4日目 AM

 11時。ドアの鍵を開ける音に顔を上げた。この期に及んでも、俺のお気楽な頭はここに救いの天使がやってきてくれると期待してる。


 当たり前だが、現れたのは世界で一番愛らしい野蛮人たちじゃない。びっくりするほど痩せた、短く刈り上げたプラチナ・ブロンドと闇のように黒くなめらかな肌を持った美女。

 身につけるものは傷一つないキットのアンクルブーツから、多分オートクチュールのコットンサテンのスラックス、そしてぴっちりしたフランネルのハイネックまでアイボリー一色で統一されている。優雅な歩き方と相まって、まるで全てが一続きのように見えた。


 彼女は手にした白磁の皿を手渡す前に一度足を止め、周囲にざっと視線を走らせた。このマットレスに毛布、古いプレイボーイ誌(とは言ってもヌードは載ってない)が数冊しかない部屋のどこに、危険なものがあるって言うんだ。

 大体、彼女をひっぱたいて何になる。俺の首にはまる、黒いレザーの枷は3フィート程の鎖付き。剥き出しになったコンクリートの壁から生える、頑丈な鉄の輪に繋がれている。


「トイレに行きたくない?」

「別に」

 皿を受け取りざま寄越した返事が、ふてくされたものであっても許されるはずだ。クロワッサンと乾燥トマト、白っぽいシェヴレにオレガノをまぶしたものが乗せられているのを目にすれば、尚更のこと。

「いい加減、閉所恐怖症になりそうだ」

 彼女はピンヒールの踵を持ち上げる、小鳥のような仕草でその場にしゃがみ込んだ。不健康そうな色に瞬く蛍光灯が、ごく薄い鳶色の瞳の中でスパークする。

 にこりともせず見つめたまま、その装束と同じくらい白っぽく塗られた唇を静かに開いた。

「心配しなくても、すぐに出ていけるわ」

 彼女がつけているシャネルのココ・パルファムは、ひたすら甘く、混乱した頭へ不安まで煽り立てた。




 9時30分。ヤマハのオーディオシステムにピットブルの『プラネット・ピット』のCDをぶち込んで、筋トレに励む。

 ナロー・プッシュアップは30回を10セット。ボクサーパンツだけじゃなく、ダークグレイに染めたオーク材の無垢フローリングにまで汗が流れ落ちる。


 この朝の日課に関しては真面目にこなしている俺と違い、ぶかぶかのタンクトップにショートパンツ姿のバーバリアンズはぺちゃくちゃお喋りに花を咲かす。肩胛骨まで伸ばした髪をぱさぱさ振りながら、ダイアンが唇を尖らせた。

「セサミ・ストリートのCDかけようよ」

 彼女がこなしているのは、スクワットもどきって感じのせわしない全身運動。まだソーセージみたいに丸々してる四肢が、めいいっぱい振り回される。

「このおじさん、いっつもミスター・ワーワーって呼んでるけど、それ、だれ?」 

「バカね、歌手のなまえよ」

 水平に伸ばした右手を左の爪先に、元に戻したら今度は左手を右の爪先に。海軍的教練で汗を掻き、時々おしりにぎざぎざ刻まれたパンツのゴム跡を掻きながら、メイが息をつく。

「ボス、きょうは夜からおしごとね」

「仕事って言うほど大したもんでもないけどな」

 その場に腰を下ろし、心地よい筋肉の火照りに身を任す。コントレックスは室温に戻り、アイラーセンのコーヒーテーブルで早速の水分補給を促していた。

「テクシーの奴、また絶対面倒なこと言ってくるに決まってんだよ」

「わたしたち、ついていったほうがいい?」

「いい、いい」


 馴染みのプロモーターは、どうせまた誰かと顔を繋いでくれとか、そういう相談なんだろう。まあ俺も、奴が連れてくる女の子をアテにしたりするから、お互い様か。


「どこであそぶの。あたしもいきたい」

 まだどこかぽっこりしたおなかどころか(子供って言うのは、どうしてみんな蛙みたいにおなかが膨らんでるんだろう)胸元まで見えるほどタンクトップをぱたぱたさせ、ダイアンも俺の隣で行儀悪くあぐらを掻く。

「また今度。今日は家で大人しくねんねだ、最近夜更かし多かっただろう」

「だってさー。うまくいえないけど、いやなヨカンするんだもん(I have a bad feling about this)」

 この前観たスター・ウォーズからの引用はふてくされた顔で放たれ、何に対して機嫌を損ねているか分かったもんじゃない。


 汗ばんだ髪をくしゃくしゃかき混ぜてやれば、猿みたいに歯を剥いてキーキー喚く。

「さいきんボス、おんなのこに、けいかいしなさすぎ!このまえもクラミジアもらったんでしょ!」

「一体いつの話だよ!」

 あれは美人な女医さんに診断されるって言う屈辱を乗り越えて、とっくの昔に完治してる。


 生意気ばっかり言う罰にほっぺたをつまみ上げると、飴みたいに伸びた口元から飛び出すキャーキャーの声量が上がる。

「でもほんとじゃない! ね、ね、メイもそうおもうでしょ?!」

 スラングだらけの歌詞カードを眺めていたメイは、顔も上げやしない。フローリングへ溶けたみたいに寝そべり、頬杖の上から放たれた言葉は慈悲の欠片もなかった。

「このごろは、おとこにも、でしょ」


 忘れようとしてきたのに。ファンダメント・ファミリー謹製のホラーハウスが記憶の底から蘇った。

 冷え始めた汗を纏う背中が一度ぶるりと震える。ったく、こりゃお付きを断ったこと、相当根に持ってやがるな。

「とにかく、な。今日は夕方まで暇だから、ちょっと外に出よう。ディランズ・キャンディ・バーに行きたくないか?」

「いく!!」

 その一言でバスルームへすっ飛んでいくダイアンと比べ、メイは明らかに気をそそられつつ、もう少し渋っていた。

「じょうだんじゃなくて、しんぱいしてるんだから」

「おまえはほんと心配性だな……わかってる、ありがとよ」

 ぷくっとフグみたいに膨らんているのを指でつついてガス抜きしたのに、結局ほっぺたはまた膨らんだ。

「ボスったら、なーんにもわかってないのね」

 つんとした顔で相棒の後を追いかけた後ろ姿は、ドアの前でふと振り返る。

「そういえば、きょう、みせにはいかないの?」


 それこそ俺にも分からない。ま、気が向いたら足を運ぶってことにするさ。


 


 14時。もうスポーツ選手と犯罪の歴史について、論文を書けるくらい記事を読み返した。

 筋トレもこなせるメニューが限られている。ツイスト・クランチで身を捻るたびに、首輪に付けられた太い鎖がガチャガチャ言うし、何よりも喉元へ感じる圧迫感で苦しい。これ、一種の加圧トレーニングになったりして。


 床に転がしたオメガを見ればこんな時間だ。俺がこの部屋で目を覚ましてから2日と少し。身代金受け渡しに設定された期限まであと10時間だ。

 それを考えた途端、こんなことしてる場合じゃないって焦りが、ばくばく言ってる心臓からぶわっと広がり、全身の筋肉を硬直させる。


 壁と同じクリーム色に塗られた扉が、時折カタンと音を立てる。金網を張った引き戸式の窓から、俺を窺ってるんだろう。

 昨日は腹が立ったしヤケクソになって、聞こえるたびに立ち上がり、ドアに向かってナニを露出させてたんだけど、反応が一切ないからやめた。


 殺される直前の野良犬ってこんな気持ちだろうか。一番最初に、「危険な目には遭わさない」って言われたけど。じゃあ誘拐の意味なんてあるのか? 変にヤワな事言ってたら、あのガメツい親父は身代金なんか絶対に払わないぜ。


 覗いてるのはあのプラチナ・ブロンディだろうか。飯を持ってきたり、銃を片手にトイレへ連れていくのは彼女の仕事だ。

 一回飛びかかったらあっけなく投げ飛ばされた上肩の関節を外されたし(何が「危険な目には遭わさない」だ!)あの手この手で懐柔を試みてみたけど梨のつぶて。


 たぶん、一時間に一回くらいこちらを覗き込んでる。心配しなくても自殺なんかしないし、俺はスティーブ・マックイーンになれやしない、大型二輪の免許は持ってるけど、ゴキブリは死んでも食いたくない。

 大体、天井の隅っこに監視カメラが付いてるんだ。いちいち肉眼で観察する必要なんて無いだろうに。


 敢えて見つめ返すことはしなかったけど、突き刺さるような視線はありありと感じ取ることができた。

 意図は読めない。だがこれは勘だけど、相手はただ単に業務的な監視の目的で、俺を眺めている訳じゃない。

 腕時計に目をやれば14時7分。俺が床を砕いて穴を掘っていないか確認するにしては、少し長すぎる鑑賞時間だ。


 身につけていたシャツを脱いで、マットレスの上に投げつける。

 こんな殺風景で狭い部屋だし、光源と言えば切れかけのフィラメントがちかちか点滅する裸電球のみだけど、しっかり整えた背筋の隆起を見せつける位は役に立つだろう。

 予想通り、背中へ満遍なく浴びる眼差しを意識しながら、俺はプッシュアップに取り組み始めた。




 15時。クリフの喧しさと言ったら、故ロビン・ウィリアムスのマシンガン・トーク並。

 バーバリアンズですら嵐が去るまで見て見ぬふりを決め込んだんだろう。買ってやったロリポップを舐めながら、支配人室の隅っこでお絵かきに精を出している。


「うーるーせー! 人の家庭問題に口を挟むな!」

「君がスマートフォンへの着信を無視するからいけないんだろう! 事務所に電話が掛かってきた時は、寿命が縮まるかと思った」

「親父はお前を贔屓してるから、殺したりなんかしねえよ」


 可愛いキャンディ・ストアで菓子を選んだり、近くのJクルーに入って家で着る用のシャツを見繕ったり、マクドナルドに入ったり。

 その間にもスマートフォンはひっきりなしでバイブレーションを続け、最後に見たときは着信履歴18件。これはクリフからの督促を含まない。親父の短気もここまで来ると重傷だね、認知症入ってんじゃないか。


「どうせまたお説教だろ、うんざりだ」

「ここのところ連絡を悉く無視してるそうじゃないか。シニアは気にかけていたぞ」

「テキストで返事は寄越してる」

「声を聞かせるのが大事なんだ」

 お互い向き合って話をしましょう、ってか? 俺が大学を中退した時は散々文句を言った癖に、そこに至る途中経過は全く聞かなかった親父と? 馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。

「いやだ。親父と話すくらいなら、ここへ缶詰にされて報告書を睨んでる方がよっぽどマシだ」

 押して引いての駆け引きこそが商売の要。だけど時には、有無を言わさない支配人の威厳って奴を見せつけないといけないときがある。椅子をぎしぎし軋ませながらふんぞり返り、紫煙が目に染みたボギーみたいに瞼を狭めてみせる。


 ここは大人しく引き下がるべき場面なのに、クリフは手にしていたタブレットをデスクに投げつけた。バタンって音はあんまりにも大きくて、うっかりメイがクレヨンを放り出し、傍らの短刀に手を伸ばしかけた程だった。

「それじゃあ、さっそく見て貰おうか」

 表示されるサーバーの共有フォルダへは、ワードにエクセル、エトセトラ、エトセトラ。ずらずらとファイルが並んで、スクロールバーが豆粒くらいの大きさになっている。

「今月中に見とく」

「今週中にだ、ドニー」

「今日中にってことじゃないか」

「週末があるよ」


 ダイアンがぴくりと反応したのは、明日フラミンゴ・パークのプールへ連れていく約束を思い出したからだろう。らくがき帳に赤いクレヨンで描いていた象とカカポのキメラみたいな生き物から目を上げ、何も知らないクリフの背中を無表情で見据えている。

 これ以上余計な一言が付け足されれば、彼女は床に転がるよく削った色鉛筆を、奴の急所へ向かって投げつけるかもしれない。実際そうなってくれれば、どれほど愉快か分からない。


 幸か不幸か、スマートフォンが19回目の着信を知らせる。進めば虎、退けば狼。けれど狼はたぶん、虎に比べれば腹を空かせていない。


「はい、パパ?」

 思ったよりも親父は不機嫌じゃなかった。誰に見せるでもないのに、会話は理想的な父親と息子の交わす形で進んでいく。

 いや、クリフだけはまだ監視を続けていた。まるで自らがいなくなった途端、通話を終了して逃げ出すんじゃないかと言わんばかりの目つきで。そんなことする訳ないだろ、面倒を回避するのは好きでも、分割する趣味はない。

「いや、飯はもう食ったよ。また今度誘って……彼女とじゃない。あの子とは何でもないんだ。馬鹿なパパラッチが写真を撮って、ウェブニュースの編集者へ送っただけで」

 目配せしてやっても、陰険な眼差しは解除されない。あっそ、じゃあ勝手にしろよ。ホームドラマがお好きならご自由に。


 話題は全く他愛ない。個人的な近況報告、公的な近況報告(こっちに関しては、どうせクリフから話が行ってるはずだから、話すことは碌にない)最近赤ちゃんが産まれたニューヨークの姉貴にちゃんと出産祝いを送ったかとか。もちろん。ネットで買って配送させたベビー服への礼なら、ちゃんとスカイプで受け取ってる。


「そっか、大変だね……何なら組織犯罪課の知り合いを……ていうか、パパの方が俺より百倍はコネがあるだろ。うん、とにかく気をつけて。また電話する」

 スマートフォンをテーブルに乗せ、「ほら、これで義務を果たしましたよ、くそったれ」と口にする代わりに肩を竦めてやる。

「シニア、トラブルに巻き込まれてるらしいが」

「いつもの話だろ。キューバ人か、プエルト・リコ人か知らないけど」

 親父をマイアミの長者番付に押し上げたのは、3つのホテルと2つのカジノじゃない。2月上旬の日曜日に、街中のギャンブラーが差し出す金のおかげだ。

 ランニングシャツとストローハット姿でアパートメント前の階段に腰掛け、鉛筆でメモ帳にちまちま賭率を書き込んでいるなんてイメージは過去の姿。ブランドもののスーツを着込み、15台の固定電話を設置したオフィスで指示を飛ばすスタイリッシュなものにブックメーカーの存在を変えたのがドナルド・ファンダメント・シニア。

 敵は少なくない。そもそも違法だ。これまでにも車へ爆弾を仕掛けられたり、屋敷がボヤ騒ぎに巻き込まれたり。まともな神経の持ち主なら、とっとと足を洗って綺麗なホテルの経営者に収まってる。


 全然まともじゃないうちの親父は、未だに10台の固定電話を前に(最近はメールで受け付けることも多いからな)日々楽しく金勘定を続けている。


「俺、ドナルド・トランプは嫌いだけど、キューバの不法入国者が親父の仕事に参入してくるのは勘弁だな」

 親父はマイケル・コルレオーネみたいに、自分の子供たちが全員堅気の仕事へ付くことを望んだ。その目論見は、今のところ、大体……85パーセント成功している。そういう観点で考えれば、俺は不肖の息子って訳だ。


 けれど、もしも親父が死んだときは? 未だ莫大な金を稼ぎ出すことで、ファンダメント・ファミリーのパワーを裏付けるこの事業を、誰が引き継ぐって言うんだ? 日陰の生活を歩んできた俺以外に適任者がいるって言うなら、是非とも教えてほしい。


「シニアは相変わらず仕事に打ち込んでるんだね。子供たちもほとんど独立したし、いくらでも悠々自適の生活を送れるだろうに」

「その独立してない子供ってのが面倒なんだろうが。親父はデヴィッドをアイビーリーガーにするつもりだし、もしかしたらまだ産まれる可能性だって」


 ふと気が付けば、クリフが何ともいえない変な顔をして俺を見つめている。

 いや、奴だけじゃない。バーバリアンズですら、ぐるぐる渦巻きのロリポップを口から離して俺へ視線を向けていた。

「なんだよ」

「いや、別に」

 とてつもない苦痛を感じたと言わんばかりに眉根を寄せ、クリフは答えた。

「今夜は誰かと会ってくるんだっけね」

「テクシーと『ストーリー』で。たぶん仕事の話」

「何かあったら連絡を入れるから、ちゃんとスマートフォンを確認してくれよ」

「分かってる。それじゃ、今から働くから邪魔しないでくれ」

 押し返したタブレットを抱え、出ていくクリフの唇は、最後まで不満げにもぞもぞ蠢き続けていた。


「ほんと、あいつはひどい奴だと思わないか?」

 バーバリアンズにそう問いかければ、短い沈黙のあとメイが首を振る。

「わたし、むずかしいこと、わからないわ」

「ボス、あしたはフラミンゴにいくんだよね」

 ロリポップを振り回すダイアンの口元は、そのカラフルな菓子のせいでベタベタになっている。

 つぶらな瞳は精一杯訴えかける子犬そのもの。例えいくつの女の子でも、その年齢に応じた、男の子にイエスと言わせる方法を熟知してるもんだ。

「あたし、やくそくどおり、かってもらったサボテン枯らさなかったよ」

「分かってる、分かってる。今日家に帰ったら、水着の用意しろよ」

 テクシーと会う前に家へ帰って着替えを済ませ、メイドのチキータが作った夕食をバーバリアンズと食べ、彼女たちを風呂に放り込んだあと寝かしつけなきゃいけない。逆算したら17時位にはここを出たいな。


 それまでに、全部の報告書へ目を通すことは出来るだろうか。

 ファイルを全部開いて、上書き保存しては消すのを繰り返す時間くらいなら、まあ。

 面倒ごとは一刻も早く片付けてしまうに限る。気は乗らないけど仕方ない。お絵かきを終え、得物の手入れを始めたバーバリアンズを見習って、俺もパソコンの電源ボタンを押した。



 

 17時。ミズ・プラチナ・ブロンドの右手には、皿の代わりにスターム・ルガーのLC9が握られている。

「汗を掻いたでしょう。体を清潔にしましょう」


 両腕に手錠をかけられ、廊下へ連れ出される。細く伸びる、緑色に塗られたコンクリートの床。濡れたような漆喰の壁。天井からぶら下がる照明は部屋の中と同じように頼りなく、閉塞感は一向に緩和されない。

 それまで用足しの時には、同じ並びのばっちいトイレへ行ってたんだけど、今回は反対側に進んだ。壁へ埋め込まれた、俺が放り込まれているのと変わらないドア達。どれもしんと静まり返っている。俺と同じ境遇の奴が監禁されているんだろうか。


 考えたんだけど、この連中、どう考えてもキューバ人やプエルト・リコ人には思えない。奴らに依頼を受けた、専門の委託業者じゃなかろうか。


 仕事柄、そういう業務があることは知っていた。大体、最近の誘拐はほぼ組織犯罪がらみだ。あれほどコストパフォーマンスの悪い犯罪もない。人一人を連れ去ることから、そいつを監禁すること、何よりも身代金の受け渡し。いっそ殺してしまった方が楽だ。

 そう、人間ってのは殺すより生かす方が遙かに金がかかる。考えなくても当たり前の話だけど。


 専門職として特化してる分、その「業者」連中はしっかりした組織を構築し、とにかく金さえ払えば顧客満足度の非常に高い仕事をこなしてくれるって聞いた。

 まさか、自ら身を以てそのサービスを体験する事になるとは思わなかったけど。


 H型をしているように思える建物の、ちょうどハブに当たる廊下へ、バスルームは位置していた。じめじめして、黒っぽい水垢が線を刻んでいた便器のあるトイレとは違い、清潔さを保っている。


 ドアの前には、いかにもやくざ者らしい、ひしゃげた鼻のロシア男が待っていた。彼に頷いて見せたプラチナ・ブロンドは、俺を脱衣場所へ追い立てる。ドアを開けたまま、「全部脱ぎなさい」と銃でしゃくられた。

「手錠をはめたままで?」

 別に軽口を叩いたつもりはなくて、アレキサンダー・マックイーンのスーツを駄目にしたくなかっただけ。

 彼女はちょっと肩を竦めて、手をスラックスのポケットに突っ込んだ。

 鍵を外されたのは良いけど、美女の前でストリップするのは、やっぱり躊躇する。お互い裸になるなら、いくらでもやりますけどね。


 そんな心の声が聞こえた?……おいおい、嘘だろ。彼女はドアの前の男に拳銃を手渡すと、自らのハイネック・セーターに手を掛けた。

 服を着ている時は拒食症のモデル並に痩せていると思ってたけど、脱いだ姿は適度な筋肉を纏う、全くお見事なものだった。胸はそんなに大きくないけれど。


 ドアの向こうにぽつんと現れる猫足のバスタブへは、既に湯を張ってある。バスソルトを投入してあるのか、ローズヒップの香りがする湯気を漂わせ、甘いピンク色に揺れている。大人二人が入ると少し狭そうだ。


 でも、彼女は入ってきた。じーっと見入る視線など気にもかけず、俺と向き合うようにして身を滑り込ませてくる。軽く膝を曲げた脚と脚が擦り合わされた瞬間、もう、今の状況なんか忘れて、ぐっと来ちゃったね。

「すごいサービスだな」

「服が濡れるでしょう」

 棚に乗せてあったスポンジを取り上げ、ボディソープを泡立てながら、事も無げに言ってのける。

「それに、健康チェックも兼ねてる。じっとしてて、動いたら、今度は外した関節を元へ戻さないわよ」


 彼女がこちらに身を寄せれば、一緒に波打つ湯が胸を叩いた。もうシャネルは洗い流されている。黒い肌の曲線に沿って伝う一しずく一しずくが、脳を煮溶かすような芳香を放った。


 機械を思わせる態度と一転、彼女の手は絹みたいな肌触りだった。ちくちくするヘチマのスポンジで、腕から順に泡を増やすよう擦られる。くすぐったいやら、妙な気持ちになるやら。


「名前は?」

 じろっと持ち上げられた眼差しへ、慌てて言葉を付け足す。

「本名を聞いてる訳じゃない。ただ、呼び名がないと不便だと思ったから」

 俺の鎖骨の辺りで、円を描くようにスポンジを動かしながら、彼女はしばらくの間考えていた。やがて、長い睫へ乗った水滴を弾くよう、瞼が伏せられる。

「ベルって呼んで」

「素敵な名前だ」


 ベル、ベル、美女と野獣の「美女」の方の名前。ベルリーヴって綺麗な地名もあった。

 唇の先で何度か繰り返していると、ベルの短い吐息が、温かいバスルームの空気を震わせた。

「意外と度胸があるのね。目覚めた直後はあんまり泣いてばかりいるものだから、どうなることかと心配したけど」

「今だって怖くて仕方ないよ。でも君は『危険な目には遭わさない』って言った」


 もちろん、誘拐なんて極悪非道な事をしでかす人間の、全てを信用している訳じゃない。けれど、ちょっと賢い人間なら気付くもんだ。3時間以上泣いて喚いて扉をドンドン叩いても、望みが一切叶えられないなら、新たな精神段階へ移行しなくちゃならないって。

 違う算段を組み立てる時になって、手が剥離骨折してちゃ元も子もないもんな。


「親父は身代金を払った?」

「引き延ばし作戦に出てるわ。その間に、ここを探し出そうと思ってるのね……無駄な足掻きなのに」

 湯船から引き出した俺の脚を膝の上に乗せ、スポンジを滑らせる。

「だから、最終期限を今夜21時にした。それを過ぎたら、もう貴方達親子は永遠に会うことができない」

「俺を殺す?」

 泡まみれだった足は綺麗に濯がれる。現れた小指へ、彼女の白い小粒の歯が、きゅっと音が鳴りそうなほど食い込んだ。

「危険な目には遭わさないって言ったでしょう。少なくとも、私達は」

 何とも意味深。


 いくら守銭奴の親父でも、息子の命が掛かってるとなれば金を積むだろう……それがどれだけ途方もない金額だったとしても。

「ちなみに、俺の値段はおいくら?」

「20万ドル」

 俺が今乗ってるポルシェ以下の値段……さすがにガックリ来る。何でそんな安く設定したんだよ! って、今ここにキューバ人達がいるならぶん殴ってやりたいところだ。

「詳しい話は聞いてないけど、恐らく依頼主の目的は金じゃないわ。貴方の父親から、もっと大きなものを奪い取ろうとしている」

「マイアミって街をだろ。それとももう少し控えめに、共同経営者に収まりたいってところか」


 雨が降っているんだろうか。半透明のシートを張られた窓の外は不自然なほど明るく、涙の跡みたいな線条がぽつりぽつりと刻まれている。

 差し込む白い光のおかげで、色素の薄いベルの瞳は一層明度を増し、奥の奥まで覗き込むことが出来そうだった。

「依頼主を知ってるのね」

 俺は軽く肩を竦めてみせた。

「大体の予想はつく」

 水面のさざなみがこちらへ押し寄せ、追いかけるように体が重なり合う。柔らかな胸を俺に押しつけながら、彼女は耳元に短く囁いた。「背中を洗ってあげるから、体を起こして」


 ぬめりを帯びながら、背中を滑る感触は柔らかい。スポンジを使っていならしい。肩胛骨のくぼみを指の腹で擦られ、思わず上半身を前へと突き出したら、堅い弾力に阻まれる。

 なんてこった。これで何も期待するなって言う方がおかしい。

「誘拐するなら、俺じゃなくて弟にすれば良かったのに」

 湯から突き出し、身じろぎのたびに左右へ揺すられる巨大なヒップと、そこからきゅっとくびれた腰のラインを凝視しながら、俺は言った。

 蒸気でぼやけていることを差し引いても、随分余裕なく掠れた声になっていた事は自覚してる。

「あいつは14歳だから、ずっと楽だったろうに」

「アンドーヴァーの寄宿舎は警備が厳しいし」

 頬と頬を触れ合わせながら放たれる彼女の吐息は、鼓膜に直接当たって震わせるかのようだった。

「あなたの方が、簡単に攻略出来ると思ったから」

 違う? という疑問符には、耳朶を掠めた唇の柔らかさで息を飲んだおかげで、とっさに返すことが出来ない。


 落ちた、落ちた、完全に白旗を揚げる。なんて計算高く、残虐無比な組織なんだろう。

 もう肩の関節を犠牲にしてでも、この魅力的な悪の幹部へ飛びかかりたくてたまらなかった。首輪を付けられていた時よりもよほど胸が詰まって、思わず目を閉じたまま顎を持ち上げ、酸素を探す。

「君みたいな美女にさらわれるなんて、人生の運を使い果たしちまったな。これから先、どうなることやら」


 隅々まで磨き立てていた、彼女の手の動きが止まる。瞼をこじ開ければ、心地よい重みと温もりはもう、手の届かないところへ。

 立ち上がった全身から、ハリケーン前のにわか雨みたいに大量の湯が降り注ぎ、顔をピンク色に濡らした。

「10分で、大事なところを洗って出てきなさい」

 ぽちゃんと股の間に投げ込まれたヘチマスポンジが、所在なさげに漂う。視界を遮るもやの中で、ベルの顔は普段の硬質なものに戻っていた。いや、あえてそういう表情を作る、努力をしていたのだと思う。

「洗ってくれない?」

 麻痺した危機管理にぼんやり口を開けながら、俺は尋ねた。彼女は答える代わりに、棚へ乗せていたバスタオルを取り上げる。ふわりと広げて羽織り、素晴らしい肉体は隠されてしまう。引き開けられたドアの向こうで、ロシア男が厳然と待ちかまえている姿が見えた。

 彼の方向を見遣り、それからもう一度俺を振り返ったベルの瞳から、何らかの感情を読みとることは、結局出来なかった。

「ドライヤー位は掛けてあげる」




 23時30分。金曜日という事もあり、オープンしたばかりにも関わらずクラブはいつも以上の盛況を保っていた。


 テクシーが持っているのはVIP席って言っても、2階のそこまでいい場所じゃない。だからこそ、話をするには丁度いいのかも知れないけど。


 天井から吊された、黄色とピンク色に輝くビーズの簾みたいな電飾を眺めていたら、テクシーがこちらに身を傾けて叫んだ。

「最近儲かってるらしいな」

 って言ったんだと思う。カーディ・Bの『ボーダック・イエロー』のリミックスらしい曲がガンガンと天井を押し上げては、怒濤の如く降り注いでいる。

 奴がめげることなく何度も喚くもんだから、俺も韓国人だって自己紹介してきた女の子の膝へ手を突き、耳を近付ける。

「店、いつでも満員御礼なんだろ!」

「そう、そう、季節の変わり目は変態が増えるんだよ!」


 テクシーはサンアントニオ生まれ、父親がヒスパニックなんだっけ。まあ、この街のプロモーターをやっていて、30越えてもまだこんな柱近くの席しかリザーブ出来ない時点でお察し下さいって奴だけど。

 もっとも、女の趣味は非常によろしい、今日も馴染みのゴージャスたちを半分、サウス・ビーチで日光浴してたのをスカウトしてきたんだろうプリティたちを半分って、10人近くの女の子が笑いさざめき、お喋りしているのを見るのは気分がいい。


 さっきから俺は、隣にいる赤毛の学生タイプに狙いを定めて話しかけてる。なのに何かヤってるのか外国人なのか、彼女はとろんとした目でこっちを見つめ返すだけ。

 その顔を覚えようとしているんだけど、この薄暗さと、しだれかかるすべすべした腕とおっぱいばかりがあんまりにも印象深くて、外へ出た時これ以外の特徴を忘れずにいられるか心配になってきた。

「で、わざわざ呼びつけるほどの話ってなんだよ!」

「別にさ、そんな大した事じゃないんだけど」

 さっき頼んだのはスクリュードライバーとバラライカを5杯ずつなのに、なぜか全部で20個も運ばれてくる。テーブルへぎっしり並べられたグラスに面白さを見いだしたのか、端の方に座っていた女の子たちはパンティが丸見えになるほど笑い転げている。


「……ってことで、彼女、おまえと店に興味津々な訳よ」

「で、おまえは彼女のパパの金に興味津々なんだろ」

「矢印が向き合うことは決してないのだ」

 肩に乗っていた女の子の頭ががくっと傾いで、ワンレンボブの赤毛が襟ぐりを擦った。ジムビームをグラスからこぼさないように手を掲げ、やれやれと他の女の子たちに微笑んでみせる。

「頼むよドニー。すっごい美人だから」

「でもなあ。いくら過激趣味って言っても、レッドチューブとナマはショックの度合いが違う。その子、トラウマになるかも」

「じゃじゃ馬のお嬢さんには丁度いい社会勉強だよ。おまえの店、そういう覗き趣味な客専用の部屋があるんだろ?」

 ありますとも。インポな紳士と冷感症なマダムの為の素敵なルームが。

 マジック・ミラーのついた部屋は7割ヤラセ、残りは自分たちのプレイを見て欲しいド変態向けだけど、今日は誰か志願者がいたかね。


「で、その女の子を店で接待したら、俺にはどんな特典が付くんだ」

「ダウンタウンに新しくできる中華風ケイジャン・ビストロのオーナーに紹介する。来月『リブ』にヴィナイが来るから、一番いい席を用意する」

「もう一押し」

「おまえが病気持ちじゃないなら、その女の子とヤッてもいい」

 すやすや寝息を立てだした赤毛ちゃんをそっと押し退け、俺はグラスの中身を飲み干した。

「ま、許してやろう」

 よく日焼けしたテクシーの顔が、入り乱れるフラッシュのおかげで緑色になり、ピンク色へ変わり、それから青く染まる。ダルメシアンみたいなブチブチの影を全身に刻みながら、奴はほっと息を付いた。

「ああ、助かった。実はその子、外で待ってるんだよ」


 入り口前に滑り込んできた白いストレッチ・リモは普通のセダン3台分位の長さ。オールティンテッドガラスは中の様子を決して漏らさない。


 もっとも謎めいているのは、配車係が引き開けたドアから潜り込んでも同じ事。車内には人の気配がなく明かりすら付いていなかった。

 その場がパッとオレンジ色に染まったのは、車が動き出してからの事だ。車最後尾、L字型に配置されたクリーム色のシートの一番端っこに、ちょんと座っているプリティ・イン・ピンク。


 凝った植物の刺繍を施したカルヴァン・クラインか何かのミニドレスは、その年齢じゃちょっと大人っぽすぎる。

 多分まだ大学生くらいだろう。青い目は色気というより、好奇心の強い子供みたいな視線で俺の全身を眺め渡してくる。

「えーっと、君がミズ……」

「ジュビリーよ」

 まっすぐな金髪が、頭をちょっと動かすたびにさらさらと肩から流れる。

「無茶なお願いをしてごめんなさい、ミスター・ファンダメント。だけど、どうしても興味があったの」

「まあ、知的向上心があるのは立派なことだよな」

 組まれた脚はストッキングを履いていなかった。均一な日焼けと、ルーフに張り付けられた鏡が反射させるオレンジ色のおかげで、それはとてつもなくすべすべと、魅力的に見える。

 俺は別に脚への偏重した好みがある訳じゃないけど、程良く肉付きの良い、そんなに筋肉のなさそうな脚って、何となく若さの象徴みたいなものを感じる。


 彼女はサイドのポケットにずらずらっと陳列している瓶の中から、未開封のダルモアを取り上げる。ストレートで一口グラスから含み、露骨に顔をしかめたので「俺にもオンザロックでくれないか」と頼むのは一応気遣い。

 ロックグラスを二つ手にして、俺の隣にやってくるぴちぴち娘。車はワシントン・アベニューに乗ってビーチ方面へ向かっている。多分、目的地はない。俺が正式に首を縦に振るまでは。


 桃を思わせる濃厚な芳香を口の中で転がし、俺は頭一つ以上低い位置にある女の子の目を覗き込んだ。

「話はテクシーから聞いたよ。でもうちの店でやってる事って、いわゆる黄金の皿に乗せて出すクソみたいなものだから、冗談抜きでエグいぜ?」

「平気です」

 俺のグラスにもう少しウイスキーを注ぎ足しながら、ジュビリーは答えた。短いスカートが捲れ上がり、剥き出しの脚がスラックス越しにひたっと寄り添う。

「私の父は、よくメイドを血が出るまでベルトで打ち据えたり、ワギナに拳を突き入れたりしていました。母もプール清掃の大学生をベッドに誘い込むのが趣味で」

 変態家族って訳か。さすがにそう、口に出すことはしなかったけど。

「精神的苦痛を被ったからって、訴訟を起こすとか言うのは勘弁してくれよ。あと撮影録音は禁止」

「分かりました」

 俺の太ももにそっと触れていた手が、するすると脇腹から胸元へと上がっていく。体を預けてくるまま、俺はシートの上に身を倒した。

「おいおい、俺は変態プレイに興味ないぜ」

 って口にはしてみたけど、実のところ、意識は絡まる脚と、押しつけられた思ったより大きな胸にばっかり集中してしまう。

 ジュビリーがきょとんと見つめ返す。まるで俺が突然マルクスの資本論を暗唱しだしたみたいな顔で。

「私もそうよ。見る専門だもの」


 ならば利害は一致する。体を反転させシートから転げ落ちたとき、彼女は子供みたいにはしゃいだ声を上げて笑った。

 ふかふかのマットには酒をこぼしたか、何かトワレでも振りかけてあるのか。

 毛足へ埋まる、細い喉元へ顔を埋めていたら、鼻の奥がつんとなってきた。突然ギアを切り替えたみたいに、思考回路が濁りを帯びる。

「大丈夫?」

 ジュビリーの声は遠くからこだまするようにも、耳へ直接吹き込まれたようにも感じる。頭を振って「何でもない」って言ったつもりだけど、それすら舌を動かした感覚が曖昧だ。


 俺の体の下から這い出したジュビリーが、運転席を区切るガラス窓を叩いている。開いた隙間から手渡された物を数えながら、一瞬投げかけられた視線は、ひどく怯えたものだ。


 これはヤバい。いや、ヤバいどころの騒ぎじゃない。とんでもないことになった。

 薄れゆく意識を保とうとする努力はあっけなく挫け、最後に残ったのは、口の中に潜り込んだファーがごわつく、何とも気持ちの悪い感触だった。

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