3日目 PM

 寝室へ入ってまず気付いたのは、昼間にも関わらず雨戸がぴしゃりと落とされている事。それから、ちょっと甘酸っぱいような、鼻の奥を刺してこねる匂い。

「屋根裏でネズミが死んでるみたいなの。業者を呼ばなきゃ」

 照明のスイッチを入れ、マリオンはぼやいた。


 恐らく長年触れていないのだろう。小さな本棚の引き戸を開け、数冊の料理本やパンフレットが床に投げ出される。取り出された布表紙のアルバム帳は、経年劣化と綴られた思い出で、ぱんぱんに膨らんでいた。

「母さん秘蔵のお宝、ご覧遊ばせ」

 年季の入ったパッチワークのベッドカバーへ腰を落とす勢いは激しくて、スプリングが軋むほど。促されるまま隣に座り、過去への旅に出る。


 パーティーガールって言う話は嘘じゃなかったらしい。一ページ目に貼られた写真はどれも、80年代マイアミのナイトライフを記録した物だった。ぴったりした短いドレスと膨らんだカーリーヘアの女の子たち。DCブランドやヤッピー風のスーツに身を固めた男の集団。


「これが母さん」

 指さされた女性はマリオンと同じ渋皮色の髪、青いアイシャドウをこってり瞼に塗った細面の美人。フルート型のシャンパングラスを指でつまみ、ちょっと神経質な顔一杯に笑みを広げていた。

「美人でしょう?」

「君にそっくりだ」

 そう言えば、彼女はほうっと息をつき、笑顔を浮かべた。母親にうり二つの、張りつめた微笑みを。

「楽しくやってたんだけど、私が生まれたのが運の尽き。嫌なことがあるたび、当てつけみたいにこのアルバムを開いてみせるのよ」

 美しい母親は、これをどんな気持ちで眺めていたのだろう。白い台紙には所々食べかすや飲み物の染みが浮いている。それを避けるようにマリオンは指を滑らせ、時折現れるミミズのようなボールペンの書き込みを読み上げた。

「『医者ほどつまらない男はない』これは名言ね」


 最初はまさしく、お利口に1冊の絵本を読んでいる姉弟の距離感だった。なのにページを進めるたびに彼女は身を乗り出し、こちらに近付いてくる。ほんのり甘い汗の匂い。擦れ合う膝。

 ぬくぬくとした陽の光が照らし込む居間では聞こえてきた、子供たちのはしゃぎ声もない。今静かに鼓膜を震わせるのは、胸を波打たせるようなゆっくりと深い彼女の吐息だけだ。そこに文字通り水を差す、首筋へぽとりと滴り落ちたもの。

「冷たっ!これ……」

「雨漏りしてるのよ。そう、ファンダメント・シニアの写真は」

 数ページを雑に捲り、それからまた戻ったあと、栄光の時代は現れる。


 写っているのは、間違いなく俺の親父だった。しかも、それまでアルバムを埋めていた華やかな場ではなく、この家を訪れている時の。

 内装や家具に微妙な差異はあるけれど、確かに俺たちがさっきいた居間にてくつろいでいる親父。ラルフのポロシャツやジーンズという、絵に描いたような休日の父親の姿だった。新聞を読んだり、恐らくマリオンの母親が作った料理を口に運びながら、ちょっと照れたように笑ったり。


 それは20年前、俺の家で親父が見せていた姿と、何一つ変わらない。


 マリオンは写真ではなく、声を飲んだ俺の横顔をじっと見つめていた。穏やかな息遣いの延長上にある、静かな声を耳に吹き込む。

「これって、証拠になる?」

「ああ」

 本心から俺は答え、頷いた。

「十分すぎるくらいだ。出来れば、君も一緒の写真があれば完璧なんだけど」

「私が産まれる前に、関係が冷めちゃったの。むしろ、そのせいかな。そういうの、分かるでしょ」

 俺の太ももをぎゅっと掴み、彼女が顔を近付けてきたのはその瞬間だった。唇の端にするキスは、まるで子供だまし。暗闇を怖がって泣く弟に、姉がしてみせるもの。


 それはすぐさま、大人が交わすものへと変わる。倒れ込んだ拍子にベッドカバーが細かな埃を噴き、ダイアモンドダストのように宙空で輝いた。

「私達って、家族になれるかしら」

 ボタンを二つ外したシャツの合わせ目から手を滑り込ませ、胸の筋肉を撫でながら、マリオンは酔ったような声音で囁く。

「ねえ、どう思う?」

「なれるさ」

 手を伸ばした先、ジーンズの履き口から手を突っ込み、呻き声を上げる。

「今から距離を埋めようぜ」

 分厚いけれど滑りのいい、化繊のパンティをまさぐる。

「それこそ、隙間なくぴっちりと」

 俺の腕をそっと外し、彼女はベッドから降りた。照明のスイッチがぱちんと音を立て、部屋は暗闇に包まれる。

「じゃあ、お姉ちゃんに任せてちょうだい」

 

 ただでも雨戸を落として光は皆無なのに、マリオンは念には念を入れて俺の目を何かで……シルクのスカーフか何かで……覆い、両手を手錠でアルミのベッドヘッドに固定した。

「随分過激な姉ちゃんだな」

「それってつまり」

 万歳をした手首に金属の輪がはめられ、反対側も同じように固定された時、ふっと笑い声が頬を打つ。それだけで尻がムズムズして、爪先まで電気を流されたみたいに痺れる。

「刺激的ってことでしょ?」


 彼女が上に乗っかってきて、それから、それから。感覚を一つ遮断されると、時間の経過が曖昧になる。低い、神経の隅々にまでアドレナリンを行き渡らせるような艶っぽい呻きが、暗闇に充満した。力強い指が寝る前に毛布を揉む猫みたいに、コットンシャツと俺の鍛えた腹筋をこねる。

 グラマラスな肉体は跳ねると結構な重さだ。けれど俺だって、伊達にジム通いを続けてるわけじゃない。


 惜しむらくは、その素晴らしいおっぱいが、身体と別の生き物のように跳ねている様子を眺められないこと。あの少し固めで、迂闊な指なら跳ね返してしまいそうな弾力を味わえないこと。

「頼むよマリオン。これ外してくれないか」

「だめ、だめ」

 鎖のカチャカチャ言う響きへ裏打ちするよう、マリオンの弾む息を漏らされる。

「いたずらっ子にはお仕置きが必要だから」

「もう悪さはしないよ」

 何が悪いのかさっぱり分からないまま、俺は訴えた。

「ほんとだって、ああ、頼むから……」

「だめ、だめ、だめ」

 彼女の笑い声とベッドの軋み、そして鎖の鳴る音がますます大きくなる。くそっ、また雨漏りか。はだけた胸の辺りに冷たいものが。


 で、気持ちのよい時間ほどあっと言う間に終わる。彼女が俺の上半身に突っ伏して、たわわな胸の重みを味合わせてくれたのは、30秒くらいだろうか。息が整ってすぐ、片方の手錠が開錠される。すかさず伸ばした俺の手は空を切り、後に残るのは密やかな含み笑いだけだった。

「本当に悪い子ね」

 脱ぎ捨てたジーンズへ足を通していたんだろう。衣擦れの音が収まったと思ったら、ようやくパチン。光が戻ってくる。

「先にシャワー浴びさせて。何か飲みたかったら、下の冷蔵庫からセルフサービスでどうぞ」

 スカーフを毟り取り、目を懸命に瞬かせる。結局見届けることが出来たのは、大きな尻を振りながら去っていく彼女の後ろ姿だけだった。


 まあまあまあ。何事も欲張っちゃいけない。再び仰向けにひっくり返り、目を閉じる。運動した後の心地よい疲労。これ以上ビールを引っかけなくても、十分うとうとしてしまいそうだ。



 さて、これで俺達は共犯関係だ。どうしたもんかね。

 とりあえず後でジェフに報告しなけりゃ。

「会ってみたけど、悪い人じゃなさそうだったぜ。ただ彼女は、承認欲求を満たしたいだけなんだ」

 最悪、店がいい感じならわざわざ認知云々の話へ持って行かなくても、ホテル提携って形にしたり、名義を貸すだけでも十分なんじゃないかな。文字通りグループに招き入れるってこと。

 まあ、俺個人としては、彼女がファンダメントの名前を名乗ること、全然吝かではないけど。


 ……ああ、もう! さっきから何だよこれ!額に落ちてきた冷たい一滴。指先で拭いながら渋々持ち上げた瞼を、思わずぎょっとこじ開ける。

 粘ついて、赤茶けた色のそれは、一見すると血のよう……回りくどい言い方は良くない、血にしか見えなかった。


 天井を見上げて更におののいたのは、そこへ黒々と邪悪な模様が広がっていたからだ。雨漏りにしては、パネルに貼られた薄桃色のビニール・クロスを染める色が濃すぎる。

 ちょうどベッドの上の辺りが反り返って、こりゃ早急にリフォーム業者を呼んだ方がいい。ネズミどころじゃない、野良猫でも死んでるんじゃないか。

 そう、上に乗ってるのはそこそこに重量があるものだ。パネルも微妙にずれてるし。


 ふっと振り向いた先、本棚へ立てかけられていたフローリング掃除用ワイパーに気付いたのは偶然だし、それを取り上げたのも、ちょっとした出来心だ。

 ベッドの上にあぐらをかき、具材をたっぷり乗せたパイ生地みたいに撓んでる薄い合板、ちょうど染みの一番中心をスティックの先で軽く一突き。

 それだけで決壊を起こしたんだから、俺がちょっかいを出さなくても、近い内に駄目になってただろうよ。


 まるで紙でも破くみたいに呆気ない音を立てて、パネルは破れた。穴から振り子みたいにスウィングしてきた黒い物体を避ける事なんか出来やしない。ものの見事に張り倒されて、床に転げ落ちる。

 何とか身体を起こし、目の前を飛んでる星が完全に消え去る……よりも早く、俺はマイアミ中に響きわたるんじゃないかってくらいの悲鳴を上げていた。


 俺だって決して、真っ当にお天道様の下を歩いているばかりじゃない。だけど腐乱死体ってものへお目にかかったのは、生まれて初めてだ。


 青味掛かった灰色に染まる肌。耳や口の周り、瞼って柔らかい場所はネズミにかじられでもしたのか肉の色が見えるほど欠けている。特に唇なんかいくらか内側が見える位で、まるで歯を食いしばっているように見えた。


 だが何よりも、そのえげつない臭い! べとべとして茶色い液体にまみれもつれた長い髪や、だらんとなった傷だらけの両腕が揺れるたび、鼻の粘膜という粘膜を物理的に潰すような、すえた臭いに顔を叩きのめされる。

 で、そのおぞましいものの断片が、俺の顔やら服やらにくっついてるんだよな。ねっちょりしたそれは時間を追うごとにますます冷たくなり、存在を主張する。幾らかは口の中に入ったりして。


 吐いたよ。そりゃもう滅茶苦茶吐いたよ。と言っても、胃の中に残ってたものなんて、マカダミアナッツ・チョコレートとギネス位しかなかったけど。

 もうゲーゲーオエオエ声を上げて、とりあえず体の中にあるものを全て外に出してしまいたかった。


 セックスの時よりもよっぽどヒートした頭が猛回転し、千々に乱れた思考やイメージが脳内を錯綜する。俺は一体何でこんなに下半身が緩いんだとか、暗闇の中でずっと聞き続けた喘ぎ声とか、包丁で切り刻まれるジャネット・リーとか、ぐるぐる渦を巻く黒っぽい血とか。


 汗だくになり、えずきのため全身へ力を込めるのに疲れ果て、ようやく顔を上げる気になれば、再びコープス・ブライドとご対面。また胃がひくひく痙攣し始めたとき、ふと気がつく。


 渋皮色の髪、彫りの深い顔立ち。ネズミの餌にされ、鼻が腐ってグズグズに崩れていても、そこから面影を見いだすことは十分可能だった。親愛なる我が姉、マリオン・パスクワーレイに。

 ぞーっと背筋に走った寒気は、シャツの中で滲んでいた汗を一気に冷やす。



 寝室のドアは音もなく開き、綺麗に洗われた足は気配を消す。背後の存在に気付いたのは、彼女の長い髪の毛先から、透明な水が床に滴り落ちたからだ。


 勢いよく振り向き、後ずさるものの、すぐさま背中に衝撃が走る。先ほどまで頑丈さを誉め讃えたく思っていたベッドは、逃げ道を完全に絶った。

「マリオン、これは……」

「怪我しなかった?」

 化繊のショートパンツから伸びるがっしりとした脚で仁王立ち、整った顔立ちに感情はない。極めつけに、無機質な動きを作る唇から放たれる台詞から、抑揚が徹底的に欠けてるってなれば。

「すごい音と……それに、叫び声が聞こえたけど」

「叫びもするさ! こ、この女、一体誰なんだ!」

「誰でもない」

 後ろ手に回していた右手が、すっと前に突き出される。

「それに、今更誰だって、あなたには関係ない」

 固く握りしめて構えられた牛刀はよく研がれ、ほとんど新品みたいに見えた。


 彼女が一歩踏み出すたびに、こっちも一歩後ずさる。だけど脚の位置が変わったところで、彼女が狙う心臓の位置は一インチも動かないんだ。

 さっき散々寝乱して、くしゃくしゃになったシーツへ縋りつきながら、俺は精一杯哀れみを誘う声音で懇願を張り上げた。

「み、み、見逃してくれ、この事は誰にも言わないから……」

「本当に?」

「本当だって……! な、なあ、俺たちは姉弟、そう、家族だろ?」

 彼女の表情が動かないこと、作り物の如し。俺が撒き散らしたゲロも平気で踏み越え、歩みを止めることははい。

 まるで歌でも口ずさむようにうっすらと唇だけを動かし、マリオンはさえずった。

「家族って言うのは、ファックなんかしないでしょう?」

 振りかざされた刃が、覆い被さり影になる体躯から独立し、蛍光灯の下で不自然なほど輝いていた。



 勢いよく駆け上ってくる二重の足音に、思わず泣き笑いでブラボーと叫びそうになる。途端、ぐっしょり湿った襟首を掴まれた。


 部屋に足を突入したバーバアリアンズは、俺の首筋に沿わされた牛刀を見て一瞬動きを止めた。

「彼がどうなってもいいの?!」

 張り上げられる警告を無視し、メイが抜き身の刀を八相に構える。

「ボス、けがしてない?」

「今のところ……」

 ステンレスの冷たさは、押しつけられた頸動脈から全身に回って、冷や汗を凍り付かせた。ぐうっと喉が音を立てる。こちらを凝視しているダイアンの目つきは、戦車の装甲でも刺し貫けそうなほど鋭かった。

「そいつ、ぶっころしていい?」

「いい…………いや、手加減しろ」

 思わずそう口にしたのは、まだ一欠片、心に引っかかる感傷があったからだ。家族の繋がり。心を通わせ、慈しみ合うということ。


 そんな心優しい弟の思惑など、姉は一つも汲もうとしなかった。ダイアンが突きつけたグロッグの照準を外さないと見て取るや、喉元にひやりとした痛みが走る。

 すっかり失せた血の気と裏腹、裂けた皮膚から流れる一筋は温かい。シャツの襟にじわじわと染み込んだ暁には、俺ももう恐怖で喉を引き攣らせる余り、新たな指示を出すことすら出来なくなっていた。


「あっそう」

 ダイアンの眦がこれ以上ないほど吊り上がる。放たれた声は本当に、7歳児が出しているんだろうか。アル・カポネみたいにドスが利いて、静寂へ恐れを植え付けた。

「ボスの慈悲にかんしゃしな、このビッチ」

 空気を引き裂く甲高い音が、顎の下を擦り抜ける。弾道の摩擦熱によるびりっとした痛みを感じると共に、低い呻き声が鼓膜を震わせた。

 取り落とされた包丁が床で固い音を立てるや否や、メイが宙を滑るように走り寄る。穴を開けられた右手を押さえ、その場に膝をついたマリオンの首筋に、手刀を一発。それが止めだ。


「ボス!」

 走り寄ってきたダイアンは、首筋にかじりつかれた俺が上げた唸りで怪我を思い出したんだろう。慌てて傍らのシーツを引き裂き、包帯を作り始める。

「あーもう、びっくりした。ききいっぱつね」

「マリオンが怪しいって、なぜ分かったんだ」

「犬のなまえ」

 てきぱきと首へ布を巻いてくれた後、彼女はショートパンツのポケットから赤い首輪を取り出した。

 金メッキの鑑札には、大文字で『ナナ』と浮き彫りで刻み込まれている。


 その間も用心深いメイは、倒れ伏すマリオンの体を黒塗りの鞘でちょんちょんつついている。頬骨の高い横顔、いかり気味の肩、体格の割には小ぶりの尻。

「ねえボス、このひと……」

 実際にベッドの中で何をしているかは知らずとも、俺の女遊びについては大抵知っているバーバリアンズだ。今更口ごもらなくても良いのに、桜色の唇は躊躇したようにきゅっと丸められる。

「すきなの?」

「まあ、ごく低いとは言え、一応姉の可能性がある人間だからな。DNA鑑定の結果が出るまでは」

 もう一度唇をもぐつかせると、メイは黒塗りの鞘をマリオンの体の下に差し込んだ。

「ちがう。おねえさんじゃないわ」

 よいしょ、とひっくり返された体へ、間髪入れず刀が当てられる。切り裂かれたショートパンツと、ちょっと変わったサポーターみたいな形をしたパンティの下から現れたもの。

 そう、ご立派なモノだ。目にした瞬間、俺よりも先にダイアンが声を張り上げた。

「うそ、おにいちゃんだったの?!」

 


 後日、マイアミ・ヘラルドの第3面に掲載された記事によると、からくりはこうだ。


 あるところに、自分がドナルド・ファンダメント・シニアの私生児だと吹聴してまわる、情緒不安定なウェイトレスがいた。

 彼女は悲劇の申し子らしく、処方箋薬を飲みまくったり、事あるごとに職場の同僚へ喧嘩を売ったり、4chanに呪詛の言葉を書き連ねたりしていた。

 だが一緒に暮らしていた女装趣味のゲイが手を差し伸べたのも虚しく、ある日バスルームで手首を切り死んでしまう。


 途方に暮れ、錯乱し、また彼女と同じように自らの人生へ絶望していた彼が思いついたのは一世一代の大勝負。二度と脱ぐことの出来ない肉のコスチュームを身につけ、死んだ女の髪を研究所に送りつける。股間にぶら下がったモノは、もっと金を稼いでから始末しようと思ったか? それともそのまま取っておくつもりだったのかな。

 まあ、これはあくまでも容疑者の供述だから、どこまでが本当か分かったもんじゃないけど。


「なんてこった。男とヤッちまったのか」

 女についてなら詳しいつもりだった。それにうちの職場はゲイやレズビアンや女装男装、プロフェッショナルとして誰とでもヤれるなら、本来の性的嗜好なんざ何でも来いだ、見慣れてる。

 そう思ってたのに、ちょっと顔を整形して女性ホルモンの注射をし、食塩水入りのパックで胸を膨らませただけの変装へ、露ほども疑いを抱かなかった。


「ほんとに、きづかなかったの?」

 隣を歩くダイアンが、訝しげに眉間へ皺を寄せる。そろそろ秋の気配を含み始めたそよ風が駆け抜け、握りしめた花束のリボンをそよがせた。

「だってタマタマついてたんでしょ?」

「もうそれいじょう、いわないのよ」

 同じく花束を抱きしめたメイは、まだまだ厳しい日差しへ微かに目を細めてみせた。

「ここは、神聖なばしょなんだから」


 DNA鑑定の結果は、あの事件から2週間後に判明した。答えはシロ、親父にとって。ウェイトレスの夢想は、まさしく夢のままで終わったわけだ。

 それでも、マリオン・パスクワーレイの弔いをしてやろうという提案に異議を唱える人間は、ファンダメント家の中に誰一人として存在しなかった。ささやかなスキャンダルの完全なる火消しを目的としたものではなく、富める者なら誰でも持っている善意に基づくものだと、俺は信じたい。

 それに、身勝手なドナルド・ファンダメント・シニアへ振り回されたって意味で、俺たちは間違いなく兄弟なんだから。


 葬った場所はMIA(マイアミ国際空港)からほど近い、マウント・ニボだ。10年以上前に死んだ俺のじいちゃんが葬られている。そのうちばあちゃんも、親父も、そしてその子供たちもここに埋められるだろう。

 その時がくるのはまだまだ先でも、これだけ賑やかな場所だ、寂しさは感じないに違いない。

 まだ名前を刻んだ後も尖っているような、ピンクローズの大理石前に、花束を三つ並べる。味気ない空港の景観を遮るよう植え込まれたスズカケの樹木が陽光を遮り、熱さはそれほど感じなかった。


「このひとがしんで、かなしい?」

 ダイアンの言葉は、まるで独り言を呟いているかのようだった。ラッピングからこぼれ落ちた薄桃色のカルミアを拾い上げ、墓に手向ける。

「おねえちゃんに、かぞくに、なってほしかった?」

「どうかな、分からない」

 それは紛れもない事実だった。同じ街に住んでいながら、お互いの名前すら知ることもなかった女性。出会っていたところで、俺が彼女を救えたとは思えない。そんな義理もない。

 何より、ファンダメント・シニアに選ばれた俺は、ただ存在するだけで彼女を苦しめた事だろう。

「それでも、彼女と話をしてみたかったかもしれない」

 そんなことあり得ないと分かっている。だが、もしかしたら、と思うんだ。彼女と共通の鬱屈を探してぶつけ合うことで、少なくとも俺の気は晴れていたかもって。


 あんまりなエゴイストだって? ファンダメントの人間に期待なんかするな。うちはケネディ家並にドロドロの家庭環境だ。

 いや、まだ兄弟仲がいいだけ、あっちの方がよっぽどマシかもしれない。


 滑走路から飛び立ったエアバスが、耳を聾するジェット噴気音を響かせ上空を通過する。白く輝く機体が陽の光を遮る。

 俺達は凪ぐような風の中に身を置き、間違いなく不幸だった女性のために祈りを捧げた。

 

「あのゲイ、かぞくにするつもり?」

「するかよ。金くらいはやるけれど」

 容疑なんて死体遺棄と身分詐称位だから、仮釈放まで1年も掛からないんじゃないかってのが周囲の見立てだ。その他の後始末については、弁護士をやってる姉のジルが、今度ばかりは奔走してくれた。記事の差し止め、各界への口止め料。

 それでもしぶといネットニュースの記者達が時々突撃してくることもあるけれど、俺はレイバンをきらっと輝かせながら、こう言ってやるだけさ。「ノーコメント」


「実際問題、これ以上兄弟が増えるなんて全然嬉しくないね。親父が死んだとき、大揉めになりそうだ」

「『ローレライ』も取りあげられたら、こまるものね」

 しみじみと首を振るメイは、将来的に経済学部へやってMBAでも取得させたら良いんじゃないかと、ここのところとみに思う。


 旅客機の爆音も消え去り、霊園内の静けさへ耳が慣れてきた頃。樹林のそよめきの合間を縫って、遠くから元気な鳴き声が駆けてくる。

「ナナ!」

 走り出したバーバリアンズを見て、白い毛玉はちぎれんばかりに尻尾を振る。その力強い足並みへ引っ張られんばかりの勢いで、可愛いブロンディはこちらに向かってくる。


「怪我するなよ、そいつは子供二人と遊んでもまだ体力を有り余らせてる奴だ」

 犬に振り回されてよたつくたび、ヴィヴィアンのよく手入れされた髪に天使の輪が広がっては砕ける。俺の軽口に、彼女は火照った頬へあの魅力的なはにかみを一杯に広げて見せた。


 カーディガンとスカート姿にアディダスのスニーカーを揃えているのは、また兄貴に犬の散歩を押しつけられたからだろう。

 飼い主を二度も失い、哀れアニマル・コントロールへ連行まっしぐら……と思いきや、どさくさに紛れてポルシェに犬の尻を押し込んだダイアンが、素敵な事を閃いた。

「ジェフリーさんにおねがいしてみようよ!」

 ちびっ子達にはとことん弱いジェフの事だ。サモエド・ミックスはオーガニックの高級ドッグフードを与えられ、週に一回のトリミングとスパを享受しているらしい。初めて会ったときよりも、随分毛並みの艶も膨張率も上がっているような気がする。


「君も墓参り?」

「ええ、オーナーから言付けられて」

 リードが食い込むのと反対の腕に抱えられた花束は、俺たちが持ってきた三つを合わせたらやっと太刀打ちできそうな代物だった。全く、見栄を張るのも程々にしろよな。


 こんなドタバタ悲喜劇の登場人物になった後では、必要以上の事を追求しないヴィヴィアンの物腰が身に染みる。積み上げられた花束の、どこに隙間を見つけて手の中のものを置こうか迷う、不器用さと実直さすら愛おしい。

「君は優しいな」

「そんな、とんでもない」

 丸めていた背中を伸ばし、ヴィヴィアンは言った。今すぐピクニック・シートを広げたくなるような芝生が、スニーカーにさくさくと踏みしめられる。

「むしろ、貴方のほうがよほど」

「だと良いんだがな」

 まとわりつくことで自らと犬の歩みを止める少女たちへ向けたのと、全く同じ優しさを、彼女は俺へ投げかけた。


「ねえ、ヴィヴィアン。この子、オスだったんじゃないの」

 メイは俺へするよりも、よっぽど愛情を込めて犬の首に抱きつく。

 彼女の目線が向かう先、ほわほわ揺れる起毛の間から股ぐらを覗き込み、ダイアンがそれは無邪気に、それは訝しげに眉根を寄せてみせた。

「アレ、ついてない!」

 少し面食らったように目を瞬かせたあと、ヴィヴィアンは出来る限りさりげない言葉を選ぼうと思案したのだろう。両手を体の前で重ね合わせる。

「ええ。先々週、去勢手術をしたの」

「ふうん」

 もう少し難しげな表情を浮かべ、ダイアンは唸った。やがて既にクラクラしてる俺へ最後のだめ押し。頭を抱えさせるような大声が、静閑な墓地の空気を叩き割る。

「じゃ、あのゲイと逆ってわけね!」


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