強い言葉が部屋中に響き渡る。

 ポッキーが折れる音まで聞こえた、少し前の静かな雰囲気が一変している。


「喜んでもらえて良かったぁ。お姉ちゃん、とってもうれしいよぉ」


 結衣はホッとしたような表情を浮かべて拓の前にペタンと腰を下ろす。そして、両のこぶしを耳のあたりに掲げて、招き猫のようなポーズをとった。


「ありがとニャン」


 目の前の結衣が別人に見えた。普段は「綺麗なおねえさん」の彼女が「可愛らしい女の子」になっていた。テンションが高めなのは、たぶんアルコールが入っているから。そんな結衣のことを直視することができず、拓は思わず目を背けた。


「せっかくだからハロウィンしてみるぅ?」


「ハロウィン……する?」


 言葉の意味が理解できず、小さく首を傾げる拓。そんな彼の方へ、結衣は膝行いざりながら身体を近づけていく。


「ハロウィンって言ったら『Trick or Treat ?』だけどぉ……拓はTreatお菓子持ってるぅ?」


 拓はハッとして視線をポッキーの箱に向ける。最後の一本を食べたところだった。


「ごめん。もう残ってないや」


「そうなんだぁ」


 横目でポッキーの箱を眺める結衣の眼差しが、どこか妖しくなまめかしい。


「改めて、Trick or Treat ?」


「だから、Treatお菓子はあげられないって――」


「じゃあ、Trick悪戯だねぇ」


 結衣は拓の言葉をさえぎると、両手を床について四つん這いになる。

 拓をジッと見つめる様は、虎視眈々こしたんたんと獲物を狙う、獰猛どうもうな獣のようだった。


「ちょ、ちょっと、結衣姉……」


 四つん這いになったことで、ワンピースの隙間から谷間があらわになる。見てはいけないと思いながら、ふくよかなに目が行く。

 ゴクリと唾を飲み込むと、拓は座ったままジリジリと後ろに下がっていく。結衣を避けているわけではないが、身体が勝手に動いてしまった。


「パサッ」


 拓の背中がテーブルに当たったとき、何かが床に落ちるような音が聞こえた。

 ハロウィンカラーの箱から半分に折れたポッキーが一本――オレンジラテの付いていないものが顔を覗かせている。

 さっき拓がラストだと思ったのは、正確にはだった。


「結衣姉、Treatお菓子があったよ」


 拓はどこかホッとした様子でポッキーを差し出す。

 それを細い指でつまんだ結衣は、何かを考える素振りを見せる。


「じゃあ、今度は拓の番だよぉ。言ってみて。『Trick or Treat ?』って」


 結衣は柔らかな眼差しを拓に注ぐ。さっきまでの獣のような雰囲気は消え失せ、可愛らしい黒猫に戻っていた。


「わかった。Trick or Treat ?」


「はい。どうぞニャン」


 結衣は短いポッキーを咥えて口を突き出すような仕草をする。そして、大きな目をゆっくりと閉じた。



 ポッキーはこれで最後。オレンジラテがついていない部分だけに後味が悪い。ショートケーキのイチゴを最後に食べる拓としては納得がいかない――はずだった。


「あの短いポッキーは――Treatお菓子? それともTrick悪戯?」


 翌日そんな質問をしたら、結衣はいつもの調子で答えるだろう。


「そんなことあったぁ? お姉ちゃん、酔っ払ってたから憶えてないの」


 その瞬間、箱に描かれたジャック・オー・ランタンの目が笑っているように見えた。一部始終をしっかり見ていた、あの三角の目が。

 


 RAY

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