4日目 PM

 24時。身代金引き渡しの期限から3時間が経過。その間、この独房を訪れる人間は誰もいない。


 風呂上がりに押しつけられたのは、それまで身につけていたマックイーンじゃなかった。どこのデザイナーか知らないけど、仕立てがいい事は間違いのないタキシード。一体いつの間に身体を調べたのか、寸法はぴったり。久しぶりに締めた蝶ネクタイはどうにも居心地が悪い。


 マットレスの上へ寝転がって考えるのはクソ親父のこと。20万ドルなんてはした金じゃないか。とっとと払って、可愛い息子を自由の身にしてくれよ。そもそもあの男のせいで俺はこんな目に遭ってるんだ。慰謝料代わりに俺へコレクションのダイムラーSP250を譲ってくれる位のことはしてもらわないと。


 いや、親父は払ったとしても、銀行の手違いとか、仲介人が金を持ち逃げしたとか、何らかのトラブルが起こって、ここに金が到着していないのだとしたら。「それはお気の毒、もう一度用意して24時間後にお持ち下さい」なんて、連中は気の長い事を言ってくれるだろうか。

 考えるだけで恐怖が膀胱へ直結しそうになった。何とか意識を札束の緑色から、美しいプラチナ・ブロンドへ移す努力を重ねる。


 ベル、俺のことを気に入ってるみたいだった。さっきは不用意なことを言ったけれど、もう一押しで、突破口を見いだせたかもしれない。

 けれど、さて。その一押しとは一体? 


 誘拐されても決して折れない不敵さを見せつけてタフガイぶるか、母性本能を擽る子犬になりきってみせるか。うーん、難しい。何せ彼女は謎めいている。謎めいてはいるけれど、ロボットめいた外面の下に、柔らかいものがある。

 もちろん、あの雌豹を思わせる肉体以外の、って意味でさ。


 噂をすれば影で、覗き窓が小さく音を立てる。今回は10秒もしないうちに、ドアは開いた。

 ベルは男二人を引き連れ、中に入ってくる。連中、一体何をぶら下げて……袋? そう、死体袋だ。


 頭の中で散々考えた言葉は、パニックの前に一瞬で消え去る。声を張り上げようとした俺の身体へのし掛かるや否や、ベルはやはり無表情のまま、手にしたハンカチを鼻から下へ押しつけてきた。鼻から脳天へ直撃しそうな刺激臭と共に、目の前が真っ暗になる。


 粘膜から粘膜へと結びつけられる意識。次に嗅がされた小瓶の中の液体に、安穏な闇の中から無理矢理引きずり出される。

 ヒーヒー言いながらヒリヒリする鼻を擦ろうとしたけど、手が動かない。はっとなって見回せば、手は肘掛けへ、足は前脚へ、ついでに首は背もたれへ。恐るべき改造ロココ調アンティーク家具には、豪奢ななめし革のベルトが付いている。


 目が慣れてきたら、ここがどこかの舞台裏みたいな場所だと分かる。遠くから響く朗々とした声と、何か固いものを叩く音。ここのところ、まるで自分が場面展開の下手な映画の登場人物になったみたいで、もういい加減頭が付いていかない。


 突如、頬に触れるひんやりとした柔らかさに、ヒッと悲鳴を上げる。ヒールが木製タイル張りの床をこつこつと叩き、正面へと回ってくるのに時間はかからない。

 俺の目の前に片膝を付いたベルの表情は、逆光のせいではっきりと分からない。最低限の動きを作る唇から放たれたのは、小さいけれど、まるで苦痛を堪えているような低く、早口の言葉だった。

「本当はルール違反だけど、教えるわ。貴方の二日間は中継され、入札者に値踏みされてる。とうがたってるにしては評判もいい。書面入札者の数も少なくない。競り手は女性と男性が半々ずつ。落札された時、来年まで生きていられる可能性も半々よ」

 目を白黒させていれば、さっき頬へ触れた手が、俺の手に重ねられる。間違いなく冷たかったのに、その温度が身体へ染み込んでいく時、不思議と不快感は覚えなかった。何よりも、額へそっと触れる唇が、まるで燃えるように熱いとなれば。

「幸運を、スウィートハート」

 彼女のココ・パルファムのかぐわしさをまだ鼻が覚えているうちに、突如がくんと椅子が後ろへ傾く。台車を後ろから突っ込まれたらしい。まるで荷物にでもなったみたく無造作に、その場から連れ出される。


 運び込まれた先は暗闇だった。一度顔をビロードのようなものが掠める……暗幕? 台車が外され、運搬人が足下にうずくまり、何かガチャガチャやっている。たぶん椅子を固定してるんだろう。

 舞台にあるような天井の照明がぱっと灯り、眩しさに思わず眼を細める。

「嘘だろ……」

 視界がホワイトアウトから回復したとき、まさしく俺は今、舞台に引き出されたんだと言うことを知った。一段高い位置から見下ろせば、ここはまだ闇に沈んだままの正面にはずらりと観客が、いや、入札者が。

 男性はブラックタイ、女性はイブニングドレス姿で決めている。皆一様にサングラスを掛けているのが、とにかく不気味だった。

「マジかよ、くそっ……ドッキリだって言ってくれよ」

 呟きは、喉を締めあげられているせいで声にならない。沈黙は参加者も同じ事。100人近い悪趣味を極め尽くした連中は、マネキンのように殆ど身じろぎをせず、声も出さず、ただこちらを注視し続けていた。


 ようやく静寂を破ったのは、軽くマイクを弾くような音へ続いて、頭上のスピーカーから流れ出した男の声だった。

「今からご紹介するのはロットナンバー5、28歳白人男性、ブロンドの髪、ブルーの瞳。こちらは完全なる『キャヴィアト・エンプトール』、出品者による保証は一切ございません」

 まるで自分が高価な美術品にでもなった気分だ。それが名誉なことだとは、全く以て思わなかったけど。くそっ、それにしても、なんて頑丈な拘束具。全身の筋肉を膨らませてるのに、びくともしやがらない。

「ご覧の通り、何不自由なく育てられた経歴から来る性格と、成人男性故の自尊心の強さは見られますが、元来の素直さと知能指数からして、専門家の矯正を必要としない程度と目録に記載させて頂いております。手ずから行う調教の過程をもお愉しみ頂く、まさしく皆様のような玄人好みの一品と申せるでしょう」

 ぶん殴ってやる。この鎖が外れたら、一番先にこの競売人をぶん殴ってやる。


 どれだけ歯をキリキリ鳴らしても、足をガタガタ踏みしめても、無情な木槌は開始を告げる。

「それでは、3千ドルから始めましょう」

 すぐさま、三分の二ほどの人間が、さっと手を掲げる。つまり、この場にいる3分の1は、俺にルイ・ヴィトンのバッグ以下の価値しかないって言いたいわけだな。この野郎、覚えておけ、もしも店の客が混じってたら、戻り次第すぐに監視カメラの映像をyoutubeに流してやる。


 戻れたら、か。そもそも、競り落とされたらどうなるんだろう。真っ先に頭へ浮かんだのは、恐ろしげな奴隷頭が鞭を鳴らす中、腰布一枚でガレー船を漕いでいる自分の姿。それとも、円形闘技場で虎を相手に戦わされたり。

 いや、いや、いや。確かに俺は良い身体してるけど、これはそういう肉体労働向けじゃないんで。

 となると、何だ。また首輪を付けられて、ヨーロッパの貴族とか南米の独裁者を名乗る、汚いおばさんやおっさんに弄ばれたりとか? それとも、最近またアンダーグラウンドで再流行してるらしいスナッフ・ムービーの主演とか…………


 心臓が、今にも胸から飛び出しそうなほどバクバクと音を立てている。じりじりと熱いライトへ照らされた肌はジューっと音を立てそうで、それなのに恐怖は汗すら掻く事を許さない。

 両膝が跳ねているのは、拘束を外そうと抵抗している訳じゃない。恐怖でガクガク震えているんだ。こんな時に怯えないでいつ怯える。小便を漏らさなかっただけでも、よくやったと誉めて欲しい。


「……そちらの青いオフショルダードレスのご婦人、5万ドル。左側の男性の方、7万5千ドル、現在のビッド(入札)は7万5千ドル……今挙手頂いたオークリーの紳士、10万ドル」

 俺の値段は俺の預かり知らぬところでつり上げられていく。

 確かに高級バッグと同じ扱いをされるのは癪だ。けれど段々、俺は出来る限り入札額が高騰しないよう、ハムスターの回し車並に無意味な回転を続ける頭の中で祈っていた。高く買われれば買われるほど、自分の命が相手の思うままにされてしまうような気がしてならない。

 そう、人間金を持つほど、変態的な遊戯に耽りたがるもんだ。俺はよーく知ってるんだ。

「現在のビットは14万5千ドル。他に入札の方は……」

 そこで、ローレンス・オリヴィエ並になめらかな声がぷつんと途切れる。マイクの向こうでごそごそと、誰かと話をしているらしい。

 会場の参加者達もやがて、引き伸ばされる静寂に顔を見合わせたり、耳打ちしたり。書き割りじみていた光景に、初めて生気というひびが入った。


 再びマイクが弾かれ、声が吹き込まれたとき、競売人の息は動揺のためか切れ切れ。せっかくの綺麗な発音も台無しだ。

「今、こちらの商品に100万ドルがビッドされました」

 ハイ・ソサエティなんだろう皆々様のお上品さは、ここで完全に打ち崩される。広がるどよめきが押し寄せられたとき、俺が感じたのは? これで終わった、という底のない虚脱。不思議と恐怖は感じなかった……そんなことを感じることさえ出来なかった。

「他に入札される方はいらっしゃいませんか?」

 誰もいない。普通のオークションなら、進行妨害だと却下されて会場からつまみ出されるつり上げ方だ。誰もが戸惑し、不作法な行いに呆れ、やがてその非難めいたささやきすらも消えていく。

「いらっしゃいませんか? ……それではこちらの商品、100万ドルにて落札されました」

 再び木槌が鳴り響き、照明が落とされる。間際に見えた好奇と物欲しさが混ざり合った眼差し。最前列のクソ紳士が隣のクソ淑女にひそひそと囁く。「まさかあんな中古に、ねえ」

 鎖が外され、背中に台車が差し込まれる。さて、これで俺はめでたく玩具にされるか、チェーンソーで切り刻まれるか。もう全身が高熱を出したみたいに震えて、足下の小さなタイヤにまで響いている程だった。


 すっと暗闇から現れたベルが、搬送される俺の傍らに並ぶ。頬を撫でながら、深々と俺の瞳を覗き込む目は、もう無機質さを取り戻していた。

「全ては終わったわ。もう恐れる必要はない」

 よく言うぜ! 口先だけの慰めなら結構だ!! じわっと眦に膨れ上がり、そして溢れた涙が、彼女の先細りの指にぶつかる。そっと拭い取りながら、彼女は男達を促した。「落札者が待ってるわ。すぐ持ち帰るそうよ」

 

 ごちゃついた舞台裏を抜け、台車は一度も止まることなく進む。押し開けられた金属のドアは市場やICUなんかでよくある、すぐバタバタしそうなもの。氷で冷やされたような夜風が一陣、顔を叩く。


 どこかの倉庫街だったらしい。外じゃコンクリートと金属の折り板で構成される建物が、敷地いっぱいにコピーアンドペースト。闇の中、閉ざされたシャッターが時折身を捩り、ぞっとするような音を響かせる。


 ベルの言う通り、車寄せでは既に準備が整えられていた。ストレッチじゃない黒のリムジンも、恐らく100万ドルが詰め込まれているのだろうブリーフケースも。

 袖と裾にレースをあしらった、黒いドレスに身を包むバーバリアンズも。


「ボス!」

 椅子から立ち上がったのとほぼ同時に飛びつかれ、さすがに身体がよろめく。それでもお構いなし、二人は脚にしがみいついて離れない。

「ボス、ボス、よかった」

 髪に留めた薔薇のコサージュが外れそうな程頭を擦りつけ、ダイアンが声を絞る。

「ボスが売られたらどうしようって……そんなことになったら、あたししんじゃう」

「こわかった……」

 ぽつりとこぼしたメイの手は、スラックスを引きちぎってしまいそうな程強く握りしめられていた。

「ほんとうに、こわかった」

 どれだけおしゃまな格好をしても、人を肉塊に変えても、彼女達は7歳児。抱きしめた時、その身体はふわふわと、びっくりするくらい柔らかく、そして小さかった。

「ありがとな、助けに来てくれて……おまえ達が競り落としたのか?」

「脅迫でんわがきてから、ずっとさがしてたんだけど」

 頷きながら、メイはぐじっと鳴った鼻を固めた拳で擦った。

「みつからなくて、こまってたら、このオークションの目録と参加証をおくってきてくれたひとがいたの。ふうとうの筆跡、たぶんおんなのひとだわ」

「メンドーサ一派のやつら、ちゃんと身代金をはらったのに、ボスをにがさなかった!」

 ダイアンが憤懣やるかたないと言わんばかりに声を張り上げる。ちっちゃいあんよとは言え、足の甲の上で思い切り地団太を踏まれたら結構痛い。

「ぶっころしてやる!!」

「ボス、かえりましょ。いまからオヘア空港へいったら、マイアミいきの最終便にのれるわ」

「嘘だろ、ここシカゴか?」

 一刻も早く、常夏のマイアミに戻りたい。心の底からそう思っていたのに、リムジンへ乗り込みざま背後を振り返ったのが何故か、理由は自分でも分からない。


 ドアの側で、ベルは佇み続けていた。運搬人達がてきぱきと撤収準備をこなしている傍らで、大事なブリーフケースへ見向きもせず。

 仮面のような……と言うよりは、表情が抜け落ちた顔は、その輝かしいプラチナ・ブロンドと官能的な起伏を見せる面立ちですらカバーしきれない。悲しげにすら見える。

 そんな義理は一切ないのに、「ありがとう」と言いたくなった。実際、悲惨な監禁生活が少なからず潤ったのは、彼女のおかげなんだから。


 開かしかけた舌が上顎に張り付き、喉がきゅっとくびられたようになったのは、ドアを突き破るようにして雪崩込んできた連中のせいだった。

「てめえら、せっかくのお楽しみに水を差しやがって」

 ブラックタイと拳銃やらナイフやらで武装した浅黒い肌の男が4、5人。ボス格らしい、髪をポニーテールにした奴が、コルトのダブルイーグルを大仰に振り回してその銀色を誇示する。

「バカ息子を変態に売り飛ばして、あのジジイに一泡吹かせてやる予定だったのに。余計な横やりを入れやがって」

「オークションは正式な手順で行われた。落札された以上、あなた達に口出しする権利はない」

「よく言うぜ。おまえがファンダメントの人間を会場に潜り込ませたんだろう」

 毅然とした態度で主張するベルはしかし、仲間の疑惑を払拭するまでには行かなかったようだ。椅子を運び込もうとしていた手を止め、二人の男が彼女のほうへ一歩近付く。

「本当か?」

「その部外者達の話を信じるの」

 もう一度彼女をじっと見つめ、それからいきり立った男どもに顔を向けた後、男は溜息をついた。

「少し確認しますので、一度中に戻ってお話を」


「ふっざけんな!!」

 

 俺が身を凍らせるよりも早く、ダイアンが外へと走り出す。半拍遅れて、メイの「ああ、もう」という苛立たしげな声が、その華奢な身体と一緒に俺の膝の上を飛び越えた。


 連中の前に立ちはだかった二人が、両腕を前に突き出す。その手に握られたものを目にした連中は、ぎくりと身を強張らせた。それでも何とか、薄笑いを維持して口を開こうとしたポニーテールに、ダイアンが吼え立てる。

「ボスがうすらぼんやりしてるからって、ちょうしにのんなよ!!」

 トウモロコシの種を100個のフライパンで煎ってるような音が響き始めたのは、その台詞が言い終わるよりも早かった。とっさに頭を抱え、車の奥へ肩を押しつける。


 バーバリアンズが乱射し始めた4丁のウージーは、ならず者達をパニックに陥れただけじゃない。跳弾はドアに弾き返され、ロココ椅子に張られたビロードの背もたれを蜂の巣にし、引き留めようとこちらに近付いてきた搬送人達の腰を抜かさせる。すでに屋内へ逃げ込もうとした男達は、扉へ縋りつくようにして折り重なっていた。

 足に3発ほど叩き込まれてその場へ尻餅を突いた配送人の頭を、メイは反撃より早く、なぐように振り向けた左手の軽機関銃で粉砕した。


「まちやがれぇーっ、この×××!!」

 すっかり我を失ったポニーテール男は、片手に握ったダブルイーグルを撃ちまくりながら走り出す。てんでバラバラの方角に飛んでいく銃弾は、むしろダイアンをさらに激昂させる役にしか立たなかった。断続的な甲高い銃声に、俺だったら口にするのもはばかるような罵り文句とフルオートの連射音を被せながら、猛然と後を追いかける。


 暗闇の中で目がチカチカするようなマズルフラッシュが焚かれている間に、メイは収まらない粉塵の中を小走りで駆け抜けた。

 黒真珠の瞳は、背後の壁へ背中を押しつけるようにして立ち竦むベルに一瞬だけ向けられる。相手が何らかの反応を返す前に、アタッシュケースは取り上げられた。

「おかねがほしいなら、キューバ人たちに言って」

 今や粉々にされた平静は、確かにベルを血の通った人間に見せていたけれど。開ききり、白目に溶けてしまうのではないかと思えるほど色味をなくした瞳孔と、震える唇は当然の帰結なのかもしれない。

 でもそれを目にして、俺が胸がすかせたり、欲情を抱いたりすることはとうとうなかった。


 彼女の目には、俺がどう見えていたんだろう。俺は彼女に向けて、どんな顔をして見せていたんだろう。

「ボス、いこう」

 満足げな顔で戻ってきたダイアンの手を引っ張りながら、メイが車に乗り込む。ドアが閉まる直前に上げた声が、寄る辺なく立ち尽くす美女へ届いたことを、俺は心の底から祈った。

「ごめんな、本当に」

 


 オヘア国際空港にはチャーター便でも待ってるのかと思ったけど、渡されたのはユナイテッド航空のファーストクラス・チケットだけ。随分とスパルタじゃないか、なあ。


 すっかりいじけた気分でクラフトハウスのモスコミュールをちびちび啜っていたら、隣でジンジャーエールを飲んでいたメイが「ちがうのよ」と口を開いた。

「シニアは、いま立てなおしをしてるの。もうにどと、ボスがこわい目にあわないように、かえってくるまでにキューバ人たちを血まつりにあげようって」

「血祭りもいいけどさ。実の息子を迎えに来ることの方が、よっぽど大事じゃないかな」

「シニアだったら、オークションにいれてもらえないじゃん」

 言葉を継いだのは、ライムジュースに突っ込んだストローでぶくぶく泡を立てていたダイアンだった。

「ここにくるとき、シニアからはとりあえず500万ドルあずけられたけど、おかねにいとめはつけないって」

「そう。たとえいじわるされて、ねだんをつりあげられても、どれだけ払ってもいいから、ボスをとりかえせって、わたしたちに」

「シニア、すごく落ちこんでたよ。夜もねないで、ずっとボスをさがしてた」

 結局金で解決しようとしやがったな、あの親父。そうさ、どうせ分かってたよ。


 それが、ビジネスを傾けるような金額であったことも。

 そうすることでしか、子供に愛情を示せない不器用な男なんだってことも。

 その金を稼ぐ仕事で、子供を危険な目に遭わせる自らへ引け目を感じていることも。


 無性に腹が立ったし、モスコミュールのウォッカは鼻の奥をがつんと殴り付けるしで。

 俯いてぐすぐす鼻を鳴らし始めた俺に、ゴージャスなブルネットのキャビンアテンダントが「ご加減が優れないようですが」と声を掛けてくる。

 肘掛けに乗せた俺の手を握り、ひたっと身をくっつけたメイが「ちょっとびっくりしたんです、すぐにとまります」って答えた。

「だいじょぶ、だいじょぶよ、ボス」

 堅く握りしめられた俺の手へ、半分の大きさもない掌を重ねながら、ダイアンが耳打ちする。

「もうすぐマイアミにつくよ」


 彼女の言う通り、機体は旋回を始め、3時間ちょっとのフライトが終わりへと近付いていた。眼下ではキラキラ七色、宝石箱から手当たり次第に掴んで投げ撒いたようなネオンの光が立ち上る。夜空をも食らい尽くし、呵々と笑ってみせる勢いだ。


 ここが我が街、俺の庭、すばらしきマイアミ。朝あった辛いことを、舞い散るフラッシュと熱気あふれる喧噪が掻き消す。夜起きた悲しいことを、灼熱の太陽とどこまでも広がる来る青い海が飲み込んでいく。

「空港で、シニアがまってるわ……わたしたち、さきにかえってるね」

 あれだけの大活躍を見せたんだ。寄り添うバーバリアンズもそろそろおねむ、くったり脱力した体は普段にも増して温かい。


 もう彼女たちの助けを期待することはできない。そして、待ちかまえているのはどんな凶悪な敵よりも手強い男だ。

 勘弁してくれよ、ほんと。間違いなく怖じ気付きながらも、俺はグラスに残ったモスコミュールを飲み干すことで、戦いへ挑む為の奮起を焚き付けた。


 終


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Victory VICE――マイアミ馬鹿息子による楽園ライフ—― 鈴界リコ @swamp

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